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白いアオザイの女

 

 夏休みだった。

 中学二年生の僕は、部活から帰ってきて仏間で宿題を広げていた。自分の部屋も勉強机もあったけど、襖と障子を開け放った仏間は広々と感じるし、縁側から風が吹き抜けてさわやかだから、僕は仏間で寝転んで本を読んだり卓袱台を引っ張ってきて宿題をするのが好きだった。僕は英語の例文集を睨みつけてはざらばん紙の裏に書き写し、片っ端から暗記していった。覚えるのに疲れると庭に咲くアメリカデイゴの赤い花をぼんやり眺め、インスタントコーヒーと牛乳を混ぜた手作りのコーヒー牛乳をひと口すすり、それからまた例文集に集中した。

 チャイムが鳴る。

 僕は中元の配達だろうと思いながら玄関へ出た。僕のふるさとは山に囲まれた盆地のなかの農村だ。みんな知り合いだから誰もチャイムなんて鳴らさない。勝手に玄関をあけるか、庭へ入ってきて大声で呼ぶ。

 扉を引いた僕ははっと息を飲んだ。

 とても恥ずかしくなった。

 目の覚めるような純白のドレスを着たベトナム人の女が立っている。

 ドレスはベトナムの民族衣装のアオザイだ。白い立襟が格好いい。薄絹が上半身の線をくっくり浮かび上がらせ、はちきれそうな胸と引き締まった腰を強調していた。セクシーな上半身とはうらはらにズボンはたっぷりとしている。ラッパのようにゆったり広がった袖口と足元から腰のあたりまで深いスリットの入った丈が優雅だ。生地がとても薄いから、ブラジャーもすらりとした足も透けて見えた。

 その人はふっと懐かしそうに微笑み、

「こんにちは。マモル君ね」

 と、いささか舌足らずな日本語で挨拶する。

「初めまして。どうして僕の名前を知ってるの?」

 僕はどぎまぎした。

「あなたのお父さんのともだちだったの。わたしはリリィ。ツヨシはよくあなたの写真を見せてくれたわ。これくらいの子どもだったのに」

 彼女は手のひらで腰の辺りの高さを示す。

「ずいぶん立派になったわね」

 その時になってようやく僕は、彼女が白い花束を抱えていることに気づいた。

「父さんの墓参りにきたの?」

「そうよ」

 リリィはこくりとうなずく。

「とにかく上がってよ」

 僕は手招きした。

 彼女を仏間へ通して来客用の座布団に坐ってもらい、台所へ行ってカルピスを二杯作った。心臓がどきどきしてしかたないから、カルピスを一気に飲み干してもう一杯作った。

 お盆にコップを並べて仏間へ入ると、リリィは欄間に飾った父さんの遺影を眺めていた。

「ツヨシにはとてもお世話になったの。子どもだったわたしを守ってくれたわ。ツヨシがいなかったら、わたしはとっくに死んでいた」

 リリィは、朝露のようにしっとり光る瞳で僕を見つめる。

 木の実のような眼が開き気味で可愛らしい。すこしめくれた上唇が蠱惑的こわくてきだ。低い鼻梁に横に丸く広がった鼻ときれいな褐色の肌がいかにも亜熱帯の民族らしかった。顔立ちは全体的にゆったりしているのだけど、つよい視線はいつも対象を見つめながらその本質を探っているかのようだ。画家か写真家のまなざしだった。

「父さんとはどうやって知り合ったの?」僕は訊いた。

「わたしの村が戦場になったとき、ツヨシが助けてくれたの。わたしは十六歳だった。アメリカ軍が村のベトコンを殺しにきたんだけど、ツヨシも従軍カメラマンとしてアメリカ軍についてきたのよ」

「戦場で出会ったんだ」

 僕は、びっくりしたというよりも、いささか感動した。戦いの最中にこんなきれいな人と知り合うだなんて、まるで映画みたいな話だ。父さんはベトナムでいろんなことを体験したんだろうなとぼんやり想像していたけど、そんなドラマチックなことがあったとは思いもしなかった。

