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ナヴィス -Navis-  作者: 夕凪 馨
第一章 邂逅
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1-2 翠梁(すいりょう)

 目が慣れると、香辛料と蜜菓子みつがしの甘い匂いが鼻を打った。木と朱と瓦が重なり合う楼閣ろうかく石畳いしだたみに並ぶ夜店よみせ。西日が朱塗りのはり黄金色こがねいろに染めている。

「ようこそ翠梁すいりょうへ」

 少女は深く一礼し、かんざしを再び髪に挿す。

 樹は足元を確かめ、息を吐く。「⋯夢じゃない、らしいな」

「まずは事情をお話しします。ですが、人の往来で混雑していますから、茶屋に入りましょう」

 少女に導かれ、二人は路地裏の木造二階建ての茶屋に入った。格子戸こうしどの先に香ばしい茶と甘だれの匂い。くぬぎの香に似た炭が赤くき、店員が客に団子を勧めている。



 囲炉裏の脇、窓際の卓に向かい合って座る。

 店主が運んできた串団子と藍染あいぞめの湯呑みから湯気が立つ。樹は熱い茶をすすりながら、改めて少女を見る。

「申し遅れました。遥川桜はるかわ・さくらと申します」

「『はるかわ』?俺は春川樹はるかわ・いつき。まさか親戚?」

「そうなのですか?ちなみに、どんな字を書きますか?」

「季節の春に三本の川」

「なるほど字が違いますね。私は『遥かな川』と書いて遥川です」

「……君は異世界の人間、でいいのか?」

「『異世界』という言い方は確かに適切だと思います。アルタリス側の視点で言えば、ミレアは鏡像の世界。あなたの世界は私にとって、そして、私の世界はあなたにとっても、『彼方かなた』」

 樹は串から団子を抜きながら顔を曇らせる。「戻れるのか、俺」

「分かりません」

 ぴたりと茶屋の喧噪が遠のいたような沈黙。樹は団子を皿に戻し、眉を吊り上げる。

「勝手に連れてきて『分かりません』はないだろ!」

 桜はかすかに肩を震わせ目を伏せた。「その通りです……ですが、このままでは――」

 何かを言いかけて言葉を飲み込む。

「少し、話を聞いていただけますか?」

 樹は湯呑みを置き、頷く。「……聞こう」



 瑞京ずいきょうの空はいつも澄みきっていた。

 古くから続く神殿の屋敷に生まれた桜は、幼いころから「人としての誇り」を教えられてきた。言葉を選び、立ち居振る舞いを整え、誰に見られても恥じないように。慎ましく、正しく、そして、強く。

 祖母はよく言った。「知は心の光。品は人の橋。責任は神との契約だよ」

 その言葉が胸に深く刻まれ、桜の軸となった。

 神殿の娘として生まれ、巫女としての務めを果たす。それが自分の道だと、疑いなく信じていた。

 十五の歳、瑞鋒みずきが与えられた。艶やかな黒髪をまとめるための、水色の宝玉の付いた飾りかんざし──それが、自分に宿る精霊ノエルとの絆の証だった。瑞帝ずいてい陛下の勅令を受けた神殿での儀式、冷たい清水に足を浸して立ち尽くしたあの瞬間、桜は確かに何かが自分の中に入り込む感覚を得た。それは、外から押し寄せる力ではなく、むしろ奥底から呼応するように浮かび上がってくる、微かな気配だった。

 精霊ノエルは、いつも言葉を発するわけではない。しかし確かにそこにいる。祈りの時間に心を澄ませば、問いに答えるように意識の片隅に返ってくることがあった。

 訓練は苦しく、孤独だった。だが、桜は弱音を吐かなかった。その道を選んだのではない。与えられたのだとしても、選んで進む覚悟だけは自分のものだった。

 そして十六の年、ある満月の夜、神殿の奥殿で一人、祈りを捧げていた時──それは起こった。

 空間が静かに揺れたように思えた。次の瞬間、桜の耳に直接語りかけるような、深く、荘厳な声が響いた。


《時は満ちた》


 背筋が凍るような静けさの中、神の声が続く。


《貴殿に使命を与える。このままでは、世界は滅びる。魔物があふれ、地震や嵐が人々を襲う。年を追うごとに、その脅威は増している。時空が歪み、いずれ世界そのものが崩壊するだろう》


