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ナヴィス -Navis-  作者: 夕凪 馨
第一章 邂逅
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1-3 町の中へ

 朝のかすみをまとった翠梁すいりょう大路おおじを、春川樹は遥川桜と並んで歩いていた。瓦屋根の連なる街並みに香ばしい茶の匂いが漂い、軒先のきさきの風鈴が涼しげに鳴る。大都市といえど、この時間帯は人影もまばらで、通りの石畳いしだたみに二人の足音だけが小気味よく響いている。



「桜さん、服装のことなんだけど」

「少し変かな?こっちでははかまがいつもの服なの。ミレアで見た服が気に入ったから、少し合わせてみたの」

 桜は袴に制服を合わせたような姿をしていた。

 袴の裾が朝日を受け、淡い朱色に透けて見える。

「私にはノエルという精霊が宿っているの。その力で多少の着替えや食べ物くらいは引き出せる。声は私にしか聞こえないけど」

 桜は照れ臭そうに笑う。袴のすそが揺れ、淡い花の香がふわりと樹の鼻先をかすめた。

「……今さら驚かないけど、便利な相棒だね、その精霊」

「ただ、ノエルが出した物は基本的に人に譲れない決まりなの。ごめんなさい」

「いや、貰おうなんて思ってないよ」

 樹は慌てて手を振った。

「あ、というか、一番聞きたかったのは、この『学ラン』って服、こっちじゃ浮かないかな?」

「翠梁は港町で、西洋の客人もごく稀に訪れるから大丈夫。多少の珍しさは誰も気にしない」

「精霊って何ができるの?」

「戦いの最中に気付きを与えてくれたり、体の動きを助けてくれることもある。今まで何度も助けられた」

 そう言いながら歩いていると、通りの向こうから来る人々の視線が一点に集中していることに樹は気付いた。「俺たち」に向けられているのではない。――桜に、である。



「も、もしや――遥川さまで……?」

 三十がらみの女が桜に近寄り、袖を滑らせるように合わせて深く頭を垂れた。

「はい」

 桜が微笑むと、女は感極まったように手を合わせた。

「神へのお仕え、ありがたく存じます。巫女さまのお祈りがあればこそ、我らは嵐と魔物の恐れをしのげます。どうかご加護を……」

 その声を合図に、通行人が一人、また一人と寄ってきては手を合わせる。小さな波紋がやがて渦となり、石畳は信徒の輪で埋まった。

「皆さんの平穏を心より祈っています」

 桜は両掌を胸の前で合わせ、穏やかな声で祝詞のように告げる。その様子はまるで朝の光を集めて放つ灯台のようだった。

 人だかりがいよいよ膨らむ気配に、桜は樹の手をそっと取った。「行こう」

 柔らかな掌の温もりを感じながら、樹は小走りに人波を抜けた。



 朱塗りの門に翡翠ひすいの獅子像が鎮座する翠梁政庁は、唐風の重厚さと海風うみかぜの柔らかさを兼ね備えていた。高く掲げられた青緑あおみどりはたが朝陽でなびき、瓦屋根の天辺てんぺんで金の鬼瓦おにがわらきらめく。

 桜は受付付近に控える役人に声をかけた。

「恐れ入ります。外国からの住民登録手続きをお願いしたいのですが」

 最初、役人は面倒事を避けるように眉をひそめたが、桜の横顔を認めた瞬間、全身が弓なりに折れ曲がった。

「は、遥川さま……っ!と、とんだ無礼を!戸籍課は三階にございます。すぐご案内いたします」

 桜は恐縮したように微笑み、樹とともに、磨き上げられた回廊かいろうを進む。行く先々で下級役人が姿勢を正し、深くこうべを垂れた。まるで春の花が一斉に揺れるように、人々の動きが桜の歩みに合わせて波立つ。



「こっちの世界じゃ、巫女みこってそんなに大事なのか?」

 樹は小声で尋ねた。

「嵐も魔物も、人の力だけでは対処できない。神の声を聞ける巫女は、絶望まで飲み込む夜明けの光なの」

 桜は静かに言う。

「俺たちの世界じゃ、嵐は気圧配置が原因で、魔物なんて寓話の中だけの存在だ。神の介入を感じる場面がそもそもない」

「でもこちらでは、空から災厄がこぼれ落ちることがある。町一つを飲み込む嵐、突然湧き出る魔物の軍勢⋯⋯。神を信じる事は、生き延びるための術でもある」

 樹は思わず足を止めた。「桜さんは、そんな恐ろしい現実を背負っているのに、どうしてそれほど穏やかなんだ?」

「――私が穏やかに見えるのは、祈りを信じているから、かな」

 桜はまっすぐ樹を見つめた。「そして、あなたみたいに未来を信じる人を見ると、私も強くなれるの」



 三階の戸籍課。帳面ちょうめんと木簡が整然と積まれ、墨の匂いが漂う。窓際の書記官が朱筆しゅひつを滑らせていたが、桜が近づくとすぐに筆を置き、深々と頭を下げる。

「巫女さま、ご用件を」

「この方の住民登録をお願いしたいの。遠方からの来客で名は……」

「春川樹、です」

 樹が一歩前へ出ると、書記官は視線すら向けぬまま言った。

「護衛の方はお下がりください。手続きは当庁職員が承ります」

 樹の胸を鋭い針が刺したようだった。自分の名を書こうとしているのに、まるで存在しないもののように扱われる。そして桜の前では誰もが深々と頭を下げる――その対比が、痛烈に心に突き刺さる。

 許可を得た書記官が長机の奥へと桜を呼び入れると、樹は仕方なく離れ、廊下の縁に腰を下ろした。高窓から差し込む光が白い漆喰壁しっくいかべにじむ。遠い鐘の音が階下からかすかに聞こえ、役人たちが紙束を運ぶ足音が石の床に反響する。

  桜は誰からも必要とされる。

 俺は⋯⋯何者にもなれていない。

 胸の奥で小さな火がくすぶり始める。羨望せんぼうか、嫉妬しっとか、あるいは悔しさか――判然としない感情が灰色の煙となり、のど元に貼りついた。



 ほどなくして桜が戻ってきた。手には薄い書状包みがあった。

「手続き、終わったよ。――樹君、これ」

 包みを開くと、手すきの和紙に優雅な筆跡で戸籍文言がしたためられている。ほとんど何が書いてあるかは分からなかったが、唯一、読み慣れた形で書かれた「春川樹」の三文字が、月下の湖面に映る星のようにくっきりと輝いていた。

「これがあなたの身分証。大切に持っていて」

 樹は深く息を吸い込み、紙の質感を確かめた。自分がこの世界に存在することを示す、たった一枚の証。その重みと、まだ何も成し遂げていない自分自身の軽さが不思議な対比を成し、胸の奥で密かに火種が灯るのを感じた。

「ありがとう、桜さん。――俺、もっと高みを目指してみせる」

 静かな誓いを口の中で転がしながら、樹は書状を胸元にそっとしまい込んだ。外では、遠い潮騒しおさいが春のように柔らかく聞こえていた。

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