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ナヴィス -Navis-  作者: 夕凪 馨
第二章 瑞京編
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2-1 傷を越えて

 翠梁をあとにして三日。瑞京へ延びる北街道は、午後の陽射しが傾くにつれ黄金と白のあわいに染まり、梢の杉葉を透かした光が燃え尽きるようにゆらめいていた。樹は、道脇に揺れる虎杖いたどりの赤みを無意識に数えながら歩を重ねる。滝沢の長い影が前を行き、桜と中原と佐久間の気配が背後に続く──五つの靴音だけが静かな山道に規則正しく刻まれていた。

 山腹の深い森に埋もれた廃村――華月はなつき村が、夕靄ゆうもやを纏ってひっそりと姿を現す。崩れた瓦は一面の夏草に呑まれ、灰鼠色はいねずいろの土壁には長く引き裂かれた雨染みが黒い筋となっている。赤土をはらむ風が雨戸の割れ目を叩くたび、乾いた空気が古びた家々のあえぎを吐き出し、遠くの樹梢じゅしょうではカラスの声が木魂となって空へ吸い込まれた。樹は肩越しに桜の横顔を盗み見る。彼女の睫毛まつげが震えた刹那、この廃村が一年余り前──桜の仲間が命を落とし、『穴』が開いた忌まわしい場所だと改めて思い出す。

 陽光が最後のきらめきを放つうちに、桜は朽ちかけた井戸の背後でこぶし大の石標せきひょうが寄り添う一角に気づいた。野茨のばらつたは刈られ、折れた竹串たけぐしが円陣を描いて小さな墓域ぼいきを護るように立っている。夕陽に照らされる祈りの痕跡は、まるで淡い金箔をちりばめたようにまばゆい。

「……誰かが弔ってくれたんだね」

 桜の声を聞きながら、樹は胸奥で水面のような波紋を覚える。彼女がそっと膝を折り、胸の前で瑞鋒を静かに重ねる。無名の勇士たちに捧げる沈黙の祈り――その横で、滝沢がつばに手を添え深々と一礼し、中原がほのかな香を焚き、佐久間は影のように頭を垂れた。樹は傾く陽を仰ぎ、生き残った者として未来を切り拓くという重いつぶてを胸底へ沈める。

 太陽が稜線りょうせんへ溶け落ち、森は群青の海へと沈んだ。夜風が杉のこずえを撫で、五人は無言のまま北へ一里の谷間にある蓮華里れんげりを目指す。蝉の最後の声が闇に吸い込まれ、代わりに澄んだ星の瞬きが頭上に増えていった。



 蓮華里れんげりは段々に連なる棚田とこけむした水車小屋が点在するばかりの小村だった。旅人小屋の前で待ち受けていた村長は麦わら帽子を胸に抱え込み、狐につままれたような面持ちで唇を震わせる。

「昨夜から森に化け物めいた猪の群れが現れまして……田を荒らしては帰っていくのです。今夜も来るやも知れませぬ……。もし村人まで襲われたらと思うと、恐ろしくて夜も眠れません」

 滝沢が短く頷くと、村人三十余名は総出で集会所へ避難した。宵闇よいやみは湿り気を帯び、棚田の水面に映った星明りが蛙の波紋で微かに揺らぐ。土と水が混ざった匂いが蒸されて胸に降り積もるなか、五人は東端のあぜを盾に布陣し交代で見張りに立った。桜だけが棚田に掌を滑らせ、術理で濁りを澄ませて鏡のごとき静寂をつくりだす。

 子の刻が近づく。地の底を巨槌きょついで殴るような震動があぜを震わせ、闇の森から赤い点が染み出すように増えていく。湾曲した黒角と骨殻こっかくの肩当て――突牙猪とつがちょ、猪のような魔物。かつて桜から仲間を奪った魔物が、今度は群れとなって襲来した。二十頭、いや三十。血走った双眸そうぼうが水面を妖しく焦がし、重い吐息が夜気を押し返す。桜の脈拍が明らかに速まるのを、樹は隣で感じ取った。しかし昼間に見た石標せきひょうの静けさが彼女を支えたのだろう。桜は小さく息を吸い込み、顔を上げ、呟く。

「逃げない。負けない」。

 突牙猪とつがちょ吼声こうせいとともに棚田へ雪崩なだれ込み、月光を帯びた水を白く跳ね上げる。ほとばしる滴が夜空の星を歪ませた瞬間、滝沢の銀の刃が弧を描きつつ抜かれる。

「樹! 左へ回れ!」

 第一波──先頭の四頭が土煙を上げ突進する。佐久間は影のように暗い屋根へ跳び、落葉の舞いのごとく短刀を眼窩がんかへ突き立てた。滝沢の斬撃が右斜め後方から甲を割り、樹は翠鋒すいほう霧刃むじんを左へ重ねる。翠光すいこうが滑らかな弧を描き、甲殻と肉をまとめてえぐる。黒い血が雨となり、鏡のようだった水面へ暗い影を広げた。

 第二波。突牙猪の残党が縦列を成し、軍馬の突撃のようにあぜを蹴散らす。地面が波打ち、振動が樹の脛骨を揺さぶる。中原の弓が紫電を放ち、一本目の矢が一頭の足首を撃ち抜く。星が閃くような火花が散り、獣が揺らいだ隙に佐久間が虚空を蹴って跳び上がり喉笛を裂く。

「滝沢殿、右です!」「承知!」

 樹は二頭と対峙する。血と泥の混ざる匂い、遠く近くに重なる蛙の声──煩雑な感覚を意志で押し流し、胸中で唱える。刃は心の映し。霧刃は乱れず、肩甲と首筋へ確かな切尖を落とす。巨猪の重量が斧のようにのしかかるが、樹は踵で踏みとどまり、筋肉に粘りを宿らせる。

