第九十五話 叔向と晏嬰
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晋の正卿・趙武にまつわる逸話をいくつか紹介する。
趙武が家を建てた時、椽(屋根を支える横木)に使う木を伐り、樹皮を削って磨いた。
夕方、大夫の張老が趙武の家を見に来たが、趙武に会わずに帰った。
それに気づいた趙武は車に乗って張老に追いつき、張老に尋ねた。
「私は子に何か失礼を働いたのであろうか」
張老は趙武にこう告げたと言う。
「天子の住まう宮殿は椽の樹皮を削り、砥石で磨いて艶やかな光沢をつけます。
諸侯は粗磨きだけ、大夫は樹皮を削るだけ、士は椽の頭を切るだけです。
使う物が適切である事を義、尊卑の等級に従うことを礼といいます。
今、子は晋で最高位に昇り、義を忘れ、富貴を得て、礼を忘れています。
だから私は禍を受けることを恐れ、何も告げずに帰ったのです」
趙武は家に帰ると磨くのを止めさせた。匠人(大工)が趙武に聞く。
「では、椽を全て荒削りの状態に戻しましょうか」
「既に磨いた物はそのままにせよ。世人に我が過ちを見せるためだ。
荒削りの椽は仁者が作り、磨いた椽は不仁の者が作ったものである」
趙武が叔向に尋ねた。
「子は晋の六卿(范、智、中行(荀)、趙、魏、韓)で、いずれが先に滅ぶと思うか」
「中行氏です。次いで智氏でしょう」
「なぜ、そう思われる」
「両氏の政治は、苛烈を明察とし、詐術を英明とし、刻薄を忠とし、謀略多きを善とし
民に重税を課して、これを良としています。
これは皮革を引っ張るのと同じで、大きく見せる事は出来ても
最後は引き裂かれます。だから早く滅亡します」
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楚の冷尹・公子・囲が、弟の宮厩尹・子晳(公子・黒肱)と大宰・伯州犁に
元は鄭領だった犨、櫟、郟の三邑に築城を命じた。
鄭ではこれを、楚が鄭を攻撃する準備ではないかと恐れたが
楚の内情を的確に把握している子産が「鄭に害はない」と言って説得する。
「令尹は大事を成すため、二子(楚王の子・莫と平夏)を除こうとしている。禍は鄭には及ばない」
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冬になり、楚の公子・囲が鄭を聘問した。伍挙が介(副使)である。
しかし、楚の国境を越える前に、公子・囲の元に、王の近侍から報せが届いた。
楚王・郟敖が病に倒れたと言う。
これを聞いた公子・囲は楚都へ引き返した。副使の伍挙が正使代理として鄭を聘問する。
11月4日、公子・囲が楚都に帰還して
王の病状を聞くという名目で王宮に入り、楚王を縊殺した。
更に公子・囲は、楚王の子である莫と平夏も殺した。
冷尹による楚王の弑逆を知って、楚の右尹・子干は晋に出奔した。
鄭との国境に近い犨で築城に携わっていた公子・黒肱はそのまま鄭に出奔した。
郟にいた伯州犁は殺され、冷尹に弑逆された楚王・郟敖はこの地に埋葬された。
公子・囲は、鄭に使者を送り、楚王が病死したと偽って郟敖の訃告を届けた。
鄭を聘問中の伍挙が使者に会って尋ねた。
「鄭伯より、誰が楚の後嗣になるのかと聞かれたら、どう答えるつもりか」
「『楚の大夫・囲』と答えます」
「『楚共王の子・囲が年長者である』 と答えたほうがよい」
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楚を出奔した子干が晋に入った。所有するのは車五乗だけである。
晋の叔向は子干を秦の后子鍼と同列に扱い
「百人の餼(百人分の糧食)」を禄として与える事とした。
晋では百人を一卒と言い、上大夫は一卒の田(百畝)の収穫を秩禄とする。
秦と楚の二公子は上大夫と同等の待遇を受けた事を意味する。
これに趙武が異議を呈する。
「秦の公子は車千乗を持ち、楚の公子より遥かに富んでいる」
叔向がこれに回答する。
