ゴブリンが人型の獣なら人型の獣はゴブリンなのか
男はいつも下ばかりを見ていた。前を見るのが怖かったわけでは無く、人を見るのが怖かった。伸ばした前髪も都合がよかった、それだけ。
動き出すのは決まって人が寝静まった真夜中。通りを抜けて街を出る。一人月明かりを頼りに森へと進む。足音を消す方法は物心ついた時から知っていた。床のきしむ音は男にとって痛みに変わる。見たくも無い人間が男を見ようとする。それがたまらなく嫌だった。いっそのこと殺してしまえばいいのに。
人型の獣に気取られぬよう男は森を進んでいく。
「見付けた」
小さな声で喜びをあらわにする。掌ほどの赤い木の実。熟れて落ちた木のみを数個抱えて道を戻る。空腹に駆られてここで木の実をかじってしまえば、人型の獣に悟られてしまうだろう。男は食欲を街へと戻るまで我慢した。
人の気配、それは男にとって最も気にするところ。だが数日ぶりの食べ物が、食欲がその邪魔をした。
「おい、ゴミ。良い物を持っているじゃないか」
恐怖と絶望が全身に走る。目線の先に足を見る。すぐさま男の顔は空を向いた。鼻の奥に熱を感じ、痛みが脳に走る。噴き出した血液が空気を取り込むことを阻害する。
「あ、あ」
声と共に息を吐く。
「そいつを置いて行け」
「な、なにも食べてないんです」
「だから」
「死にたくない」
「それで」
「こ、この実をください」
「と、いうことは」
「わ、渡せな……」
今度は腹部に痛みを覚える。喉が焼けるように痛む。口から痛みのもとが飛び出した。何もないはずの胃袋から。
「その実をどうしたいって」
「やめてください」
髪を掴まれる。無理やり顔を上げられ、血液が喉を癒す。
「その実をどうしたいって」
「わ、渡します」
「そうか。その実はお前の物だったか」
「違います。僕の物ではないです」
「そうだよな」
踏みつけられるよりも早く、額を地面に付ける。その方が痛みは少ないと分かっていた。
遠ざかる足音に集中する。見えなくなるまでこうしていれば、もう痛みを与えられることはない。早くいなくなってくれ。そればかりを男は願っていた。いっそのこと殺してしまえばいいのに。
だが足音は消える前に止まった。
「そういえば、明日は依頼期限だったな。新しい以来受けたら、準備金持って来いよ」
それだけ言い残し足音は消えた。
治安維持管理局。街の中心に建つひときわ大きな建物。そこでは腕の立つ者達へ様々な依頼を行っている。依頼を受けると準備金としていくらかの金銭が貰えた。内容によって期限が設けられ、未達の場合は再度別の者へ依頼される。準備金の返還は求められないが、未達が続けば新たな依頼を受けることが出来なくなる。男に依頼を達成させる力は無かった。未達の数は増えるばかり。新たな依頼を受けさせてもらえる保証は無かった。
街外れにあるゴミ捨て場へと向かう男。幾重にも重ねられた廃棄物の中から食べられそうなものを探す。腐敗臭は食物があることを示している。男はごみの山をかき分けた。湿った感触を感じると迷わず口に運ぶ。味は感じない。咀嚼の必要は無く、僅かな舌の痺れはあるものの、それを胃袋に流し込んだ。繰り返し、何度も。
「またはずれだったよ」
何者かが訪れ、新たなゴミを放っていく。暗闇にうごめく男を認識したのか、足早にその者達は駆けて行った。
捨てられた物に目を向ける。真っ白い卵。片手には収まらない程の卵。だが食欲は掻き立てられない。それが食べられないと男は知っていた。浮獣。孵化すると様々な力を与えると言われる獣。その獣の飼育は治安維持管理局が管理しており、依頼達成の折に卵が配布される。当然依頼を達成した事の無い男には無縁の物だった。卵の模様によって等級が決まっており、模様の無い卵は低級種として廃棄されることが多かった。
「同じだね。こんな汚い手でごめん」
親近感に似た感情を抱いた男は卵を拾い上げる。空腹に加え、体中の痛みから男はその場に座り込む。卵を抱きかかえるようにして目を瞑る。これは睡魔かはたまた。目覚める事を男は期待していなかった。
「おうおうおうおうおうおうおうおう」
異質な声に目を覚ます。差し込む朝日に目が眩む。
