1-4 翠梁の夜
雲一つない夕焼けが、ゆるやかに紫の帳へ溶けていく。海風を孕んだ夜気が瓦屋根を撫で、翡翠色の瓦礫を金色に染め上げた後、名残惜しげに暗闇へと沈んでいった。
その昼と夜がせめぎ合う狭間の時刻――宵の口。桜と樹はようやく翠梁の中心街へたどり着き、朱塗りの扉に白い牡丹を掲げた旅籠『臥龍楼』に身を落ち着けた。街灯代わりの油紙の提灯が、湿り気を帯びた空気の中で淡く揺れ、石畳の上に朱と琥珀の揺らぎをこぼしている。すれ違う人々の足取りもまばらだ。市場を閉める露天商の笑い声と、遅い客を呼び込もうとする茶店の調子外れな笛の音が、夕餉の残り香と共に通りを漂っている――そののどかなざわめきが、まるで遠い昔の夢のようだ、と樹は思った。
案内を買って出た初老の女将は、ふくよかな手に灯籠を掲げ、滑らかな足取りで階段を上ってゆく。薄紅色の簪が夜灯りを受けて揺れ、結い上げられた銀髪に微かな虹を差した。二人が宛がわれたのは二階奥――隣り合う二つの客室だった。
「もう遅い時間だし、無理せず休んでね」
桜は樹を振り返り、柔らかく微笑んだ。衣の裾に滲んだ埃と血の斑点は、道中の苦難の痕跡を雄弁に物語っている。けれどもその声は澄んで揺らがず、異国の神官らしい威厳と、若い娘のあどけなさを同時に宿していた。樹は曖昧に頷き、桜が隣室へ消えるのを見送った。
扉が静かに閉じられると、廊下の明かりが細い一本の線となり、やがて足元で消える。樹の部屋は薄暗がりに包まれ、その静寂は耳を打って痛いほどだった。
木の蝶番がきしむ微音を立てながら扉を押し開くと、そこには簡素な土間と、ほのかに檜の香を残す上がり框があった。さらに奥へ目を向ければ、僅かに高く設えられた四畳半の畳敷きが闇の中に浮かび、窓をわたる潮風が、襖に吊された紙灯籠の炎を揺らしていた。壁は藍墨色に塗られ、流れるような花鳥図の墨線が夜の闇と交わり、一幅の水墨画のようだ。
樹はそっと段差に腰を落とした。すのこのように硬い木の床が尻に冷たく、指先に触れた畳の縁の布はざらりと粗かった。……本当に異世界なのだ――その質感がやけにはっきりと伝えてくる。
胸の奥で、記憶が波立つ。冷たい校舎の階段、窓枠にもたれて眺めた灰色の空、休み時間に交わしたとりとめのない会話。わずか半日前まで自分が呼吸していた現実が、遠い蜃気楼のように滲んでは壊れた。
あの世界では、今ごろどうなっているのだろう? 家族は?友人は?担任は?――自分の机が空席なのを見つけ、うっすらと眉をひそめ、そしてすぐに日常へ戻ってしまうのだろう。世界は誰一人欠けても回り続ける。真実を知る者はなく、覚えてくれる者もきっと僅かだ。
一方で、こちらの世界には桜がいる。神の声を聞く巫女にして、魔物をなぎ払う水の魔術師。どこまでも大人びた気配を纏いながら、一方で年相応の不安と優しさを隠し持つ彼女。……自分とは、月と灯火ほども違う。
樹は自嘲とも羨望ともつかぬ笑みをこぼし、小さく呟いた。
「何が『高み』だよ……」
彼女に向かって吐いたその言葉は、まるで毒矢のように自分へ返って来る。苦い羞恥と悔恨が喉の奥に絡み、肩をすくめた。――情けない。
背後で、したたるような時が過ぎる。灯籠の火が揺れ、すだれ越しの海鳴りが遠くでくぐもった。外の通りでは、行商人が仕事を終え、手押し車をきしませながら家路につく。湯屋へ急ぐ娘たちの笑い声が、路地の石壁に跳ね返り、切れ切れのこだまになって消えた。
在るはずの場所へ戻れない。帰る道も、迎える人もない。その思いは小さな毒針になって心を突き、やがて疲労と孤独が重しのようにまぶたを押し下げた。
*
空気がふっと揺れた。――扉を軽く叩く音。
コン、コン。
「樹君、入ってもいいかな」
張り詰めた静寂にそっと差し込まれる、桜の声音。深い夜を濾過したように淡い。それでいて、繊細な琴線を弾く張力があった。
「……どうぞ」
返答を口にするより早く、扉は静かに開いていた。蝋燭の光を背負って現れた桜の姿は、どこか月下の幻影のようだった。袖口についた乾いた血痕と砂埃の茶色い痕だけが、彼女が現実の中を生きている証だった。
桜は段差に腰を下ろした。ふと、革靴の尖った爪先が灯籠の火を反射してきらりと光る。
「草履じゃないんだね」
「最初はそうだった。でも、靴の方が歩きやすいから。……向こうの世界で学んだの。旅は、足を守ることが大事」
会話は短く、しかし確かに温度があった。桜が深く息を吸い、言葉を整え直す。
「改めてお礼を言います。樹君、アルタリスに来てくれて……ありがとう」