「俸禄は徳を元に決められます。徳が同じなら歳を比べ
歳も同じなら地位・身分を根拠とします。
他国の公子は国の大小で禄を決め、本人の富で決めるわけではありません。
秦と楚は同格なので、出奔した者の待遇も同格にしました」
趙武は得心して、后子鍼と子干を同列にした。
しかし、后子鍼がこれを辞退した。
「臣は秦君に放逐されることを畏れ、楚の公子は国君に疑われて晋に出奔しました。
今は共に晋君の命に従う立場にいますが、同列になるべきではありません。
後に来た楚の公子は客であり、客は敬わねばなりません」
后子鍼は子干を尊重するように勧めたが、趙武と叔向は待遇を変えなかった。
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楚の公子・囲が楚王に即位した。楚霊王である。
冷尹は薳罷(子蕩)、大宰は薳啓疆が任命された。
鄭の子大叔が楚に入り、先君・郟敖の葬儀に参列してから
楚霊王の即位を祝って聘問した。
子大叔は鄭に帰国した後、子産に告げた。
「新たな楚君は驕慢奢侈で、自分に過剰な自信を抱く者です。
すぐ諸侯を招集して会盟を開くでしょう。今から準備をするべきです」
しかし、子産は言う。「楚が会を開くのは数年後であろう」
事実、楚霊王が諸侯との会盟を開いたのは、これより三年後、申の地であった。
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趙武が南陽に行き、曾祖父・趙衰の祭祀の準備をした。
温邑に趙孟子余(趙衰)の廟があり、趙武が烝祭を行う。
12月7日、趙武が亡くなった。
趙武は死後、文と諡されたため、死後は趙文子と呼ばれる。
趙武を継いで趙氏の当主となったのは、趙武の子・趙成である。
鄭簡公が趙武を弔問するため、晋に向かったが
諸侯に仕える大夫の弔問に国君が参加するのは相応しくないとして
趙成は人を送り、弔問を断ったので、鄭簡公は雍に至ったところで鄭に引き返した。
晋平公が九原(晋の卿大夫の墓地)に行き、嘆息して言った。
「ここには晋の名臣が多く眠っている。もし死者を蘇らせるなら、誰にすべきであろうか」
叔向は即座に答えた。「趙武です」
平公が返す。「汝は趙武に長く仕えた。贔屓しているのではないか」
「私は以前、趙武と共に、この九原に来た事がございました。
その時、趙武も我が君と同じ質問をなさったのです。
『叔向、ここに眠る死者を復活出来るなら、誰と帰るべきであろうか』
『陽処父は如何でしょうか』
『陽処父は剛直に過ぎ、計が無かったが故に
禍から逃れられず、狐射姑に殺された。その智謀は称賛出来ぬ』
『では、咎犯(狐偃)などは』
『咎犯は利を見て主を顧みなかった。文公(重耳)と共に亡命生活を送りながら
帰国する時に去ろうとしたのだ。その仁は称賛に値しない。
私は士会が良い。彼は人に意見を求め、常に諫言を受け入れた。
自分の善行や功を語りつつも友の善を忘れず、国君に仕えれば
身内を優先せず、賢人を薦め、国君に阿諛せず、不肖の者を退けたのだ』
「人々は、趙武は虚弱で、声も小さかったと評しています。
しかし彼は平民の家に住み、46人の士を抜擢し、全員を満足させ
晋の公子も彼等に頼っています。これは趙武に私欲が無かったからです。
だから臣は趙武を賢人だと思うのです」
平公は納得して「趙文子(趙武)、甚だ善し」と言った。
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周の景王5年(紀元前540年)春、晋平公は韓起を魯に送って聘問した。
前年、魯昭公が即位した事を祝うためと
晋の正卿・趙武が亡くなり、韓起が新たな晋の正卿に就任した事を伝えるためである。
韓起は魯の大史を訪ねて『周易』『象』『魯春秋』を読んだ。
「周の礼は全て魯にある。周公の徳と、周が王になれた理由を
私は、今になってようやく知る事が出来た」
魯昭公が韓起を享(立会の宴)に招いた。
