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動き出す物語

「やぁ!宮内君!今日もバイトご苦労!」


 その日のバイト、僕は浜口さんに話しかけられた。

 僕はその時缶ビールのケースを積んでおり、重いせいもあって意識はそっちに向いていた。なので、浜口さんに後ろから声をかけられたとき、少しだけ膝がよろめいた。なにもこのタイミング話しかけないでもとは思うが、お客さんの中には自分を優先させる人がいる。それは特に常連さんに多いようで、「たくさんお金使ってるんだからいいでしょ!」みたいな感覚でもあるのかもしれない。たくさんお金を使ってくれるのはありがたいが、常連さんだけでこのワイワイマーケットが成り立っているか、という疑問は残る。


 その後、少し浜口さんと話をした。おおよそいつもどおりのルーチン的な話で、やはりネコの話題だ。毎日変わらないこのやりとり。あのネコがどうこう、このネコがどうこう。少し遠くを見ると、バイト仲間の磯君がこっちを見ていた。彼は曖昧な表情をしていた。僕は浜口さんのルーチン的な話が嫌いなわけではない。ただ、僕は確実にこの話に飽きている。相槌はうつのだが、話は右から左だ。しかし浜口さんがそれに気づいている気配は無い。今日も饒舌じょうぜつだ。

 浜口さんはひとしきり話が終わると、ご機嫌な足取りで店内に消えていった。僕も新たな商品の補充をすることにした。ビールはまだ少し作業が残っていたので、そこをまずは片付ける。


 ビールがおおよそ終わった。次の仕事は、レジ横のガムや飴の補充だ。

 このレジ横の商品と言うのは結構売れる。「あ、これもついでに」という心理が働くのかもしれないし、レジに並んでいるお母さんの買い物カゴに子供がすいっと入れたりもする。少なくとも、僕はその光景を数回ほど見たことがある。単価は低いが、それでも集まればバカには出来ないものなのだ。


 レジの横にガムや飴の箱を持っていくと、浜口さんが田崎さんのレジに並んでいた。浜口さんは僕を見ると笑顔を見せたので、笑顔を返す。しかし、僕は別に浜口さんを見ていたわけではない。もちろん、僕の視線の先には田崎さんがいるのだ。しかし、そんなことは浜口さんは知らないし、田崎さんも知らないだろう。


 ガムや飴を補充して少し経ったころだ。すぐ近くから浜口さんの大きな声が聞こえた。それは怒声とも言えるような声で、何かをわめいていることだけが分った。その怒声の先には田崎さんがいた。何かが起こった。いや、クレームだ。間違いない。

 通常こういう場合には、社員さんが間に入り対応をする。それはバイトである僕たちの最後の砦だ。最終的な責任とクレーム対応は社員さんの仕事。しかし、今回社員さんの姿は周りに無い。現場責任者である三和さんの姿も見えない。それはたまたまなのだろうけど、田崎さんにとって、最後の砦は無かった。

 そうこうしている間に、田崎さんは言葉で浜口さんに責められ続けていた。

 その時の僕の行動は、自分でも驚くほど早かった。僕が田崎さんと浜口さんの間に入ったのだ。なぜそうしたか。それは僕にも分らない。社員さんの仕事、と言ってしまえば済んでしまう話なのかもしれない。でも、考えよりも先に心が動いた。僕ならなんとかできる、そんな思いも無いまま動いた。


「宮内君!聞いてよ!」


 そこから事情説明が始まった。

 浜口さんの話を要約すると「魚惣菜の残りに値札がついておらず、田崎さんがあたふたしているうちにイラついた」ということになる。これについては全く田崎さんに落ち度は無い。そもそも値札を付け忘れたのは魚コーナーの人であるし、お客さんといえど、それくらい確認すればいいじゃないか、とも思う。少なくともいきなり怒声を発することではない。しかしレジうちというのは、こういう場面に遭遇する。直接的に商品とお金をやり取りする場所だから、クレームの矢面に立ってしまうのだ。クレームが厄介なところは、普通に考えれば笑って終わる話が、機嫌や虫の居所、もしくは変な引き金をたまたま引いてしまった、で起こることだ。そこには感情が入っているから、理屈だけで解決できないことが多い。


 浜口さんの怒りはそこからも少し続いた。僕はうんうんと頷き、話を聞いていた。少しして三和さんが登場した。三和さんは平謝りだったが、僕に値札をつけるように指示をした。僕は魚コーナーに走り、値札をつけてもらった。戻ってきたときにはひとしきり話が終わり、浜口さんの怒りも収まったようだ。「もうこんなことないようにしてよ!」と浜口さんは言い、そして、そのまま会計を終わらせて帰っていった。


 全部ことが終わった後、田崎さんは僕と三和さんに「ありがとうございました」と頭を下げた。放心していた僕を横目に、三和さんは「たまにはこんなこともあるよ」と笑顔を見せた。今までもこういうことが何度も何度もあったのだろう。三和さんは堂々としたものだった。それに引き換え僕は、放心している自分の弱さを思った。三和さんは「宮内君。君の判断は正しかったよ。まず何よりも最初にお客さんの話を聞く。これが大事なんだ。君はよくやったよ」と僕にも声をかけた。三和さんにはこういうところがある。人を認めてくれる。これは素晴らしい美徳だと思のだ。


 その後は特に何も無くバイトのシフトが終わった。早く冷たいものでも飲んで一息つきたい。僕はそう思いながら磯君を伴って控え室に戻った。いつもどおりの光景が少しだけ違った。そこには田崎さんがいたからだ。田崎さんのシフトはもう終わっているはずなのに、と、思っていると、彼女は僕に近づき、頭を下げ、そして手に持っていたスポーツ飲料を差し出した。


「あの……今日はありがとうございました!これ、感謝の気持ちです!よかったら飲んでください!じゃ、失礼します!」


 突然のことに本日2回目の放心をしている僕の横から、田崎さんは控え室を出て行った。僕の手にはスポーツ飲料が握られており、ひんやりとした心地いい冷たさが手から伝わる。

 僕の後ろに控えてきた磯君が「宮内さん、今日のあれですよね?」と声をかけてきた。僕は「うん。多分そういうことなんだと思う」と返すので精一杯だった。


 帰宅し自室に戻った僕は、もらったスポーツ飲料を机の上に置いた。そしてそれをひとしきり眺めることにした。どこにも売っているスポーツ飲料。スーパーでもコンビニでも薬局でも手に入る。何度も見、何度も飲んだ。でもこれだけは違う。田崎さんが僕にくれたものだ。それはことさら大きな意味を持つし、特別でもあった。


 僕は意を決して蓋を開け、中身を飲み込んだ。特別な意味があるといっても味が変わるわけでもない。しかも、時間が経っているからぬるい。でも。でも。やっぱり特別な何かだ。中身を一気に飲み干すと、台所に向かい、入れ物であるペットボトルを洗った。捨てられないな。そう思った。

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