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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第九十八話 子産、鼎に刑書を鋳る




                *    *    *




 晋の公女を楚霊王に嫁がせるため、正卿せいけい韓起かんきが正使となって

叔向しゅくきょうが介(副使)を勤め、楚国へ向かった。


鄭の宰相・子皮しひと卿・子大叔したいしゅく索氏さくし(地名)で晋の一行を労った。


子大叔が叔向に「楚王は驕慢で暴虐甚だしい。どうか注意なさって下さい」と忠告する。


「驕慢甚だしい者は自ら禍を招くといいます。他の人に及ぼす事は出来ません。

私はただ、威儀を慎み、信を守り、礼を以て行動し、恭敬より始め、終わりを考慮する。

晋・楚の強弱と利害を量れば、いかに楚王が驕慢であろうと、憂慮には及びません」



 一行は楚都に入った。


楚霊王が諸大夫を朝廷に集めて宣言した。

「晋は我が仇敵である。もし晋に報復を行えるならば、他の事を考える必要はない。

今、我が国に来たのは、正卿(韓起)と上大夫(叔向)である。

韓起をこん(門の守衛)とし、叔向を司宮(宦官)にして晋を辱めれば、我が志を満足できよう」


楚の群臣はみな黙っている中、大宰・薳啓疆いけいきょうが口を開く。


「我々に備えがあるのなら問題ありません。

匹夫を辱める時でも、匹夫には備えがあります。国を辱めるのなら尚更です。

だから、昔の聖王は人を辱めず、礼を行うことに務めました。


晋は城濮じょうぼくで勝った後、備えなかったため、ひつで楚に敗れました。

邲で勝った楚は晋に備えなかったため、鄢陵えんりょうで敗れました。

鄢陵以来、晋は備えを失わず、礼を行い、和を重んじています。

だから楚には報復の機会がなく、親善を求めたのです。


姻親の関係を得たのに、それを辱めれば、禍を招くでしょう。

我が君が親善を怨恨に変え、礼を無視して無用の敵を招き

用意を怠って楚の群臣を敵の虜にさせ、それで君のお心が満足するなら、臣は何も申しません」



 楚霊王は「わしの過ちであった。汝に従おう」と言い、韓起を礼遇した。


叔向には多くの難問を出して困らせようとしたが

博覧強記で天下に並ぶ者の寡ない叔向に敵わず、負けを認め、厚く礼を用いた。



 一行は晋へ帰国する時、鄭簡公がぎょで慰労しようとしたが

卿が国君の慰労を受けるのは礼から外れると考え、韓起は敢えて会わなかった。




                *    *    *




 鄭の子皮が斉に行き、斉の重臣・子尾しび氏の女性を娶った。


子皮が子尾の家にいる間、斉の大夫・晏嬰あんえいは毎日のように子皮に会いに行った。


晏嬰と親しい陳無宇ちんむうがその理由を尋ねた。


「子皮こそ真の君子にして鄭民の主です。彼は賢臣(子産)を知り

自らは退いて、彼を重く用いているのです」




            *    *    *




 夏、きょ国の大夫・牟夷むい牟婁むろう、防、をの三邑を挙げて

莒から離脱して魯に従いた。魯はこれを受け入れた。


莒君がこれを晋に訴えたため、晋平公は朝見に来ていた魯昭公を拘留しようとした。

しかし范鞅はんおうがこれに反対した。


「朝見に来た者を捕えるのは礼に反します。

諸侯の盟主が礼にもとるのは相応しくありません。

ここは魯君を無事に帰国させ、機会があったら師(軍)を用いて討伐するべきです」


晋平公は承知して、魯昭公を捕えずに帰らせた。



 秦の13代君主・景公が在位40年で崩御し、子の哀公が秦君を継いだ。


この報せが晋に届くと、晋に出奔していた秦の后子鍼こうしかんは秦に帰国した。



 秋7月、莒が魯を攻撃したが、莒軍は防備を怠った。


14日、莒軍が陣を構築する前に、魯の叔弓しゅくきゅうが莒軍へ攻撃を仕掛け

魯・莒国境の賁泉ふんせんにて、莒は魯に敗れた。




            *    *    *




 冬10月、楚霊王が蔡霊公、陳哀公、許悼公、とん君、沈君、徐君

それに東夷の士を率いて呉へ侵攻した。

きょくれきの三邑を奪われた戦役に対する報復である。


