34,旅立ち
スープを飲み干した俺は、その足で、リーリエの元へと向かった。
彼女は、執務室で、村の収支報告書とにらめっこをしていた。俺の姿を見ると、ほっとしたように、そして、心配そうに駆け寄ってくる。
「ケンさん! よかった、少しは、休めましたか……?」
「ああ。……リーリエ、話がある」
俺の、いつになく真剣な声に、彼女は息を呑んだ。
俺は、彼女の目を、まっすぐに見つめて告げる。
「少し、旅に出る」
「え……?」
リーリエの瞳が、驚きに見開かれた。
「た、旅に……? どうして、ですか!? あまりに、急すぎます! 何も、聞いていません……!」
「ああ、すまない。だが、もう決めたんだ」
「で、でも、橋のことも、村のことも……!」
「私、何か、してしまいましたか……?」
彼女の声が、泣きそうに震える。その瞳が、不安そうに揺れていた。
違う。あんたは、何も悪くない。悪いのは、全部……。
俺は、込み上げてくる感情を、奥歯で、ぐっと噛み殺した。
今、ここで、本当のことは言えない。言えば、彼女の心が壊れてしまう。
「ケンさん、行かないで……! お願いです!」
俺の腕に、彼女の小さな手が、必死に、すがりついてくる。
その、か細い感触に、俺の決意が、揺らぎそうになる。
ダメだ。俺は、行かなければならない。
彼女を、救うために。
俺は、そんな彼女の身体を、衝動のままに、強く、引き寄せた。
そして、必死に、抱きしめた。
「わっ……!?」
俺の腕の中で、リーリエの身体が、びくりと、小さく跳ねる。
俺が彼女を強く抱きしめた瞬間、ビリッ、と、俺たちの周りの空気が、静電気のように、わずかに震えたような、奇妙な感覚があった。
俺は、彼女の耳元で、言い聞かせるように、何度も、繰り返した。
「理由はいえない。だが、必ず、戻ってくる。無事に、帰ってくるから。だから、信じて待っていてくれ」
腕の中のリーリエは、最初は、抵抗するように、俺の胸を、か細い力で押し返していた。
しかし、彼女の身体から、ふと、力が抜けた。
まるで、何かに気づいたかのように。
彼女は、俺の胸に顔をうずめたまま、くぐもった声で、呟いた。
「……なんだか、胸のあたりが、ざわざわして……気持ち、悪い……です……。でも……」
彼女は、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、涙で濡れていたが、先ほどまでの、ただのパニックとは、違う色をしていた。
深い、深い、湖の底を覗き込むような、不思議な色。
「……ケンさんは、私を……ううん、私たちを、救おうとしてくれてるんですね」
彼女は、なぜだか分からないが、はっきりと、そう言った。
俺の旅の目的を、直感で、理解したかのように。
もしかして、リーリエ自身の術式に、綻びが生まれたのか?
「……理由は、分かりません。でも、ケンさんが、そうしなければならない、というなら……」
彼女は、俺の胸から、そっと身を離すと、涙を拭い、そして、凛とした顔で、俺を見上げた。
「……分かりました。待ちます。ケンさんが、必ず帰ってくると、信じていますから」
その言葉は、俺にとって、何よりも力強い、最高の餞だった。
◇
翌朝。
俺は、最低限の荷物だけを背負い、村の入り口に立っていた。
そこには、リーリエだけでなく、話を聞いたドルゴ、ボルガ、そしてガスも、見送りに来てくれていた。
「……死ぬんじゃねえぞ、ケン」
ドルゴが、ぶっきらぼうに、しかし、心のこもったナイフを手渡してくれる。
「貴様のいない間に、街道の工事くらいは、進めておいてやる。ガスが通りにくいってうるさかったかからな。……せいぜい、無駄な時間を食わんことだな」
ボルガが、相変わらずの皮肉を言いながらも、その目には、かすかな信頼の色が宿っていた。
「ケンさん、これ……!」
ガスが、森で採れる、最高の携帯食料を、山のように差し出す。
そして、最後に、リーリエが、一歩、前に出た。
彼女は、何も言わずに、ただ、俺の無事を祈るように、その瞳で、じっと、俺を見つめている。
俺は、そんな頼もしい仲間たちに、力強く頷いてみせた。
「ああ。――行ってくる」
俺は、踵を返し、一人、荒野へと歩き出す。
振り返ることは、しない。
彼女が、そして、皆が、信じて待っていてくれるのだから。
俺の背後で、リーリエが、自分の胸に、そっと手を当てていたのを、俺は知らない。
彼女の、自分自身と向き合うための、もう一つの戦いが、その瞬間、始まっていたことにも、まだ、気づかずに。
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