踏み入れた場所
そろそろ榊さんは、僕のことをうっとおしく思い始めるのではないか、と思ったが、誘えばすんなりと応じてくれた。ただそれだけでは申し訳ないので、ご飯を奢ることにした。「じゃあ思いっきり食べちゃおうかな」と榊さんが言うので、僕は「服を買うお金がなくならない程度でお願いします」と言っておいた。この返し方は藤沢の言い方を真似たつもりだ。あいつならこう返すだろうな、と思ったのだ。
数日後、僕は榊さんを伴って、大型ショッピングセンターを訪れた。鈴本のバイト先はそこにテナントとして入っている。駅から徒歩で行ける範囲なこともあるのだろうか、平日なのにそこそこ人がいた。家族連れもカップルもそこにはいた。もしかすると僕と榊さんも、カップルのように見えるかもしれない。
僕は軽さと重さを同時に感じる足取りで、鈴本のバイト先に向かう。
服を買う。それは僕にとってハードルが高い。僕はファッションとは縁遠い世界で生きてきた。僕のファッションセンスは中学高校で止まっている。いや、むしろ学校制服と言う鎧を取り去った今、退化しているかも知れない。だから普段から地味な服を選んでしまうのだ。今来ているTシャツだって、量販店で買った黒と灰色のボーダーで、地味を絵に描いたようなものだ。これは1000円で買ったものだが、その割りに丈夫でいい買い物だったと思う。
しかし今日の買い物は今までとは様相が違う。榊さんに服を選んでもらうのだ。僕にとっての女性の代表がそこにいる。自分の持っているカードで、一番強いカードを今回使う。なんとしても結果は残したい。
「いらっしゃいませ。宮内君。早速来たね。いいことだよ。で、そちらの女性は?」
「始めまして。バイトの同僚で、榊といいます。宮内さんがご飯を奢ってくれるというので付き添いで来ました」
二人は初対面のはずなんだが、いきなりなんということも言うのだろうか、この榊さんと言う人は。ウソは何一つないのだが、自分の内側をいきなり晒されたようで心臓が脈打つ。しかし鈴本は少し口をあけて笑った。
「榊さん。面白い方ですね。僕は鈴本といいます。宮内君とは……そうですね、分りやすく言えば幼馴染です」
「お話は少し。なんでもオシャレな友人がいるのだ、と伺っています」
「オシャレかどうかは分りませんが、服は好きです。ま、それが講じてこうやって服屋でバイトをしています。それはそうと……」
「鈴本、榊さん、話の途中で悪いが、俺を置いてけぼりにしないでくれ」
このままだと僕はいなくてもいいんじゃないか、となるのがイヤで、少し強引ではあるが話を折った。人が3人寄れば派閥が出来るというが、それを目にしてしまった。
鈴本と榊さんは、同時に僕を見、榊さんはちょっとだけ舌を出した。
「あぁ。それは悪いことをした。そうだね宮内君。今日の主役は君だったね。忘れるところだった」
「そうですよ、宮内さん。今日の主演男優は宮内さんなんです。なので、もっと前に出てきてくれないと」
なんだか僕が悪者のようになっているのは気のせいだろうか。前にガンガンでてくるなんて、テレビに初登場した若手お笑い芸人のようじゃないか。少し僕とはキャラが違うと思うのだが。
それは少し置いておいて、僕は店内を見渡す。
僕がいつも買っている服の量販店では見かけないものばかりだった。デザインのことは分からないが、明らかに色彩が違う。鮮やかなのだが派手ではない。原色が少ないからだろうか。言葉に直すなら灰汁が強くないのだ。
ここは僕に知らない世界。そこに足を踏み入れたことを、まざまざと見せ付けられていた。こういう世界を遠くから眺めているだけの僕にとって、ここは少しだけ現実感が無かった。
ともかく僕ら3人は、店内を見ることにした。
「宮内君。ともかくポロシャツをオススメするよ。夏ならポロシャツ単体で、下はジーンズにすれば大体OK。それに実は夏や秋にも使える。少し大き目を買っておけばいい。少し肌寒いときには中に長袖のTシャツを着るということだね。結構万能なんだよ」
鈴本はそういうと、緑とピンクのポロシャツを持ってきた。胸には小さくブランドのロゴ、襟と袖のところに白のラインが入っていた。なるほど。こういうものなのだろうな、と自分の体に合わせ、鏡の前に立つ。そこには見たことの無い僕がいた。
「あ、宮内さん。結構似合いますよ。それいいですよ。この麻のシャツなんかもどうです?青で結構爽やかな感じですよ?」
僕はなんだか拍子抜けしてしまった。なんだ、たったコレだけのことなのか。服を買う。なんということも無い。今まで僕が感じていた、服を買うというハードルはなんだったのだろうか。ハードルを超えようと思わなかっただけなのではないか。そんな思考が僕の頭を満たす。
そこまで考えて、僕はピンクのポロシャツの値札を見る。8900円+税と書いてあった。そうか8900円か。
え!?8900円!?ポロシャツが!?