「私は……何をすればよいのですか?」

 口を開いた桜の声はかすれていた。


《『波長の合う者』を探せ。貴殿に宿る精霊が、その『波長』を感じ取る力を与える。その者は、貴殿自身が探さねばならぬ》


「……世界は広うございます。せめて、どのあたりかだけでも」

 懇願にも似た問い。だが、返ってきたのは意外な言葉だった。


《この世界だけではない》


「……アルタリスだけでは、ない?」


《そうだ。アルタリスによく似た、鏡像の世界──ミレアと呼ばれる世界がある》


「そこに……『波長の合う者』が?」


《貴殿自身で探さねばならない》


 その声は、それきり何も応じなくなった。いくら問いかけても、空間は沈黙を守った。

 翌朝、桜は旅立ちの支度を始めていた。家族に事情を伝えると、皆一様につらそうな表情をした。だが、祖母の「あなたが正しいと思うことをしなさい」という言葉が決め手になった。桜は旅立った。ただ使命に突き動かされるように。

 神託を偽りと疑う心はなかった。ただ、その先にある未来の重みに、押し潰されそうになるだけだった。

 それからの日々は、ただ歩き続ける時間だった。  和華国の町から町へ、村から村へ。三都──瑞京ずいきょう翠梁すいりょう錦陽きんよう──以外に大きな街はなく、道なき道を旅しながら、宿もない村では野宿もした。

 ノエルはときおり、誰かの近くで微かに光を灯すように波長の気配を伝えた。けれど──どれも違っていた。『似ている』ことはあっても、『同じ』ではない。自分の中に流れる何かと、完全に重なるものには、誰一人として出会えなかった。

 季節がひとめぐりしかけたころ、桜は翠梁と瑞京の間にある、「華月村はなつきむら」という山間の小さな集落にいた。

 その日、空がどこまでも曇っていたのを覚えている。突然、地を震わせる咆哮ほうこうが響いた。

 ──魔物だった。山の奥から、集団で押し寄せてくる。鋭い牙、巨大な爪、怒りと飢えを宿した目。

 共に旅していた仲間と懸命に戦った。桜も、水の術理を繰り出し、敵の動きを封じた。だが、圧倒的だった。

 そして、あの瞬間。

巫女みこさま……!あなたは……こんなところで死んではなりませぬ……!」

 誰かが、桜をかばって倒れた。また一人──また一人。神託を信じて、自分に付いてきた人々。それなのに、自分は何もできない。

 ──自分は、何のために旅をしてきたのだろう。

 恐怖も、怒りも、悲しみも通り越し、ただ、胸が痛かった。

 神殿の教えに背くように、桜は叫んだ。

「これ以上耐えられない!いったいどこにいるのですか!『波長の合う者』は!ミレアという世界はどこにあるのですか!」

 涙に濡れた視界の中、ふと、目の前に──空間が揺らぎ、光が集まり、青白い輪が現れた。

 それは、輪ではなかった。──穴だった。

 その向こうに、見たことのない景色が広がっていた。背の高い建物、動く鉄の箱、見知らぬ標識。

「ノエル……?」

 心の中で問いかけると、ノエルの意識がこちらに向く気配がした。

 ──これは、『向こう』だ。

「……ミレア?」

〈さようてごさまいます。アルタリスの鏡像きょうぞう、ミレアです〉

 その瞬間、桜は一歩、踏み出していた。誰も、送り出してはくれなかった。もう、守ってくれる人はいない。けれど、それでもいい。あの人たちの死を無駄にはしない。この手で未来を繋ぐために。