楚の大夫・薳射いせき繁陽はんようの軍を率いて夏汭かぜいに至り、楚軍に合流した。


更に、楚から遠く離れた呉の南方・越国の大夫・常寿過じょうじゅか

越軍を率いて楚地・で楚軍と合流した。



 一方、呉も軍を動員し、楚と諸侯の連合軍を迎え撃つ。


大宰・薳啓疆が楚軍を率いて呉軍を迎撃したが、防備が間に合わず

鵲岸じゃくがん(長江の北岸)での戦いで呉軍に敗れた。


敗報を聞いた楚霊王は駅車に乗り、汨羅べきらへと急行した。



 この時、呉王・余昧よまいは楚軍を労うため、弟の蹶由けいゆうを楚陣に赴かせた。

しかし、楚霊王は蹶由に面会すると、これを捕え、殺してその血を軍鼓に塗ろうとした。


楚霊王が蹶由に尋ねた。

「汝が呉陣を出る時、占いでは何と出たか」

「吉でした。使者を手荒く扱えば、呉は防備を固め、楚の侵攻を抑えるでしょう。

これほどの吉はありません」


これを聞き、楚霊王は蹶由を殺すのをやめた。



 楚軍が羅汭らぜいを渡り、沈尹ちんいん(沈県の令)・赤が楚霊王に合流して萊山らいざんに駐軍した。

薳射が先に南懐なんかいに入り、楚の大軍がそれに続き、汝清じょせい(長江と淮水の間)に至った。


しかし呉軍は既に楚軍を迎撃する準備を済ませており

攻め込む隙がなく、楚軍はこれ以上、進攻出来なかった。


楚霊王は坻箕之山ていきしざんで閲兵して武威を示し、戦功を挙げる事なく引き上げた。


この時、呉王の弟・蹶由はそのまま楚に連れて行かれた。



 楚霊王は呉軍が更に楚領へ侵攻してくるのを抑えるために

薳射をそうで待機させ、薳啓疆を雩婁うろうで待機させた。




            *    *    *




 周の景王9年(前536年)春正月、国の君主・文公が崩御した。

文公の弟・うつが後を継ぎ、杞君に即位した。13代・杞平公である。


杞国の君主は3代続けて10代君主・桓公の子が即位した。

杞桓公は周襄王15年(紀元前637年)から周霊王5年(紀元前567年)まで

70年に渡って杞国を治めた後、桓公の子・毎亡まいぼうが11代・杞孝公となり

周霊王22年(紀元前550年)までの17年間、杞国を統治し、孝公没後は

桓公の子で孝公の弟の益姑えきこが12代・杞文公として即位、在位は14年であった。



 この頃、魯は杞と対立していたが、同盟国と同じように杞文公を弔問したという。

また、同様に秦にも魯の大夫を送り、秦景公の葬儀に参列させた。




              *    *    *




 この年の3月、鄭の子産が刑書けいしょ(刑法)をかなえて、鄭民に公開した。

中国史上、最初の成文法「鋳刑書ちゅうけいしょ」の出現である。


この時代、法を民に教えてはならない、という不文律が存在していたので

子産の決断は当時の君子、知識人から多くの批判を招いた。



 晋の政治を担う叔向も、子産を厳しく譴責けんせきする書信を送った。

「以前、私はあなたを敬っていた。今、それはなくなった。

昔の聖王は事の軽重によって罪を裁き、刑法を作らなかった。

民が争心(刑法を盾にして争う心)を抱く事をおそれたからである。

しかし、それでも犯罪を無くす事は出来なかったので

義で防ぎ、政令で正し、礼で行動し、信で守り、仁で養った。

禄を定め、従う者を励まし、厳格果断な刑罰によって放縦の者を威圧し

それでも効果がなければ忠で諭し、善行で奨励し、知識を伝え、和を用い

厳粛な態度で臨み、威厳で対応し、剛心で罪を断じた。

聡明の臣、明察の官吏、忠信の士、慈恵の師を用いたので民に禍乱が起きなかった。


もし、民が法を知れば、上を畏れず、争心が生まれ、法を根拠にして

幸運に頼って刑から逃れ、民を治める事は出来なくなる。


夏王朝は政治が乱れて「禹刑うけい」を作り

商王朝は政治が乱れて「湯刑とうけい」を作り

周王朝は政治が乱れて「九刑」を作った。

これらが生まれたのは、全て末世である。


今、あなたは鄭国の相として農地に水溝すいこうを作り、民に誹謗される政策(丘賦きゅうふ)を立て

刑書を鋳て、民を安定させようとしているが、大変な苦難を伴うであろう」



子産が叔向に返事を書いた。

「すべてあなたの申される通りです。しかし、臣は不才なので

