第九十六話 暴君・楚霊王
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周の景王6年(紀元前539年)夏4月、鄭簡公が伯石を相(補佐)に、晋に入った。
伯石の態度は恭敬で、礼に適っていたので、晋平公は称賛して
策書(賜命の書)を与えて告げた。
「汝の父・子豊の晋に対する功労に報い、州県の地を下賜しよう」
伯石は再拝稽首し、策書を受け取って退出した。
時の君子は言う。
「礼こそが人にとって最も重要な事である。
伯石は卿の地位を三度辞退して、子産に嫌われた傲慢な者であるが
晋でただ一度、礼を行っただけで禄を得た。
終始、礼を行っていたら、更に大きな福を得たであろう」
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伯石が晋平公より下賜された州県は、かつて晋の大夫・欒豹の邑であった。
欒氏が滅んだ後、范匄、趙武、韓起と晋累代の正卿(宰相)が自分の邑にしようとした。
趙武がかつて「温邑は私の県である」と言った事があった。
温と州は、元は周朝に属していたが、晋の領土になって温に統一されたらしい。
温邑は趙武の曾祖父・趙衰の代に晋文公から下賜された邑なので
趙武は温に属する州邑もまた自邑であると主張した。
しかし范匄と韓起がこれに異議を唱えた。
「郤称が温と州を二分して、既に郤氏、趙氏、欒氏と三代に及ぶ。
晋にあって分割された県邑は州だけではない。昔の姿で今の邑を治めるのはおかしい」
趙武は二人の意見を聞き、州県を諦めた。
范匄と韓起も、「口で正論を述べながら、利を得るのは良くない」と言って州県を諦めた。
後に趙武が正卿に就任した時、趙武の子・趙獲が
「今なら州県を取れます」と言った。
趙武が叱責する。
「范氏、韓氏の言は義である。義に背けば禍を招く。今、有する県を治める事も出来ず
更に州を得て、自ら禍を招く事は出来ない。今後、州について語る者は処罰する」
伯石は晋に滞在中、公館を利用せず、晋の正卿・韓起の邸に滞在していた。
州県が伯石に下賜されたのは、伯石と親しい韓起が晋平公に進言したからであった。
後に伯石は州県を晋に返還し、4年後に州県は韓起に与えられ、韓氏の領有となった。
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夏5月、滕成公の葬儀に参加するため、魯の叔弓が滕に向かった。
子服椒(恵伯)が介(副使)を勤める。
だが、魯の郊外で子服椒の父・叔仲の死を知り、叔弓は滕へ行くのを中止した。
しかし、子服椒が言う。
「滕へ行くのは君命、つまり公事。我が父の死は私事に過ぎません。
公の利をまず考えるべきで、私事は後回しにします。臣が先に行くことをお許しください」
子服椒は先に滕国へ入り、賓館、宿泊の手配を済ませた後
魯へ帰国して父の葬儀を行い、喪に服した。
その後、叔弓が滕に入り、滕成公の葬儀に参列した。
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晋の正卿・韓起が斉の公女を迎えるため、斉国に入った。
斉から晋に嫁ぎ、僅か1年で亡くなった少姜は晋平公の寵愛を受けていたので
斉の上卿・子尾は、自分の娘を公女として晋に送り、本物の公女は他に嫁がせた。
これを知った、ある者が韓起に告げた。
「子尾は晋を騙しています。なぜこれを受け入れるのですか」
韓起が言う。
「わしは斉国を得るつもりだ。子尾は斉公の寵臣である。
子尾を遠ざければ、斉にいる他の寵臣がわしに近づかなくなる」
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秋7月、鄭の相・子皮が晋に入り、晋候の夫人を祝賀した。
その席上で晋候に、鄭が抱える楚との問題を告げた。
「楚では新君が即位しましたが、我が国が楚に朝見しないと譴責しています。
しかし、鄭君が楚に行けば、晋君は我が君を疑うのではないかと恐れています。
もし行かなかったら、宋の盟約(諸侯は晋・楚両国に朝見する)に背きます。
どちらを選んでも鄭は罪を得てしまうので、鄭君は臣を派遣し
我が国は如何すべきかと、相談に参りました」
韓起が叔向を送って答を告げた。
「鄭君の心が晋君にあるなら、楚を恐れず、宋の盟に従えば宜しい。
盟約を忘れなければ、鄭は晋から罪を得る事もありません。