 桜は、一人、光の穴へと飛び込んだ。


 ──そこから、ミレアでの生活が始まった。

 最初は、見るものすべてが異質だった。音、匂い、建物、人の喧騒。それでも、ノエルを通じて、必要な言葉や情報は理解できた。術理は使えなかったが、ノエルとの会話はできた。食べ物や着替えも、多少ならノエルを通じて引き出せた。瑞京から持ち出した金品も換金し、最低限の生活は維持できた。

 ホテル、ネットカフェ、24時間営業の飲食店。冷たくも便利なこの世界で、桜はただ歩き続けた。

 そうして、ひと月。ある朝、ひとつの高校の門の前で、桜は立ち止まった。

 波長が呼んでいた。今まで感じたことのない、強い共鳴。それは明確に『ここだ』と告げていた。

 迷いはなかった。そのまま校舎に入り、教室の前に立つ。

 ──この教室で、間違いない。

 桜は、扉を開けた。



 語り終えた桜は、湯呑みに視線を落としたまま言う。

「⋯⋯あなたに義務はありません。ですが、私は、あなたでなければ世界を救えないと信じています」

 樹はしばし団子を弄び、深く息を吐いた。

「大きな声を出して悪かった。それに、こちらに来ることを決めたのは俺自身だ。もう少し、この世界のことを教えてくれないか」

 桜は小さく頷く。「…分かりました」

「ミレアが俺のいた世界、アルタリスがこの国の名前でいいのか?」

「国名は和華国。アルタリスは『この世界』そのもののことです」

「じゃあ『三都』というのは?」

「経済の翠梁すいりょう、政治の錦陽きんよう瑞帝ずいていがおわす伝統の町、瑞京ずいきょう。三つ合わせて『三都』と呼びます」

 樹は目を見開く。大坂・江戸・京都――先刻授業で聞いた三都の語が頭の中で重なった。

「まるで江戸時代の日本みたいだな」

「『エドジダイ』?」

「いや、後で説明するよ」

 不意に樹は笑った。

「忘れないうちに、一つお伝えしておかなくてはいけないことがあります。ノエル――精霊の存在は誰にも言わないでいただきたいのです。私の宝具ほうぐ瑞鋒みずきに宿る精霊を奪おうとする者がいないとは限りませんので」

「分かった」樹が答える。

「そして、これを」

 桜は改めて樹に棒状の装飾具を渡した。

翡翠ひすいすいに、きっさきと書いて、翠鋒すいほうといいます。きっと樹さまの力になります」

 樹は翠鋒すいほうを受け取り、そのひんやりした感触を確かめる。

「そしてもう一つ。私が受けた神託については、これも他言無用に願います」

「もんちろん、誰にも言ったりはしないし、言う人もいない。でもその神託ってのはそんなに大事なものなのか」

「神託は特定の者しか聞けません。それ故その内容は千金の価値を持つこともあるのです」

「そうか…分かった。気をつけるよ」

そう言うと樹は僅かに微笑み、「ところで遥川はるかわさん、敬語はもういいんじゃない? 同い年みたいだし。『いつきさま』じゃ、くすぐったい」と言った。

 桜はわずかに戸惑い、それでも微笑む。「……分かりました。慣れないけど努力しま……する、ね。。それと、紛らわしいから、『桜』でいいですよ」

「桜、さん。じゃあ俺もいつきで」

「樹、くん」

 二人は目を合わせ、そっとはにかんだ。、



 茶屋を出ると冬の日は傾き、瓦屋根が金色の光を宿していた。

「戸籍がない人は宿に泊まれない。まずは住民登録をしましょう」

 桜は淡く笑って歩き出した。赤い袴がふんわりとはためき、耳元の瑞鋒が淡い水色を反射して揺れた。

 樹は彼女の背を追いかけ深呼吸した。

 未知なる旅が、いま静かに幕を開けた。

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