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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第九十七話 魯国の牛

筆者は、これを書いてる時

NHK大河ドラマのOP曲を繰り返し聴いてます。


どれも大好きですが、特にお気に入りは

「篤姫」「麒麟が来る」「平清盛」「花燃ゆ」辺りです。




           *    *    *




 3年前にきょ国内の内乱を経て即位した莒著丘公きょちょきゅうこう

即位の後、かつて莒に滅ぼされた姓の国・しょうを慰撫しなかった。


莒が鄫を滅ぼしたのは、これより38年前の事であるが

姒姓の族は気位が高く、鄫の遺民はこれに憤り

莒に叛し、魯国へと帰順して、9月には魯が正式に鄫を領有した。




           *    *    *




 鄭の執政・子産しさんが「丘賦きゅうふ」を作った。いわば軍事費の徴収制度である。

魯で導入された「丘甲きゅうこう」と同じ物と思われる。


鄭の国人はこれに激しく反発し、子産を誹謗した。

「子国(子産の父)は路で死んだ(尉氏に殺された)のに

彼は自ら蠆尾たいびさそりの尾。人を害する存在)となって国に命令している。

この国はどうなってしまうのか」


鄭の大夫・子寬しかんがこれを子産に話すと、子産はこう言ったという。

「社稷に利するのなら、我が死生を気に留める事はない。

善を行う者は法度はっとを改めないから成功すると聞く。

民を放縦にしてはならず、法度は改めてはならない。

礼と義に誤りがなければ、他人の批評は気にしない」



 後に子寛は人にこう語ったという。

「国氏(子産の族)は早く亡ぶだろう。君子が酷薄で軽率の上に法を作れば

いずれ貪婪になる。その上に法を作ったらどうなるであろう。

姫姓の諸侯では蔡、曹、とうが先ず亡ぶ。大国の圧力を受けながら、礼がない。

鄭は衛より先に亡ぶだろう。大国の圧力を受けながら、法がない。

鄭の政治は子産の心(意思)で決められている。

いずれ、民は上を尊ばず、命令を聞かなくなるであろう」




           *    *    *




 冬になり、、呉国は「朱方しゅほうの役」の報復として

楚を討伐し、きょくれきの三邑に入った。


この三邑に近い沈邑ちんゆうの県令・しゃ夏汭かぜいに奔り、楚の命を待つ。



 楚では、呉からの攻撃に備えて防備を強化するために

箴尹しんいん鍼宜咎しんぎきゅう(陳からの亡命者)が鍾離しょうりに城を築き

大宰・薳啓疆いけいきょうそうに城を築き、子革しかく(鄭からの亡命者)が

州来しゅうらいに城を築いた。



 しかし、築城工事の最中、鐘離、巣、州来、頼等を含む広大な地域で洪水が起きた。

被害は現在の安徽省滁州市一帯に及ぶと思われる。

このため城は完成せず、頼で工事をしていた闘韋亀とういき、公子・棄疾きしつ

工事を中断して撤収せざるを得なかった。




              *    *    *




 かつて魯の叔孫得臣しゅくそんとくしんには、叔孫僑如しゅくそんきょうじょ叔孫豹しゅくそんひょうの二子がいた。


得臣の没後、僑如が叔孫氏を継いだが、当時の魯君・成公の母・穆姜ぼくきょうと私通して

魯の政権を握ろうとして失敗し、斉へと出奔した。38年前の事である。

