2-4 影狼(かげろう)
宿泊施設の入口の兵士に声を掛け、門の外を散歩してきたいと告げると、兵士は「構いませんが、日没とともに門は閉めますので、それまでにお戻りください」と言った。
練兵用の槍を抱えた兵士はまだ若く、桜の眼差しに圧倒されたかのように背を正した。
門から少し離れた街道脇の原っぱに、桜はぺたりと座り込んだ。隣に座ってとばかりに、隣の地面をポンポンと叩く。それに従って樹は座る。
日に傾いた午後の風は心地よく樹の心を撫でた。
桜はきょろきょろと周囲を見渡してから口を開いた。
「滝沢さんたちのことなんだけど……全ては話さないほうがいいと思う」
「どうして?とても良くしてくれているけど」
樹は草を抜き取り、指で裂きながら問いかける。
「私は瑞帝府の人間、滝沢さんたちは護政府の兵士なの」
「瑞帝府と護政府の間に確執があったりするわけか」
「名目上、瑞帝陛下が『神託によって』護政府の棟梁たる太守を任命することになってる。でも実際は、瑞帝府は護政府の言いなりなの。」
言葉の端々に、組織の大きさがもたらす淀んだ澱が滲む。
「まさに、江戸時代みたいだな」
樹は歴史の授業を思い出し、熱の残らないため息を吐いた。
「うん、確かに和華国はミレアの江戸時代の日本に似ている」
「何事も護政府の許可がなければ動けない、か。じゃあ、俺のことも」
「たぶん。護政府の許可が要る。今ごろ瑞京にある外務使に掛け合ってるはず」
一瞬風が吹き抜けた。そして、少しの沈黙。草が波を打つ。
「樹君は、どうしてアルタリスに来てくれたの?」
「自分を変えたかったから、かな。」
「自分を変える?」
「そう。俺は、誰からも必要とされていない。何者にもなれていない。」
「私は必要とした」
その一言が夜露よりも柔らかく落ちた。
「だから嬉しかった。でも、本当に必要とされるに値する人間になりたいんだ。」
「私たち、似ているのかも」
「だとしたら嬉しいかな。桜さんは誰からも必要とされてるんだから。……あ、これは、嫉妬とか皮肉とかじゃなくて…」
ふふっと少し笑って桜は答える。「分かってるよ。樹君はそんな人じゃない。樹君はいつも『高み』を目指している。そうでしょ?」
樹はカーッと顔に血が上ってくるのを感じた。「その言葉は…忘れてくれ!」
「すごくかっこいい言葉と思ったんだけどな」
「からかわないでくれ」
桜はまたそっと笑う。「でも樹君は私の命の恩人。それだけは確かだよ。ありがとう」
それを聞いて樹も答える。「いや、こちらこそ、桜さんは必死に看病してくれた。あり…」
言い終わらないうちに、被せるように強い風が吹き、草が一斉に伏せた。
桜が不意に後ろを振り返る。
「伏せて!」
樹をかばうように桜が前に出る。
桜の胸に飛んできた矢が突き刺さった。
……ように見えた。しかし飛んできた矢はその場に落ちた。矢じりが付いておらず、代わりに丸い団子のようなものがついていた。
「桜さん!大丈夫か?!」
樹は声を荒げ、矢を蹴り飛ばす。
桜は「うっ」と一瞬うめき声を上げだが、目立った外傷はなかったようだ。
「だ、大丈夫。何ともないよ」
桜は目の前に落ちている矢を見ている。
「これは……」ハッとして叫ぶ。「離れて!これは、術理具!」
しかし遅かった。「団子」から煙のようなものが出てきて二人を覆った。
樹は意識を失う直前、瑞京の城壁の上に、風にたなびくような細く黒い影がひとつ、静かに立っているのを視界の端に捉えた。
*
「樹君!樹君!」
樹は桜の声で目が覚めた。
「寝て、いた?」
「そうみたい。私もさっき目が覚めたばかり」
