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白いカーネーション

作者: 紫蘭
掲載日:2026/06/06


白いカーネーション

紫蘭


第一部 白いカーネーションと家族の形


一 まなざし


優しいまなざしを感じる。

天井から、赤ちゃん用のおもちゃがぶら下がっていて、私はそれをじっと見ていた。その傍らに、誰かがいたように思う。さだかではないかもしれないけれど、なぜか、その気配だけが記憶にある。あとはもう、何も覚えていない。

それが、私のいちばん古い記憶だった。

歳月が流れるほどに、その記憶はますます薄れていく。あれは夢だったのだろうか。顔もわからない。声も覚えていない。それでも、確かに誰かがそこにいて、温かいまなざしで私を見ていた。その感覚だけは、どうしても消えなかった。

私の父は、私が赤ちゃんのときに亡くなっている。

――まさか、あの人は、父だったのだろうか。

もしそうなら、あの温もりは、父がこの世で私に残してくれた、たった一つの贈り物だったのかもしれない。私はその無色の記憶を、宝物のように胸の奥にしまって、長い時間を生きてきた。


二 四人の家族


何も知らない赤ちゃんのまわりでは、大人たちの人生が、めまぐるしく動いていた。

父は、二歳になる前に亡くなった。母はすぐに離婚して、私を夫の母――つまり父方の祖母に預けて、そのまま去ってしまった。

祖母は、躾には厳しい人だった。けれど、それと同じくらい、私を心から可愛がってくれた。祖母の家には、まだ結婚していない叔父と伯母が同居していて、私を入れて四人暮らし。血の繋がりは確かにあるのに、どこか寄せ集めのような、それでいて不思議と温かい家族だった。

みんな仲が良くて、これを幸せというのだろうか、楽しく暮らしていた。

私の名前は、麗子と名づけられた。

朝は祖母の作る味噌汁の匂いで目を覚まし、伯母に髪を結ってもらい、叔父に手を引かれて幼稚園へ歩く。夕方には祖母の膝の上でうとうとして、夜は同じ布団で昔話を聞きながら眠る。それが、私の知っている家族の形だった。

そんなある日、私は初めて、母の日というものを疑問に思う日を迎えることになる。


三 赤と白


幼稚園で母の日が近づくと、教室のバケツに、赤いカーネーションと白いカーネーションが用意された。

昭和という時代には、今思い返すと悲しくなるような風習が、まだ残っていた。お母さんのいる子は、赤いカーネーション。いない子は、白いカーネーション。子どもたちは順番に、自分の花をもらっていく。

私の番が来た。

小さな心を痛めながら、私は迷った。

――お母さんのいない子は、白なの。でも、私には、お母さんの代わりになってくれる人がいる。だったら、赤だ。

どうして昭和の時代には、カーネーションの色分けなんてしていたのだろう。白い花を持たされた子どもの気持ちを、大人たちは考えなかったのだろうか。それ以来、白いカーネーションを見るたびに、私の胸には、幼い悲しい思いが込み上げてくるようになった。

それでも私は、いつもいっしょにいる家族から、愛情をいっぱいに受けて暮らしていた。

家に帰って、私は赤いカーネーションを祖母に渡した。

祖母は、皺の深い顔をやわらかくほどいて、微笑んでくれた。その微笑みは、あの無色の記憶の中の、誰かのまなざしに、どこか似ている気がした。温かくて、ただそこにいてくれる。それだけのことが、幼い私には、何よりも大きな贈り物だった。


四 幼稚園が嫌いになった日


幼稚園の頃は、まだ私は、両親のことを不思議なほど気にしていなかった。婚期の遅い叔父と伯母がいて、祖母もいて、まるで普通の家族のようだったから。

でも、幼稚園は嫌いだった。

お遊戯会の練習が始まって、私は一生懸命がんばった。もしかしたら白雪姫の役をもらえるかもしれない、と心の中で願っていた。けれど、白雪姫に選ばれたのは、PTA会長の娘だった。子ども心にも、なんとなく事情はわかってしまう。わかってしまうからこそ、悲しかった。