鄭君は楚を朝見するべきです。心の中に晋君がいるなら、楚にいても晋にいるのと同じ」
晋の大夫・張趯が、鄭にいる子大叔に使者を送って伝えた。
「前回、子が鄭に帰国した後、私は先人の敝廬を掃除して
子との再会を期待していましたが、上卿(子皮)が来たので失望しました」
子大叔が返事を還す。
「臣は身分が低いので、此度は晋に入る事が叶いませんでした。
これは小国が大国を畏れ、大国の夫人を尊ぶからです」
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小邾の国君・穆公が魯に来朝した。
魯の卿・季孫宿は、魯の属国に過ぎない小国である小邾を軽視して
あえて諸侯の礼を用いず対応しようとしたので、叔孫豹が指摘した。
「曹、滕、邾、小邾は小国なりとも、我が国との友好を忘れた事がない。
敬意をもって迎え入れても尚、二心を抱かれる事を畏れる。
それなのに、特定の一国を見下して対応したら
他の、友好関係にある国々を迎え入れる事は叶わなくなろう」
季孫宿は叔孫豹の忠告に従った。
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秋8月、斉景公が莒国に入り、狩猟を行った時、
慶封の乱の後、莒に亡命していた盧蒲嫳に出会った。
盧蒲嫳は泣きながら景公に謁見した。
「臣も年を取りました。最後は斉で死にたく存じます」
「子雅と子尾に、汝の帰国について話してみよう」
斉景公は斉に帰国した後、両者にこの件について聞いた。
子尾は盧蒲嫳の帰国に賛成したが、子雅は反対した。
「盧蒲嫳は策謀の士です。高齢で衰えたといえ、油断は出来ません」
9月、子雅は盧蒲嫳を燕国に追放し、間もなく子雅は死んだ。
大夫・司馬竈が晏嬰に語る。「斉は子雅を失いました」
晏嬰は「惜しい事である。子雅の子・旗は禍から逃れられない。
姜姓の一族は危うい。今後ますます衰えるであろう」と言った。
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春秋時代では、かなり存在感の希薄な国、燕(北燕とも)。
燕の国都・薊は現在の中国北京市房山区にある。
現在の中国では首都として繁栄を極める北京市であるが
この時代の燕国は北狄の根拠に近く、しばしば山戎の侵攻を受ける。
諸侯の会盟に参加する事も稀で、それを理由に盟主の晋・楚から攻め込まれた形跡もない。
黄河・長江流域を拠とする中原諸侯から見ると、燕は意識の外にあるらしい。
この時の燕君は簡公で、人への好悪の偏りが強い。
寵臣が多く、諸大夫を退け、自身の寵愛する者に官位を与えようとしたので
燕の諸大夫たちは連合して簡公の寵臣を殺した。冬10月の事である。
身の危険を感じた燕簡公は君位を棄て、斉に出奔した。
斉を逐われて燕に出奔した盧蒲嫳と入れ替わるような形である。
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同じく冬10月、鄭簡公が楚に朝見する。子産が相を勤めた。
楚霊王は享礼で鄭簡公をもてなし、『吉日』を賦した。
周宣王が狩猟を行った詩で、楚王は鄭伯を狩猟に誘っている。
享が終わると、子産が狩猟の準備を整え
楚霊王と鄭簡公は江南の雲夢で狩りを行った。
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年が代わり、周の景王7年(紀元前538年)春正月、許悼公が楚に入った。
楚霊王は許悼公と鄭簡公を楚に留め、再び江南で狩りを行った。
楚霊王は諸侯を楚の盟下にするため、伍挙を晋に派遣した。
鄭と許の二君は楚に留め、伍挙の帰国を待つように命じた。
伍挙が晋平公に謁見し、楚霊王の言葉を晋候に伝えた。
「楚君は臣を晋に派遣し、晋候にこう伝えよと申されました
『宋の盟が成立して以降、諸侯は晋楚の両国に対して
交互に朝見させる事が約束されました。しかし近年、楚国は多難にして
我が国は、諸侯と格別の誼を結びたく考えております』
もし、晋候に四方の憂いなくんば、貴君の威を以て諸侯を動かして頂きたく存じます」
晋平公は要求を拒否したかったが、司馬侯が告げる。
「楚君は驕慢になっています。これは天が楚君の欲を満足させる事で
罰を与えようとしているのです」
平公は反論する。
「だが、楚君が善い終わりを迎えるかもしれないではないか」
「晋も楚も、天によって覇権が与えられたので、互いに争うべきではありません。
