弱弱しい心が乾燥していればよかったのに。
「どうして、そんなに勝手なこと言えるんですか」
「……勝手?」
きょとんとかしげる首の角度は、どうすればよく見えるかを熟知しているようなあざとさがあった。
首の角度に合わせて、ボブカットは嫌味なくらいにさらさらと揺れる。
何人目だろう、この角度を目にするのは。
……それから、このあざとさに魅入られるのは。
ため息がこぼれる。こぼそうと思ってこぼせているのならまだよかった。勝手に出てしまうものだから本当に嫌になる。
呆れからじゃあなく、嘆息のようなため息なのが本当にいけない。
「ね、わたしは、貴方が好き。ね。時雨」
同性だからこそ気づくのかもしれない。
こんなのに騙されるのは異性はおろかだ。異性人は愚かだ。
「……だから、それが勝手だと言っているんです」
口にできた言葉はそこそこの火力を秘めていた。秘めさせることができたと思う。多分。
「どうして? 私が誰を好きになろうと、誰を嫌いになろうと、それは私の自由でしょ?」
けれど、にっこり自信に満ちて言う表情を見るに、どうやらこの火力は足りないらしい。
ふんわりかおるシトラスの香りは昔から変わらない彼女のにおい。
あんまり吸い込むと毒されそうで、ほのかに怖いにおいだった。
「……ええ」
――主張は間違っていないのだ。誰を好きになろうと、誰を嫌いになろうと、それはどうということではない。とやかく言うものではない。
本人だけに許された感情のたづなをほかの人が引くべきではない。
ただ、それを受け入れるかどうかは別の話。
私が、それを受け入れないとしてもそれはそれで尊重されてしかるべきだ。たぶん。知らないけど。
「それとも、わたしのこと、嫌い?」
ああ、ずるい。ずるい微笑みだ。
傷ついたふりとか、臆病な顔とかをしているならよかった。
それならまだ分かった。わかって、対応できたと思う。
でも、そんな自信満々の笑みで言うような台詞じゃあないでしょうに。
いつまでも愛されて当然みたいな姿で、いう台詞じゃないでしょうに。
「――どうして、そんなに勝手なのですか」
当然に、声は震える。
「私はその勝手がわからない。素直で、正直に、貴方を愛しているの。今この一瞬を、愛して生きているの。それが勝手?」
「……」
「……」
「勝手、です。貴方が振っておきながら、どうしていまさら……」
「でも、遅いことなんてないでしょ? 何をはじめるにも、遅いことなんてきっとない」
ゆびさきが、わたしの頬に触れる。
暖かい。血も通っていないようなひとなのに。
「あなたが終わらせた話ですよ、何で、そんな、当たり前のように」
「当たり前だからよ。好きなことは好きなまま。おかしなことかしら」
「わたしには、おかしく、見えます」
「ね、なら、聞かせてよ。そのおかしさを。そうして一緒におかしいねって笑いましょ?」
「その言葉のひとつひとつが、おかしいんです」
「おかしい」
「はい、とても」
「どこがかしら」
「裏切ったのはあなたなのに、その裏切りが許されるような顔をしているところが」
ひゅっと喉がなった。この言葉を口にするのだって、なんだか一苦労だった。口にしてしまえば大したことはないのに、口にするまではひどい侮辱のようで、困っていた。
単なる、事実なだけなのに。今だって冷や汗がやまない気がする。口にしてしまえば大したことはないのに。口にしてしまえば大したことはないのに。
たとえばこれで断絶したとして、それが正しい関係性だというのに。
もうすでに触れ合うような関係ではないのだから、ギロチンの刃のような言葉を振り下ろしたとしても何等の問題はない。
ないのだよ、私。ないんだ。
「それは、きっと、乗っている船の違いね。どれだけしっかりとした土壌の上に立っているという認識の違い。そうでしょ?」
「……え」
あまりにも平然としているから、言葉が呑み込めなかった。
そこそこな重さで拳を振るったはずなのに、全く効いていないような
「貴方は、きっともっとちゃんとした土壌の上に立っていると思っているの。そういえば、ずっとそうだったかもしれないわ。
安定した生活。約束された将来。さすがに全部を信じているほどかわいくはなくなったみたいだけど、きっと今でもそうなのね」
「どういうこと」
「ね、聞かせて。次の瞬間に崩れるかもしれないのに、どうしていま、一番の幸せを掴まないの?」
「……崩れる、保証なんてないじゃない」
崩れる保証なんてない。かもしれないでいうなら、ずっとずっと今の状況が続くと思う方が可能性が高い。今までだっておおよそ今の状況の延長線上で推移してきた。
だから、これからもきっとそう。これからもきっとそうなら、きっとそうであるべき立ち居振る舞いをするべきだ。
これからもそばにいてほしいひとには、信頼の言葉で返すべきだ。
だというのに、この夏鈴は、そうしなかった。
刹那的な幸せを崇拝して、私の欲しい言葉を返さなかった。
私の言葉に、私の欲しい言葉を返さなかった。「それとも、わたしのこと、嫌い?」に対して、一言でいいから安心をくれればよかったのに。
そんなものを分け与えることすら億劫と言わんばかりに、他の人へと乗り換えていった。
だから、私は夏鈴に厳しく当たってしかるべきで、彼女と絶対的な距離をとるべきなのに。
「それがかわいらしくてたまらないの。ね。また付き合いましょ。飽きたら捨てるくせに? なんて目をしてるみたいだけど、簡単よ、飽きさせなければいいでしょう? あなたが、それを望むのなら」
この怪物の前にひれ伏すには私だって、十分に愚かだった。