ちょっとした告白
少し時間を戻そう。
その日は初夏の、やけに晴れた日だった。
雲一つ無い晴天。降り注ぐ光。空はこんなにも綺麗なものなんだぞ、と言わんばかりだった。
屋内にいるのはもったいない空模様だったが、残念なことにその日もバイトだった。
僕はバイトの始まる10分前に控え室にいるようにしている。というよりもその時間にしか来られない。大学までは片道1時間と少し。ちょっとしたお出かけ、とも言える様な距離だ。四時間目の授業をうけ、大急ぎでバイトに向かって夕方のシフトギリギリ到着するのだ。
ただ、その日は少しだけ事情が違った。四時間目が休講になったのだ。理由はなにやらA4の紙につらつらと書いてあったが、僕にとってはどうでもよかった。休講になった、という事実だけで構わなかった。
急な休講。何をしようか考える。
誰か友人でもつかまえて、大学生らしくバカな話でもするか。図書館に行って本を読むのもいい。それとも、学内の木陰で昼寝でもするか。出来る限り有意義に過ごしたいとは思いつつも、かといってたかが授業一コマ分でしかない。
結局のところ、僕は学校の図書館で本を借り、早々にバイトへ向かうことにした。
何か理由があったわけでもないが、あえて言うなら余裕を持ってバイトに勤しむのも悪くない、と思ったからだ。
電車に揺られること一時間と少し。何事も無くバイト先に到着した。
控え室には誰もおらず、ただただ静かな空間がそこにはあった。
併設されている更衣室に入り、茶色の地味なエプロンを装着し、明日のチラシを確認する。どうやら明日はインスタント食品が安くなるようだ。これは忙しくなる、と確信した。今日のうちに相応の準備をしなければならない。
そうこうして時計を見る。バイトのシフトまで、まだたっぷりと一時間の猶予があった。一時間。何かをするには短く、何もしないには長い時間。
結局僕は、借りてきた本を読むことにした。カバンから本を取り出し、少しめくる。紙の手触りとめくる音が心地いい。
これは随分前に自殺した小説家の作品だった。彼の人生がどうだったかは分らない。何を思って自殺したのかも知らない。ただその作品は優美さと儚さを纏ったようなものだった。
「お疲れ様でーす!」
僕が本を読み始めて15分ほどしたころか。控え室の静寂を破って声が響いた。僕は本をめくる手を止め、声がしたほうに目線を向ける。
その視線の先には女の子がいた。
背が余り高くなく、若干ずんぐりとした体型。人懐こそうなタレ目と、あからさまに茶色い髪。
彼女の名前は榊麻耶。このスーパーのレジ打ちであり、僕と同じく大学生だったはずだ。
「じゃ!着替えてきまーす!」
言うが早いか、彼女は更衣室に消えていった。今控え室には僕しかいない。だからと言って、それは僕に対して発した言葉ではない。それくらいのことは分かる。
「宮内さん。お疲れ様です。今日は早いんですね。」
これは間違いなく僕に対して発せられた言葉だ。なぜなら僕の名前を呼んでいるからだ。
更衣室から出てきた榊さんは、僕に目線を向けそう言った。
まさか話しかけられるとは思っていなかった。突然のことに、僕の視線が明らかに泳いだ。言葉の意味を理解するのに3秒はかかったと思う。心の中で頭を振り、彼女に視線を向けることにした。
榊麻耶。僕は勝手にコミュニケーションの達人だと思っている。
バイトといえど、人間の集団には違いない。人が集めれば派閥やグループが作られる。僕だって男同士のグループに所属しているようなものなので、それは分る。
しかし彼女だけが特別だった。
あらゆるグループに所属し、その全てのグループに所属していない。全てのグループとうまくやり、絶妙な距離感で渡り歩く。
そんな彼女が僕に声をかけた。男同士のグループに彼女が混じり、話をした記憶はある。しかし、どう記憶を辿っても、二人で話をしたことは無い。
なぜ声をかけたのか。ただ単に控え室に僕しかいないから。それが答えのように思えた。
「あ、本読んでたんですか。誰の本ですか?」
僕は本の背表紙を榊さんに向けた。果たしてこの本のことを、この作家のことを知っているのだろうか。
「あ!知ってます!その作家さん、国語の教科書に出てました!」
そういえばそうだ。国語の教科書に載るようなメジャーな作家だ。僕はただこの作家が好きで読んでいるだけなのだが、おおよその人にとっては教科書に出てくる著名な作家、という認識になるのだろう。
榊さんの話は続く。
「宮内さんって、読書好きなんですか?」
「好きだよ。でも週に1冊くらいしか読めないけどね」
それから少しの間、僕は榊さんと会話をすることになった。
話題は取りとめもないものだった。今読んでいるこの本に始まり、好きな歌手、学校のこと、犬派か猫派か、などなど、様々な話題が榊さんの口から飛び出してきた。榊さんと言う人は会話が本当にうまい。飽きさせず、話を広げ、楽しい時間を作り出す。やはりコミュニケーションの達人なんだ、と僕は思った。
そして、そんな会話の中、榊さんの口から唐突に疑問が投げつけられた。
「宮内さんには恋人いるんですか?」
「いないよ。今までもずっと。」
そこまで言う必要は無い、と言ってから思った。
彼女は今現在の話をしているのであって、過去どうだったか、を聞いているのではない。
僕は何を好き好んで、彼女いない暦が年齢、と言う必要があったのか。言ってしまったのだから仕方がないけれど、若干の後悔が背中を触る。話が楽しく進みすぎたから、だと自分に言い訳するのも忘れない。
「ふーん……。宮内さん。恋愛。悪くないですよ?恋愛しましょう!あ、でも私相手はダメですよ。彼氏いますから」
「出来るものならね。してみたいね、恋愛」
僕は何を言っているんだろうか。
「んじゃ、もうそろそろみんなも来る時間ですね。よかったらまたお話してください。あ、そうそう。女の子に好かれたかったらですね。見た目と話術。これです!それで女の子なんてイチコロですから!」
榊さんはそう言うや、控え室から出て行った。どこに行ったのかはわからない。
控え室に残された僕は、ふっと手を見た。ひどい手汗だった。そういえば、女性と二人で話すのなんて、いつ以来だっただろうか。僕はそう思うと、自虐的な笑みが浮かんできた。
「おつかれーっす!お!宮内さん!今日は早いすね!」
榊さんと似たシュチエーションで、後輩である磯君が控え室に入ってきた。僕は磯君に曖昧な笑みを浮かべ、本をカバンにしまうことにした。
「磯君、明日はインスタント食品の安売りだよ。がんばろうね」
「まじすかー!インスタントの箱、重いからイヤなんすよー!」