25,石を積む者たち
ボルガが工房を去った翌日から、俺たちの「石の橋」の建設は、静かに始まった。
最高の頭脳と技術を失った現場は、困難を極めた。
俺が即席で描き直した設計図は、ボルガの芸術的なそれに比べれば、子供の落書きのようなものだ。
(ボルガさんがいれば、半分の時間で、三倍は美しい橋ができたんだろう。だが、いないものは仕方がない。俺たちは、俺たちのできることを、やるだけだ)
幸い、最高の「材料」だけは、この土地に残されていた。
ボルガが、かつて、来る日も来る日も、ただ一人で山から切り出し、磨き上げた、完璧な石材の数々。
俺たちは、その彼が残した遺産を使わせてもらうことにした。
◇
その日の作業が終わり、村人たちが帰路についた後も、俺は一人、ボルガの工房へと足を運んでいた。それが、俺の新しい日課になった。
灯りの消えた、静まり返った工房。俺は、その閉ざされた分厚い扉に向かって、静かに語りかけた。
「ボルガさん。今日から、石橋の建設を始めた。あんたが切り出した、完璧な石を使ってな」
返事はない。
俺は、その日描いた簡易的な設計図を、扉の前にそっと置いて、その場を去った。
◇
次の日の夜も、俺は工房を訪れた。
扉の前に置いたはずの設計図は、なくなっていた。
俺は、昨日と同じように、扉の向こうにいるであろう男に向かって語りかける。
「ボルガさん。俺は、あんたの気持ちが、少しだけ分かる気がする」
中から、何の反応もない。だが、俺は続けた。
「あんたが求めるのは、完璧で、永遠のものだ。自分の全てを懸けて、後世に遺る、ただ一つの『芸術』を創りたい。……それは、技術者として、途方もなく、気高い目標だ。俺は、それを馬鹿にするつもりはない」
俺は、そこで一度、言葉を切った。
「だが、ボルガさん。俺には、目の前で助けを求めている人たちがいる。この橋がなければ、この村は死ぬんだ。あんたなら、どうする? 最高の芸術家であるあんたなら、その気高い理想と、目の前の命と、どう向き合うんだ?」
「…………くだらん」
扉の向こうから、ようやく、それだけの言葉が返ってきた。
だが、俺には、その声に、ほんの少しの迷いが含まれているように聞こえた。
◇
三日目の夜。
俺は、また工房の前にいた。
今度は、新しい設計図を手にしていた。橋の中央、アーチの要石に関する、どうしても解決できない問題点だ。
「ボルガさん。アーチの構造で、壁にぶつかった」
俺は、扉の向こうに語りかける。
「俺の計算じゃ、ここの要石にかかる力は、ただの石材じゃ絶対に耐えられない。だが、ここを分厚くすれば、あんたがこだわっていた、あの流れるような美しいアーチのラインが、完全に崩れてしまう」
俺は、問題箇所を記した設計図を、扉の前に置いた。
「最高の芸術家であるあんたにしか、この問題は解けない。美しさと、強度。この二つを、あんたならどうやって両立させる? ……もし、答えを思いついたら、教えてほしい」
その夜は、それだけを告げて、工房を去った。
「ケンさん……あれ」
ガスが、丘の上を指さした。
その先には、腕を組み、仁王立ちで、じっとこちらの作業を見つめるボルガの姿があった。
彼は、それから毎日、同じ時間に、同じ場所に現れた。
ただ、何も言わずに、俺たちの仕事を見下ろしている。
その顔は、苦々しく、そしてどこか、羨ましそうにも見えた。
◇
俺たちの仕事は、決して完璧ではなかった。
だが、そこには、ボルガが王都で手掛けてきた「作品」にはないものが、確かに存在した。
「そーれ、引け!」「あと少しだ、頑張れ!」
石を運ぶ若者たちの、力強い掛け声。
「あんたたち、腹が減っては戦はできんよ! さあ、たくさんお食べ!」
昼になれば、村の女たちが、笑顔で温かいスープを運んでくる。
完璧な素材でもなければ、完璧な設計図(ボルガの理想)でもない。
それでも、彼らは、自分たちの未来のために、目を輝かせ、汗を流し、楽しそうに石を積んでいた。
ボルガが切り出した、あの完璧な石を、村の連中は、まるで宝物のように、一つ一つ、丁寧に扱っている。
丘の上のボルガは、その光景を、何を思って見ているのだろうか。
「美しいのは、素材や設計図だけか……?」
「あの、一点の曇りもない笑顔で石を運ぶ若者の姿は、俺が求めていた『完璧』とは、違うのか……?」
彼の心の中で、長年彼を縛り付けてきた美学が、大きく揺らぎ始めていることに、まだ誰も気づいてはいなかった。
◇
そして、運命の日がやってきた。
橋の基礎となる、最も重要な土台の石を設置する日だった。
村の若者の中で、最も力のあるレオが、仲間たちと息を合わせ、巨大な石を吊り上げる。
「……よし、ゆっくり下ろせ!」
俺が指示を飛ばすが、彼らは、どうしても石の角度を合わせることができない。
ほんの数ミリのズレ。だが、そのズレが、橋全体の強度に、致命的な影響を与える。
「違う、そこじゃない!」
俺が叫ぼうとした、その時だった。
「――違う、素人がッ!! 傷物にする気か!」
丘の上から、雷のような怒声が響き渡った。
見ると、ボルガが、鬼のような形相で、崖を駆け下りてくる。
彼は、あっけにとられるレオたちを突き飛ばすと、自ら吊り上げられた石の下に入った。
「その角度では、力が斜めに逃げるだろうが! 設計の基礎も知らんのか!」
ボルガは、怒鳴りながらも、その手は、驚くほど優しく、そして正確に、石の位置を微調整していく。
それは、まるで、気難しい芸術家が、愛しい作品に触れるかのような手つきだった。
ドン、と。
重く、そして確かな音を立てて、土台石は、あるべき場所へと、完璧に収まった。
工房に、しん、とした静寂が訪れる。
ボルガは、まだ何か悪態をつこうとして、しかし、何も言えずに、ただ、そこに立ち尽くしていた。
俺は、ゆっくりと、彼の元へ歩み寄った。
ボルガは、俺の顔を見ようともしない。
ただ、俺の持っていた設計図の石板をひったくると、地面に叩きつけるように置いた。
そして、別の炭を手に取り、俺の描いた線を、力強く修正していく。
「……小僧。貴様の単純な設計図では、ここのアーチの強度が足りん」
彼は、ぶっきらぼうに、地面に視線を落としたまま言った。
「描き直す。――手伝え」
俺は、その言葉に、全ての想いが詰まっているのを感じた。
頑固で、不器用で、どうしようもなく仕事好きな、最高の仲間が。
俺たちの「現場」に、帰ってきた。
俺は、満面の笑みで、力強く頷いた。
駆け足になりすぎて、ボルガの内面が、うまく描けなかった。
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