アデール その心を満たすもの
「アデール、いやドラノエ公爵令嬢、君との婚約は解消する」
「かしこまりました、殿下」
彼女はそう言った。
迷いのない表情で、心を決めたように。
第一王子フランシスの婚約者が決まったのは、彼が十三歳の時。
相手は公爵家の末姫であるアデール・ドラノエ、八歳。
婚姻において、望ましいといえる年齢差だ。
大人たちから見れば。
しかし、婚約者の年齢を聞いて、フランシスはまずため息をついた。
彼も難しいお年頃である。
フランシスには妹が一人いる。
他に弟も二人いるので、おそらく継承権に関わることはないだろう。
将来は国内の適当な貴族に嫁ぐであろう彼女は、王の子としては甘やかされていた。
もう六歳になるというのに、フランシスの目から見ると妹は信じられないほどに我が儘で、すぐに泣きわめくのだ。
義務である二人きりの茶会で、不機嫌になる女の子なんて、考えるだけで頭が痛い。
ところが茶会の日、初めて顔を合わせたアデールは、妹とたった二歳しか違わないのに、とても大人びて見えた。
美しく堂々とした所作。加えてマナーも完璧だ。
感心したフランシスがつい本音で褒めると、アデールはニッコリ笑った。
「堂々としていれば、正しく振舞っているように見えるものですわ」
「な、なるほど……」
朗らかなアデールに、難しい年ごろのフランシスの心もほぐれていった。
それから一か月後、二度目のお茶会が開かれる。
フランシスは、自分が浮かれていることに気付いてしまった。
アデールに会える、と思ったら自然と笑みがこぼれるほどに。
その日は見事に開いた薔薇の庭園にテーブルが設えられた。
「薔薇は好きか?」
「ええ。こんな素晴らしい薔薇に囲まれてお茶を頂けるなんて。
ありがとうございます、殿下」
アデールが褒めると、薔薇がさらに輝いて見えるような気がする。
そう思ったフランシスはアデールの横顔を見た。
なんということだ? 薔薇よりも彼女の笑顔が眩しい。
なぜだ?
彼が内心ですったもんだしていると、女の子のはしゃぎ声が聞こえてきた。
「……姫様、もう少しゆっくりお歩きくださいませ」
「だって、きれいなお花がいっぱいなんだもの。
ぜんぶ、見たいのだもの!」
「マリエルの散歩の時間か」
これだけ近くに来てしまったら、進路を変えさせるのも無理だろう。
やれやれ、癇癪を起して騒がないといいが。
やがてマリエルが姿を見せた。
「フランシスお兄様! ごきげんよう!」
「ああ、マリエル。元気そうだな」
無駄に、とは口に出さずに飲み込む。
「お兄様、薔薇のお姫様とお茶会?」
「薔薇の姫?」
マリエルの視線の先では、椅子から立ち上がったアデールが礼をとっていた。
「ああ、こちらは私の婚約者のアデール嬢だ。
アデール、妹のマリエルだ」
「マリエル殿下、初めまして。お会いできて光栄ですわ」
「こんにちは、アデール。薔薇のようなドレスね!」
「ありがとうございます。マリエル殿下もまるで、薔薇の妖精の様に可愛らしいドレスですわ」
「うふふ。ねえ、アデール、私もお茶が飲みたいわ」
マリエルの後ろに控えた侍女が困惑した表情を浮かべる。
王女殿下に残り物を出すわけにはいかない。
今から彼女の分を用意するとなると、準備にかなり時間がかかってしまう。
フランシスも、やっぱり我が儘を言いだしたか、と渋い顔になる。
その時、アデールがマリエルの前にしゃがみ込んで目線を合わせた。
「いけませんわ、マリエル殿下」
「え、アデール、どうして?」
「薔薇の生け垣の向こうで、本物の妖精がマリエル殿下を狙っています」
「ほんと?」
「ええ。マリエル殿下があまりにお可愛らしいので、嫉妬していますわ。
ここでうっかりお茶を飲んだら、妖精のいたずらで、素敵なドレスを台無しにされるかもしれません」
「それは嫌!」
「では、お茶会は今度あらためていたしましょう」
「わかった、約束よ」
「ええ、約束ですわ」
マリエルは手を振りながら、侍女に連れられて行った。
見送るアデールに、フランシスは感心しきりだ。
「君は末っ子なのに、小さい子の扱いに慣れているようだ」
「母が後援をしている孤児院に時々、一緒に行っております」
高位貴族が孤児院に寄付をするのは当たり前だが、公爵夫人が直接出向くという話はあまり聞かない。
「そこで、小さい子供の面倒を見ているのか?」
そう訊ねたフランシスに、アデールは首を横に振って否定した。
「いいえ殿下、面倒を見ているなんてとんでもない。
孤児院の子供たちは、皆が私の先生です。
公爵家令嬢として狭い世界しか見ていなかった私に、そうではない世界があることを教えてくれます」
これが、自分より五歳年下の令嬢の発言なのか?