僑如の失脚を予期していたのか、弟の豹はその数年前、既に斉に移住していた。


 叔孫豹が斉に向かう途中、魯地・庚宗こうそうに至った時、ある美女と遭遇した。

叔孫豹はこの婦人に食事と宿を求め、ほどなく関係を持った。

叔孫豹が去る時、婦人は泣いて見送った。



 斉に入った叔孫豹は国氏の女性・国姜を娶り、孟丙もうへい仲壬ちゅうじんの二子が産まれた。


ある日、叔孫豹は夢を見た。

夢の中で天が落ちて叔孫豹を圧迫した。押し潰されそうになった叔孫豹が後ろを見ると

色黒、猫背、深目、突き出た口をした男が立っている。

叔孫豹はその男に「牛よ、わしを助けよ」と叫ぶと、男は天を持ち上げて叔孫豹を助けた。


翌朝、叔孫豹は全ての従者を集めたが、夢で見た容姿の男はいなかった。



 ほどなくして兄の叔孫僑如が斉に出奔してきた。

叔孫豹が兄に食物を届けると、僑如が言った。

「魯候は亡父の功に免じ、叔孫の族は継承を赦すと申された。

わしが魯を出たので、おそらく汝が招かれるであろう。汝は魯に戻るか」

叔孫豹は「魯候よりお呼びがかかれば帰国しましょう」と答えた。


魯が叔孫豹に帰国を命じたので、叔孫豹は兄・僑如に伝えず帰国した。

僑如は斉でも斉候の母(声孟子せいもうし)と私通したため、関係を絶っていたのかもしれない。



 帰国した叔孫豹は魯の卿に立てられた。


かつての庚宗の婦人が、叔孫豹の元に雉を献上しに来た。

婦人が雉を献上するのは、子が出来た事を意味する。


叔孫豹は婦人に再会すると、子供について尋ねた。


「自分で雉を持ち、私に従うほどには成長しています」

「では、一目会わせて貰えないか」


夫人が子供を呼び、叔孫豹が子の容貌を眺めると、かつて夢で見た男であった。

叔孫豹は子供に名を聞く前に「牛よ」と呼びかけると、子供は「はい」と応えた。



 叔孫豹は従者らを集め、牛を紹介し、じゅ(成人前の家臣)にした。

豎牛じゅぎゅうは叔孫豹に小姓として用いられ、成長してから叔孫の家政を司った。



 叔孫豹が斉にいた時、斉の大夫・子明しめいと親しかったが

叔孫豹が魯へ帰国した後、叔孫豹の妻で国氏の娘・国姜こくきょう

子明と再婚したのを知って、叔孫豹は怒り、孟丙と仲壬を斉に放置した。

孟丙と仲壬が魯に入り、父と再会したのは成人後である。




              *    *    *




 ある日、叔孫豹が丘蕕きゅうゆで狩猟をして体調を崩した。

豎牛は叔孫の家を我が物にしようと目論み、孟丙に協力を誓わせたが拒まれた。


 後日、病床の叔孫豹が孟丙のために鍾を作らせた。

「汝は未だ諸大夫との交際の場に出た事がない。

そこで大夫を招いて享(宴)を開き、鐘の落成式を行う」


孟丙が公式の場所で紹介される事は、叔孫氏の後嗣を意味する。


孟丙は享礼の準備を済ませ、豎牛を叔孫豹の元に送り、享礼の日を伺った。

豎牛は叔孫豹に孟丙からの伝言を報告せず退出して、孟丙に偽りを伝えた。



 孟丙は、豎牛からの偽の報告を信じ、その日に諸大夫を集めて

孟丙が鐘を鳴らした。病床にある叔孫豹は部屋で鐘の音を聞いた。


ここで豎牛が叔孫豹に虚偽を伝えた。

「孟丙の所に生母(国姜)の客(子明)が来て、最初の鐘の音を聞かせています」


 何も知らぬ叔孫豹は、怒って外に出ようとしたが

うまく歩けず、豎牛が叔孫豹を制止して休ませた。