その金額を見た僕は頭の中で計算をする。3日分のバイト代程度でもあるし、学食なら何食分だろうか。夏物のシャツなんて2000円3000円のものだろうと思っていた僕には衝撃的な金額だった。シャツ1枚、税込みで10000円弱。予想金額の3倍近い。こんな高いものなのか!
値札を見て、僕は完全にフリーズした。そんな僕をよそに、後の2人は他にもあれやこれやを僕に勧める。それは他のポロシャツであったりするのだが、しかしそのどれもがおおよそ10000円弱の高価なものだった。値札を見るたび頭が真っ白になっていき、あぁ、やはりここは僕の知らない世界なのだ、と、かろうじて頭に浮かんだ。
真っ白な頭になった僕を二人は着せ替え人形にしているようだった。次はオレンジのポロシャツ、次はネイビーのシャツ。
そんな僕が、かろうじて出せる言葉を口にした
「いや、そのなんだろうね。服ってこんな高いものだったんだ。知らなかったよ」
その言葉を聞いた2人は、顔を見合わせた。そして、鈴本は首をひねっていた。
「そうだよ、宮内君。服って結構高いものなんだ。布ではあるけど、ただ布であるという価値じゃないんだ。服ってそういうものだよ。だからいいものを買おうと思えば、そこそこの値段はするんだ」
「そうです。宮内さん。結構高いです。私たち学生にとっては、そうポンポン買えるものじゃないんです。でもこれは投資だと思ったほうがいいですよ。理沙ちゃんのための投資です。そのために私はご飯で雇われたんですから」
投資。そうだ。なんのために、榊さんとここに来たのか。それは田崎さんに少しでも僕に心を向けて欲しいからだ。金額に心を奪われていても仕方ないじゃないか。もしこれで少しでも田崎さんの心が動くのなら安いものじゃないか。それこそ金で買えるなら。
僕は最終的な判断を榊さんにお願いすることにした。自分で気に入ったものよりも、信頼できる人に決めてもらったほうがいいと思ったからだ。榊さんは、最初の緑とピンクのポロシャツを気に入ったようで、僕はその2枚を買うことにした。僕にとっては清水の舞台から飛び降りるようなものだったが、二人にとっては日常的なことなのだろう。鈴本は「お買い上げありがとうございます」と言い、榊さんはにこにこしながら僕を見ていた。それにしても20000円弱の出費だ。今月は少し緊縮財政をひく必要がある。
レジに行き清算を済まそうと思って、財布の中身を見た。そこには10000円札が1枚と、1000円札が5枚しかなかった。そうだ。榊さんのご馳走することも含めて、15000円を持ってきたのだ。それくらいあれば余裕だろうと思ったのだ。
「鈴本!悪い!ちょっとATM行って来る!」
そういったときの鈴本と榊さんの顔は忘れない。きょとん、という擬音はあの表情のためにあるのだろう。