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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第九十六話 暴君・楚霊王




               *    *    *




 周の景王6年(紀元前539年)夏4月、鄭簡公ていかんこう伯石はくせきを相(補佐)に、晋に入った。


伯石の態度は恭敬で、礼に適っていたので、晋平公しんへいこうは称賛して

策書(賜命の書)を与えて告げた。

「汝の父・子豊しほうの晋に対する功労に報い、州県の地を下賜しよう」

伯石は再拝稽首し、策書を受け取って退出した。


時の君子は言う。

「礼こそが人にとって最も重要な事である。

伯石は卿の地位を三度辞退して、子産に嫌われた傲慢な者であるが

晋でただ一度、礼を行っただけで禄を得た。

終始、礼を行っていたら、更に大きな福を得たであろう」




            *    *    *




 伯石が晋平公より下賜された州県は、かつて晋の大夫・欒豹らんひょうの邑であった。

欒氏が滅んだ後、范匄はんかい、趙武、韓起と晋累代の正卿(宰相)が自分の邑にしようとした。


趙武がかつて「温邑は私の県である」と言った事があった。

温と州は、元は周朝に属していたが、晋の領土になって温に統一されたらしい。


温邑は趙武の曾祖父・趙衰ちょうすいの代に晋文公から下賜された邑なので

趙武は温に属する州邑もまた自邑であると主張した。


しかし范匄と韓起がこれに異議を唱えた。

郤称げきしょうが温と州を二分して、既に郤氏、趙氏、欒氏と三代に及ぶ。

晋にあって分割された県邑は州だけではない。昔の姿で今の邑を治めるのはおかしい」


趙武は二人の意見を聞き、州県を諦めた。

范匄と韓起も、「口で正論を述べながら、利を得るのは良くない」と言って州県を諦めた。


後に趙武が正卿に就任した時、趙武の子・趙獲ちょうかく

「今なら州県を取れます」と言った。


趙武が叱責する。

「范氏、韓氏の言は義である。義に背けば禍を招く。今、有する県を治める事も出来ず

更に州を得て、自ら禍を招く事は出来ない。今後、州について語る者は処罰する」



 伯石は晋に滞在中、公館を利用せず、晋の正卿・韓起の邸に滞在していた。

州県が伯石に下賜されたのは、伯石と親しい韓起が晋平公に進言したからであった。


後に伯石は州県を晋に返還し、4年後に州県は韓起に与えられ、韓氏の領有となった。




               *    *    *




 夏5月、滕成公とうせいこうの葬儀に参加するため、魯の叔弓しゅくきゅうが滕に向かった。

子服椒しふくしゅく(恵伯)が介(副使)を勤める。


だが、魯の郊外で子服椒の父・叔仲しゅくちゅうの死を知り、叔弓は滕へ行くのを中止した。


しかし、子服椒が言う。

「滕へ行くのは君命、つまり公事。我が父の死は私事に過ぎません。

公の利をまず考えるべきで、私事は後回しにします。臣が先に行くことをお許しください」


子服椒は先に滕国へ入り、賓館、宿泊の手配を済ませた後

魯へ帰国して父の葬儀を行い、喪に服した。


その後、叔弓が滕に入り、滕成公の葬儀に参列した。




         *    *    *




 晋の正卿・韓起が斉の公女を迎えるため、斉国に入った。


斉から晋に嫁ぎ、僅か1年で亡くなった少姜しょうきょうは晋平公の寵愛を受けていたので

斉の上卿・子尾しびは、自分の娘を公女として晋に送り、本物の公女は他に嫁がせた。


これを知った、ある者が韓起に告げた。

「子尾は晋を騙しています。なぜこれを受け入れるのですか」


韓起が言う。

「わしは斉国を得るつもりだ。子尾は斉公の寵臣である。

子尾を遠ざければ、斉にいる他の寵臣がわしに近づかなくなる」




         *    *    *




 秋7月、鄭の相・子皮しひが晋に入り、晋候の夫人を祝賀した。

その席上で晋候に、鄭が抱える楚との問題を告げた。