カーネーションのこともある。私は、幼稚園が嫌いになった。

ある日、私は幼稚園の途中で、一人で家に帰ってしまったらしい。先生は大騒ぎだったという。けれど私は、家の上がり框に座って、祖母の漬けたきゅうりをかじっていた。

世の中には、自分の力ではどうにもならないことがあるのだと、まだ言葉にできないまま、私は小さなからだで覚えていった。


五 仏壇の前で


祖母が仏壇に手を合わせるとき、私はいつも、横からそっと覗いていた。

そこには、父の位牌があった。けれど、母の位牌はない。

両親は二人とも亡くなったと聞かされていたから、私は幼いながらに、それを不思議に思っていた。あのかすかに残る、無色の記憶。傍らにいた誰かのことが、いつまでも気にかかった。あの人は、父だったのか。それとも――。

線香の細い煙が立ちのぼり、祖母の横顔を薄くぼかしていく。祖母は何かを知っていて、何かを黙っている。その背中には、いつも言葉にならない重さがあった。


六 お母さんへの作文


小学生になっても、参観日には、綺麗な着物を着た祖母が、一度も休まず来てくれた。

嬉しかった。けれど、まわりの子はお母さんばかりで、なんとも言えない寂しさが込み上げてくる。祖母には悪いと思いながら、その気持ちを抑えることができなかった。

ある日、学校で「お母さん」をテーマにした作文を書くことになった。

私は、すごく迷った。祖母のことを書くか、伯母のことを書くか。本当のお母さんがいてくれたら、こんなことで悩まなくていいのに。お母さんって、どんな人だったのだろう。

思い切って、祖母に尋ねてみた。

「可愛い人だったよ」

それくらいしか、教えてくれなかった。子ども心にも、私はそこに、何か違和感を覚えた。


七 聞けなかった言葉


学校の帰り道に、友達の家へ立ち寄ったときのことだ。

その子のお母さんが、何気なく聞いてきた。

「麗子ちゃんのご両親って、どんな人なの」

私は、何も答えられなかった。悔しかった。どうして、そんなことを聞くの。家に逃げ帰って、私は声をあげて泣いた。

今まで、祖母も伯母も叔父も、私に何も話してくれなかった。もう、聞いてもいいのだろうか。子ども心にも、遠慮というものがあった。

それでも私は、もう一度だけ勇気を出して、祖母に聞いた。父のことを尋ねると、百八十センチくらいあって、優しい子だったと言う。そして、仏壇に父しかいないのはなぜかと聞くと、祖母は困った顔をして、しばらく黙ったあと、ぽつりと言った。

「お母さんは、生きているんだよ」

不思議なことに、そのとき幼い私は、さほど驚かなかった。

どうして、一度も会いに来てくれなかったの。私のこと、可愛くなかったの。一人になったとき、涙がおもいきりあふれて、悲しくなった。でも、それはやがて、冷たい腹立たしさへと変わっていった。

あの遠い無色の記憶。傍らにいたのは、やはり父だったのだ。母ではなかった。そんな気がしてきた。

私は――。

その先の言葉が見つからないまま、私は涙を拭いた。


八 花嫁と、呼んだことのない名前


祖母と叔父と伯母と私の、四人家族は、とても楽しく幸せだった。

ある日、伯母が一人の男性を連れてきた。美味しそうなケーキやチョコレートを、たくさん抱えて、私に会いに来てくれた。優しくて面白いその人と、私はすぐに仲良くなった。やがて、伯母が婚約したと聞かされた。

伯母の花嫁姿は、綺麗だった。私は思った。いつか自分も、こんな着物の花嫁になるのだ。

新しい家は、歩いて三十分ほどのところにあった。私も一緒に住むように言われたけれど、断った。これで、祖母と叔父と私の三人になってしまう。寂しいけれど、仕方ないと、子ども心に思った。

「おばあちゃん、長生きしてね」

なぜか、涙が止まらなかった。

私は生まれてから一度も、「お父さん」「お母さん」と呼んだことがない。友達が両親の話をしているのを聞くたびに、いいなと思った。私も、普通の家族に生まれたかった。父が生きていたら、どんな人だったのか。どこかにいる母は、どんな人なのか。小さな胸は、張り裂けるような思いだった。


第二部 淡い恋と受験、そして出会い


九 傘


私も、中学生になっていた。

祖母は人柄がよく、友達も多い人だった。私はそんな祖母を、心から尊敬していた。家に帰ると、玄関に見知らぬスニーカーが何足も並んでいることがあった。部屋を開けると、男子のクラスメートが数人、お菓子を食べている。祖母が「麗子のお友達」と言って、家に上げてしまうのだ。みんな、祖母と仲良くしていた。