季孫宿が『緜』の末章を賦した。
周文王に仕えた優れた臣を歌っており、文王を晋君、優れた臣を韓起に喩えている。
韓起は返礼に『角弓』を賦した。兄弟の和睦を歌っている。
季孫宿が拝礼して言った。
「子が魯を晋の兄弟として欠点を補ってくださるので、敢えて拝させていただきます。
我が君にも、まだ希望があります」
季孫宿は『節』の末章を賦した。「万国を隆盛させる」で締められており
「全ての国が晋の徳によって恩恵を受ける」という意味で引用した。
魯昭公の享が終わると、次に季孫宿の家で酒宴が開かれた。
彼の家の庭に一本の美しい木があったため、韓起が称賛した。
季孫宿が「『角弓(韓起が賦した詩)』を忘れえぬため、この木を大切に育てましょう」
と言って『甘棠』を賦した。西周初期の賢臣・召公奭を称える詩である。
韓起は「臣如き者など、古の召公には到底及びません」と恐縮した。
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魯を出た韓起は斉に入った。晋平公と斉の公女との婚姻のため、幣(財礼)が贈られた。
韓起は斉の卿・子雅に面会し、子雅は嫡子・旗を招いて韓起に会わせた。
韓起は旗を見て、「家を守る主としても、国君に仕える臣にも相応しくない」と評価した。
次に韓起は斉の上卿・子尾に会い、子尾も嫡子・彊を招いた。
韓起は子旗と同じ評価をした。
斉の大夫はみな韓起を笑ったが、唯一人、晏嬰は韓起の評を信じた。
「韓起は君子である。君子には信がある。その判断には根拠がある」
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韓起は斉を出て、衛に向かった。聘問が終わると、衛襄公は享礼で韓起を歓待した。
北宮佗が『淇澳』を賦した。
衛の名君・武公を称賛した詩で、韓起の徳は武公に匹敵するとの意味が込められている。
韓起は『木瓜』を賦した。
木瓜を呉れたら玉でお礼をするという詩で、衛の友好に厚く報いることを意味する。
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夏4月、韓起の子・韓須が斉に入り、晋平公に嫁ぐ斉の公女・少姜を迎えた。
斉景公は上大夫・陳無宇に命じ、少姜を晋まで送らせた。
この時、少姜を送って来た者が卿ではなかった事に対して
晋平公は怒り、陳無宇を捕えて晋邑の中都に監禁した。
本来、卿が送るのは正妻という決まりがあるが
晋平公は、少姜に対して正妻と同じ礼を用いなかった事が不満であった。
この時、少姜が陳無宇を弁護した。
「送る者と迎える者の地位は同等である事が正しいのです。
この度、小国(斉)が大国(晋)を畏れ、遠慮する余りに、誤解と混乱が生じました」
公女を迎えに行った韓須は晋の公族大夫で、送って来た陳無宇は斉の上大夫である。
この場合、陳無宇の方が地位は上にあたる。
斉は晋を自国より上の大国と見做し、陳無宇を派遣した結果、混乱が生まれたので
「韓須よりも身分が高い陳無宇が来るべきではなかった。
それなのに晋に来たから、彼は逮捕された」と
少姜は、わざと曲解する事で、平公の不満を解こうとしたのである。
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魯候は韓起の聘問に応えるため、大夫・叔弓を晋に派遣し、聘問させた。
晋平公が使者を送り、郊外で労おうとしたが、叔弓は辞退した。
「魯候は晋・魯の旧好を継続させるために臣を派遣して『汝は賓客になってはならぬ』
と命じられたのです。晋の使者を煩わせるには及びません」
晋都に到着した叔弓を、晋平公は賓館に住ませようとすると、叔弓は言った。
「魯君は臣に旧好を継続させることを命じました。
晋と魯の友好が結ばれれば、臣は使命を完遂し、臣の功となります。
賓館に入る事は出来ません」
晋の叔向が言う。