「楚では新君が即位しましたが、我が国が楚に朝見しないと譴責けんせきしています。

しかし、鄭君が楚に行けば、晋君は我が君を疑うのではないかと恐れています。

もし行かなかったら、宋の盟約(諸侯は晋・楚両国に朝見する)に背きます。

どちらを選んでも鄭は罪を得てしまうので、鄭君は臣を派遣し

我が国は如何すべきかと、相談に参りました」


韓起が叔向を送って答を告げた。

「鄭君の心が晋君にあるなら、楚を恐れず、宋の盟に従えば宜しい。

盟約を忘れなければ、鄭は晋から罪を得る事もありません。

鄭君は楚を朝見するべきです。心の中に晋君がいるなら、楚にいても晋にいるのと同じ」



 晋の大夫・張趯ちょうてきが、鄭にいる子大叔したいしゅくに使者を送って伝えた。

「前回、あなたが鄭に帰国した後、私は先人の敝廬へいろを掃除して

あなたとの再会を期待していましたが、上卿(子皮)が来たので失望しました」


子大叔が返事を還す。

「臣は身分が低いので、此度は晋に入る事が叶いませんでした。

これは小国が大国を畏れ、大国の夫人を尊ぶからです」




         *    *    *




 小邾しょうちゅの国君・穆公ぼくこうが魯に来朝した。


魯の卿・季孫宿きそんしゅくは、魯の属国に過ぎない小国である小邾を軽視して

あえて諸侯の礼を用いず対応しようとしたので、叔孫豹しゅくそんひょうが指摘した。


「曹、滕、邾、小邾は小国なりとも、我が国との友好を忘れた事がない。

敬意をもって迎え入れても尚、二心を抱かれる事を畏れる。

それなのに、特定の一国を見下して対応したら

他の、友好関係にある国々を迎え入れる事は叶わなくなろう」


季孫宿は叔孫豹の忠告に従った。




       *    *    *




 秋8月、斉景公がきょ国に入り、狩猟を行った時、

慶封の乱の後、莒に亡命していた盧蒲嫳ろほへつに出会った。


盧蒲嫳は泣きながら景公に謁見した。

「臣も年を取りました。最後は斉で死にたく存じます」

「子雅と子尾に、汝の帰国について話してみよう」


斉景公は斉に帰国した後、両者にこの件について聞いた。

子尾は盧蒲嫳の帰国に賛成したが、子雅は反対した。


「盧蒲嫳は策謀の士です。高齢で衰えたといえ、油断は出来ません」


9月、子雅は盧蒲嫳を燕国に追放し、間もなく子雅は死んだ。



 大夫・司馬竈しばそうが晏嬰に語る。「斉は子雅を失いました」


晏嬰は「惜しい事である。子雅の子・は禍から逃れられない。

姜姓の一族は危うい。今後ますます衰えるであろう」と言った。




        *    *    *




 春秋時代では、かなり存在感の希薄な国、燕(北燕とも)。

燕の国都・けいは現在の中国北京市房山区にある。


現在の中国では首都として繁栄を極める北京市であるが

この時代の燕国は北狄の根拠に近く、しばしば山戎の侵攻を受ける。


諸侯の会盟に参加する事も稀で、それを理由に盟主の晋・楚から攻め込まれた形跡もない。

黄河・長江流域を拠とする中原諸侯から見ると、燕は意識の外にあるらしい。



 この時の燕君は簡公で、人への好悪の偏りが強い。

寵臣が多く、諸大夫を退け、自身の寵愛する者に官位を与えようとしたので

燕の諸大夫たちは連合して簡公の寵臣を殺した。冬10月の事である。


身の危険を感じた燕簡公は君位を棄て、斉に出奔した。

斉を逐われて燕に出奔した盧蒲嫳と入れ替わるような形である。




        *    *    *




同じく冬10月、鄭簡公が楚に朝見する。子産が相を勤めた。


楚霊王は享礼きょうれいで鄭簡公をもてなし、『吉日』を賦した。

周宣王が狩猟を行った詩で、楚王は鄭伯を狩猟に誘っている。


享が終わると、子産が狩猟の準備を整え

楚霊王と鄭簡公は江南の雲夢うんぼうで狩りを行った。




         *    *    *




 年が代わり、周の景王7年(紀元前538年)春正月、許悼公きょとうこうが楚に入った。


楚霊王は許悼公と鄭簡公を楚に留め、再び江南で狩りを行った。


楚霊王は諸侯を楚の盟下にするため、伍挙を晋に派遣した。