子孫の事まで考える事が出来ません。今の世を救う事のみ考えています。

あなたの言を受け入れる事は出来ませんが、その恩は忘れません」



 晋の叔向は、民が法を知れば狡猾になり、鄭は乱れると予言した。

子産は、先の事は分からないが、今こそ法を明らかにする必要があるという確信があった。


叔向と子産、共に該博を以て知られる賢者だが、両者の置かれた立場は大きく異なる。

叔向は諸侯に号令する覇権国・晋の事実上の宰相であり

片や子産は晋・楚の両大国に挟まれた小国・鄭の執政として

理想を棄て、現実を直視した綱渡りのような政治的判断を常に強いられる立場にある。




   春秋時代も後期に差し掛かると、古来より続く道徳規範はいよいよ廃れた。

   初期から徐々に崩壊していった身分・階級制度も、目に見えて形骸化した。

   もはや、礼や徳などといった抽象的な手段を基盤として国を統治するのは

   困難になり、『法』という具体的な規則で以て国を治める段階に入ったのである。

   これを、最初に実行した政治家が、鄭の子産であった。

   23年後、晋も成文法を作り、刑法を鼎に鋳て国民に公布し、孔子が晋を諌めた。

   その後も、成文法は次々に導入され、中原は戦国時代へと移行していく。




 夜天を眺め、晋の士伯瑕しはくかが呟いた。

「5月に現れるはずの火星が3月に見えた。鄭に火災が起きる兆しである。

鄭の執政(子産)が火を使い、鼎に刑法を鋳た。必ず法を巡って争論が起きる。

火星がこれを象徴しているに違いない。火災が起きぬはずはない」



 これより3ヶ月後の6月7日、鄭で火災が起きた。




        *    *    *




 夏、魯の上卿・季孫宿きそんしゅくが晋に入った。

魯が莒の地を領有したが、晋が討伐せず、譴責もなかったからである。


晋平公は季孫宿のために享(宴)を開き、料理は通常より多かった。

すると季孫宿は退出して行人(賓客の対応をする官)を通じ、こう伝えた。


「小国が大国に仕える時、討伐を免れたなら、他に賞賜を求めず

得るとしても三献の礼を越えてはいけません。

晋君の饗応は、臣には度が過ぎております」


韓起が言う。

「我が君はあなたに宴を楽しんで頂きたいと申されております」


これに季孫宿が返答する。

「魯君にとってさえ過分なもてなし、臣にとっては尚更です」


結局、季孫宿は増やした料理を除いてから享宴に参加した。


晋候は、季孫宿が礼に通じていると称賛し、厚い礼物を贈ったという。




              *    *    *




 宋の寺人(宦官)・りゅうは宋平公に寵愛され、太子・佐はこれを嫌っていた。


宋の右師うし(宰相)・華合比かごうひが太子の歓心を買うために

「私が柳を殺しましょう」と言ったが、寺人・柳はこれを知った。


寺人・柳は北の外城に穴を掘り、犠牲を殺し、盟書を埋めてから宋平公に報告した。

「華合比は、20年前に陳に亡命した華臣かしんと、その族を密かに招き、北城で盟約を結びました」


宋平公が北城に人を送り、調べさせると、果たして盟書が見つかった。


当時、華亥かがい(華合比の弟)が右師の地位を狙っていたため

華亥も寺人・柳に協力して「以前からそのような噂を聞いていました」と偽証した。


宋平公は華合比を放逐し、華合比は衛に亡命した。

華亥が宋の右師に任命された。



 右帥となった華亥が左師・向戌しょうじゅつに会った時、向戌が言った。

「汝も亡命するであろう。汝は自分の宗室(兄)を滅ぼした。

宗主は石垣であり、壊してはならない。自ら孤立して、恐れを招いてはならない」




              *    *    *




 楚の公子・棄疾きしつが晋に入った。前年、婚儀の使者として韓起が楚に来た返礼である。


棄疾が鄭を通った時、鄭の子皮、子産、子大叔が鄭簡公に従い、柤で出迎えた。

始め、棄疾は会見を断ったが、鄭簡公は強く求めたので、棄疾は同意した。


棄疾は楚王に謁見する時と同じ態度で鄭簡公に接し、馬八頭を簡公に贈った。

子皮との面会では上卿に対する礼で馬六頭を贈り

子産には馬四頭、子大叔には馬二頭を贈った。


棄疾は随行する自分の家臣に対して、馬の放牧を禁じ、柴刈りをさせず

