楽しい野外演習 -3-
夕食も終わり、後片付け終わり、一先ず参加者は思い思いの時間を過ごしている間、伽里奈はパイ生地を練る準備をしていた。これは明日の朝のミートパイとアップルパイ用だ。もう一品としてはオニオングラタンスープを作る予定になっているが、これは料理班に指示をするので、早朝の話だ。
「おい、何か手伝うことはないか?」
何人かいる隊長格はレイナードとミーティングをしているから、時間を持て余していたアンナマリーが伽里奈の所にやって来た。
実際のところ、初心者のアンナマリーに出来る事など何も無いけれど、今日は色々とフォローをしてくれたから、少しくらいは何か手伝いたい。
「じゃあさ、パイ生地と夜間警戒の人向けのお茶を作るから水が必要なんだ。一緒に川まで汲みに行こう」
「そのくらいならお安い御用だ」
伽里奈とアンナマリーはそれぞれが桶を1つずつ持ち、すぐ側の川まで行った。
「暗いし石で足場が悪いから転ばないようにね」
河原にはどこかから流されてきた小石が敷き詰められていて歩きにくい。自分は慣れたモノだが、慣れていないであろうアンナマリーに注意を促して、川の水をすくうと、作業場に戻る。
「うわっ!」
自分の後方を歩くアンナマリーが悲鳴を上げたので、振り向いたら転んでいた。桶はすぐ側に転がっていたが、幸いなことに殆ど水には濡れていない。
「あーあ、もう大丈夫?」
とりあえず助け起こそうとするが
「いつっ!」
と足の痛みを訴えて立ち上がれないようだ。左足首辺りを手で押さえている
「大丈夫かな」
痛むであろう部分を触った伽里奈は、驚くほど慣れた手つきでブーツを脱がせた。
「な、こいつ!」
姿は女だが、伽里奈は男。その男に急にブーツを脱がされてアンナマリーは反射的に右足で伽里奈の顔面に蹴りを入れ、続けて入れようとしたもう一発はあっさり掴まれた。
「ごめんね、でも腫れちゃったら脱がしにくくなっちゃうからさー」
蹴られたにもかかわらず伽里奈は全く動じることも無く冷静に患部を確認した。蹴ってしまったアンナマリーもつられて見ると、まだ腫れてはいないが、徐々に赤くなってきている。
「足って、ちょっと動かせる?」
「痛いが、なんとか」
「なら骨折じゃないね。捻って捻挫かな、医療担当の神官さんに見せるから、ちょっと連れてくねー」
伽里奈は脱がせたブーツをアンナマリーに渡して、抱え上げる。本日三人目のお姫様抱っこ状態だ。
「わ、こいつ、私は歩けるって!」
男に抱きかかえられたという恥ずかしさから暴れようとするアンナマリーだったが
「ごめんね。ちゃんとボクが見ていればよかったのに。とりあえず一発だけは貰っておいたよ」
いつも以上に近くにある伽里奈の顔が、見たこともないくらいに真剣な表情だったから、アンナマリーはピタリと暴れるのを止めた。
「まあ大丈夫かな。演習にトラブルはつきものだし、トラブルが起きる事は前提にされているもんだよ。いつもと違う状況下で、下の人も上の人も、それぞれの立場でテーマってモノがあるからさ、それとどう向き合うかってことも訓練だよ」
すぐにいつもの顔に戻って自分を軽々と抱えて運んでいく伽里奈に対し、アンナマリーは申し訳ない気持ちで一杯になった。
自分が手伝うとか言い出さなければこんな事にはならなかったのに。もうちょっと自分が足下を見ていればよかったのに。全く悪気なんかなかったのにビックリして蹴ってしまったのに。そもそも伽里奈が住む世界とは違うこのラシーン大陸に来て貰っているのに。それなのに伽里奈は全てを自分のせいにしてしまっている事が申し訳なくて、アンナマリーは腕の中で小さくなって、ただただ黙ってしまった。
蹴られたことに怒ってくれればまだ良かったのに、ワザと貰ったとか言われたら何の声も掛けられない。
ちょっとだけ顔を上げて、蹴ってしまったであろう部分を見ると無事だ。鼻血とかも出ていない。
「どうしたの?」
「な、なんでもない」
足に目をやると明らかに腫れてきている。多分今ブーツを脱がそうとしたら大変な事になっているだろう。本当に迅速な判断だった。
「さてさて、なるべく早く処置して貰おう。完成度は低いとはいえ、イリーナから伝わってるといいんだけど」
医療用のテントの中には、ギャバン教の神官であるフロイトが、怪我人もなく、特に何もやることもないので、聖騎士イリーナとアリシアが信仰するオリエンス教の本を読んでいた。冷蔵魔法はダメだったけれど、これはちょっと期待していいのだろうか。
「すみません、負傷者発生です」
「おおキミはカリナ君と、アンナマリーじゃないか。どうした?」
やっと仕事か、とフロイトは本を机に置いた。
「ボクが油断しちゃって、アンナマリーを見ていなかったから河原で転んじゃって」
「いや、それは私が」