鄭と許の二君は楚に留め、伍挙の帰国を待つように命じた。



 伍挙が晋平公に謁見し、楚霊王の言葉を晋候に伝えた。

「楚君は臣を晋に派遣し、晋候にこう伝えよと申されました

『宋の盟が成立して以降、諸侯は晋楚の両国に対して

交互に朝見させる事が約束されました。しかし近年、楚国は多難にして

我が国は、諸侯と格別の誼を結びたく考えております』

もし、晋候に四方の憂いなくんば、貴君の威を以て諸侯を動かして頂きたく存じます」


晋平公は要求を拒否したかったが、司馬侯が告げる。

「楚君は驕慢になっています。これは天が楚君の欲を満足させる事で

罰を与えようとしているのです」


平公は反論する。

「だが、楚君が善い終わりを迎えるかもしれないではないか」


「晋も楚も、天によって覇権が与えられたので、互いに争うべきではありません。

我が君は楚の要求に同意し、徳を修め、その結末を見極めるべきです。

楚君が徳に帰するようなら、晋も諸侯も、楚に仕える必要があります。

悪逆に向かえば、楚は自ら覇を棄てるでしょう。争う必要はありません」


「今の晋に敵対できる者はいない。国は険阻で、人も馬も豊富に揃い

一方で斉と楚は多難である。晋が失敗する理由などない」


「地形と人馬に頼り、隣国の難を喜ぶのは、たい(危険)です。

古来、険阻な地を領有した国は数多いのに、幾度も興亡が起きました。

北方は良馬を多く産出しますが、有力な国が興った試しはありません。

それゆえ、先王は国を好く治めるのに、徳行と名声を高めたのです。

隣国の多難は、その国を固め、兵を強くするかもしれません。

逆に平穏な国は、難がないために弱まり、領土を失うかもしれません」


平公は楚の要求を受け入れることにした。



 晋の叔向が伍挙に語る。

「晋君は社稷の事があり、自ら会見に行く事は難しいでしょう。

諸侯は楚君が既に擁しています。晋の命を求める必要はありません」


次に伍挙が叔向に言う。

「楚君は晋と誼を交わすべく、婚姻を求めておられます」


叔向が楚との婚姻について晋平公に話すと、同意した。




         *    *    *




 伍挙が晋にいる間、鄭伯は楚の江南・雲夢に留まっているため

鄭君の相を勤める子産も、共に楚に滞在している。


楚霊王が子産に尋ねた。

「晋君は、諸侯がわしに帰順することを許すであろうか」


「許すでしょう。晋君は目先の安定を求め、志は諸侯になく

晋の卿大夫は貪婪で、君の過ちを正そうとしません。

宋の盟では楚・晋が一つになることを誓いました。

もし楚君に同意しなかったら、盟約の意味が失われます」


楚霊王が更に尋ねる。

「諸侯は楚に来ると思うか」


「宋の盟に従うなら来ます。楚君の歓心を求め、大国(晋)を畏れる必要がありませんから。

しかし魯、衛、曹、邾は来ないでしょう。曹は宋を畏れ、邾は魯を畏れ

魯と衛は斉の圧力を受けているため、晋と親しくしています。

よってこれらの国は来ないでしょう。その他の諸侯は来るはずです」


楚霊王が子産に問う。

「わしが望む事は全て実現するのか」


「人から強いて満足を得ようとしたら、人は反発するものです。ゆえに失敗します。

他の人と願いを同一にしたら、全て成功するでしょう」




         *    *    *




 夏、諸侯が楚に入ったが、魯、衛、曹、邾は来なかった。


曹と邾は国難、魯は祖先の祭祀、衛は国君・襄公の病が理由であったが

実際は子産が楚霊王に語った事が真意であろう。


楚に滞留している鄭簡公は、申の地に入り、そこで諸侯の到着を待つ。



 6月16日、楚霊王、蔡霊侯、陳哀公、鄭簡公、許悼公、滕悼公

徐君、頓君、胡君、沈君、小邾君、宋の太子・佐、淮夷じゅんいが申で会した。


伍挙が霊王に言った。

「諸侯は礼のあるところに帰すといいます。今、我が君は初めて諸侯を得ました。

礼を慎重に行うべきです。楚の霸業が成るか否か、この会にかかっております。


夏啓王かけいおうには鈞台ちょうだいの宴、商湯王しょうとうおうには景亳けいごうの命

周武王には孟津もうしんちかい、周成王には岐陽きようしゅう(狩猟)