「戦場ってどんな感じなの? ごめん。こんなことを訊いていいのかな?」

「いいわよ。話してあげる。――戦場はすべてが見放される場所。愛から見放されて、悪霊だけがうろつき回るのよ」

「悪霊――」

「そう、善いものが追い払われて、悪霊の楽園になるの。白い闇につつまれるのよ」

 リリィの目がすうっと細くなり、宙に浮かんだ亡霊を睨みつけるような怖いまなざしをする。僕が思わず怖気を震うと、

「おどかすつもりはなかったの。ごめんなさい」

 と、リリィは申し訳なさそうな、僕のことを心配したような色を目に浮かべる。

「怖くなんかないよ」

 女の人に意気地なしと思われたくないから、僕は強がった。リリィは話を続けた。

「わたしは畑仕事をおえて村へ帰るとちゅうだった。村のほうからものすごい物音が聞こえて、ライフルを手にしたアメリカ兵の走り回る姿が遠くに見えたわ。わたしはとうとうきたんだって、わたしの村にもきちゃったんだって思って、呆然としてしまった。あちらこちらの村が襲われたことはいろいろ話に聞いていたし、村の人はみんないつ戦場になってもおかしくないって毎日のように話し合っていたから覚悟はしていたんだけど、いざそうなってしまうとなにも考えられなくなってしまうものなのよね。アメリカ兵の姿がスローモーションみたいにゆっくり動いて、村のなかからぱっと煙があがった。

 ――逃げなさい。

 お母さんの声が頭のなかに響いて、わたしははっと我に返った。たぶん、ぼおっとしていたのはほんの短い間なんだろうけど、ずいぶん長い時間そうしていたように感じたわ。わたしは急いで道の横の斜面を滑り降りて、茂みのなかに隠れてうずくまった。機関銃の音や村人の叫び声がずっと続いていたわ。怖かった。頭のなかはもう真っ白になってしまって、体は震えっぱなしだった。膝ががくがくしてとまらないし、歯の根が合わなくなって歯がずっとかちかち叩きあうの。わたしはお父さんお母さんを助けてください、村の人みんなを助けてくださいって、心のなかで繰り返しくりかえし何度もお祈りをしたわ。心臓を鷲摑みにされたみたいで、ぎゅっと体を踏み潰されてしまったような気持ちになって、助けてくださいってそれだけしか言葉が浮かばないの。

 突然、なにかがわたしにぶつかって、わたしは息がとまった。胸が破れそうなくらい動悸がして、頭のなかにまで波打つ心臓の鼓動が響くの。恐るおそる眼を開けたら、アメリカ軍のヘルメットをかぶった男の人が腰を押さえてうなっていた。男の人は道から転げ落ちてしまったみたい。殺されてしまう、逃げなくっちゃって心は叫ぶんだけど、足の力がまったく抜けて動こうにも動けなかった。

 男の人はわたしに気がついて、わっと一声叫んであわてて飛びのいたわ。でも、すぐににこっと笑って、胸にさげていたカメラを手にもって揺らすの。『ほら、ぼくは兵隊じゃないよ』って感じで。それがあなたのお父さんのツヨシだったのよ。ツヨシはすぐにわたしの写真を何枚か撮ったわ。これがそのときのよ」

 リリィはハンドバックから古ぼけた写真を出した。丸い菅笠をかぶった素朴な少女がジャングルの茂みで坐りこんでいる。泥だらけの顔はじっと息をこらえ相手の様子を窺う。彼女の心の叫び声が聞こえてきそうだ。恐怖と困惑がないまぜになった複雑な眼をしていた。彼女の足元には竹で編んだ背負い籠が横倒しになり、なかから飛び出たとうもろこしがあたりに散らばっていた。

「出会ったのがツヨシでほんとうによかったわ」

「もし父さんじゃなくて、本物のアメリカ兵だったらどうなっていたの?」

 僕は写真をリリィへ返した。

「まず殺されていたでしょうね。アメリカ兵はゲリラのベトコンと一般のベトナム人の区別がつかないものだから、ベトナム人はみんな殺してしまえという感じだったもの。皆殺しにされるかもしれないっていう恐怖感はそれを味わったことのある人にしかわからないものかもしれないけど、さっきわたしが話したことは大げさでもなんでもなくてほんとうよ。だから、ツヨシが急に真剣な顔になって、こっちへおいでって手招きしたとき、わたしはとまどってしまった。