 その折、桜は田の中心へ進み出る。瑞鋒みずきを高く掲げ、掌で静水をなぞると鏡面が淡青たんせいに脈動した。

潮纏しおまとい!」

 水が帯のように延び、六頭の脚を絡め取る。仰け反った巨躯に滝沢と樹が駆け、甲を裂き腱を断つ。泥と鮮血の熱が夜風を焼き、吹き抜けた微風が血霧ちぎりを遠くへ散らした。

 なおも生き残った三頭が凶声を上げ、最後の突進に賭ける。滝沢と樹は短い呼吸で合図し、刃を交差させ迎え撃った。鋼と骨が激突し、火花がくず星のように散る。二条の斬撃が螺旋を描き、巨猪の肩甲を十字に裂く。

 膝を折りかけた獣へ桜が最後の印を重ねる。

蒼竜瀑そうりゅうばく!」

 雷鳴とともに蒼白の水柱が天頂から落ち、裂傷へ雪崩れ込んで骨を砕く。巨猪は角をへし折られ大地に沈み、轟音が棚田を震わせた。子の刻半。夜のただ中で、戦いは終わった。



 滝沢は刃を拭いながら肩で息をつき、闇の向こうへ低く笑う。「見事だ」

 樹は震える腕を押さえ、霧刃をそっと解いた。「滝沢さんの稽古のおかげです」

 桜は瑞鋒みずきを胸に抱き、呼吸を整える。「……華月はなつきで誓った通り、私は前に進めた」

 夜の水面のように澄んだ瞳が、確かな意志を湛えている。佐久間は小さく頷き闇へ紛れ、中原は弓弦を点検しながら「腹が減ったら干し肉はどうだ」と笑って畔へ腰を下ろした。

 その後二時間、五人は交代で村境むらざかいを巡り、森の奥へ遠ざかる魔の気配が消えたことを確認した。午前二時前、集会所を開くと村人は泣き笑いで頭を下げ、「命の恩人だ」と口々に繰り返す。長屋門ながやもんの主人は旅籠はたごを無料で開放し、熱い粥と生姜湯を惜しみなく振る舞った。湯気の向こうで桜が安堵の微笑を浮かべたのを、樹は忘れられない。



 樹は滝沢と共に棚田の縁に腰を下ろしていた。夜はまだ終わっていなかったが、空の東にはわずかに紅が混じりはじめている。

「……よくやったな」

 滝沢が静かに言った。声に感情は多くなかったが、わずかな間が、確かな評価の重みを伝えていた。

「ありがとうございます。でも……正直、怖かったです」

 樹は肩の力を抜くように言った。

 言葉にした瞬間、張っていた気持ちが少しだけほどけるのがわかった。

「怖さを知るのは悪くない。怖さを知らずに突っ込むやつのほうが、早く倒れる」

 滝沢は空を仰ぎ、吐息のように言葉を置いた。

 そこへ、軽い足音が草を分けて近づいてきた。

 桜だった。すでに着替えてはいたが、髪はまだ少し乱れたままで、目元にわずかな疲れが残っていた。

「……お二人とも、少しご一緒してもいいですか?」

「ああ」

 滝沢が頷き、隣に空けた場所へ桜が腰を下ろした。

「滝沢さん、ありがとうございました」丁寧に頭を下げる。「やっとあの時の気持ちに整理をつけることができたと思います」

 蛙の鳴き声が遠く、夜の終わりを知らせていた。

 さらに桜が口を開いた。

「そして⋯樹君がいなければ、私は……きっと今夜、ここにはいなかった」

 その言葉に、樹は少しだけ目を動かし、桜を見た。

 だが桜は、それ以上深くは言わず、視線は前を向いたままだった。

「……この一年で、私の周りには、術理を使える仲間が増えた。でもそれは、私が一人で築いてきたものじゃない。樹君が引き寄せてくれた人たち。あなたがいなければ、滝沢さんたちともきっと会えなかったと思う」

 滝沢がちらりと横目で彼女を見る。だが、何も言わない。

「前の華月村のとき、私は『自分がやらなければ』って、必死だった。でも今は違う。私の隣には、ちゃんと信じられる人たちがいる。……それがどれだけ違うことか、今日、改めて分かりました」

 桜の言葉には、照れも、ためらいもなかった。

 それは、戦いを経た人間が語る、ごくまっすぐな実感だった。

「……ありがとう、樹君」

 樹は軽くうなずき、「うん」とだけ返した。

 空が、ゆっくりと明るみを増していく。

 三人の間には、もう言葉はいらなかった。



 黎明。雲が白く軋み、棚田の水面に映った明星が薄紅に溶けはじめる。遠い雲間から光の矢が射し込み、夜露を帯びた畔に虹色の煌めきを散らした。五人は旅籠の門前で荷を整え、滝沢が涼やかに言う。

「峠を越えれば瑞京まで十日と少しだ」

 佐久間は無言で頷き、中原は「峠の茶屋の粥は絶品らしい」と冗談めかして笑う。桜は華月の墓所が在る方向へ振り返り、唇を結んで一礼した。山梔子くちなしの甘い香が一筋の風に乗り、樹たちの間を抜けていく。

 樹は桜の隣で微笑し、

「もう大丈夫だね」と囁いた。

「うん。一緒に進もう」

 朝日が山稜を黄金色に染めるなか、五つの影が北へ伸びていく。瑞京への街道はまだ遠い。それでも、樹の歩みは夜明けそのものより確かだった。

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