1-2 翠梁(すいりょう)
目が慣れると、香辛料と蜜菓子の甘い匂いが鼻を打った。木と朱と瓦が重なり合う楼閣、石畳に並ぶ夜店。西日が朱塗りの梁を黄金色に染めている。
「ようこそ翠梁へ」
少女は深く一礼し、簪を再び髪に挿す。
樹は足元を確かめ、息を吐く。「⋯夢じゃない、らしいな」
「まずは事情をお話しします。ですが、人の往来で混雑していますから、茶屋に入りましょう」
少女に導かれ、二人は路地裏の木造二階建ての茶屋に入った。格子戸の先に香ばしい茶と甘だれの匂い。櫟の香に似た炭が赤く熾き、店員が客に団子を勧めている。
*
囲炉裏の脇、窓際の卓に向かい合って座る。
店主が運んできた串団子と藍染めの湯呑みから湯気が立つ。樹は熱い茶をすすりながら、改めて少女を見る。
「申し遅れました。遥川桜と申します」
「『はるかわ』?俺は春川樹。まさか親戚?」
「そうなのですか?ちなみに、どんな字を書きますか?」
「季節の春に三本の川」
「なるほど字が違いますね。私は『遥かな川』と書いて遥川です」
「……君は異世界の人間、でいいのか?」
「『異世界』という言い方は確かに適切だと思います。アルタリス側の視点で言えば、ミレアは鏡像の世界。あなたの世界は私にとって、そして、私の世界はあなたにとっても、『彼方』」
樹は串から団子を抜きながら顔を曇らせる。「戻れるのか、俺」
「分かりません」
ぴたりと茶屋の喧噪が遠のいたような沈黙。樹は団子を皿に戻し、眉を吊り上げる。
「勝手に連れてきて『分かりません』はないだろ!」
桜はかすかに肩を震わせ目を伏せた。「その通りです……ですが、このままでは――」
何かを言いかけて言葉を飲み込む。
「少し、話を聞いていただけますか?」
樹は湯呑みを置き、頷く。「……聞こう」
*
瑞京の空はいつも澄みきっていた。
古くから続く神殿の屋敷に生まれた桜は、幼いころから「人としての誇り」を教えられてきた。言葉を選び、立ち居振る舞いを整え、誰に見られても恥じないように。慎ましく、正しく、そして、強く。
祖母はよく言った。「知は心の光。品は人の橋。責任は神との契約だよ」
その言葉が胸に深く刻まれ、桜の軸となった。
神殿の娘として生まれ、巫女としての務めを果たす。それが自分の道だと、疑いなく信じていた。
十五の歳、瑞鋒が与えられた。艶やかな黒髪をまとめるための、水色の宝玉の付いた飾り簪──それが、自分に宿る精霊ノエルとの絆の証だった。瑞帝陛下の勅令を受けた神殿での儀式、冷たい清水に足を浸して立ち尽くしたあの瞬間、桜は確かに何かが自分の中に入り込む感覚を得た。それは、外から押し寄せる力ではなく、むしろ奥底から呼応するように浮かび上がってくる、微かな気配だった。
精霊ノエルは、いつも言葉を発するわけではない。しかし確かにそこにいる。祈りの時間に心を澄ませば、問いに答えるように意識の片隅に返ってくることがあった。
訓練は苦しく、孤独だった。だが、桜は弱音を吐かなかった。その道を選んだのではない。与えられたのだとしても、選んで進む覚悟だけは自分のものだった。
そして十六の年、ある満月の夜、神殿の奥殿で一人、祈りを捧げていた時──それは起こった。
空間が静かに揺れたように思えた。次の瞬間、桜の耳に直接語りかけるような、深く、荘厳な声が響いた。
《時は満ちた》
背筋が凍るような静けさの中、神の声が続く。
《貴殿に使命を与える。このままでは、世界は滅びる。魔物があふれ、地震や嵐が人々を襲う。年を追うごとに、その脅威は増している。時空が歪み、いずれ世界そのものが崩壊するだろう》
「私は……何をすればよいのですか?」
口を開いた桜の声はかすれていた。
《『波長の合う者』を探せ。貴殿に宿る精霊が、その『波長』を感じ取る力を与える。その者は、貴殿自身が探さねばならぬ》
「……世界は広うございます。せめて、どのあたりかだけでも」
懇願にも似た問い。だが、返ってきたのは意外な言葉だった。
《この世界だけではない》
「……アルタリスだけでは、ない?」
《そうだ。アルタリスによく似た、鏡像の世界──ミレアと呼ばれる世界がある》
「そこに……『波長の合う者』が?」
《貴殿自身で探さねばならない》
その声は、それきり何も応じなくなった。いくら問いかけても、空間は沈黙を守った。
翌朝、桜は旅立ちの支度を始めていた。家族に事情を伝えると、皆一様につらそうな表情をした。だが、祖母の「あなたが正しいと思うことをしなさい」という言葉が決め手になった。桜は旅立った。ただ使命に突き動かされるように。
神託を偽りと疑う心はなかった。ただ、その先にある未来の重みに、押し潰されそうになるだけだった。
それからの日々は、ただ歩き続ける時間だった。 和華国の町から町へ、村から村へ。三都──瑞京、翠梁、錦陽──以外に大きな街はなく、道なき道を旅しながら、宿もない村では野宿もした。
ノエルはときおり、誰かの近くで微かに光を灯すように波長の気配を伝えた。けれど──どれも違っていた。『似ている』ことはあっても、『同じ』ではない。自分の中に流れる何かと、完全に重なるものには、誰一人として出会えなかった。