蝋燭の灯りが桜の瞳を濡らし、宝石のように揺らした。
「いや、俺の方こそ……いろいろ、ごめん。それに、これは自分のためでもあるんだ」
桜は小さく頷いた。その仕草が、聖職者の威厳と少女の可憐さを不思議な均衡で抱いていた。
「これからのことなんだけど……私は神託であなたを『見つけるように』だけ言われていた。だから、まずは瑞京の神殿に行こうと思うの」
「うん、分かった」
その言葉が結ばれた瞬間――。
ゴゴゴゴゴ……。
地の底がうめくような低い共鳴が襖を震わせた。次いで、夜気を破裂させるような轟音。遠くで上がる悲鳴――人の声と瓦礫の崩れる音が混ざりあい、漆黒の天幕を裂いた。
「まさか……!」
桜は窓際へ駆け寄る。月影に染まる庭を越え、町の東の空が血のような紅に染まっていた。巨大な影が、這うようにして地を覆い、うねり、うごめいている。
「樹君はここにいて!」
桜の言葉が走り去る風の鞭に変わり、廊下の暗闇に溶けてゆく。木の扉が閉じる音が、避雷針のように空気を震わせた。
一瞬の逡巡――しかし、樹の足は床を蹴っていた。行かなければ。その理由は言葉にならなかったが、胸の内で何かが燃えていた。
*
町は、地獄の坩堝だった。突き破られた防壁から溢れた魔物が、瓦礫を蹴散らし、家々を踏み潰し、逃げ惑う人々を薙ぎ払っていた。赤黒い影が月光の下をうごめき、炎と瓦礫が交ざり、空気は血と焦げた木片の臭いで満ちていた。
樹は逆流する人波を縫うようにして走った。泣き叫ぶ子どもを抱えてよろめく母親。荷車を捨てて逃げる行商人――多彩な絶望の表情が暗闇で凍りついていた。
そして――見た。
月下にそびえる角。巨躯の魔物。牛のような鼻面と、赤い瞳孔。腕に握られた斧の刃が、家屋の梁を叩き切る。獣たちは統制のない獣であるはずなのに、まるで見えざる軍師がいるかのように行動が洗練されていた。
踏み込んだ瞬間、足裏に柔らかな感触――ぬめり。
樹は震えが走った。転がる腕。虚ろな瞳。血潮が石畳の溝を染め、冷えた夜風で粘ついていた。
喉が震え、胃の底がよじれる。これが……死。あまりに近く、あまりに生々しい終わり。
桜の声が届く。彼女は瑞鋒を掲げ、水蛇のような奔流を繰り出していた。月光を抱いた水の刃が魔物の頭を貫き、破裂する血潮を洗い流す。
その姿は、神話に描かれた女神のようだった。美しく、強く、孤高で――その背に嫉妬さえ覚えた。
「俺だって……!」
瓦礫を拾い、魔物へ投げつける。石は軌道を逸れ、虚しく地を叩いた。その刹那、凶光が顔面をかすり、頬を裂いた。
痛み。血潮。
崩れ落ちる身体。怖い――逃げたい――でも。
視界の隅に、桜の横顔が見えた。振り下ろされる凶刃。彼女の時間が止まり、瞬きほどの間に終わろうとしていた。
死ぬ?桜が――?
心臓が爆ぜ、血が逆流した。
――いやだ!!
なにがどうなったのかは覚えていない。気付けば翠鋒を握り、斧を払い、魔物を切り刻んでいた。闇の中で閃く緑の刃。信じがたい速度。骨が砕ける音が腕を伝い、夜の空気を血の霧が染める。
桜が何か叫んでいるが、遥か遠くに感じる。動けない。体に力が入らない。
その瞬間――別の斧が迫る光を再び感じた。ここまでかと諦めかけた時、金属音が鳴り響き、斧は弾かれ、巨獣が切り伏せられた。墨のような影がひと閃し、地に転がる魔物の胴体。
樹の意識は、そこまでだった。
*
蝋燭の匂い。布団の柔らかな重み。遠くで湯を沸かす音。
「樹君!」
桜の潤んだ瞳が視界を満たした。樹は硬い枕から首を起こし、痛みで顔を歪める。頬と腕に包帯。微かな血の匂い。
その横で、逞しい体つきの大男が椅子に腰掛けていた。精悍な輪郭に、静かな光を宿した黒い瞳。
「まだ寝ていろ。大事には至っていないが、初陣でそれだけ動けば無理もない」
男は低い声で言った。
「……春川樹殿、と申したな。私は護政府・翠梁駐屯軍中隊長、滝沢慶周と申す。禍鬼――魔物の群れは我々が撃退した」
「ありがとうございます」
「礼には及ばぬ。いや、むしろこちらこそ礼を言わせてくれ。君が巫女さまを救ってくれた。本来、我々が命に替えても守るべきお方だ」
桜の目が潤む。言葉が喉で震え、消えかかる。
「……樹君、本当に無事でよかった」
泥にまみれ、涙と血をぬぐう彼女はそれでも美しい。――生きていてくれてよかった。
樹は頬を濡らす熱い滴に気付いた。誰かの存在をこんなにも大切に思ったのは、いつ以来だろう。
外では夜風が潮の匂いを運び、遠い波音が崩れた城壁にぶつかる鈍い響きを伝えていた。蝋燭の小さな炎が揺らぎ、静かな眠気が樹を包み込む。意識は闇へ溶けていった。