出会いはいつも突然に
七井さんと話をしたその日のバイトのことだ。僕は20分ほど早くバイトに到着した。七井さんはすでに来ていたが、お互い軽く挨拶をするだけで、それ以上なにも無く時間は過ぎていった。昼間の話の続きをしたい、と思ったわけでもない。しかし少しだけ寂しさを感じた。ならば自分から話しかけろよ、とは思うのだが、いかんせん、やはりそこは僕なのだ。情けないくらい僕なのだ。いつもいつも見送ってしまう。
更衣室でエプロンを装着し、僕はすることもなく控え室のイスに座っていた。
少し先には榊さんの姿が見えた。榊さんは近くに座っている女子高生のグループと話をしており、盛り上がっていた。やはり彼女はそういうのがうまいのだ。そういえば、僕はあの女子高生たちの名前すら知らない。それはなんだか圧倒的な距離感を僕に感じさせた。僕の世界と彼女たちの世界は違う。それを見せ付けられているようだった。
僕はここ数日を振り返ってみた。女性と話す機会があったんだな、というのがぼんやりと頭に浮かんだ。榊さんと七井さん。それは偶然ともいえる出来事だったが現状維持ではない。一歩にも満たないかもしれないけど、それでも先には進んでいるのだ。僕はそう自分に言い聞かせた。
夕方のシフトが始まる5分前。社員の三和さんが女性を伴って控え室に入ってきた。三和さんはこのワイワイマーケットの現場を仕切る男性で、役職は副店長だ。僕たちよりも15くらい年上のはずなのだが、それ以上の年齢に見える。おなかが出ており髪は薄め。よく言えば企業の重役然とした貫禄のある社員さんだ。
僕を初めとするバイト仲間たちが視線をそっちに向ける。もちろん、視線の先は三和さんではない。一緒に入ってきた女性の方にだ。誰だろう。当然のように、控え室は軽いざわめきに満たされた。そのざわめきの中、榊さんの「あっ!」という声がやけに響いた。
その女性の印象は、綺麗な子、だった。
背が高く、すらっとした立ち姿をしている。しかし病弱な気配は無い。姿勢がよく、スポーツか何かをしていたのではないか、と容易にイメージできた。バレーボールかバドミントン、というのは僕の勝手な想像だ。
髪を少しだけ茶に染め、あまり重くなりすぎないような色にしていた。それは肩口で切りそろえられ、派手すぎず地味すぎず、それが少女と女性の中間のような顔立ちにとても似合っていた。
全体的に育ちがよさそうで、清楚なお嬢さん、というのが言葉としてしっくりくる。少なくとも、僕はそう思った。
僕がそんなことを想像しているのはもちろん誰も知らない話であり、三和さんはみんなを見渡し咳払いを一つすると、口を開いた。
「えーっと。今日からみんなと一緒にバイトすることになった田崎さんです。主に夕方のシフトに入ってもらい、レジを担当してもらいます。じゃ、田崎さん、簡単に挨拶をどうぞ」
「田崎です。今日からこちらでお世話になります。よろしくおねがいします!」
田崎さんと呼ばれた女性は、挨拶を口にすると深めに頭を下げた。
パチパチと低めの拍手が響き、僕もそれにつられて拍手をした。それは僕の心のざわめきが外に漏れ出したような音だった。
心がざわめき、体温があがり、心臓を掴まれたような苦しさを感じる。
「じゃ、田崎さんの研修は森尾さんにお願いします。森尾さん、田崎さんはこういうバイト始めてらしいんで、お手柔らかにね」
森尾さんの、いかにもおばちゃんと言った横顔を見た。やけにニコニコしており、何故だかやる気がみなぎっているようだった。面倒見がいいと評判の森尾さんなので、こういうのは大好きなのだろう。
「任せといて!3日で一人前にするよ!」
森尾さんはそう言うと、わざとらしく袖をまくり、田崎さんは森尾さんに頭を深く下げた。
三和さんはみんなを見渡し、またも咳払いを一つした。
「じゃ、今日もみんながんばりましょう。ミスと怪我の無いようにね」
「はーい」とも「うぇーい」とも判断がつかないようなみんなの返事があった。三和さんはいつも「ミスと怪我の無い様に」と言う。三和さんはこの仕事に就く前、工場で働いていたと言っていた。よく「ご安全に!が口癖になるぞ」と笑って話していたのを思い出す。
みんなが散り散りに自分たちの仕事に向かう中、榊さんが田崎さんに話しかけていた。二人は手に手を取り合って、笑顔で話し始めていた。
「理沙ちゃん久しぶり~!こんな偶然ってあるんだね!」
「麻耶ちゃん!麻耶ちゃん!また会えたね!中学以来だね!」
「わかんないことあったらこの榊さんに聞いてね。これでもそこそこ長くバイトしてるんだから!」
これが榊さんの「あっ!」の理由。二人は旧知の間柄なのだろう。耳に入る限り、中学校の同級生で、年齢を考えればおおよそ5年ぶりと言ったところか。もちろん僕は彼女たちの当時のことは知る由も無いが、少なくともこうやって言葉を掛け合うくらいには仲がよかったのだろう。
バイト先で同級生と再会する。マンガや小説でありふれたパターンだ。もちろんそれは現実にもありえる話で、世間は想像よりもかなり狭っくるしく出来ている。
そうこう考えながら、僕は今感じている心のざわめき、その正体を探る。いや、答えはもう出ている。分りやすいものだ。過去何度も僕はこういう体験をしているし、その経験が僕の心を言葉で満たす。そうだ。それ以外に考えられない。考えられないのだ。
僕は田崎さんに、一目惚れをしたのだ。
それから2週間ほど時間が経過し、時間は現在に戻る。
この2週間、事あるごとに僕は田崎さんを見ていた。いや、見てしまっていた。自分でも気持ちが悪いと思う。何か行動を起こすわけでもなく、ただただ遠くから視線を送るだけ。それが健全ではないと思いつつ、何も行動できない。だから僕は思う。今回の一目惚れも、今までと同じく何事も無く終わっていくのだろう。そんな確信が僕の心を満たしていた。それほどまでに、僕と恋愛との距離は長く遠いものなのだ。
しかし僕はこのまま、一度も恋愛をすることなく生き、老いていくのだろうか。第一志望でもない大学を卒業し、どこかの会社に入り仕事に精をだし、酒を飲んで安月給を嘆き、なのに横には誰もいない。家に帰れば一人ぽっち。そんなこれからを送るのだろうか。僕はそんな自分をイメージしたくなかった。それはいやだ。しかし。しかし。
僕の人生が動き出すのは、その翌日のこと。大学の友人である藤沢との会話が始まりだった。