第九十三話 公子・囲の野望
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周の景王3年(紀元前542年)春正月、魯の叔孫豹が澶淵の会から還り
仲孫羯、季孫宿に語った。
「晋の趙武はもうすぐ死ぬだろう。目先のことしか考えず、遠くが見えていない。
歳は56歳だが、話し方がくどく、90歳の老人のようである。あれでは長生きできない。
趙武の死後、晋を担うのは韓起であろう。彼は君子である。
晋君はいずれ権を失う。魯国のためには韓氏との関係を強めるべきだ」
しかし仲孫羯と季孫宿は、趙武は古今に稀な傑物と認識しているので
叔孫豹の主張には賛同しなかった。
叔孫豹は失望して「趙武よりも、彼らは更に無責任である」とのみ言った。
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斉の上卿・子尾が今、脅威と感じているのは
その勇猛さで斉候の信任を得た、閭丘嬰である。
そこで、子尾は斉景公に閭丘嬰の讒言を吹き込み
その信任を失わせようと目論んだ。
閭丘嬰は横暴な性格だが戦に強いため、多くの勇士が彼の元に集っている。
これを警戒した斉景公は、子尾の讒言もあり、彼の排除を命じた。
子尾は斉君の命であるとして、閭丘嬰に魯の陽州(廬邑)攻撃を命じた。
閭丘嬰は廬邑を攻め、これを陥とした後
魯襄公は、譴責の使者を斉に送ってきた。
子尾は出兵の責任を閭丘嬰に被せ、これを処刑した。
更に、閭氏の一族、それに閭丘嬰と親しかった者を攻撃する。
工僂灑、渻竈、孔虺、 賈寅は莒国に出奔し
斉の公子たち(子山、子商、子周等)も放逐された。
子尾は斉の名家・高氏の連累で、名門の血筋を引いている。
かつての崔・慶ほどではないが、やはり斉で専横を奮う存在となりつつある。
斉の国君・景公は酒を好み、政治にそれほど関心を払わず
これが家臣の専権を許す要因となっている。
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魯襄公は、かつて楚を朝見した時に、楚の壮麗な王宮を観て
これを模造したくなり、魯に楚宮を築いた。
叔孫豹(穆叔)が魯候を批判する。
「民の欲するところに天は従う。我が君は楚を欲したから楚宮を築いた。
もし再び楚に行かないのであれば、この宮で死ぬだろう」
夏6月28日、魯襄公が楚宮で崩御した。
魯候の喪中で宮中が多忙であった折、叔仲帯が襄公の大璧を盗んだ。
叔仲はそれを侍従の懐に隠し、後でそれを受け取った。
これ以降、叔仲帯とその子孫は魯で軽視されるようになった。
次の魯君に、魯襄公の妾・敬帰(胡国の公女)が産んだ公子・子野を
魯候に即位させるため、子野を太子にして、季氏の家に住ませたが
子野は魯襄公の死を過度に哀痛して身体を壊し、秋9月11日に亡くなった。
更に、9月17日には重臣の仲孫羯も卒した。
季孫宿は、敬帰の妹・斉帰が産んだ公子・稠を即位させようとしたが
叔孫豹がこれに反対した。
「太子が死んだ場合、同母弟を次の太子に立て、いなければ年長者を太子に立てる。
同年なら賢才の方を選び、才・徳が同じなら卜って決める。それが古の道である。
子野は太子ではなかったのに、なぜ母の妹の子を立てるのか。
公子・稠は喪に服しても悲しまず、憂中にありながら喜色を表す。
不孝の者を国君に立てたら国に憂いを齎すであろう」
しかし、季孫宿は公子・稠を魯君に立てた。魯昭公である。
魯襄公の葬儀が始まってから、新君・魯昭公は三回、喪服を着替えた。
昭公は19歳だが、まだ童心にあり、子供のように遊ぶため
新しい喪服の襟がすぐ汚れてしまうからであった。
魯の君子たちは、魯の新君は終わりを全うしないであろうと噂した。
冬10月、魯の属国である滕の国君・成公が魯襄公の葬礼に参加した。
その行動は不敬であったが、涙を多く流した。
これを見た孟椒が言う。
「滕君は間もなく死ぬだろう。不敬なのに涙が多すぎる。
葬礼で不祥の兆しを見せた者は、死者(襄公)に従う事になるのだ」
10月21日、魯襄公は埋葬された。
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鄭では10月に子産が鄭簡公に従って晋に朝見した。