周康王には豊宮ほうきゅうの朝、周穆王しゅうぼくおうには塗山とざんの会

斉桓公には召陵しょうりょうの師、晋文公には践土せんどの盟がありました。


ここには宋の向戌しょうじゅつと鄭の子産が来ており、二人とも賢臣です。

この会盟でどの礼を用いるべきか、彼等の意見を聞くべきです」


楚霊王は「わしは、斉桓公の礼を用いよう」と言って、向戌と子産の意見を聞いた。



 向戌は楚霊王に、公・候爵が諸侯と会見する時の六礼(六種の儀礼)を教えた。

これは盟主が諸侯に対する時の礼である。

宋は斉桓公の没後、宋襄公が覇権を求めて諸侯を集めた事があった。

このため、盟主の礼を知っており、それを向戌が楚霊王に伝えたのである。


一方、子産は伯・子・男爵が会見する時の六礼を教えた。

諸侯が盟主に対する時の礼である。

鄭国は晋・楚の二大国に挟まれ、小国としての服従を強いられてきた長い歴史があり

子産は小国として大国に仕える礼を良く弁えていた。



 楚霊王は伍挙を自分の後ろに控えさせ、過失があれば指摘するように命じたが

結局、会見が終わるまで何も指摘されなかった。


会見の後、楚霊王が伍挙に理由を聞くと、伍挙はこう言った。

「臣は六礼など見た事がありません。どう指摘しろと申されるか」




         *    *    *




 この会盟で、宋の太子・佐は遅れて来た。

佐が到着した時、楚霊王は武城で狩りをしていたので、太子・佐に会おうとしなかった。


伍挙が楚霊王に、佐に無礼を謝するように進言したので

霊王は太子・佐に使者を送った。

「わしは武城で宗廟の祭祀のために狩りをしていた。

すぐ幣(宋国の貢物)を受領しに参る。接見が遅くなることを謝する」



 楚は呉と長く争っており、この会盟にも呉は参加していない。

徐君の母は呉の公女であったので、楚霊王は徐君を捕えた。



 このように、楚霊王は諸侯の前で驕慢な態度を見せる事が多かったので

伍挙が楚王を諫めた。


「六王(夏啓、商湯、周武、周成、周康、周穆)と二公(斉桓、晋文)の前例は

諸侯に礼を示すためにあり、諸侯は礼があるから従うのです。


夏王・けつじょうで会を開いて有緡ゆうびん氏に背かれ

商王・ちゅうれいしゅうして東夷とういに背かれ

周王・ゆう崇山すうざんで盟して戎狄じゅうてきに背かれました。

いずれも諸侯に驕慢な態度を示したため、諸侯が王を棄てたのです。

今、我が君もこれらに倣って驕慢です。これでは成功できません」


しかし、楚霊王は伍挙の諫言を無視した。



 子産が向戌と語った。

「我々は楚を畏れる必要がなくなりました。

楚王は驕慢で諫言を聞かない。10年と保たないでしょう」


「仰る通りです。10年、楚王が驕慢を続けなければ、悪は遠くまで伝わりません。

10年、驕慢であり続け、悪が遠くまで伝われば、人から棄てられるでしょう。

善もまた同じで、徳が遠くまで伝わったら、興隆するのです」




           *    *    *