「いいからいいから。左足を捻挫していると思いますので、ちょっとここに置かせて貰いますよ」
「ああ、診ようじゃないか」
伽里奈はアンナマリーをすぐ側にあった医療用の折りたたみベッドに置いた。
「あ」
伽里奈の手つきはとても大事なモノを置くようで、そして捻挫した左足首に負担がかからないように、最後まで手を添えてくれていた。
―お、男なのに…。
自分が悪いのに、ここまで伽里奈にやらせてしまったこともあって、もう素直にするしかないと決めた。
「これは回復魔法を掛けて、湿布を用意しよう。だが明日の演習への参加は中止だな」
「そ、そうですか…」
アンナマリーはその言葉に肩を落としてしまった。折角伽里奈に来て貰ったのに、自分の不注意でこの結果では申し訳がない。
「イリーナ、さんから何かその、患部治療用の治癒魔法は広まっていないんですか?」
冒険中には魔術だけでなく神聖魔法の研究もやったから、それで治癒魔法も損傷の種類に応じてちょっとカスタマイズした魔法を作ったのだが、イリーナから伝わっていないのだろうか。さっき本を読んでいたのだから、それがあれば朝には直るはずだ。
「オリエンス教には確かに症状によって強く作用する治癒魔法があると聞くが、なにせイリーナ殿も、それを作ったアリシア殿もオリエンス教徒だから、我等ギャバン神官には対応しておらぬのだ」
「あー…」
そういえば当時は他教団のことはあまり意識していなかったから、イリーナから他の教団に伝わるわけがない。そもそも神聖魔法を新たに開発するという事自体が珍しく、これは魔導士でもあったアリシアならではの発想なのだ。
基本的には初級者から使える【治癒】は外傷を治す事を目的としているので、筋肉やら筋の内部損傷については効果が薄い。なので、このフロイトは【治癒】と湿布を併用して、なおかつ、明日はあまり無理をさせないようにと考えている。上級魔法となる【修復】になれば欠損も含む肉体の異常全てに対応出来るのだが、それが出来るのなら最初からやっている。伽里奈がこっそり【修復】をかけるとか、この段階ではもうあり得ない。
「え、えーとじゃあ」
「ちょと、どうしたんだい?」
オリビアがテントに顔を出した。医療テントから聞いた声がするので、確認に来たのだ。
「アンナマリー君が足を捻挫してしまってね」
あれから更に時間が経って、足はパンパンに腫れ上がってしまっている。とりあえず骨折ではないのは解るが、オリビア的にも明日は見学かな、と思うほどだ。
「あのですね、通常治癒魔法の一節を、今からボクが書いたとおりに変えて下さい。それで治癒の性質が変化しますから、患部に押し込んで下さい」
「んん、どういう事だ、キミ?」
「いいですか」
症状説明のメモ書き用の、手頃なサイズの黒板があったので、ギャバン教に対応した術式を書いていく。
これ以上悪目立ちしたくないが、初めての野外演習に臨んでいるアンナマリーに嫌な思い出を残したくはない。折角やる気になっているのだから、最後まで予定をこなして貰って、河原で転んだことくらい笑い話にして欲しい。
「この節を変えることでケガではなく、筋肉や筋等の肉体内部の損傷に対応するように変化します。打撲なんかにも効きます」
「本当かね?」
フロイトは書き替えられた呪文を確認すると、何度かそれを口ずさんだ。
「聖紋としてはこうなります」
もう黒板がなかったので、腰につけていた剣の鞘で地面に、神聖魔法を形作る聖なる紋様を描く。
「ほう、なるほど、ここが変化するわけだな。解るぞ」
「通常は手から発せられる光を患部に照射するのですが、この場合は光球が発生しますので、それをアンナマリーの捻挫しているところに押し込むようなイメージで行います」
「な、何なんだ」
戦の神ギャバンの信者として、アンナマリーは神官用魔法の知識はある。家を出る前にせめてということで、治癒魔法は使えるように仕込まれたが、伽里奈が通常とは違う魔法を使うように神官であるフロイトに指示をしているので、ちょっと不安になって来た。
「大丈夫だよ。魔法の特性を変えて、肉体内部のダメージに絞った効き方にしてるだけだから」
「カリナ君はどこかの神殿で修行でもしたのかね?」
「いえいえ、以前入居していた人に教わったんです。ボク自身は神官でも何でもないです」
「それにしては、ふむ、しかし…」
地球はこちらよりも医療技術が進んでいるので、医学を反映させた神聖魔法が当たり前にあって、軍に協力している関係から、かなり早い段階で霞沙羅から教えて貰っている。まだこちら側の誰かに使用したわけではないけれど、女神であるエリアスには確認をして貰っているから、間違いなく作動するという自信はある。
「どうした? 何かあったか」