しかし、晋平公は魯襄公の喪を理由に会おうとしなかった。
すると、子産が臣下を送って賓館の壁を破壊し、車馬を入れた。
晋の大夫・士伯瑕が子産を譴責する。
「今、晋では刑罰が徹底されておらず、窃盗が横行しており
諸侯が晋君を朝見するのに不便や不安がありましたから
賓客の館舎を完備させ、門を高くし、壁を厚くして心配を除いたのです。
壁を壊した理由の説明をして頂きたい」
子産が回答する。
「鄭は小国で、しかも大国に挟まれ、頻繁に幣(貢物)を要求されています。
そのため、上下とも安寧な生活に満足せず、重い税を徴収して備えているのです。
今、晋君と正卿(趙武)に暇がなく、いつ朝見出来るか分からないために
幣を晋の府庫に納められず、晒しておく事も出来ず、このままでは腐ってしまいます。
故に、壁を壊して幣物を保管する場所を確保したのです。
幣を納めれば、我々は壁を修繕してから帰国します」
士伯瑕が帰って趙武に報告した。
趙武は「子産の言う通りだ。これは我が不徳であった」
と言い、再び士伯瑕を送って不明を謝罪した。
晋平公は鄭簡公に接見し、礼を以て盛大な宴を開き、多くの礼物が簡公に贈られた。
その後、諸侯の館舎が修築された。
叔向が言った。
「言葉とは重要である。子産の言辞によって諸侯が利を得る事となった。
『言葉が和していれば民が協調し、言葉に理があれば民は安定する』と言う。
子産はこれを理解している者である」
鄭簡公と子産が帰国した後、鄭の重臣・子石は
楚を訪問して、晋に入朝したことを報告した。
宋の盟(弭兵の会盟)で晋・楚両国への朝見・聘問が義務付けられたためであった。
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莒犁比公は暴虐な振舞いが多く、莒の国人から嫌われている。
莒君には斉の公女が産んだ子・去疾と
呉の公女との間に産まれた展輿の二子がいる。
犁比公は始め、展輿を太子に立てたが、暫くして廃嫡した。
11月、廃嫡に怒った展輿が莒の国人と協力して犁比公を攻撃、これを弑逆した。
展輿が自ら莒の国君となった。
公子・去疾は母の祖国である斉に出奔した。
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絶世の美女・夏姫を得るために楚を出奔し、晋の臣となった巫臣。
蛮夷と言われた長江下流域の国・呉に中原の文明や戦いの方法を伝え
特に、兵車戦を伝授した事で、呉は楚と互角以上に戦える事が可能となった。
巫臣は既に病没して久しく、呉に仕える巫臣の子・屈狐庸も老齢である。
呉の重臣として永く仕える屈狐庸は、この年、晋を聘問した。
晋・呉両国の往来をより密にするのが目的である。
晋の趙武が屈狐庸に問うた。
「延州来季子((季札)。季札は延陵と州来に封じられ、延州来と呼ばれる)
は、呉君に即位するであろうか。
巣の役で諸樊が楚帥によって斃れ、越の閽が余祭を討ったと聞く。
これは天が季札に道を開いたのではないか」
屈狐庸がこれに答えた。
「二君の死は天命であり、季子に道が開かれた訳ではありません。
天が道を開いたのなら、それは今の呉君(余昧)のためです。
呉君は徳度を持ち、民を失わず、事を過つ事がありません。
民は国君に親しみ、その行いに秩序があります。
呉国を継ぐのは今の国君の子孫でしょう。
季子は節度を守る人です。国を有しても、自らが立つ事はありません」
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12月、衛襄公が楚に入朝した。衛候の相(補佐)を勤めるのは北宮佗である。
宋の盟(弭兵の会盟)に則った朝見である。
衛襄公が楚に向かう途上で鄭を通過した時、鄭の子石が棐林で慰労して
聘問と同等の礼で、衛候に慰問の辞を述べた。
衛はこの答礼として、北宮佗が鄭都に入り、鄭簡公を聘問した。
鄭では子羽が行人(賓客を対応する役目の者)を勤めて
馮簡子と子大叔が北宮佗を迎えた。
聘問が終わって戻った北宮佗が衛襄公に報告した。
「鄭には礼があります。これは以後数代に渡って鄭の幸いとなるでしょう。
鄭が大国から討撃を受けることはありません。