雨の降る日に、祖母が学校まで傘を持って来てくれたことがあった。男子のクラスメートが、「れいちゃん、おばあさんが傘を持って待っているよ」と呼びに来てくれた。嬉しかったけれど、ちょっと、照れくさかった。

伯母が、私と一緒に住みたいという話を、ときどき持ちかけてきた。二人には、子どもがいなかった。私は悩んだけれど、中学生のあいだは祖母と暮らすと決めた。祖母を、一人にはできなかった。


十 窮屈な家


ところが、その穏やかな暮らしは、ある日から少しずつ崩れていった。

叔父が、一人の女性を連れてきて、祖母の家で同居することになったのだ。祖母も私も、悪いけれど、あまり合わない気がした。

叔父は、結婚してから人が変わったように、祖母に冷たくなった。私にも、些細なことで怒るようになった。あの自由で楽しかった家の空気は、すっかり窮屈になってしまった。伯母夫婦は、私のために勉強机もベッドも揃えて、いつでも来ていいよと待っていてくれた。それでも私は、祖母を一人にはできなかった。

人は、変わることがある。私はそのとき、初めてそれを知った。


十一 お母さんが二人


中学校の修学旅行の日、伯母がお弁当を持って、見送りに来てくれた。

まわりの生徒たちが、口々に言った。

「麗子ちゃん、お母さん来たね」

突然のことに、私はびっくりした。祖母が足を痛めていて、代わりに頼んだのだという。

お母さん。

その言葉が、不思議と、胸にすとんと落ちた。

――私には、お母さんが二人いる。なんて、幸せなことだろう。

今年の母の日は、二人に赤いカーネーションをあげよう。私は、そう心に決めた。

修学旅行は、富士山にも箱根にも行った。自由行動の時間、温泉で卓球をしている、少し不良っぽい男子のグループに声をかけられて、いっしょにやることになった。「麗子、卓球できるんだ。上手いな」と褒められて、最初は怖かったけれど、話してみればみんな面白い子たちだった。修学旅行は、楽しい思い出になった。


十二 家庭教師の先生


高校受験のために、私は、生徒三人に先生一人の家庭教師に習うようになった。

先生は国立大学の学生で、部屋には難しそうな本がずらりと並んでいた。大学生って、こんなにたくさん本を読むんだ、と私は感心した。生徒のうち、女子は私だけ。けれど、私はそれを誰にも、学校でも言っていなかった。

私は、先生に会えるのが、楽しみだった。本を読みふける先生の横顔に、いつしか私は、淡い憧れを抱いていた。

受験の日、私は墓参りに行った。顔も知らない父に、どうか守ってくださいと祈った。墓地の管理人に尋ねると、母はこれまで一度も、ここへ来たことがないようだった。事情があるにしても、やるせない気持ちになった。私はずっと、普通の家に憧れていた。


十三 ガッツポーズ


私は、大学を一校しか受けなかった。

ふつうは二校も三校も受けるものなのに、私は頑固だった。そこにしか、興味がなかった。受験後の日々は、心の中にドキドキを抱えたまま、何日も過ぎていった。これまでの人生で、いちばんの重圧を感じた。

合格発表の日――私は、自分の部屋でガッツポーズをした。

合格したのだ。

祖母も伯母も、すごく喜んでくれた。鯛や赤飯、ケーキまで用意されていた。経済的に支えてくれた二人には、感謝してもしきれなかった。けれど、また遠い土地の学校だったから、下宿になってしまう。私は、祖母とゆっくり二人で話したいと思った。次の下宿先に泊まりに来てほしいと頼むと、祖母は、行くよと言ってくれた。聞きたいことが、たくさんあった。

卒業のあと、お世話になった家庭教師の先生に、挨拶に行った。

「麗子ちゃん、おめでとう。今のまま、大人になってね」

その言葉の意味が、そのときの私には、よくわからなかった。先生の部屋には、相変わらず難しい本が並んでいた。大学院に進んだのだという。私はきっと、先生のことが好きだったのだ。