我が君は楚の要求に同意し、徳を修め、その結末を見極めるべきです。
楚君が徳に帰するようなら、晋も諸侯も、楚に仕える必要があります。
悪逆に向かえば、楚は自ら覇を棄てるでしょう。争う必要はありません」
「今の晋に敵対できる者はいない。国は険阻で、人も馬も豊富に揃い
一方で斉と楚は多難である。晋が失敗する理由などない」
「地形と人馬に頼り、隣国の難を喜ぶのは、殆(危険)です。
古来、険阻な地を領有した国は数多いのに、幾度も興亡が起きました。
北方は良馬を多く産出しますが、有力な国が興った試しはありません。
それゆえ、先王は国を好く治めるのに、徳行と名声を高めたのです。
隣国の多難は、その国を固め、兵を強くするかもしれません。
逆に平穏な国は、難がないために弱まり、領土を失うかもしれません」
平公は楚の要求を受け入れることにした。
晋の叔向が伍挙に語る。
「晋君は社稷の事があり、自ら会見に行く事は難しいでしょう。
諸侯は楚君が既に擁しています。晋の命を求める必要はありません」
次に伍挙が叔向に言う。
「楚君は晋と誼を交わすべく、婚姻を求めておられます」
叔向が楚との婚姻について晋平公に話すと、同意した。
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伍挙が晋にいる間、鄭伯は楚の江南・雲夢に留まっているため
鄭君の相を勤める子産も、共に楚に滞在している。
楚霊王が子産に尋ねた。
「晋君は、諸侯がわしに帰順することを許すであろうか」
「許すでしょう。晋君は目先の安定を求め、志は諸侯になく
晋の卿大夫は貪婪で、君の過ちを正そうとしません。
宋の盟では楚・晋が一つになることを誓いました。
もし楚君に同意しなかったら、盟約の意味が失われます」
楚霊王が更に尋ねる。
「諸侯は楚に来ると思うか」
「宋の盟に従うなら来ます。楚君の歓心を求め、大国(晋)を畏れる必要がありませんから。
しかし魯、衛、曹、邾は来ないでしょう。曹は宋を畏れ、邾は魯を畏れ
魯と衛は斉の圧力を受けているため、晋と親しくしています。
よってこれらの国は来ないでしょう。その他の諸侯は来るはずです」
楚霊王が子産に問う。
「わしが望む事は全て実現するのか」
「人から強いて満足を得ようとしたら、人は反発するものです。ゆえに失敗します。
他の人と願いを同一にしたら、全て成功するでしょう」
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夏、諸侯が楚に入ったが、魯、衛、曹、邾は来なかった。
曹と邾は国難、魯は祖先の祭祀、衛は国君・襄公の病が理由であったが
実際は子産が楚霊王に語った事が真意であろう。
楚に滞留している鄭簡公は、申の地に入り、そこで諸侯の到着を待つ。
6月16日、楚霊王、蔡霊侯、陳哀公、鄭簡公、許悼公、滕悼公
徐君、頓君、胡君、沈君、小邾君、宋の太子・佐、淮夷が申で会した。
伍挙が霊王に言った。
「諸侯は礼のあるところに帰すといいます。今、我が君は初めて諸侯を得ました。
礼を慎重に行うべきです。楚の霸業が成るか否か、この会にかかっております。
夏啓王には鈞台の宴、商湯王には景亳の命
周武王には孟津の誓、周成王には岐陽の蒐(狩猟)
周康王には豊宮の朝、周穆王には塗山の会
斉桓公には召陵の師、晋文公には践土の盟がありました。
ここには宋の向戌と鄭の子産が来ており、二人とも賢臣です。
この会盟でどの礼を用いるべきか、彼等の意見を聞くべきです」
楚霊王は「わしは、斉桓公の礼を用いよう」と言って、向戌と子産の意見を聞いた。
向戌は楚霊王に、公・候爵が諸侯と会見する時の六礼(六種の儀礼)を教えた。
これは盟主が諸侯に対する時の礼である。
宋は斉桓公の没後、宋襄公が覇権を求めて諸侯を集めた事があった。
このため、盟主の礼を知っており、それを向戌が楚霊王に伝えたのである。
一方、子産は伯・子・男爵が会見する時の六礼を教えた。
諸侯が盟主に対する時の礼である。
鄭国は晋・楚の二大国に挟まれ、小国としての服従を強いられてきた長い歴史があり
子産は小国として大国に仕える礼を良く弁えていた。
楚霊王は伍挙を自分の後ろに控えさせ、過失があれば指摘するように命じたが
結局、会見が終わるまで何も指摘されなかった。
会見の後、楚霊王が伍挙に理由を聞くと、伍挙はこう言った。
「臣は六礼など見た事がありません。どう指摘しろと申されるか」