政治における礼とは、酷暑に水を浴び、爽快を得るようなものです」
鄭国は子産が政治を行うようになって、能力のある者が抜擢され、役職が与えられる。
諸侯との交渉では、まず子産が子羽に諸侯の事情を尋ね、辞令を作らせる。
その後、子産は裨諶と同じ車に乗って郊外に出て、事の良し悪しを相談し
これを馮簡子に告げて決断させ、 事が確定すると子大叔に授けて実行に移らせる。
このため、鄭では外交上の失敗は滅多に起きないのである。
鄭の国人たちは、郷校(諸侯が国内に建てた学校)に集まり、政治を議論した。
無論、上層部を非難する意見も多く目立ち、然明が子産に告げた。
「鄭人は執政を批判し、名誉を傷つけています。郷校を廃止しては如何でしょう」
しかし、子産が言った。
「なぜ郷校を廃止する必要があるのか。
鄭人は仕事を終えれば郷校に行き、我々の良否を議論している。
我々が善を実行し、悪を改めるための、我々の師である。
善に対して忠実な態度で臨み、怨みを減らす事は出来るが
威を以て怨みを防ぐ事は出来ない。
議論を止めるというのは、川の流れを塞ぐ事に等しい。
川が決壊したら多大な損害を受ける。
少しずつ水を流すように人々の意見を聞き、自らの戒めとするべきなのだ」
然明は反省した。
「今、ようやく、子が大事を成せる人と確信しました。
臣は不才です。子の申す事が出来れば、大いに鄭国を利するでしょう」
鄭の子皮は、属臣の尹何を邑の宰(家臣の長)に任命しようとした。
子産は「彼はまだ若いので不安です」と難色を示したが、子皮は言う。
「尹何は善性で卒直なので気に入っている。期待に背く事はないだろう。
若い内によく学ばせれば、長じて有用な者に成長するはずだ」
「人は、誰かを気に入った時、その者に利を与えたがるのです。
子は尹何を気に入り、食邑を任せようとしていますが
それは刀を使えぬ者に家畜を捌かせるようなもので、彼に汚点をつけるだけです。
そうなると、誰も子に気に入られようとはしなくなるでしょう」
子皮は子産に語る。
「わしは不明であった。身を護るべき官や邑を遠ざけ、疎かにしていた。
子の言がなかったら、それを知る事はなかった。
以後、鄭国の事のみならず、我が家の事も子の意見を聴く事にする」
子産が言う。
「人の顔と同様、人の心もみな異なります。
子の顔を、私の顔と同じようにせよと言えないように
やり方もまた人によって異なるのは当然です。
ただ、危うさを感じたので、敢えて直言したのです」
子皮は子産の忠心に感じ入り、鄭の全ての政治を委ねた。
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衛襄公が楚に入った。
衛候に随う北宮佗が、楚の令尹・公子・囲の容を見て衛襄公に語った。
「令尹は、まるで楚君のようです。きっと大志を抱いています。
恐らく、その志を得る事でしょう。しかし、善い終わりを迎える事もないでしょう。
物事の全てには初まりがありますが、善い終わりを迎えるのは珍しいとされます。
令尹は禍から逃れる事は出来ません」
衛襄公が「汝に、なぜそれが分かるのか」と尋ねると、北宮佗がこれに答える。
「恭敬かつ慎重に威儀を用いれば、それが民の準則となります。
令尹には威儀がないので、民にも準則がありません。
民の模範でない者が民の上にいたら、終わりを善くすることは出来ません」
「汝の申す威儀とは何であろう」
「威厳で人を畏れさせる物が威、儀表があって範となる物を儀と申します。
国君に威儀があれば、臣は恐れを抱き、同時に国君を敬し、自らの範とします。
臣に威儀があれば、下の者は恐れを抱くと同時に上を尊びます」
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年が明け、周の景王4年(紀元前541年)春
楚の令尹・公子・囲は、鄭の重臣・子石と婚姻を結ぶため、鄭を聘問した。
副使は伍挙である。
楚の一団は鄭都に入城し、城内の賓館に入ろうとしたが
冷尹が楚から率いてきた兵が多く、鄭の国人が楚を警戒したので
行人(賓客の対応をする官)・子羽を派遣し、一団を説得して鄭都の城外に宿営させた。
聘礼が終わると、公子・囲は再び軍を率いて