農地に入らず、樹を伐らず、作物を取らず、家屋を破壊せず、財物の強要を禁じた。

「我が禁令を犯す者は官職を廃し、階級を降ろす」


楚の棄疾一行は鄭国内に滞在している間、横暴な振る舞いをしなかった。



 晋の正卿・韓起と上大夫・叔向が楚に行った時、楚霊王は出迎えなかった。

公子・棄疾が晋の国境に来た時、晋平公も棄疾を出迎えようとしなかった。


叔向が平公に諫言する。

「楚は邪であり、晋は正です。なぜ我が君は邪に倣うのでしょう。

我々のやり方を守るべきで、他の邪を真似る必要などありません。

匹夫も善を行えば、民はそれに倣います。国君なら尚更でしょう」


晋平公は叔向の諫言に従い、楚の公子・棄疾を出迎えた。



 楚の公子・棄疾は、晋からの帰りにも鄭を通ったが

晋に入る時と同様、横暴な振る舞いはなかったので

鄭の三卿は、棄疾は将来、楚王になるであろうと判断した。




         *    *    *




 秋9月、楚に従属する徐国の大夫・儀楚ぎそが楚を聘問した。

理由は不明だが、楚霊王は儀楚を捕えた。


儀楚は隙を見て楚から脱走したので、楚霊王は薳洩いろうに命じて徐を討伐させた。



 この時、楚軍の動きを見た呉国が徐を援けるため、軍を徐に向けた。


楚の令尹れいいん子蕩しとうが呉へ侵攻するため、豫章よしょうから兵を出し、乾谿かんこくに駐軍した。



 呉・楚両軍は房鍾ぼうしょうで戦い、呉軍が勝利した。

呉は楚の宮厩尹きゅうきゅういん棄疾きしつ(公子・棄疾とは別人)を捕えた。


冷尹・子蕩は敗戦の責任を薳洩に被せて処刑した。



 この時期の楚に関する記述を載せる。

『楚霊王は国君としての道を行わず、臣下の諫言を受け入れず、章華しょうか(地名)に楼台を築き

岩山を掘削して棺を納める石室を造り、漢水を導き、帝舜ていしゅんを真似た陵墓を築く。

国を疲弊させ、陳と蔡の隙をうかがい、楚国の政治を修めず

諸侯を率いて東国(徐・呉・越)の征伐を企み、3年かけて沮水べきすい汾水ふんすいを渡る。

楚の民は飢餓と労役の苦しみに堪えられず、歎き哀しむ』



 冬10月、魯の叔弓しゅくきゅうが楚に入り、聘問と敗戦の慰問を行った。




            *    *    *




 11月、斉景公が晋に入り、北燕討伐の許可を求めた。

晋の卿・范鞅はんおうが大夫・王正おうせいを相(補佐)にして

黄河の沿岸で斉景公を迎え入れた。


晋平公は斉の出兵に同意した。



 12月、斉景公は斉軍を率いて北燕を討伐した。


斉景公は、3年前に北燕から斉に亡命していた燕恵公を帰国させようとしたが

これに斉の大夫・晏嬰が反対した。


「燕君を帰国させるべきではありません。燕人は既に次の国君を決めています。

我が国に住まう燕候が斉で全うするのを待ち、二心は抱いていません。

燕君が帰国すれば、燕に乱を起こすでしょう。

我が君は貪婪どんらんで、左右には阿諛追従あゆついしょうの臣しかいません。

大事を行うにも信がないので、成功するはずがありません」


斉景公は晏嬰の諫言に従い、兵を退いた。



 年が替わり、周の景王10年(前535年)1月18日

斉景公は再び斉軍を率い、燕・斉の国境・かくに駐軍した。


燕から斉に使者が来て、燕の意思を伝える。

「我が国は罪を知りました。斉候の命に逆らうことはありません。

先君の宝器を献上し、我が罪を謝します」


斉の大夫・公孫晳こうそんせきが斉景公に進言した。

「ここは一旦、燕の帰服を受けて退き、隙を見て再び動くのも宜しいでしょう」


景公は燕の使者からの賄賂を受け入れ、燕と講和した。


2月14日、斉と燕が濡水の辺で盟約を結んだ。

燕候は燕の公女・燕姫えんきを斉景公に嫁がせ、燕国に伝わる宝物を献上した。


斉に亡命していた燕恵公は燕地・陽に入ったが、ほどなく死んだという。

燕人は新たな燕君・悼公を立てた。




            *    *    *




 楚霊王がまだ楚の令尹・公子・囲であった頃、王の旗を持って狩りに出た事がある。


それを見た芋尹ういん無宇むうが旗を折り、囲に告げた。

「一国に二君がいるべきではありません」


