1-1 春川 樹
登校の足取りは、いつもと変わらず淡々としている。少し猫背で、スマホをポケットに入れたまま、イヤホンから流れるクラシックギターの音だけが、彼の朝にささやかな彩りを添えていた。
春川樹は私立青燿高校の校門をくぐった。何の変哲もない高校だ。正門脇の花壇に植えられたパンジーが風に揺れていた。けれど彼は、そういったものに視線を向けることはない。目線は前、足元に気をつけながら、ただまっすぐ校舎を目指す。誰かと挨拶を交わすこともなければ、声をかけられることもない。彼にとってそれは、当たり前になっていた。
教室のドアを開けると、すでに数人のクラスメートが席についていた。笑い声が飛び交うわけでもなく、数人が穏やかに談笑しているだけだ。それでも、そこに入っていける気はしなかった。
席は窓側の後ろから二番目。教室の出入り口から最も遠く、誰とも干渉しない位置。新学期の席替えの時、「できればここがいいな」と内心で思っていた場所に、偶然にもなった。その時は、ほんの少しだけ嬉しかった。けれど今では、それすらもう記憶の奥に沈みかけている。
席に着くと、鞄から教科書とノートを出し、何もすることがなければただ窓の外を見ている。校舎裏のグラウンドでは野球部が朝練をしているらしく、時折掛け声が聞こえてくる。
友達がいないわけではない。中学時代の友人や、昨年度のクラスメートは別のクラスにいる。だから廊下ですれ違えば軽く会釈もするし、昼休みに偶然会えば立ち話をすることもある。でも、「今のクラスでの自分」には、日常的に話す誰かがいない。
それが寂しくないかと聞かれれば、正直、寂しいと思うこともある。でも、自分が悪いのだと思っていた。初めのうちにもっと積極的に話しかければよかったのかもしれない。誰かの輪に自分から飛び込む勇気が少しでもあれば。けれどその一歩が、踏み出せない。
一度、頑張って話しかけたことがある。話題を考えて、声のトーンも自然にして。返ってきた返事は悪くはなかったが、それ以上が続かなかった。空回りしているような感覚。帰宅してから、布団にくるまりながら思い出して、自己嫌悪に陥った。
それでも、ずっと一人でいたいとは思っていない。誰かと深く関わることに憧れはある。むしろ、その憧れがあるからこそ、現実との距離が苦しかった。
自分は、特別でもなければ、面白い話ができるわけでもない。顔がいいわけでも、運動神経が抜群なわけでもない。何か一つ、秀でたものがあれば、それをきっかけに誰かと繋がれるんじゃないか。そんなことを時折考える。でも、そういう何かが自分にはない。
だから、せめて。そう、せめて「より高みの人間になりたい」と思うようになった。具体的に何かがあるわけではない。けれど、自分にしかない価値をいつか見つけたい。そうすれば、自分自身を心から誇れるようになるのではないか。そうすれば、自分でも自分のことを好きになれるのではないか。
放課後。今日も誰に呼ばれることもなく、教室を出る。部活には入っていない。興味のあることはあるが、なぜかその一歩が踏み出せないまま、時間だけが過ぎていった。
帰り道、スーパーの脇道を抜けて、小さな公園のベンチに座る。ここはあまり人が来ない穴場の場所で、風が通って気持ちがいい。スマホを取り出し、英語の勉強アプリを立ち上げる。「努力をしている自分」でいられる唯一の時間だった。
世界は広い。ネットを開けば、同世代でも驚くような才能や行動力を持つ人たちが山ほどいる。そういう人たちを羨ましいと思う一方で、焦燥感が胸を締め付ける。「自分はどう生きていけばいいのだろう」と。
「でも、まだ決まっていなくてもいいはずだ。今はまだ模索の途中」。大人たちはそう言うけれど、本当にそうなのかは分からない。
ただひとつ、分かっていることがある。何もせずに時間を無為に過ごすことが一番怖い。だから今日も、少しだけ前に進もうと思う。たとえ誰にも褒められなくても、誰にも見られなくても。
彼は、そうやって生きていた。桜に出会う、その日まで。
*
午後、初めの授業、日本史。
窓の外では早咲きの梅が固い蕾を揺らし、白い雲がかすめるように流れている。
何の変哲もない歴史だけはある私立の高校。二年B組の教室は、板書のチョークが黒板を擦る音と、プリントをめくる紙鳴りだけが静かに重なっていた。
「――江戸時代の日本は首都を一つに定められませんでした」
教師は教科書を指で叩き、淡々と続ける。
「経済の中心地・大坂、政治の中心地・江戸、そして天皇の住まう伝統の町・京都。この三つをまとめて『三都』と呼びます」
樹は頬杖をついて半分だけノートを取り、半分は上の空だった。
三都か。俺の毎日は、学校と家、二つの場所の往復、しかないな――。
そんな考えを遮るように、廊下から――女子の革靴としか思えない乾いたコツ、コツという足音が近づいてきた。というとは、土足だろうか。授業中の校舎としては、やや場違いな響き。教師も軽く眉を寄せた刹那、教室の戸が静かに開いた。