十四 淡い初恋の終わり


夏休み、伯母の家に戻っていた私は、デパートのある街へ出かけた。

すると、まさかの偶然で、家庭教師の先生に出会った。びっくりしたけれど、嬉しかった。お店に入って、ジュースを飲みながら、いろいろな話をした。楽しかった。

けれど、先生に彼女がいることがわかって、私は寂しい気持ちになった。

私の淡い初恋は、誰にも知られないまま、静かに終わった。それでも、先生に教えてもらって頑張れたから、希望の学校に入れた。それで、よかったのだと思う。


十五 手紙のはじまり


高校の修学旅行では、初めて九州へ行った。長崎の皿うどんが、美味しかった。

たまたま泊まった宿に、男子校の修学旅行が来ていた。いつも女子ばかりの学校だったから、男子と話すのは新鮮で、なんだか楽しかった。携帯電話などない昭和の時代だ。別れぎわに、住所を教え合った。

旅行から帰って、いつもどおりの生活を送っていると、ある日、家に手紙が届いていた。あの宿で知り合った、男子からだった。

そこから、文通が始まった。

彼の手紙には、夢が綴られていた。文章も上手だった。私も、進路のことや、ちょっと面白かったことを書いた。手紙のやりとりを重ねるうち、少しは私も、文章が上手くなったかもしれない。手紙っていいな、と私は思った。声は聞こえないのに、文字を通して、その人の考え方が少しずつわかっていく。心の距離が、ゆっくりと縮まっていく。

互いに受験を控えた私たちは、「頑張ろう」と励まし合う仲になった。彼は、医者を目指していた。

合格の知らせを、私は手紙で彼にも伝えた。けれど、彼からは、不合格だったと知らせが来た。もう一年、頑張るという。次こそは合格してほしいと、私は心から願った。


第三部 別れと真実、自立への道


十六 遠い町で


私は、大学に入学した。希望に、満ちていた。

ところが、大学を美化しすぎていたのか、なんだかつまらないと思ってしまう日があった。どうやら、五月病になってしまったらしい。一生懸命がんばって入った大学なのに、と自分でも情けなかった。

そんなとき、母の日が来た。私は祖母と伯母に、赤いカーネーションといっしょに手紙を送った。二人とも、喜んでくれた。白いカーネーションのことは、今ではもう、誰も知らない。それは、私の幼い日の、悲しい秘密だった。

新しい生活には、少しずつ慣れていった。寮のおばさんが食事を作ってくれて、先輩との付き合いにも気を使った。同じ目標を持った仲間たちに囲まれて、私は自分の居場所を見つけていった。たまにギターを弾いて、友達と歌った。私なりに、青春をしていた。

ある日、友達の家にお祭りで招かれた。優しいご両親と、温かい手料理。笑いの絶えない、普通の家族の食卓。部屋に戻ったら、なぜか涙が出た。羨ましかったのか、楽しかったのか。自分でも、わからなかった。


十七 バスガイド


たまたま時間が空いた日、私は友人に頼まれて、男子校の遠足のバスガイドのアルバイトをすることになった。

初めは緊張したけれど、バスの中でみんなに挨拶をして話しているうちに、だんだん落ち着いてきた。運転手さんも親切で、有名な場所を教えてくれたので、私はそれをみんなに説明できた。男子生徒たちと、何枚か写真を撮った。担任の先生とも話せて、楽しかった。

初めてのアルバイトが、男子校の遠足のバスガイドだなんて。いい思い出になった。


十八 命のかたち


大学の専門課程に入ると、実験が始まった。

ラットの解剖は、かなり我慢して、なんとかやり遂げた。けれど、次のウサギの解剖で、いろいろな臓器が見えた瞬間、私はとたんに気分が悪くなって、床にしゃがみ込んでしまった。教授が心配してくれて、助手の人が外に連れ出して、落ち着かせてくれた。

気分が悪くなったのは、私だけだった。少し、恥ずかしかった。本当は、動物が大好きだからこそ、辛いのだ。後日、動物たちの慰霊祭のようなものがあって、私の心は少しだけ救われた。

そんな日々のなか、約束どおり、祖母が下宿に泊まりに来てくれた。

駅まで迎えに行き、夕食を済ませて、狭い部屋に布団を並べた。いろいろな話をした。母は生きているけれど、今どこにいるかわからないこと。死んだと嘘をついていたことへの、祖母なりの詫び。私はもう、怒ってはいなかった。許せた。

祖母と二人で眠るのは、何年ぶりだろう。ごつごつした手の温もりが、幼い日を呼び覚ました。

「これが、最後になるかもしれないねえ」

祖母がぽつりと言ったその言葉を、私はずっと後になって、何度も思い出すことになる。


十九 父の最後の言葉


ある日、祖母が体調を崩して入院したと、電話があった。

私は、休みの日に駆けつけた。病室には、ほかに誰もいなかった。だから、かえって話しやすかった。

そこで初めて、私は父の本当の死を知った。

父は、病気で亡くなったのではなかった。自ら、死を選んだのだという。詳しい事情は、話してもらえなかった。ただ、最後に「麗子を頼む」とひと言を残して、旅立ったのだと、祖母は静かに告げた。祖母も伯母も叔父も、悲しみのどん底にいたという。