「おうおう、起きたかい」
逆光になり、影しか見えないその姿は、男の眼前で小さな羽根を何度も羽ばたかせていた。夢でも見ているのかと思い瞼を擦る。
「なんだいなんだい、浮かない顔だ。俺様は浮いているというのに」
足元には真っ白い卵の破片が散らばっていた。
「浮獣?」
「はあ?浮獣だああ?あれか?貴様ら人間は人間同士で、やあ人間、おう人間なんて呼び合うのかい?それはひどく不便だな。判別もくそもねえ。名前ってものを知らねえのかい」
まくしたてる様な言葉の数に面食らう。
「おうおうおう、話は聞こえてんのか」
「ああ、ごめんよ。聞こえている。名前は知らないんだ」
「そりゃあ不便だ。人間は不便な生き物だな」
「いや、名前はあるんだけど僕には無いんだ」
「言ってる意味が分からねえが。まあいい俺様の事はゴビって呼びな」
拳二つ分ほどの大きさの浮獣が男の肩に乗る。
「おい人間」
「あまり耳元で大きな声を出さないでくれよ」
「悪い、慣れてねえんだ」
「うん、それでどうしたの」
「腹が減った。ゴブリンの肉を食わせろ」
「ゴブリンって?」
「なんだ知らねえのか。つくづく不便な連中だな。森の中のいたる所に居るだろうが」
「人型の獣の事かい」
「ああ、それがゴブリンだ。あくまで種族名だがな。奴らは、やあゴブリン、おうゴブリンなんて呼び合ってはいねえぞ」
「わかったよ」
「そうかい。だったら早く森に連れて行ってくれ。肉を食わせろ」
「無理だよ。僕は弱いんだ」
「はあ?人間のくせにゴブリンにも勝てないのか」
「ごめんよ」
「俺様は浮けるが飛べねえ。困ったな」
男はいつものように下を向いた。前髪が世界を隠す。
「おいおいおいおい。そんなに背中を丸められたら肩に止まってられねえだろ。下を向くんじゃねえ。前を向きやがれ」
「得意じゃないんだ。頭の上にでも乗ってくれよ」
「仕方ねえな」
頭上にずしりとした重さを感じる。男は歩き辛さを受け入れた。
「どこに行くんだ。森か」
「いいや。依頼を受け直さないと。準備金が受け取れないから」
「依頼?ゴブリン討伐か」
「受けるだけだよ。お金を貰うだけ」
「なんの為に」
「生きる為だよ」
「生きたいのか?」
「あれ?わからない」
「変な奴だな」
男は路地裏に足を向ける。日差しの遮られたその道は、昼間でも真っ暗だった。
「誰か……」
路地の奥から絞り出したような女性の声が聞えてきた。
「見ろ、人間が人間を襲ってやがる。人間は種族間で狩り合うのか」
男は足を止める。震えは足から全身へと広がっていく。
「おいおいおいおい、そんなに震えてちゃ止まってられねえ」
何も言葉を返せず、男の身体は恐怖に包まれた。
「ゴミか。何か用があるのか」
聞き馴染んだその声を聞いて男は膝を折り、その場に座り込んだ。地面に頭を付ける。
「助けて」の声は一度だけ聞えた。人間が殴られる音は何度も聞こえた。痛みは一度も感じなかった。
「おいゴミ。俺の前から消えろ」
「はい」
「さっさと金を持って来い」
「はい」
「殺されたいのか。早く行け」
「やめてください」
「ああ?聞えなかった。もう一度言ってくれ」
「やめてください」
足音が近づいてくる。恐怖と絶望の音。人間が殴られる音が痛みと共に何度も聞こえた。次第に何も感じなくなってくる。鈍い音も痛みも。ああ、耳も潰れたか。鼻も目も。いっそのこと。
〈生命力の著しい低下を確認。精神力の著しい低下を確認。共鳴開始〉
耳では無いどこかから聞こえた声。恐怖の感情は抱いていなかった。
足に力を込めて立ちあがる。肩に感じる重みは声の主か。
「いいね、初めてだこっち側は。気分がいいなあゴビ」
「うるせえ奴だ。耳元で大きな声を出すなと言ったのは貴様だろう」
「それは俺じゃねえ」
「そうかいそうかい。おうおうおうおう人間、やれるのか」
「ああ、やるぜ。いっそのこと殺してしまおう。食いたがってただろう」
「俺様が食いたいのはゴブリンだ」
「いいや、人型の獣だろ」
「そうだな。違いねえ」
裸の女に興味は無い。その顔が別の恐怖で歪もうとどうでもいい。ただ獣を、人型の獣を狩るために生きるだけだ。




