第1話 残された感情
「どうして、奪うの?」
震える声が、夜に溶ける。
「どうして、離されるの?」
月は何も答えない。
世界も。
「ただ、愛していただけなのに。」
彼は静かに彼女の頬に触れた。
「……もう、いい。」
その声は怒りでも絶望でもなかった。
ただ、深く疲れた優しさだった。
「2人だけの世界へいこう。」
彼女が微笑む。
「怖くない。俺がいる。」
指先が絡まる。
「あなたと一緒なら、どこへでも行くわ。愛してるわ。」
「俺もだ。愛している。」
抱き合ったまま、二人は湖へと歩み出す。
冷たい水が足元を包む。
「生まれ変われなくてもいい。」
「この世界は、俺たちには残酷すぎた。」
月明かりが水面を揺らした。
――そして。
目が覚めた。
シンシアの呼吸は乱れていた。
胸が痛い。
何かを失ったような苦しさが、まだ消えない。
夢のはずなのに、あまりにも生々しい。
顔も名前も思い出せない。
それでも――
月明かりと、冷たい湖。
そして「愛している」という感情だけが、身体の奥に残っていた。
どうして、こんなにも悲しいのだろう。
――まるで、本当に失ったみたいに。
「シンシア、起きたの?」
母の声に、現実へ引き戻される。
「おはようございます、お母さま。」
階段を降りると、光が差し込む食堂が広がっていた。
父が新聞を読み、姉のリリアナが紅茶を口にしている。
――あたたかい。
それだけで、涙が出そうになる。
この当たり前の朝が、どれほど幸せなのか、
私は知っている。
窓のない部屋。
重い扉。
差し込む光のない日々。
あの時間を思えば、
この朝でさえ、宝物に感じる。
「シンシア?」
リリアナが覗き込む。
「…大丈夫。ちょっと緊張しているだけ。」
本当に?
胸の奥では、別の不安が渦巻いている。
今日から学院。
そして——王太子に会う日。
馬車が石畳をゆっくり進む。
「また、夢を見たの?」
リリアナが小声で尋ねる。
「うん。月明かりの湖が冷たくて........。でも、不思議と怖くなかったわ。」
自分でもうまく説明できない。
「誰なのかも、どこなのかも分からないのに、どうしてあんなに切ないのかしら。」
リリアナはそっと手を重ねる。
「あの幽閉さえなければ……」
「違うわ、姉様。」
シンシアは首を振る。
「あの時間があったから、今があるの。」
あの暗い部屋で、
姉と護衛がどれほど支えになってくれたか。
「もう、怖くないわ。私があなたのそばにいるからね。」
「ありがとう、姉様。」
馬車の外で、春風が桜を揺らした。