今度はレイナードがテントにやって来た。
「ああ部隊長、アンナマリーが捻挫をしちまってね。それで治癒魔法を掛けようとしているんだが」
「いやあ部隊長、彼が聞いたことも無い呪文を提案するんだが、これがなかなか良さそうでね」
「彼って、カリナ君のことか?」
「いえ、その、入居者に教えて貰っているんですけど、ボク自身は使えなくて、けどアンナマリーがこんな状態ですから、少しでも早く直して、明日も演習に参加して貰いたくて」
「フロイトさん的にはいけますかね?」
「私もそこまで高位の神官ではないが、カリナ君の提案に乗っても良いと考えている。それに所詮は治癒魔法だ。アンナマリー君にダメージが入るわけではない」
「治療の対象が外傷ではなくて、筋肉への過負荷に対するモノになるように変形させた魔法です」
レイナードもアリシアが、通常とは違う効き方をする治癒魔法を作っていたことは知っている。結局開発者本人がいなくなってしまい、イリーナなどのオリエンス教にしか残されていない。けれどこのベテランの神官がいけそうだと言っているのなら、やってみる価値はあるように思える。
「私もカリナを信じたいと思います」
伽里奈の話しを聞いていると、どうも神聖魔法にも詳しいようだ。
先日霞沙羅に剣の相手をして貰った時に、あの館の管理人は生半可な能力じゃ務まらないぜ、と言われた事を思い出した。現に酔っぱらい2人を軽々と投げ飛ばしてしまったし、アリシアと一緒にいたはずのヒルダですら見たことのない冷蔵魔法を使用している事から、魔術にも長けていると思う。
それに伽里奈は今日一日、自分に色々と気を使ってくれているので、信頼している。
「解った。フロイトさん、やってみせてくれ」
「ええ、解りました」
フロイトは治癒魔法を開始する。伽里奈に改変された祈りの言葉を唱えると、魔法が発動。掌に光球が発生する。
「それをアンナの足首に押し込むようにして下さい」
フロイトは光球を腫れている箇所に押し込むと、そのまま足首の中に入っていく。光球が納まった箇所はほんのりと発光しているので、患部に定着したようだ。
「腫れがひくのには時間がかかりますけど、症状自体はすぐに治まりますよ」
「アンナマリー君、とりあえずどんな感じだ?」
「何とも言えませんが、痛みはかなりひいてます」
見た目は腫れたままだが、痛みは大夫和らいでいる。腫れたままだから足は動かしにくいが、ちょっと動かしてみても大して痛みは感じない。
「初めての魔法だからとりあえず一晩ゆっくりする事だね。明日の朝にまた状態を見ようじゃないか」
「交代の見張りはしなくてもいいのですか?」
「この状況でもやりたいのかい?」
折角参加したので、演習のスケジュールは全部こなしたい。だって伽里奈も、他の住民達もアンナマリーの為に色々と力を貸してくれているのだ。
「三交代制の最後の朝方ではどうですか? 大事を取って見回りは避けるとしても、起きてもらってまだ暗い森の雰囲気を感じるだけでもいい経験だと思うんですよ」
さっきからずっと自分の支援をしてくれる伽里奈に、アンナマリーは感謝する。
「ヒルダさんだって冒険初めは虫一匹にビクビクしていたじゃないですか。同じお嬢様育ちですし、今は戦い自体が少ない世の中ですけど、こういうのに慣れるのって早いほうがいいと思うんですよね。ボクは朝食の準備があって朝が早いですし、一緒にいてあげることも出来ますよ」
「ヒルダの話を出されると何とも反論しにくいね」
アリシアとしては最初の頃のヒルダにはかなり手を焼かされた経験がある。それに、昔なじみだけあってレイナードもヒルダの悪いところを知っているから、アリシアが連れてきてしばらくぶりに会った時に改善していたことは覚えている。
そこの所は冒険譚にも書かれている内容なので、突っ込まれてしまうと夫としては苦笑いするしかないし、伽里奈の言っていることに間違いは無い。
「だったらアタシも順番を変わろうか?」
隊長として、オリビアも賛同してくれる。
「調整が出来るなら、そうしてくれると助かる。やはり経験するのは早いほうがいい」
伽里奈の提案で見張りを経験することが出来るようになって、アンナマリーは心底ホッとした。自分の情けないミスで折角の演習がフイになるとかそれは嫌だ。
そう、尊敬するヒルダだって最初の頃はアリシアに迷惑をかけたそうじゃないか。野外で虫とか確かに嫌だけど、自分で騎士になることを決めたのだ。苦手な事は早く見つけて、克服するに限る。
足の方に仕掛けられた魔法も上手く効いているようで、腫れはまだあるが痛みはもうあまり無い。これなら朝方には直っていることだろう。
読んで頂きありがとうございます。
評価とか感想とかいただけましたら、私はもっと頑張れますので
よろしくお願いします。