驚いたフランシスは、その後、いろいろな身分の民の姿を知ることを心がけるようになる。
フランシスとアデールは周囲に見守られながら、順調に婚約者として心を通わせていった。
時に真剣に話し合い、時にくだらないことで笑いあい、ごくたまに喧嘩もしながら。
フランシスは十八歳で立太子し、実直に執務をこなし、次期王として認められていった。
だが彼は何事もそこそこにこなすが、突出した能力があるわけでは無い。
弟たちと比べて、少しばかり引け目を感じていた。
次男のジスランは武の才能を持ち、騎士団に入って頭角を現していたし、三男のレオナールは学に優れ、国交のある全ての国の言語を自在に操っている。
そんな劣等感を、アデールにはついこぼしてしまう。
笑われるかと思えば、彼女は真剣に聞いてくれる。
「わかりますわ。
私も、お友達のカトリーヌ様やドミニク様を見ていると、自分がかすんでしまうような気がしますもの。
国内ですら、そんな美しく才に溢れた方が何人もいらっしゃるのです。
外国のお姫様方など、もっと素晴らしいのでしょうね」
カトリーヌもドミニクも高位貴族の令嬢で、美人と名高い。
フランシスも彼女たちを美しいとは思う。
しかし、アデールの可愛らしさの方が自分にとってはずっとずっと好ましいのだ、とは照れてしまって言い出せない。
「でも、私は私。私に出来ることをいたします」
アデールはニッコリと微笑む。
その笑顔がフランシスのハートを撃ち抜いているとも知らずに。
フランシスとアデールの婚姻は、アデールが十八歳になるのを待って行われる予定だった。
ところが、婚姻まであと一年という時にフランシスは病に罹ってしまう。
その病とは、この国の風土病とも言われるもので、罹るのは男子のみ。
幼い子供から二十代半ばくらいになりやすく、歳が若いほど軽い症状で済む傾向にある。
二十歳を越えているフランシスは高熱を出し、症状は重かった。
そして、重い症状は後遺症を残しやすい。
後遺症の多くは手足の麻痺だった。
命に別状はなく、やがて熱が引き始めたフランシスは、手足のしびれを感じていた。
医師は、高熱で動けない時間が長かったせいもあるので、後遺症と断定するには早計だ、と宥めたが、実感のある彼はなかなか聞き入れない。
ひたすらフランシスの無事を祈り続けていたアデールは、熱が下がってやっと面会が許された。
痩せてやつれた婚約者の姿を見て息を止めた彼女は、ゆっくり息を吐くと穏やかに話しかけた。
「ご気分はいかがですか?」
「大丈夫だ」
そう、自分は正気だ。
ちゃんと判断力がある。
フランシスはそう考えた。
だから、冷静に必要なことを告げた。
「アデール、いやドラノエ公爵令嬢、君との婚約は解消する」
「かしこまりました、殿下」
彼女はそう言った。
迷いのない表情で、心を決めたように。
フランシスの部屋に控えていた者たちは、突然のことに騒めいた。
しかし、退出の挨拶をして静かに部屋から出たアデールは言った。
「国王陛下にお伝えください。
明日までは話を進めず、このアデールに時間を頂きたい、と」
翌日の事、まだ病の癒えないフランシスは遅い時間に目覚めた。
身体を起こそうとすると、いつものように、控えていたメイドが掛布団をずらしたり、背にクッションを入れたりして手伝ってくれる。
そして、口を漱ぐ水と顔をぬぐうためのタオルが置かれたトレーが差し出された後で、尋ねられた。
「殿下、何か召し上がりますか?」
その声にフランシスは顔を上げてメイドを見た。
お仕着せに身を包んだ女性は、昨日婚約解消を告げたはずのアデールだった。
「アデール?」
「なんでございましょう、殿下」
「なぜ、君が? 婚約解消を伝えたはずだが」
「承りましたわ。ですから、ここに」
フランシスは昨日より少しはっきりした頭で考えた。
「私は言葉足らずだったようだ。
昨日言ったことを補足しよう。
私はおそらく、後遺症が残るだろう。
王太子の座から降りることになるのではないかと思う。
君は私の婚約者として縛られることは無い。
もっと、君に相応しい相手を探して欲しい」
そのためには、国王陛下にも協力を仰ごう。
アデールに瑕疵はないのだ。
彼女は素晴らしい女性だから、自分に縛り付けてはいけない。
「恐れながら、発言させていただきますわ」
アデールはフランシスをじっと見つめる。
「以前、孤児院の子供たちは私の先生だと申したことがございます」
ああ、覚えている。
とても大切な言葉だと、心に刻んである。
「孤児院の子たちは、幼いうちから家事を始めます。
大人に見守られながら皆で協力し合って、生活するのです。
それでも、本当に小さい子は何も出来ません。
お手伝いをしたい気持ちはあっても、足手まといになってしまうこともあります」
孤児院では食料も物資も豊かではない。
無駄に出来ないので、場合によっては失敗を経験にする余裕はない。
「そんな時、例えば食事の準備の時です。
手伝わせられない小さな子を、先にテーブルに座らせて監督役を任せるのです」
「監督?」
「お皿の数が人数分出ているか、コップは汚れていないか。
そんなことをしっかり見て、間違いがあったら年長の子に教えるのが監督の仕事です」
微笑ましい話だと思うが、その話が何と関係するのだろう?