享礼が終わり、賓客が帰った後、叔孫豹は人を送って孟丙を殺した。




              *    *    *




 叔孫氏の嫡子・孟丙を片付けた豎牛は、弟の仲壬に協力を誓わせた。

しかし、仲壬にも同様に拒否された。



 ある日、仲壬は魯昭公の御者・萊書らいしょと公宮で歓談をしていた。

それを見た魯昭公は、仲壬に玉環を下賜した。


仲壬は豎牛に玉環を渡し、叔孫豹に報告させた。

しかし豎牛は叔孫豹に玉環の事を話さず、叔孫豹の部屋から出た。


その後、叔孫豹からの指示と称し、仲壬に玉環を身に帯びさせた。

それを見届けた後、豎牛が叔孫豹に告げた。

「仲壬を魯君に会わせては如何でしょう」


子を国君に紹介するのは、自分の後嗣である事を宣言する。


叔孫豹が「なぜ今、そうするのか」と尋ねた。


「仲壬は既に自分で魯候に謁見を済ませています。

候より下賜された玉環を身につけております。

改めて主が仲壬を連れて、正式に国君を謁見するべきかと思います」


これを聞いた叔孫豹は怒って仲壬を追放し、仲壬は斉に亡命した。




              *    *    *




 叔孫豹の病が悪化し、仲壬を呼び戻すように命じたが

豎牛は仲壬を招かなかった。


しばらく後、叔孫氏の家宰・杜洩とろうが叔孫豹に会うと

叔孫豹は飢渇を訴え、この頃には豎牛の正体に気付いていた。


叔孫豹は杜洩にを与え、豎牛を伐つように命じた。

しかし杜洩は、自分では豎牛に敵わないと思い、こう告げた。


「主が彼を求めたから、彼が来たのです。なぜ除こうとするのでしょう」


この後、豎牛は「主の病は篤い。誰にも会いたくないと申された」と宣言して

食事を持って来た者には隣室に置いて帰らせた。

豎牛はその食物を棄ててから、空になった食器を片づけさせた。



 12月26日、叔孫豹の食事が途絶え、28日に亡くなった。

長年、魯を支えた名臣としては、あまりに惨めな最期であった。


病に斃れた後、佞臣に食を絶たれての餓死という様相は

春秋時代初期の覇者・斉桓公の末後を彷彿させる。



豎牛は庶子の叔孫婼しゅくそんじゃくを後嗣に立て、自らは相(補佐)になった。




              *    *    *




 魯昭公が杜洩に叔孫豹の葬儀を命じた。

豎牛は叔仲帯と南遺なんい(季氏の家臣)に賄賂を贈って葬儀の邪魔をさせた。


杜洩が路車(周王が叔孫豹に下賜した車)で葬送を行い

卿礼を用いようとすると、南遺が季孫宿に言う。

「叔孫は生前、路車に乗った事がありません。なぜ葬礼で用いるのでしょう。

正卿(季孫宿)も路車を使わないのに、副卿(叔孫豹)がそれを使うのは、相応しくありません」


季孫宿は同意して、杜洩に路車を用いないように命じた。


しかし杜洩は反論した。

「故人(叔孫豹)は魯候より命を受けて周天子を聘問した折、路車を下賜されました。

魯候に復命し、路車を魯君に献上したものの、魯君は王命に逆らってはならぬと

改めて故人に路車を下賜しましたが、故人は遠慮して、生前は用いる事がありませんでした。

今、それを使わないのは、君命を棄てる事となります。

生前に用いず、死後も使えぬとあれば、賞賜に何の意味があるでしょう」


翌年、叔孫豹の副葬が執り行われた際に、路車は使われた。




          *    *    *




 年が明けて、周の景王8年(紀元前537年)