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この会盟で、宋の太子・佐は遅れて来た。
佐が到着した時、楚霊王は武城で狩りをしていたので、太子・佐に会おうとしなかった。
伍挙が楚霊王に、佐に無礼を謝するように進言したので
霊王は太子・佐に使者を送った。
「わしは武城で宗廟の祭祀のために狩りをしていた。
すぐ幣(宋国の貢物)を受領しに参る。接見が遅くなることを謝する」
楚は呉と長く争っており、この会盟にも呉は参加していない。
徐君の母は呉の公女であったので、楚霊王は徐君を捕えた。
このように、楚霊王は諸侯の前で驕慢な態度を見せる事が多かったので
伍挙が楚王を諫めた。
「六王(夏啓、商湯、周武、周成、周康、周穆)と二公(斉桓、晋文)の前例は
諸侯に礼を示すためにあり、諸侯は礼があるから従うのです。
夏王・桀は仍で会を開いて有緡氏に背かれ
商王・紂は黎で蒐して東夷に背かれ
周王・幽は崇山で盟して戎狄に背かれました。
いずれも諸侯に驕慢な態度を示したため、諸侯が王を棄てたのです。
今、我が君もこれらに倣って驕慢です。これでは成功できません」
しかし、楚霊王は伍挙の諫言を無視した。
子産が向戌と語った。
「我々は楚を畏れる必要がなくなりました。
楚王は驕慢で諫言を聞かない。10年と保たないでしょう」
「仰る通りです。10年、楚王が驕慢を続けなければ、悪は遠くまで伝わりません。
10年、驕慢であり続け、悪が遠くまで伝われば、人から棄てられるでしょう。
善もまた同じで、徳が遠くまで伝わったら、興隆するのです」
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秋7月、楚霊王が蔡霊公、陳哀公、許悼公、頓君、胡君、沈君と淮夷を率いて呉を攻撃した。
宋の大子・佐と鄭簡公は先に帰国して
宋の華費遂と鄭の大夫(名は不明)が従軍する。
楚霊王は莫敖・屈申に命じて呉の邑・朱方を包囲させる。
8月、諸侯軍の攻撃により、朱方は陥落した。
朱方の大夫は、斉から魯を経て、呉に亡命していた慶封である。
楚霊王は慶封を捕え、慶氏の家族を滅ぼした。
楚霊王は慶封を諸侯の晒し者にしてから処刑しようと提案したが、伍挙が反対した。
「人を戮(処刑)する者は、欠陥を持たぬ者のみです。
慶封は斉君の命に逆らって、ここに来た者です。
黙って処刑されるとは思えません。我が君の悪名を諸侯に広めるでしょう」
しかし、楚霊王は伍挙の諫言を聞かなかった。
楚王は慶封に重厚な斧鉞(刑具)を背負わせて諸侯の陣営を歩かせつつ
「斉の慶封のようになってはならぬ。慶封は国君(荘公)を弑殺し
孤児(即位時の景公)より権を奪い、諸大夫と盟し、崔・慶への協力を強制した」
と、自身の口から宣言するように命じた。
しかし、慶封は楚霊王に逆らい、諸侯の間で、異なる宣言を行った。
「楚共王の庶子・囲(楚霊王)のようになってはならぬ。
庶子・囲は、兄(楚康王)の子である楚王・郟敖を弑殺して
楚君に就き、諸侯と盟約を結んだ叛逆の者である」
楚霊王は公子・弃疾を慶封の元へ送り、すぐ処刑した。
斉の重臣・慶封は、崔杼と並んで天下に悪名を広めたが
楚霊王を痛烈に皮肉った最後の潔さで、その悪名を幾分か和らげた。
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朱方を陥とした楚霊王は、諸侯軍を率いて更に侵攻し、頼国を滅ぼした。
頼の君主は捕えられ、両手を後ろで縛って口に璧玉を含まされた。
これは降伏の姿である。
頼の士は袒(上半身裸)にされ、棺を担がされて楚の陣に入った。
楚霊王が伍挙に、頼の君臣にどう対応するべきかを尋ねた。
「かつて楚成王が許を攻略した時、許の僖公も同じ姿にされました。
成王は自ら許君の縄を解き、口中の璧を受け取り、棺を焼却しました」
楚霊王はこれに従い、頼君を赦した。頼の社稷は鄢に遷されたらしい。
その後、楚霊王は許国を頼地に遷そうと考え
楚の大夫・闘韋亀と宮廐尹の公子・棄疾に命じて
許のために築城した。
その後、楚霊王は諸侯軍を率い、楚へ帰還した。
楚の芋尹・申無宇が言った。
「楚の禍はここから始まるだろう。諸侯を招集すれば集まり、他国を討伐すれば攻略し
辺境に築城して、諸侯は誰も反対しない。王に背く者無くして、民は安心出来るだろうか。
逆らう者なくんば、王は民を酷使する事となる。
民が苦しむ事になれば、王命に堪えられる者はいなくなり、禍乱を招く事になる」