「その監督の仕事は、無くてもいい仕事なんです。
でも、その仕事をしていると思うことで、小さな子の心が満たされます。
その子にとっては、とても大事な仕事です。
私は殿下の婚約者となって、お妃教育ですとか、王室に入るための知識教育ですとか、いろいろなことを教えていただいております。
全て大切なことですが、それは私の心を満たしません」
「教育はつまらなかった?」
「そんなことはございません」
アデールは首を横に振る。
「……初めてお会いした時、殿下はあまり気が進まないご様子でした」
そうかもしれない。
八歳の女の子がどんなものか分からず、ただ面倒でなければいいなと思っていた。
「私も物を知るにつれて、王太子殿下のお立場がどのように難しいものか少しずつ分かっていきました。
いえ、全て分かるわけもございませんが、それでも、殿下のお役に立ちたいと思ったのです」
「……アデール」
「お会いした時に、殿下が笑顔を見せてくださる。
そのことが私の心を満たします。
婚約解消は構いません。
でも、これからも出来れば殿下の側で、少しでもいいから殿下が心安らかであるためのお手伝いをさせてください。
そのことが私の心を満たします。
私の我が儘をかなえていただけませんか?」
「アデール」
フランシスはベッドから出ようとしたが、まだ力が入らない。
「アデール、ごめん、こっちへ来て、もっと近くに」
素直にベッドに寄ったアデールを、フランシスはやっと腕を伸ばして抱き寄せた。
「ごめん、私が間違っていた。
アデールがいなければ、私は元気になれそうもない。
身体が不自由になって、もしかして田舎領主になっても一緒にいて欲しい」
「もちろんですわ。フランシス様」
「ほら、アデール嬢に任せておけば大丈夫だったろ?」
弟ジスランの声に、フランシスが顔を上げる。
入り口から国王夫妻と二人の弟、そして妹のマリエルが覗いていた。
「兄上、病で弱気になって王太子返上を考えていると伺いましたが」
二番目の弟、レオナールが呆れたように言う。
「貴方の視野の広さや公正さは、国王に向いています」
弟に褒められたのは初めてだ。
フランシスは驚く。
「俺もそう思う」
騎士団仕込みの乱暴な物言いで、ジスランが引き継ぐ。
「仮に手足が不自由になったとして、玉座に座るのに支障は無いだろう?
世話係の人数が多少増えたところで、贅沢ってほどじゃない」
「そうですよ。
ジスラン兄上が、剣となり盾となり守ってくれます。
僕は、フランシス兄上の目となり耳となり、情報を集めて参りましょう。
兄上は、玉座でしっかりと要の役割を果たしてください」
皿が渡らなかった子供がいないように、パンがもらえなかった子供がいないように。
それは、とても大事な仕事だ。
「お話がまとまったようですので、アデールお姉様を貸してくださいませ。
メイド服が、こんなに可愛らしいものだとは気づきませんでしたわ!
普段着としてのお洒落メイド服に可能性を感じます。
お姉様、お茶を飲みながらお話ししましょう」
大きくなって癇癪など起こすことは無いマリエルだが、思い立ったら即行動なのは変わらない。
子供たちの様子に満足した国王夫妻は、穏やかに微笑んで退室した。
後日、すっかり病の癒えたフランシスは、わずかだが片足に麻痺が残った。
「ゆっくり歩いて、ゆっくり物事を眺めよという神様の思し召しかもしれません」
アデールはそう言って生涯、彼と歩調を合わせ、寄り添い続けたのだった。