 その後、楚霊王が即位すると、章華の地に宮殿を建て、亡命者を匿った。


ある時、、無宇の家臣(門衛)が罪を犯し、楚王の章華宮に逃げ込んだ。

無宇が捕まえようとすると、章華宮の役人が拒否して

「王宮で人を捕えれば罪となります」と言い、逆に無宇を捕えた。


無宇は楚霊王の前に連れて行かれた。

この時、霊王は酒を飲んでいた。


無宇が霊王に言う。

「天子が天下を治め、諸侯が封地を正すのは、古からの制度です。

天下に君の土地でない場所はなく、住む者で臣下でない者はいません。

下は上に仕え、上は神を奉じるのです。

此度、宮の役人は『王宮で人を捕まえれば罪となる』と言いましたが

天下に王土でない場所はなく、どこで捕えよと言うのでしょう。

賊がどこへ逃げようとも、必ず捕えねばなりません」


楚霊王は「章華宮に逃げた者を捕えるがよい。盗人が寵を受けるのは相応しくない」

と言って、無宇を釈放した。




            *    *    *




 楚霊王は、章華宮に楼台(四方を眺望する高台)を築いたので

諸侯を集め、落成の式典を開こうとした。


大宰・薳啓疆が「臣が魯侯を連れて参ります」と言った。



 薳啓疆が魯に入り、魯昭公に語った。

「昔、貴国の先君・成公(昭公の祖父)が、我が国の大夫・嬰斉えいせいにこう申されました。

『わしは先君のよしみを忘れていない。衡父えいふを楚国に派遣し

社稷しゃしょく鎮撫ちんぶして民を安定せしめよう』

嬰斉は蜀の地でこの命を受け、帰国後、宗廟に報告しました。

その後、我が先君・共王は魯の朝見を待ち続け、そのまま崩御なされた。

既に楚王は四代(共王・康王・郟敖・霊王)に至るも、恩恵いまだ得られず

魯襄公が我が国の葬(楚康王の葬礼)に出席したのみです。

今、魯君が楚君と会見すれば、楚は恩恵を受けた事となりましょう」


 薳啓疆のこの発言は詭弁であり、魯への脅迫を含んでいる。

かつて楚は魯に侵攻し、蜀に駐軍して、魯成公は蜀で会盟し

衡父を人質として楚に渡した。後に衡父は逃げ帰ったのである。



 魯昭公は楚王を恐れ、楚に朝見することにした。


魯候は出発前に夢を見た。襄公(魯の先君)が道神を祭る、という内容であった。


魯昭公が群臣に夢の内容を話すと、梓慎ししんが答えた。

「我が君は楚に行かない方が良いでしょう。

かつて襄公が楚に行く前には、周公(魯の国祖)が道神を祭る夢を見たのです。

我が君は、周公ではなく、襄公が道神を祭った夢を見たのは

楚へ行くべきではないと申されているのです」


続いて孟椒もうしゅくが言った。

「楚へ行くべきです。先君が楚に行った事がなかったので

周公が道神を祭り、先君を導いたのです。

今回、襄公が我が君のために道神を祭ったのは、襄公が既に楚に行ったからです」


魯昭公は悩んだが、結局、楚に行く事にした。



 魯昭公は楚へ向かう途中に鄭を通り、鄭簡公が魯昭公を慰労した。

仲孫貜ちゅうそんかくが魯候の介(副使)を勤めたが

鄭伯の慰労に対し、儀礼に則って応える事が出来なかったという。




         *    *    *




 夏4月、日食があり、晋平公が士伯瑕に聞いた。

「誰が日食に当たる(咎を受ける)のであろうか」


「魯と衛に凶事が起こるでしょう。衛の方が大きく、魯は小さいはずです」


「なぜ、そう思うのか」


「今回の日蝕(日食)は、衛の地を去って魯の地に入りました。

(この時代、天の星宿を十二分し、各国の位置に当てていた。

太陽が衛に当たる位置にいる時に蝕が始まり、魯に当たる位置に移った事を意味する)

だから、衛に災害があり、魯もそれを受けるはずです。

衛では衛候が咎を受け、魯は上卿(季孫宿)が受けるでしょう」



一般的に、紀元前536年に

鄭の政治家・子産が中国史上初の成文法「刑書」を公開したとされていますが

成文法自体は、もっと以前からあったと思います。


軍事的業績などであれば

紀元前10世紀の時点で鼎に鋳られた記録などが発掘されていますので。


日本史もそうですけど、新たな発見や解釈が相次ぐ事で

歴史はどんどんアップデートされていきます。

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