 秋7月、楚霊王が蔡霊公、陳哀公、許悼公、頓君、胡君、沈君と淮夷を率いて呉を攻撃した。

宋の大子・佐と鄭簡公は先に帰国して

宋の華費遂かひすいと鄭の大夫(名は不明)が従軍する。


楚霊王は莫敖ばくごう屈申くつしんに命じて呉の邑・朱方しゅほうを包囲させる。



 8月、諸侯軍の攻撃により、朱方は陥落した。

朱方の大夫は、斉から魯を経て、呉に亡命していた慶封けいほうである。

楚霊王は慶封を捕え、慶氏の家族を滅ぼした。


楚霊王は慶封を諸侯の晒し者にしてから処刑しようと提案したが、伍挙が反対した。

「人を戮(処刑)する者は、欠陥を持たぬ者のみです。

慶封は斉君の命に逆らって、ここに来た者です。

黙って処刑されるとは思えません。我が君の悪名を諸侯に広めるでしょう」


しかし、楚霊王は伍挙の諫言を聞かなかった。



 楚王は慶封に重厚な斧鉞えつふ(刑具)を背負わせて諸侯の陣営を歩かせつつ

「斉の慶封のようになってはならぬ。慶封は国君(荘公)を弑殺し

孤児(即位時の景公)より権を奪い、諸大夫と盟し、崔・慶への協力を強制した」

と、自身の口から宣言するように命じた。


しかし、慶封は楚霊王に逆らい、諸侯の間で、異なる宣言を行った。

「楚共王の庶子・囲(楚霊王)のようになってはならぬ。

庶子・囲は、兄(楚康王)の子である楚王・郟敖こうごうを弑殺して

楚君に就き、諸侯と盟約を結んだ叛逆の者である」


楚霊王は公子・弃疾きょしつを慶封の元へ送り、すぐ処刑した。



斉の重臣・慶封は、崔杼と並んで天下に悪名を広めたが

楚霊王を痛烈に皮肉った最後の潔さで、その悪名を幾分か和らげた。




           *    *    *




 朱方を陥とした楚霊王は、諸侯軍を率いて更に侵攻し、頼国を滅ぼした。


頼の君主は捕えられ、両手を後ろで縛って口に璧玉を含まされた。

これは降伏の姿である。

頼の士はたん(上半身裸)にされ、ひつぎを担がされて楚の陣に入った。


楚霊王が伍挙に、頼の君臣にどう対応するべきかを尋ねた。


「かつて楚成王が許を攻略した時、許の僖公も同じ姿にされました。

成王は自ら許君の縄を解き、口中の璧を受け取り、棺を焼却しました」


楚霊王はこれに従い、頼君を赦した。頼の社稷はえんに遷されたらしい。



 その後、楚霊王は許国を頼地に遷そうと考え

楚の大夫・闘韋亀とういき宮廐尹きゅうきゅういんの公子・棄疾きしつに命じて

許のために築城した。


その後、楚霊王は諸侯軍を率い、楚へ帰還した。



 楚の芋尹ういん申無宇しんむうが言った。

「楚の禍はここから始まるだろう。諸侯を招集すれば集まり、他国を討伐すれば攻略し

辺境に築城して、諸侯は誰も反対しない。王に背く者無くして、民は安心出来るだろうか。

逆らう者なくんば、王は民を酷使する事となる。

民が苦しむ事になれば、王命に堪えられる者はいなくなり、禍乱を招く事になる」


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