麗子を頼む。

顔も知らない父が、最後の瞬間に、私の名前を口にした。そのことが、深い悲しみと同時に、不思議な温もりを、私にもたらした。

あの無色の記憶。傍らにいた、優しいまなざしの人。あれは、やはり父だったのだ。

そして母は。父がそうして逝ったことを、おそらく知っていた。それなのに、墓参りにも来ず、娘を探そうともしなかった。一度は、母に会って真相を知りたいと思った。けれど、もうやめにした。

――ただ、私を産んだだけの人だ。

そう思うことにした。そう思わなければ、私は、やっていけなかった。


二十 祖母の一生


やがて、祖母の体に、癌が見つかった。

昭和の医療では、できることに限りがあった。苦しむ祖母を見るのは、辛かった。認知症も進み、会話が難しくなっていった。もっと早くに、もっとたくさんのことを聞いておけばよかったと、私は悔やんだ。

私は、祖母を育ての母だと思っていた。料理が上手で、おしゃれで、人柄のよさから友達が絶えない人だった。女手ひとつで子どもたちを大学に行かせ、息子を自死で失うという、想像を絶する悲しみさえ、乗り越えてきた。そして、孫の私を引き取って、母親代わりに育て上げた。

祖母の一生は、一冊の本になるくらいの、すごい人生だった。それなのに祖母は、多くを語らなかった。ただ黙って、目の前のことを、ひとつずつ丁寧にこなしていく人だった。


二十一 白いカーネーションの別れ花


祖母が、亡くなった。

私が駆けつけたとき、祖母は自宅の布団の中で、眠るように横たわっていた。そっと手に触れると、まだかすかに、温もりが残っているような気がした。今にも目を覚まして、「麗子、おかえり」と言いそうだった。

母を亡くしたのと、同じだった。いや、私にとっては、母そのものを失ったのだ。

祖母の傍らに花を添えるとき、私は本当は、赤いカーネーションにしたかった。あなたは私のお母さんだから、と。でも、そういうわけにもいかなくて、私はそっと、白いカーネーションを祖母の横に置いた。

幼い日、「お母さんのいない子」の印として渡された、あの花。今、その白い花は、まったく別の意味を帯びていた。

――おばあちゃん。お母さん。ありがとう。私、頑張るからね。お父さんとおばあちゃん、天国から見守っていてください。

そのうち、国家試験も待っている。私は、立ち止まってはいられなかった。


第四部 健太との再会と新たな絆


二十二 白衣の日々


時は過ぎて、私は病院で働いていた。

仕事は忙しく、人間関係の難しさも、身に染みてわかってきた。あるとき、新しい勉強の代表として、先輩と二人、東京へ約一ヶ月、行くことになった。東京で働く人たちは格好よく見えて、私はその街に、憧れた。

東京で、私は商社マンの男性と知り合った。英語やフランス語で外国人と話す彼が、眩しく見えた。彼は文章を書くのが好きで、私たちは文通をすることになった。

東京から帰って、しばらくして、疲れて伯母の家に戻ると、なんと、大きな薔薇の花束が東京から届いていた。彼が、私の誕生日を覚えていてくれたのだ。びっくりしたけれど、嬉しかった。

それでも私は、東京へは行かなかった。母親代わりの伯母がいるこの地元で、根を下ろして生きていく。そう決めて、彼に別れを告げた。今は恋よりも、仕事と勉強に生きよう。私は、そう自分に言い聞かせた。


二十三 再会


そんな折、高校の修学旅行で知り合って以来、長く文通を続けていた「健太」から、突然、会いたいと連絡があった。

彼は、一度入試に失敗しながらも努力を重ねて、国立の医学部へ進み、立派な医師になっていた。あれだけ手紙をやりとりしてきたのに、私たちは一度も、会ったことがなかった。思い出せるのは、高校生のときの顔だけ。私は、期待と不安で胸を高鳴らせた。