あたりは既に薄暗くなっていて、瑞京の町のほうは、都会の明かりがほんのりと空を照らしている。霧が地表すれすれに漂い、草の先で淡く光っていた。
「誰が何のために?」ハッとして樹は城壁を見やる。「さっきあそこに黒い影が」
この暗がり具合を見るに、その言葉が無駄なことはすぐに分かった。だいぶ時間がたってしまっている。
「目的はたぶん、あれだね」桜が城壁を指差す。日没を過ぎたため、門が閉ざされている。
「俺たちを締め出すことが目的?」
「自ら手を下さずに、私たちを葬り去りたいのかも」
そう言ったさくらの視線の先には、青く光った目が宙に浮いていた。
「あれは……影狼だね。少し大きな狼。基本的に群れないけど…」
宙に浮いた目はその奥にもあった。しかもそれは一つや二つではなかった。
「やっぱりそう都合よくはいかないか」覚悟した声で桜が呟く。
「とにかく、町へ走ろう!」樹が答える。
二人は後ろに気をつけながら城門へ走る。
桜は振り返り、水の術理を放つ。一番近くにいた影狼の足が水に包まれ転倒する。それにぶつかり、後続の影狼たちも行く手を阻まれる。
そこからさらに後続の影狼が転倒した影狼を飛び越え、こちらに突進してくる。
「桜!走って!」
樹は瞬間的に翠鋒から刃を実体化させ、影狼が目の前で着地するところを下から斬り上げる。
再び樹は城壁へと走る。
二人は並んで走り、城門に到達する。
桜が分厚い鉄で作られた扉を叩く。
「誰かいますか!!開けてください!!」
しかし返事はない。
「こうなったら、上に上るしかないな。でも10メートル以上あるな。何か使えそうな術理はないか?」
「上水龍なら使えるかも。地下水を爆発させて間欠泉のように上昇させるの。でももともと攻撃用の術理だから…」
「分かった。何とかする。何とかなる。たぶん」
「分かった。これを」 と言って桜はノエルから引き出した縄を樹に手渡した。
そうしている間にも樹がには迫りくる影狼の群れの姿が見えていた。
「よし、時間がない。撃ってくれ」
桜は無言で頷くと、瑞鋒を持つ手に力を込める。瑞鋒の宝玉の光が強くなる。
次の瞬間、樹の足元の地面がゴゴゴゴと音を立てる。
「今だ!」樹が自らを鼓舞するように叫び、思念を込めた斬撃を地面に向かって放つ。間欠泉のような青く輝く水流と、樹の術理がぶつかる。その反動で樹自身が跳ね上がる。思いっきり手を伸ばし、左手で城壁の縁を掴む。翠鋒を胸元に押し込み、両手で城壁の上に這い上がる。
急いで縄を城壁の出っ張った部分に結び、下へと垂らす。
「桜!登ってこれるか?!」
「大丈夫!術理で筋肉を強化すればなんとか」
その時、先頭にいた影狼が桜に飛びかかった。
樹は、翠鋒を握り直して、その影狼目がけて城壁の上から飛び降りる。
着地寸前に上から影狼に斬撃を加える。影狼は真っ二つになり、周囲に血しぶきが飛び散る。樹はとっさに受け身を取りその場に転がる。
「大丈夫か?!」
「ありがとう。私は大丈夫」
「先に上がっててくれ」
「でも…」
「いいから早く!」
黙って頷くと、桜は何かを呟き念じ、縄を這い上がっていく。
「さあ来い!」
見れば20頭を超える影狼が樹に睨みを利かせ、同心円状に群がっていた。
次の瞬間、左側にいた個体が唸り声を上げながら飛びかかった。それを皮切りに周囲の影狼も一斉に跳びかかる。
「うおおおおおおあおーー」
樹は片っ端から斬り伏せていく。7匹ほど斬り倒した直後、左肩に一匹が齧り付いた。うめき声を上げる樹。それを振りほどいてまた斬り捨てる。しかしそのダメージから動きが鈍くなる。
