1-S 始まりの日
白い天井を、レノスはじっと見つめていた。
消毒薬のにおい。蛍光灯の微かな唸り。外はまだ夜の帳が下りきらず、病院の窓硝子は青く濁っていた。
隣のベッドにいる妻は、目を閉じて静かに息をしていた。
その胸に浮き沈みする命の重さが、彼には痛々しかった。
「やめよう」
震える声で、レノスは言った。
「君の体じゃ、出産は──」
妻はゆっくりと目を開け、首を横に振った。
「この子は、生まれたいの。私には分かる」
かすかな声だったが、彼女の意思は揺らがなかった。
レノスは何も言い返せなかった。泣きたいような、逃げ出したいような気持ちを飲み込みながら、ただその手を握った。
それが、最後だった。
産声が響いたとき、世界が光に包まれたような気がした。
小さな命が、しわくちゃの手を宙に伸ばし、まだ何も知らぬままに泣いていた。
「元気な女の子です」
看護師が笑顔で差し出したタオルの中、彼女は確かにそこにいた。
レノスは思わず手を伸ばし、腕の中に娘を受け取った。
「セラ……」
その名は、妻が決めていた名前だった。意味は「心の平穏」。彼女の希望のすべてが込められていた。
その時、背後で別の足音が近づいた。
「……申し上げにくいのですが……奥さまは……」
その言葉の先を、レノスは聞かなかった。
頭の中で、何かが崩れていく音だけがした。
娘の小さな泣き声が、レノスの胸の奥に、音もなく染み込んでいく。
「……すまない」
彼はそう呟くと、娘の額にそっと唇を当てた。
その温もりは、小さくて、確かで、壊れそうで──それでも、生きていた。
「お前のために、俺は生きる。俺は……」
レノスは言葉を探し、ただ胸に抱きしめる。
遠く、夜明けの光が、病室のカーテンの隙間から差し込んでいた。