季節がひとめぐりしかけたころ、桜は翠梁と瑞京の間にある、「華月村」という山間の小さな集落にいた。
その日、空がどこまでも曇っていたのを覚えている。突然、地を震わせる咆哮が響いた。
──魔物だった。山の奥から、集団で押し寄せてくる。鋭い牙、巨大な爪、怒りと飢えを宿した目。
共に旅していた仲間と懸命に戦った。桜も、水の術理を繰り出し、敵の動きを封じた。だが、圧倒的だった。
そして、あの瞬間。
「巫女さま……!あなたは……こんなところで死んではなりませぬ……!」
誰かが、桜をかばって倒れた。また一人──また一人。神託を信じて、自分に付いてきた人々。それなのに、自分は何もできない。
──自分は、何のために旅をしてきたのだろう。
恐怖も、怒りも、悲しみも通り越し、ただ、胸が痛かった。
神殿の教えに背くように、桜は叫んだ。
「これ以上耐えられない!いったいどこにいるのですか!『波長の合う者』は!ミレアという世界はどこにあるのですか!」
涙に濡れた視界の中、ふと、目の前に──空間が揺らぎ、光が集まり、青白い輪が現れた。
それは、輪ではなかった。──穴だった。
その向こうに、見たことのない景色が広がっていた。背の高い建物、動く鉄の箱、見知らぬ標識。
「ノエル……?」
心の中で問いかけると、ノエルの意識がこちらに向く気配がした。
──これは、『向こう』だ。
「……ミレア?」
〈さようてごさまいます。アルタリスの鏡像、ミレアです〉
その瞬間、桜は一歩、踏み出していた。誰も、送り出してはくれなかった。もう、守ってくれる人はいない。けれど、それでもいい。あの人たちの死を無駄にはしない。この手で未来を繋ぐために。
桜は、一人、光の穴へと飛び込んだ。
──そこから、ミレアでの生活が始まった。
最初は、見るものすべてが異質だった。音、匂い、建物、人の喧騒。それでも、ノエルを通じて、必要な言葉や情報は理解できた。術理は使えなかったが、ノエルとの会話はできた。食べ物や着替えも、多少ならノエルを通じて引き出せた。瑞京から持ち出した金品も換金し、最低限の生活は維持できた。
ホテル、ネットカフェ、24時間営業の飲食店。冷たくも便利なこの世界で、桜はただ歩き続けた。
そうして、ひと月。ある朝、ひとつの高校の門の前で、桜は立ち止まった。
波長が呼んでいた。今まで感じたことのない、強い共鳴。それは明確に『ここだ』と告げていた。
迷いはなかった。そのまま校舎に入り、教室の前に立つ。
──この教室で、間違いない。
桜は、扉を開けた。
*
語り終えた桜は、湯呑みに視線を落としたまま言う。
「⋯⋯あなたに義務はありません。ですが、私は、あなたでなければ世界を救えないと信じています」
樹はしばし団子を弄び、深く息を吐いた。
「大きな声を出して悪かった。それに、こちらに来ることを決めたのは俺自身だ。もう少し、この世界のことを教えてくれないか」
桜は小さく頷く。「…分かりました」
「ミレアが俺のいた世界、アルタリスがこの国の名前でいいのか?」
「国名は和華国。アルタリスは『この世界』そのもののことです」
「じゃあ『三都』というのは?」
「経済の翠梁、政治の錦陽、瑞帝がおわす伝統の町、瑞京。三つ合わせて『三都』と呼びます」
樹は目を見開く。大坂・江戸・京都――先刻授業で聞いた三都の語が頭の中で重なった。
「まるで江戸時代の日本みたいだな」
「『エドジダイ』?」
「いや、後で説明するよ」
不意に樹は笑った。
「忘れないうちに、一つお伝えしておかなくてはいけないことがあります。ノエル――精霊の存在は誰にも言わないでいただきたいのです。私の宝具・瑞鋒に宿る精霊を奪おうとする者がいないとは限りませんので」
「分かった」樹が答える。
「そして、これを」
桜は改めて樹に棒状の装飾具を渡した。
「翡翠の翠に、鋒と書いて、翠鋒といいます。きっと樹さまの力になります」
樹は翠鋒を受け取り、そのひんやりした感触を確かめる。
「そしてもう一つ。私が受けた神託については、これも他言無用に願います」
「もんちろん、誰にも言ったりはしないし、言う人もいない。でもその神託ってのはそんなに大事なものなのか」
「神託は特定の者しか聞けません。それ故その内容は千金の価値を持つこともあるのです」
「そうか…分かった。気をつけるよ」
そう言うと樹は僅かに微笑み、「ところで遥川さん、敬語はもういいんじゃない? 同い年みたいだし。『樹さま』じゃ、くすぐったい」と言った。
桜はわずかに戸惑い、それでも微笑む。「……分かりました。慣れないけど努力しま……する、ね。。それと、紛らわしいから、『桜』でいいですよ」
「桜、さん。じゃあ俺も樹で」
「樹、くん」
二人は目を合わせ、そっとはにかんだ。、
*
茶屋を出ると冬の日は傾き、瓦屋根が金色の光を宿していた。
「戸籍がない人は宿に泊まれない。まずは住民登録をしましょう」
桜は淡く笑って歩き出した。赤い袴がふんわりとはためき、耳元の瑞鋒が淡い水色を反射して揺れた。
樹は彼女の背を追いかけ深呼吸した。
未知なる旅が、いま静かに幕を開けた。