待ち合わせの場所に、彼は現れた。

「こんにちは。お久しぶりです」

健太は、優しく微笑んでくれた。

数秒が、数分のように感じられた。お互いに、大人になっていた。手紙で何でも知っているはずなのに、実際に会うと、まるで付き合っているような、不思議な気持ちになった。私は少しは、綺麗になれただろうか。彼は、どう思っているだろうか。

「女性らしくなったね」

彼にそう言われて、恥ずかしいような、嬉しいような、複雑な思いだった。手紙もいいけれど、会って話すほうが、もっといい。私は、心からそう思った。

そして健太は、大学病院を辞めて、私の住む隣町の総合病院へ赴任することになったと告げた。近くなった。また、会える。


二十四 お弁当


次に会う日、私たちはドライブに出かけることになった。

私は中学生のころから、三年間お弁当を作っていたので、料理には少し自信があった。ドライブだし、お弁当を持っていってもいいかな、としのばせていった。

その車の中で、私は健太に、自分の生い立ちを話した。健太は、伯母夫婦が私の本当の親だと思っていたのだ。本当の両親がいないこと。父が幼い日に亡くなり、母は私を置いて去ったこと。祖母と伯母に育てられたこと。そして、幼稚園の母の日に、白いカーネーションを渡されたこと。

健太は、意外なほど驚かなかった。ただ静かに、そして温かく、すべてを受け止めてくれた。

景色のいい場所でお弁当を広げると、健太はびっくりして、「美味しい」と喜んで食べてくれた。お世辞かもしれない。本当はレストランに行きたかったのかもしれない。それでも、誰もいない綺麗な景色の中で、二人で食べるお弁当の時間は、どんなお店よりも温かかった。


二十五 命の重さを知る二人


それから私たちは、医療に携わる者として、仕事の悩みも語り合うようになった。

健太から、微笑ましい話を聞いた。診察を終えたおじいさんが、ウイスキーの入った紙袋を、「先生、いつもありがとう」と渡そうとしたのだという。気持ちは嬉しいけれど受け取れないと、彼は優しく返したそうだ。よほど感謝されているのだろうと、私は思った。

けれど、辛い話もあった。

健太が担当していた、とても可愛い、十七歳の女の子。その子が、白血病で亡くなった。昭和という時代。今の医療なら、助かったかもしれない。できる限りの治療を尽くしたのに、無念だと、健太は深く落ち込んでいた。

私は、何も言えなかった。ただ、隣にいた。

命の重さを知っている、二人だった。私は父を、祖母を失った。健太は、目の前で患者を失った。言葉にならない痛みを抱えながら、それでも朝が来れば、また仕事に向かう。そういう日々を、私たちは静かに重ねていった。派手な言葉も、甘い約束もなかった。けれど、手紙で何年も言葉を交わし続けた二人には、黙っていても伝わるものがあった。その沈黙が、不思議と、心地よかった。


二十六 赤いカーネーション


また、母の日が巡ってきた。

かつてこの日は、「お母さんのいない子」の烙印である白いカーネーションを突きつけられる、大嫌いな日だった。

けれど、今の私の心は、まったく違っていた。

育ててくれた祖母は、もういない。それでも、伯母がいる。修学旅行の見送りに、お弁当を持って駆けつけてくれた伯母。勉強机とベッドを用意して、待っていてくれた伯母。何も言わずに、ただそこにいてくれた伯母。

私は花屋の店先で、迷うことなく、赤いカーネーションを選んだ。

大学まで行かせてくれた、感謝を込めて。普通の家族ではなかったけれど、たくさんの愛情をもらって育った、その感謝を込めて。

――ありがとう。

色を持たなかった、あの遠い無色の記憶。孤独を象徴していた、白い花びら。それらは、長い年月と、たくさんの愛情によって、ついに鮮やかな赤へと染まり、今、私の心を、温かく包み込んでいた。

毎年、母の日が来るたびに、私は幼い日の白いカーネーションを思い出すだろう。たぶん、それは死ぬまで続く。でも、その白い花の記憶の傍らには、いつも、赤いカーネーションを受け取って微笑んだ祖母の顔がある。

私はもう、白いカーネーションを恐れない。

あの花の白さの中に、父のまなざしがあった。祖母の愛があった。名前を呼ぶことさえできなかった人たちの、声にならなかった想いがあった。

今年も私は、伯母に赤いカーネーションを贈る。

そしてそっと、心の中で、天国の祖母と父にも、白いカーネーションを一輪、手向けるのだった。

――白いカーネーション 完――


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