*
入口に立ったのは、一人の少女だった。
濃紺のブレザーの下から、白い着物の襟が見えていて、腰には赤い袴がきゅっと結ばれている。それは制服のようでもあり、どこか式典の装束のようでもあった。
足元には黒革のショートブーツ。現代的なその佇まいと、和装の重なりが、不思議な調和を成している。
黒髪は後ろで編み込みに結ばれ、耳の上には水色の宝石を抱いた金細工の簪がひときわ煌めいていた。
教室にいた誰もが言葉を失い、教師はチョークを握ったまま固まった。
少女は緊張した目で教室を見渡し、樹と目が合うとハッとした表情を見せた。
「失礼します」一礼すると教室に入ってきた。静かに教壇を横切り、まっすぐ樹の列へと向かう。教室の空気が張りつめる。
彼女は樹の机の前で立ち止まり、掌に収めていた短い棒状の装飾品――タッセルの付いた古風な金属製品――をそっと差し出した。翡翠の玉が根元で鈍く光っている。
「ずっと、あなたを探していました。お願いがあります。……ほんの少しだけ、お話させていただけませんか」
澄んだ声。けれどその頬は緊張に紅潮し、瞳は必死に揺れている。
状況が飲み込めず、樹は席に座ったまま固まった。クラスメートたちのざわめきが波のように押し寄せる。「どこの制服?」「何?あいつの彼女?」「痴話喧嘩?」
「君っ、他校の生徒か?用があるなら職員室を通し――」
教師の言葉に、少女はすっと頭を下げた。
「申し訳ありません。ですが……今でなければ…」
そしてもう一度、樹に向き直る。
「お願いです。せめて廊下で、話をさせてください…」
ざわつく教室の視線が集まる中、少女は樹が受け取らなかった装飾品を持ち、踵を返して歩き出す。
まるで「ついてきてほしい」とだけ訴えるように。
樹は何も言えずにいた。けれど、なぜか、その背を追って立ち上がっていた。
クラスの一部からは、どっと野次混じりの笑いが起こった。教師も咄嗟に制止の声をかけかけたが、すでに樹は廊下へと出ていた。
ドアが閉まる直前、教室の空気が、ひときわざわめいた。
*
廊下の窓からは、冬の光が斜めに差し込んでいる。人通りもない、静かな空間だった。
少女は数歩先で立ち止まり、振り返って頭を下げた。
「……ごめんなさい。迷惑をかけたことは分かっています。けれど……会った瞬間、確信しました。あなただ、と」
「……俺が何だっていうんだ?なんで俺なんだよ」
「まだ私にも分かりません。ただ、あなたを見た瞬間に、『波長』が重なったのを感じました。これは説明ではなく、感覚です」
少女は髪の簪にそっと手を添える。水色の宝玉がわずかに光を放つと、空間の一点が微かに軋み、青白い輪が浮かび上がる。向こうには瓦屋根と朱塗りの門、異なる世界の空気が覗いていた。
「…これが、私の世界――アルタリスです」
樹は言葉を失う。目の前の空間が、確かに揺らぎ、裂けている。
「放っておけば、この世界は、私の故郷は、崩れてしまいます。時間が、空間が、少しずつ壊れていくんです。私と一緒に、付いてきてほしいのです」
少女の声は震えていた。けれど、強さを含んでいる。
「…それでも、あなたに義務はありません。お願いするしか、ないのです」
樹はしばらく、言葉も動きもなかった。
この光景が現実なのか、自分の妄想なのかすら分からなかった。でも、目の前に立つ少女の真剣な表情だけが、やけにリアルだった。
「……そんな話を信じろって言われても、なぁ」
思わず口にしたその言葉に、少女は静かに頷いた。
「です、よね。無理もありません……ですが」
その目には、強引さも高圧さもなかった。ただ、ひたすらに必死だった。
樹はふと、教室を振り返る。
戻って、何事もなかったかのように席につく。それもできる。気まずさは残るが、言い訳すれば何とかなる。でも……目の前のこの『異物』は、無視できないほどに現実だった。
「…君の世界が滅んでしまう?」
樹の問いに、少女はわずかに目を伏せた。
「……はい。そして…いずれ、恐らく、あなたの世界も」
この世界も滅ぶ…。いやいや、そんなの信じられるか。もしそうだとしても俺には何の義務もないはずだ。この子の世界がどうなろうと、さらい言えば俺の世界がどうなろうと、俺のせいじゃない。
そもそもこの少女は本当は「危ない人」なのでは?俺に幻覚を見せて、何か騙そうとしているのでは?
戸惑いや猜疑心が樹を包み込む。
しかし、同時に燃えるような好奇心。
樹は目を閉じ、ひとつ息を吸い込む。
「……分かった。行く」
静かに、しかし、はっきりとそう言った。なぜこの時この決断をしたのか分からない。「新しい何か」の魅力に抗えなかったのかもしれない。
次の瞬間、樹は光の輪へと一歩、踏み出していた。
少女は「ありがとう」と呟くと、彼の後を追うように歩き出す。
二人は、光の中へと姿を消した。