「叔弓は礼を知っている。忠信は礼の器。謙譲は礼の基本である。
常に国を想うのは忠信である。先に国事を語り、後に自分を語るのは謙譲である。
彼は徳に近づく者である」
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秋、鄭の子晳が子大叔を除き、その地位を奪おうと目論んでいたが
前年、子南に負わされた怪我のせいで実行出来ないままであった。
子晳の横暴に手を焼く駟氏の族(子晳と同族)と鄭の諸大夫は
このままでは子晳が一族に禍を及ぼすと畏れ、これを除く相談をした。
この時、鄭の執政・子産は鄭の辺境にいたが
この情報を聞くと、伝車に乗り、鄭都へと急行した。
鄭都に還った子産は官吏に命じて、子晳の罪状を宣言させた。
「兼ねてより、汝の乱心は尽きず、鄭国は汝を許容出来なくなった。
汝が伯有を討った事は、一つ目の罪である。
兄弟で妻を争ったのは、二つ目の罪である。
薫隧の盟で君位を偽ったことは、三つ目の罪である」
子晳が再拝稽首して言う。
「臣は負傷しております。これは天が私を殺そうとしている証です。
何者の援けも必要ありません。自ずから死ぬ事になるでしょう」
子産が言った。
「人はみな、必ず死ぬが、咎人は善い終わりを迎える事は出来ない。
凶事を行った者は凶人であり、罪を犯した者は罪人である。
天が凶人を助け、良い終わりを迎えるというのか」
子晳は、我が子・印を褚師(市場の官吏)に任命するように請うた。
子産は応える。
「印に才があれば鄭君が任命するであろう。不才ならば、汝の後を追う事になろう。
汝は自分の罪を心せよ。自ら死なねば、司寇が汝を裁く」
7月1日、子晳は自害して果てた。
子晳の遺体は周氏(地名)の衢(大通り)に晒され、罪状を書いた木札が立てられた。
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晋平公に嫁いで間もない少姜が急死した。
死因は謎であるが、状況からすれば、晋候に対する諌死であったのかもしれない。
叔向は陳無宇を釈放させるため、晋平公に諫言した。
「陳子に何の罪があるでしょう。我が君は公族大夫に迎えに行かせ
斉はこれに対し、上大夫を晋に送って来ました。
これでも不満と申されるなら、我が君は貪欲に過ぎます。
晋が不肖でありながら、他国に対して刑を用いるのは偏っています。
これで諸侯の盟主と言えるでしょうか。死んだ少姜の言葉もございます」
冬10月、晋平公は陳無宇を釈放した。
年内に、魯、衛、蔡の大夫が少姜の弔問に晋を訪れた。
年が明けて周の景王6年(紀元前539年)春正月には
鄭の卿・子大叔が晋に入り、少姜の葬礼に参加した。
晋の大夫・梁丙と張趯が子大叔に会った。
梁丙が問う。
「子は鄭で卿の位にあります。
晋候の妾の葬礼に参加するのは、些か度を越えていませんか」
子大叔が答える。
「昔、晋の文公・襄公が霸を称えた頃は、諸侯を煩わせる事はなく
諸侯は三年に一回の聘問と、五年に一回の朝見を行い
事があれば会し、諸侯の間に不協あらば盟約を結びました。
国君が薨じれば大夫が弔問し、卿が葬事に参加しました。
夫人が亡くなれば士が弔問し、大夫が送葬しました。
礼を明らかにし、命を発し、不足を補う相談だけで足りていたのです。
しかし今は、寵姫の喪でも適切な人選が許されず、夫人に対する礼を越えても
ただ罪を得る事を畏れ、それを煩瑣と思う事もありません。
少姜が寵を受けて死んだため、斉は続けて妻妾を送ります。
私は祝賀のために再び晋に来なければなりません」
張趯が言った。
「私は今、礼数(聘問・朝見・弔問・葬送の礼)について知った。
しかし今後、子に煩わしい事は起きないでしょう。
例えば、火(火星(さそり座のアンタレス))が天に昇ったら、寒暑が減退します。
これは極(頂点)というものです。物事は極に至れば減退します。
いずれ、晋は諸侯を失い、諸侯の煩いは無くなるでしょう」
後に子大叔が人に語った。