 悪い人ではなさそうだけど、アメリカ軍といっしょにやってきた人をどこまで信じていいのかわからなかった。外国人はみんな敵だって思っていた。でも、隠れていてもそのうちアメリカ軍に見つかって殺されてしまうかもしれないし、ひとりでどうしていいのかもわからなかった。どうしてあんな決心をしたのかわからないけど、ツヨシが早くって腕を差し出したとき、わたしはとっさにツヨシの胸に飛びこんだの。たぶん、この人なら信じていいのかもしれない、守ってくれるかもしれないって思ったのでしょうね。

 今から思えば、あのとき、わたしの人生がほんとうに始まったんだわ。わたしは村で生まれて村で育った。十八くらいになったらお嫁に行って、子供を産んで子供を育てて、そのままずっと村で暮すはずだった。よそへ行こうなんて思ったこともないし、自分の村以外の世界なんて想像したこともなかった。ましてや、外国の人と友だちになったり、外国へ行ったりするだなんて思ってみたこともなかった。村と村の人たちがわたしのすべてだったの。

 ツヨシとの出会いを振り返ると、まるで奇蹟が起きたみたいに感じてしまうわ。見ず知らずの外国の人なのに、ツヨシは彼の隣人としてわたしを選んでくれて、わたしはわたしで、わたしの隣人としてツヨシを選んだのよ。あのときは気づいてもいなかったけど、たぶんわたしは神様から大切な贈り物を受け取ったのね。新しい出会いと新しい人生よ。そんなことはめったにあるものじゃないわ」

 リリィはいただきますと小さな声で言い、カルピスのストローに口をつけた。ストローに口紅の跡が残る。

「それからどうしたの?」

 続きを聞きたくてしかたなかった僕はせきこんだように訊いた。

「ツヨシに手を牽かれて村までもどったのだけど、悲惨だったわ。

 村は焼かれて煙と火薬と血の匂いが立ちこめていた。村人の死体がそこらじゅうに転がっているの。みんな子供の頃から知っている人たちばかりよ。村のおばあさんやおじさん、幼馴染の友だち、生まれた時から知っている村の子供たち。みんな血を流して倒れてた。さっきも言ったけど、白い闇のなかにいるみたいだった。悲しみ、痛々しい叫び声、あきらめ、無念さ――そんな感情があたりに渦巻いて、わたしの肌を凍らせるの。

 わたしの家は燃えていたわ。ツヨシの手を振りほどいて家へ戻ろうとしたら、ツヨシはわたしの手を強く握ったまま悲しそうに首を振ってがまんしなさいって諭すようにじっとわたしを見つめるの。ふりかえってはいけないだって、泣いちゃいけないだってわかった。いまふりかえったり泣いたりしたらすべてが終わってしまうんだって。わたしは唇を嚙んでうつむいてツヨシの後についていったわ。

 とちゅうでアメリカ軍の兵隊にライフルの銃口をほっぺたに突きつけられたりして怖かったけど、ツヨシのおかげでどうにか切り抜けることができた。米軍のトラックにいっしょに乗ってサイゴンへ行ったの。あとになって聞いた話だけど、ツヨシが仲のいいアメリカ軍の将校に頼んでわたしをアメリカの協力者だということにしてもらって、わたしがぶじにいられるように取り計らってくれたらしいわ」

 リリィは父さんの遺影を見上げ、ほっとしたように頰をゆるめ、

「わたしはすべてを失ったけど、そのかわり、ツヨシと出会えたわ。あの時死んだはずだったわたしがツヨシのおかげで生まれ変わることができたのよ」

 と静かに微笑んだ。

 彼女のほほえみに誘われてか、突然、僕は心の底から嬉しさがこみあげてきた。はじめて父さんがなにをしていたのかを教えてもらえた気がした。もちろん、父さんはベトナムのことをいろいろ話してくれたし、僕は父さんが遺した写真を何度も眺めた。だけど、父さんは幼い僕に理解できることしか話さなかったし、写真にしてもたんに父さんの足跡の表面をなぞったにすぎかった。リリィの話は父さんのベトナムでの息遣いを伝えてくれた。父さんがひとりの人間の命を救い出し、その人の人生を変えてしまうような強烈な影響を与えたとは考えたこともなかった。写真を見ただけではわからないことだった。そんな父さんがちょっぴりヒーローに思える。誇らしかった。

「お墓へ案内するよ」

 僕は立ち上がった。


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