29,二人だけの秘密
クラウスとの最初の交易が成功し、村は、これまでにないほどの祝賀ムードに包まれていた。
広場の中央では、大きな焚き火がパチパチと音を立て、その周りで、村人たちが、クラウスがもたらした珍しい酒や干し肉を手に、歌い、踊っている。
「ケンさん! こっちで一杯どうですかい!」
「ケンさんのおかげだ、本当にありがとう!」
村人たちが、代わる代わる俺に酒を注ぎ、感謝の言葉をくれる。
俺は、笑顔でそれに応えながらも、心のどこかが、冷たく醒めているのを感じていた。
クラウスがもたらした、王都の噂。
『無能なおっさん』。
その言葉が、ずっと頭の中で反響している。
(皆が、笑っている。村の未来が、今日、確かに一歩、前に進んだ。なのに、俺だけが、自分の足元すら、おぼつかない)
俺は、喧騒から逃れるように、そっとその場を抜け出した。
◇
向かった先は、村の中央にある、古井戸。
この村に来て、俺が最初に再生させた、全ての始まりの場所だ。
俺は、夜の静寂の中、月明かりに照らされた水面を、じっと覗き込む。
そこに映っているのは、やはり、ここ数年、鏡を見るたびに見慣れてきたはずの、三十代後半の男の顔ではなかった。
見慣れない、しかし、記憶の奥底では知っている、二十代前半の頃の、若々しい俺自身の顔。
(一体、何がどうなってるんだ? 俺は、この村に来た時から、ずっとこの姿だったのか? なのに、なぜ俺は今まで気づかなかった……?)
思考が、混乱の渦に飲み込まれそうになる。
俺は、自分の最強の武器に、最後の望みを託した。
この、理解不能な現象を、解析するために。
「――【構造解析】」
俺は、水面に映る自分自身に、スキルを発動させる。
だが――。
(……なんだ、これは……!?)
俺の視界は、いつものように青いワイヤーフレームに変わることはなく、ただ、ノイズの混じった光の霞のように、ぼやけるだけだった。
まるで、太陽を直視しようとした時のように、焦点が合わず、何も読み取れない。
(ダメだ。自分のことは、解析できないのか。俺のスキルは、他人や物には機能しても、俺自身には!)
自分の身体の謎に、自らの最強の武器が通用しない。
その事実に、俺が静かに打ちのめされていた、その時だった。
「ケンさん……?」
背後から、心配そうな、優しい声がした。
リーリエだった。
「やはり、ここにいらしたのですね。宴の席から、ずっとお顔が優れなかったので……」
「……ああ。少し、考え事をな」
「クラウスさんから、噂の話を聞いたから、ですか?」
彼女の、気遣わしげな瞳。
俺は、意を決した。
この村で、唯一、全てを話せる相手。彼女になら……。
「リーリエ。あんたには、正直に話しておく」
俺は、ゆっくりと、自分の身に起きている、あまりに大きな矛盾を、彼女に打ち明けた。
俺の心の中の記憶が三十七歳のままであること。
そして、この身体が、見た目通りの二十代であるらしい、ということを。
さらに、俺がその、噂のおっさんだということを。
リーリエは、驚きながらも、ただ、黙って俺の告白を聞いていた。
そして、全てを聞き終えた後、彼女は、俺の手を、そっと、両手で包み込んだ。
その手は、小さく、そして、とても温かかった。
「そうだったのですね。お一人で、ずっと、そんなことを。ごめんなさい、私、何も気づかずに」
「いや、あんたが謝ることじゃない。俺自身、この前まで気づかなかったんだからな」
彼女は、同情や憐れみではない、ただ、俺の抱える途方もない孤独に、寄り添うように言った。
「大丈夫です。いつか、きっと、謎は解けます。それまで、私も一緒に、その謎を背負いますから」
その温かい言葉と、手のぬくもりに、俺は、この世界に来て初めて、心の底から救われたような気がした。
俺は、もう、一人じゃない。
「……ありがとう、リーリエ」
それが、今の俺に言える、精一杯の言葉だった。
二人の間には、月明かりの下、穏やかで、しかし、これまでとは違う、確かな絆が生まれていた。
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