「張趯は物事の道理を良く知る者である。君子の列に並ぶべき人物かもしれない」
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春1月9日、滕成公が崩御し、子の寧が即位した。滕悼公である。
諸侯の盟主である晋は、国君の妾の死でさえも諸侯の弔問を受けるが
滕の如き小国は、国君が薨去しても諸侯の関心は薄い。
斉景公が晏嬰を晋に派遣して、新たに妻妾とする女性を送ることを請うた。
晋に入った晏嬰が語る。「斉君はこう申されました。
『斉は晋に仕え、朝見を行うにも、国事多難により、自らの来朝は叶いません。
幸いにも先君(斉荘公)の適(少姜)が晋候の後宮に入り
我が意を明らかにしたと喜んでおりましたが、適は幸寡なくして早逝しました。
今一人、先君の適(公女)が斉におりますので、もし晋候が斉を棄てず
使者を送って慎重に選び、姫妾に加えるとしたら、それは我が望です』」
晋の正卿・韓起は叔向を晏嬰に送って答えた。
「それは晋君の願いでもあります。晋の社稷を一人で担うには重く
未だ伉儷(正妻、配偶者)もいませんが、今は喪中ゆえ、敢えて請いませんでした。
斉候が左様に申されるなら、これに勝る大恵はありません」
晋と斉の婚約は成立した。
晏嬰は賓享(賓客のための形式的な宴)の礼を受け
その後、叔向に従って酒宴に参加した。
叔向が「今、斉はどんな様子ですか」と問うと、晏嬰はこう答えた。
「季世(末世)です。斉はいずれ、陳氏に取って代わられるでしょう。
陳氏に大徳はありませんが、公事を利用して民に私恩を施しています。
ほどなく斉の民はことごとく陳氏の元に帰するでしょう」
続いて叔向が晏嬰に語る。「晋もまた季世です。晋の諸卿は自らの私兵のみ整え
一方で晋公室の兵は放置されて退廃し、兵車には御者も車右も車左もいません。
晋君は民に重税をかけて台池を築き、政事を慮っていません。
晋の政治は権門にあり、庶民は疲弊し、道には餓死者が軒を連ね
民は君命を聞くと、まるで盗賊が来た時のように逃げるのです」
晋の叔向と、斉の晏嬰は、共にこの時代を代表する賢者である。
この両名が互いに自国の有様を嘆く対談の内容は
春秋時代の中期から末期にかけての諸侯の様子が窺え、興味深い。
なお、両者の会話は、多くを割愛させて頂いた。
晏嬰は陳氏の、升量りを用いた人心掌握術の巧妙さ
叔向は晋の公族大夫の行く末について予見を行っている。
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かつて斉景公は、晏嬰の家を訪問した事があった。
「汝の家は市に近く、湫(土地が低く、湿気が多い)、隘(狭い)
囂(騒がしい)、塵(塵埃が多い)である。
住むのに不便であろう。もっと爽(明るい)で塏(土地が高く乾燥している)な地に移るべきだ」
晏嬰は辞退して言った。
「この地は我が祖先が先君より頂戴したのでございます。
臣はこの家に住めるだけで充分です。それに、市の近くに家があるのは便利です」
景公が笑って聞いた。
「汝は市の近くに住んでいる。ならば貴賤(物価の高低)には詳しいのか」
「無論、存じております」
「当世、何が貴(高い)で、何が賤(安い)であるか」
「踊(義足)が貴であり、靴が賤です」
当時、斉景公は刑罰を頻繁に用いており、踊がよく売れていた。
晏嬰の言を聞いた景公は、翌日、多くの刑罰を廃止する政令を出した。
斉の民はみな斉候を称賛し、天下の君子(知識人)たちは
「仁人の言は、広く利をもたらす。晏子の一言が斉侯に刑を省かせた」
と言い、晏嬰を称賛した。
晏嬰が晋に行っている間に、斉景公は晏嬰の家を建て替えた。
場所は遷さず、近所に住む者を他所へ追い出し、建物を大きく、豪華にした。
新たな家が完成した頃、晏嬰が晋から帰国した。
晏嬰は景公に拝謝すると、新居を取り毀して隣人を呼び戻し、元の家に戻した。
景公は同意しなかったが、晏嬰は陳無宇を通じて請願し、許可された。