魯で叔孫豹が亡くなった事を機に、季孫宿が魯の中軍廃止を提案した。

豎牛は「主(叔孫豹)は生前、中軍を除きたいと申されていました」と述べた。


魯の公族大夫(施氏せいし臧氏かんし)らと会議を重ね、中軍の廃止が決定された。


臧氏は魯の司寇(司法長官)を勤め、当時は兵獄同制(軍と牢獄を共に管理)だったため

これが決議されたのは臧氏の家であった。



 春正月、魯が中軍を廃止した。

魯軍はこれまで中・左・右の三軍編制を、左・右の二軍に減らした。


中軍が廃止された事で、国軍を徴集する魯の郊外が四分された。

季孫氏が二つ、孟孫氏と叔孫氏が一つずつを管轄下に置く。


魯の左軍は季孫氏、右軍は孟孫氏が統率し、叔孫氏は別軍を擁する事に決まった。


魯では全ての民が自由民となり、軍賦(兵役と武器の提供)か

あるいは田賦(租税)の義務が課される事になった。


それらの全ては三家が徴収し、三家から収入の一部を魯の公室に納める形となり

魯公室が直接管理する民はいなくなり、魯では三桓氏の権力が更に大きくなった。




               *    *    *




 季孫宿が叔孫氏の家宰・杜洩に書信を送り、叔孫豹の遺体を納めた棺に報告させた。

あなたは中軍を廃したいと申していたので、廃した事を報告する」


しかし杜洩は「これは豎牛の讒言である。故人は中軍の廃止に反対していた。

僖公廟の大門で盟約を結び、五父の(大通の名)で呪詛を行い

盟約を破る者は呪われると誓ったのだ」

と叫び、書信を投げ捨て、家臣らと共に哀哭した。



 叔仲帯が季孫宿に告げる。

「故人(叔孫豹)は『寿命を全うしなかった者は(霊柩を)西門より出せ』と語っていた」


 叔仲帯は叔孫豹が豎牛によって餓死させられた事を知っているため

叔孫豹の命令をに従い、霊柩を西門から墳墓に運ぼうとした。


季孫宿は、これを杜洩に命じると、杜洩は言った。

「卿の葬送は朝門(正門。南門)から出すのが魯での決まりとなっています。

あなたは魯の国政を任され、今までの礼法を変更していません。

なぜ、今回は勝手に変更するのでしょう。

臣は死を畏れますが、礼に違えた行いに従う事はないでしょう」


杜洩は叔孫豹の埋葬を終えると、季孫氏を恐れ、楚に出奔した。




            *    *    *




 叔孫豹が亡くなったと聞いて、子の仲壬が斉から魯に帰国した。


季孫宿が仲壬に叔孫氏を継がせようとしたが、南遺が反対した。

「叔孫氏が厚くなれば季氏が薄くなります。叔孫の家に乱が起きている今

あなたが関与する必要はないでしょう」


南遺は魯の国人を送り、魯の国庫の前庭で仲壬を襲撃した。


司宮(宦官)が射た矢が仲壬の目に当たり、仲壬は死んだ。


豎牛は東境の三十邑を南遺に贈った。



 かくして仲壬が死に、叔孫婼しゅくそんじゃくが叔孫氏を継いだ。

叔孫婼は全ての家臣を集めて宣言する。


「豎牛は叔孫氏に禍をもたらし、秩序を乱した。

嫡子を殺して庶子を立て、無断で叔孫氏の邑を他家の者に褒賞として与えた。

これほどの罪人を放置してはならぬ。速やかに誅殺すべきである」


豎牛は畏れて斉に奔ったが、孟丙と仲壬の子が塞関さいかん(魯・斉国境)

を過ぎた辺りで豎牛を殺し、その首を斉地・寧風ねいふうの棘の上に投げ捨てたという。



 かつて叔孫豹が産まれた時、父の叔孫得臣が『周易しゅうえき』に基づいて卜筮ぼくぜいを行うと

明夷めいい」が「けん」に変わるが出た。


これを楚丘そきゅうに見せたところ

「この子は将来、他国へ出奔しますが、帰国してあなたを継ぐでしょう。

ただ、その時に「牛」という名の悪人を連れて帰国します。

そして最後は餓死するでしょう」と解釈した。


楚丘の予言は全て当たったのである。




          *    *    *




 楚の莫敖ばくごう屈申くつしんが、呉国に対して二心があると疑われ、楚霊王に殺された。

屈生くつせいが新たな莫敖に任命される。



 楚霊王は前年、晋と婚姻の約束をしたので

屈生と令尹れいいん子蕩しとうに命じ、晋の公女を迎えに行かせた。



 子蕩と屈生が鄭に入ると、鄭簡公がはんで子蕩を、菟氏としで屈生を慰労した。

その間に鄭伯は晋候に使者を送り、楚から婚姻の使者が来た事を報告する。


晋平公は自ら娘を邢丘けいきゅうまで送った。

子産が鄭簡公の相(補佐)となり、邢丘で晋平公と会見した。



 続いて魯昭公が晋に入った。

郊労(大国が小国の使者を郊外で労って迎える)から

贈賄(大国から小国に礼物を送る)まで、魯昭公は礼に則って行動した。


晋平公が女斉じょせいに言った。「魯侯は礼を理解している」

しかし、女斉は否定した。「魯侯は礼を理解していません」


「魯候は郊労から贈賄まで、無礼がなかった」


「それは儀礼であって礼ではありません。

礼とは、国を守り、政令を遍く行き渡らせ、民を失わない事です。


今、魯の政令は卿より出され、魯候はこれを取り戻せていません。

魯は盟約を犯して小国を虐げ(莒を攻めて鄆を取った)

他国の難を利としています。(莒で起きた乱を利用して鄫を取った)


公領を四分し、民は三桓に養われ、民に公の心なく

国君は魯の将来を考えず、禍難が近づいている事に気づいていない。

ただ、些細な儀礼を学ぶのみに必死では、礼を理解するにはほど遠いでしょう」




春秋時代の記録を読んで思う事

「予言者多すぎ」

いや、どうせ後付けで書いたんだろうけど。


何しろ、2600年以上も昔の話なので

色々と間違って伝わってる部分が多いようです。


はっきり言える事は、当時から中国には人が数多く住んでいて、歴史を作って来た。

記録として残ってる記述は、内容の是非を問うよりも

考古学的な価値を評価するべきだと思います。

「真実」は霞がかったように曖昧なままで、恐らく永遠に分からないままでしょう。

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