その隙を影狼たちは見逃さなかった、何かに指示されるかのように、左右交互に襲いかかり、揺さぶりをかける。全く怯むことがない。
「樹君!」
「いいから!君はとにかく上に上がってくれ!上がったら援護射撃を頼む!」
「分かった!」
あまりに多くの影狼が襲いかかり、斬り漏れが多くなる。上半身だけでなく、足にも齧りつく個体が増えてきた。
桜が登り切るまでまだ耐えねばならない。しかし、もう持ちそうにない。どうすれば……。
意識が朦朧としかけた時、それが聞こえた。
〈円形に爆ぜる光を念じよ〉
「え?」
〈円形に光る緑の玉が爆ぜることを想像せよ〉
「誰だ?」
〈これはお前にしか聞こえない声だ。まずは念じよ。必ず切り抜けられる〉
「分かった」
目を閉じる。今いるこの周辺に緑の球形の光る玉を想像した。そして、それが……
「爆ぜる!!」言葉とともに目を見開く。
その間にも三匹の影狼の刃が腕と足に齧りつき、樹の血液がほとばしっていたが、その影狼もろとも、緑の光の玉に包まれた。そして、爆発した。
大きな光に包まれ、周囲にいた影狼、全てが一瞬で蒸発した。
呆然とする樹に声が語りかける。
〈これがお前の力だ〉
誰だ?今度は心で念じた。向こうの声が樹にしか届かないならば、これで十分だと感じたからだ。
〈我が名はノエラ。お前に宿る精霊と言えば分かるか?〉
桜のノエルのような?
〈そうだ。我はいつでも応えるわけではない。だが、できる限りお前を助けよう〉
「樹君!樹君!」
桜の声で我に返る。
「樹君、大丈夫?!」
気が付けば桜は隣にいた。
「なぜ、降りてきた?!」
「周りを見て」
樹を中心に、周囲20メートルほどの地面が、円形にえぐられていた。影狼の姿は微塵もなかった。
「これ、俺がやったのか?」
「そう。樹君、どんどん強くなってる。何か変化があった?」
「精霊と名乗る者の声が聞こえた」
「え?」
「ノエラ、確かにそう言っていた」
桜は驚いて呆気に取られた。
「…やっぱり、樹君は不思議な力が宿っている。巫女でもないのに。私と波長が同じなのも関係しているのかも」
桜はなおも何かを考えて黙り込む。
「とにかく、まずは上に行こう」
城壁の上に登ると、桜は樹に術理治癒術をかけた。みるみるうちに傷口がふさがり、見た目には元通りになった。
「どう?」
「大丈夫みたいだ。ありがとう。禍鬼の時と違って、本当にすぐに回復した。俺の思念が成長しているせいかもしれない」
一瞬強い風が吹き抜ける。
風が吹き抜けた先を見やると瑞京の町並みが見えた。所々が明るく淡い光を放ち、平和そのものだった。
「城壁の中と外でこうも違うんだな」
「うん。城壁にも術理がかけられてて、普通、魔物は中まで入ってこれない」
「それにしても……俺たちを嵌めた奴は誰なんだ。しかも何のために。やっぱり俺たち命を狙われているのかな」
「うん、これからは一層用心しないと」桜は少し申し訳なさそうな顔をして続ける。「ごめんなさい!私が外に出ようなんて行ったから」
「君は悪くない。何か理由があったんだろう?」
「さっき、私の部屋で話そうとした時、ノエルが教えてくれたの。聞かれてる、って」
「うん、ならなおさらだ」
「…ありがとう。ところで……」桜が何か言いにくそうな顔をしている。「なんか……ズルい」
「え?何が?」わけが分からず、樹はぽかんとしている。
「どさくさに紛れて、『さくら』って呼んだ」
途端に樹は上気し、顔が真っ赤になるのを感じた。
「そ、そうだったっけ?」
「私も『いつき』って呼んでいい?」
「う、うん、いいよ」
「いつき」
「は、はい」
桜はふふふと笑い、瑞京の淡く輝く町並みを見やった。その横顔は、今日も美しかった。