35,リーリエ視点
ケンさんが、たった一人で、荒野へと旅立って、行ってしまった。
ドルゴも、ボルガさんも、ガスも、それぞれの仕事に戻っていく。
村の入り口に、一人、取り残された私は、彼が消えていった街道の先を、いつまでも見つめていた。
寂しい。
怖い。
今すぐにでも、追いかけて、その服の裾を掴んで、引き留めたい。
そんな、子供のような感情が、胸の奥から、何度も、何度も、込み上げてくる。
(でも……)
私は、自分の胸に、そっと手を当てた。
最後に、彼が、私を強く抱きしめてくれた時の、温もりが、まだ、ここに残っている。
(ケンさんは、約束してくれた。『必ず、帰ってくる』って。……だから)
私が、ここで、ただ待っているだけじゃダメだ。
ケンさんが、外の世界で、私たちの未来のために戦ってくれている。
なら、私も、ここで、戦わなきゃ。
私が、ずっと、目を背け続けてきた、私自身の、心と。
私は、踵を返し、村の中へと歩き出す。
向かう先は、決まっていた。
村を見下ろす、小高い丘。
そこに、ひっそりと佇む、古びた石造りの礼拝堂。
村の誰もが、まるで「存在しないもの」のように、その存在を無視し続けてきた場所。
私自身も、なぜだか、ずっと、目を背けてきた場所。
一歩、また一歩と、礼拝堂に続く、草むした坂道を登る。
すると、どうだろう。
頭の芯が、ずきり、と、万力で締め付けられるように、痛み始めた。
(行ってはダメ)
(見てはダメ)
(思い出しちゃ、ダメ)
心の中の、知らない誰かが、必死に、私に叫んでいる。
足が、鉛のように重くなる。一歩、進むごとに、吐き気にも似た、強い抵抗感が、私を襲う。
あまりの苦しさに、その場にうずくまりそうになる。
もう、やめてしまいたい。
今まで通り、何も知らない、ただの村長の娘代理として、生きていたい。
でも、その度に、ケンの、あの真剣な眼差しが、脳裏に蘇る。
『あんたは、もう一人じゃない。俺がいる』
彼の言葉が、彼の温もりが、私の、折れそうな心を、内側から、支えてくれる。
「……う、くっ……!」
私は、歯を食いしばり、震える足で、最後の一歩を踏み出した。
ついに、礼拝堂の、あの重い木の扉の前に、たどり着く。
私が、震える手を、その古びた扉に、そっと、触れさせた、その瞬間。
頭の中に、いくつもの映像が、激しい光と共に、フラッシュバックした。
――優しく笑う、皺の刻まれた目元。
――薬草の、苦い匂い。
――ベッドのそばで、必死に祈る、幼い私の、泣き声。
「……っ!」
激しい頭痛と、記憶の奔流に、私は、思わず、その場に膝をついた。
怖い。
思い出すのが、怖い。
でも、思い出さなきゃ。私が、目を背けている、大切な何かを。
(ケンさんは、信じてくれた。私のことも、私が見ていない、何か、のことも……!)
私は、全ての勇気を振り絞って、その扉を、ギィ、と、ゆっくりと、押し開けた。
扉の隙間から、薄暗い堂内へと、一筋の光が差し込む。
埃っぽい、懐かしい匂い。
そして、その光の中に、私は、見た。
奥の部屋の、扉の隙間から、もれている、一つの光を。
淡く、そして、どこか見覚えのある、金色の光。
(あの光は……何? 温かくて……とても、悲しい光……)
私は、まだ、その光の正体を知らない。
それが、私自身が、何年も、何年も、無意識のうちに、放ち続けていた、治癒魔法の光であることにも、まだ気づいていない。
それでも。
私は、一歩、確かに、前に進んだのだ。
ケンさんが帰ってくる、その日までに、本当の自分を取り戻すために。
私の、もう一つの戦いが、今、静かに始まった。
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