新婦を迎えるために、鄭都に入城しようとした。
鄭の子産は楚の動きを不安視して、再び子羽を送り、伝えた。
「鄭都は小さく、冷尹の率いる者を全て入れる事は叶いません。
どうか、墠(地面を均して造った祭祀所)で命を聴く事をお許し頂きたい」
この時代の婚姻は、婿が新婦の実家の祖廟に行って新婦を迎える決まりである。
しかし鄭は公子・囲を鄭城内に入れる事を恐れたので
城外に祭壇を作り、子石の祖廟の代わりにしようとした。
公子・囲は大宰・伯州犁を鄭伯の元へ送って返答させた。
「鄭君は囲に恩恵を与え、豊氏(子石)との婚姻を認められました。
そこで囲は座(儀式の場)を設け、楚の先君の廟に報告してから
新婦を迎えに参ったのですが、野外では鄭君の恩恵を草莽に棄てる事となりましょう。
正式な婚姻が出来ねば、先君を偽る事となり、帰国して復命する事もかないません」
子羽がこれに返事をする。
「小国(鄭)は罪がなくとも大国(楚)に頼って備えを怠れば罪になります。
今、冷尹は禍心で小国を謀ろうとしている。
そうなれば諸侯は楚君の命に逆らい、君命は行き届かなくなるでしょう。
我々はそれを恐れます。鄭は楚の賓館に等しく、豊氏の祖廟を惜しむ事はありません」
伍挙は、鄭に備えがあると判断し、櫜(武器を入れる袋)を
反対にして鄭城に入ることを請うた。これは戦う意志がない事を示す。
鄭は公子・囲の入城を許可した。
1月15日、公子・囲が鄭都に入城し、豊氏の祖廟で新婦を迎えて城を出た。
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宋の盟(弭兵の会盟)を再確認するため、諸侯の卿大夫が虢の地で会した。
晋の趙武、楚の公子・囲、斉の国弱、魯の叔孫豹、宋の向戌、衛の斉悪
陳の公子・招、蔡の公孫帰生、鄭の子皮、許人、曹人が出席した。
晋の大夫・祁午が趙武に進言した。
「6年前に行われた宋の盟約では、楚が晋より先に歃血の儀を行いました。
今、楚の令尹は信用なりません。警戒せねば、前回と同じ事になります。
前の冷尹(屈建)は信のある者でしたが、それでも晋を偽りました。
楚が再び晋を偽れば、晋の恥となります。
子が晋の正卿になって7年になります。
その間、諸侯を集める事2回、卿大夫を集める事3回
斉や狄を服従させ、東方を安定させ、秦の乱を収め、杞国の淳于に築城しました。
師(軍)を損なわず、国を疲弊させず、民の誹謗なく、諸侯の怨み無く、天も災いを降しません。
これは子の力によるものですが、最後は恥で終わる事を心配します。
よくよく、楚に警戒しなければなりません」
趙武が祁午に答える。
「卿の忠言は謹んで受け入れよう。
宋の盟では冷尹(屈建)に禍人の心あり、わしに仁人の心があった。
これが、楚が晋を凌駕した理由であるが、今なお、我が心は変わらぬ。
たとえ、楚が再び不信を行ったとしても、我々を害す事は出来ないであろう。
わしは信を本とし、それに基づく行いを望む。
信を守れば人の下に付く事はないと言うが、わしは未だ出来ていない。
信を守り、人を害さなければ、人々の模範になれる。
わしはそれが出来ない事を憂いている。楚は、わしにとっての患憂ではない」
楚の令尹・囲は、今回、諸侯が改めて盟を結ぶ際には
前回の盟約を宣読し、犠牲の上に置くだけで済ませるように提案した。
晋が先に歃血をするのを恐れたからである。
晋の趙武はこれに同意したので、歃血の儀式は行われなかった。
3月25日、盟約が結ばれた。この会は「第三次弭兵の会」と呼ばれる。
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会盟の際、楚の冷尹・公子・囲は楚君の衣装と器物を並べ、二人の衛兵を従えていた。
それを見た魯の叔孫豹は
「楚の公子は素晴らしい。まるで国君のようだ」と、皮肉を込めて言った。
鄭の子皮は
「戈を持った二人の衛兵が冷尹の前にいる。あれは国君が即位する時の配置である」
と、暗に公子・囲を批判した。
蔡の子家が言った。
「蒲宮(楚の離宮。楚王の宮殿だが、この頃は公子・囲が住んでいた)
には初めから二人の衛士がいる。別に不思議ではない」
これも、公子・囲が蒲宮に住んでいる事を公言した事で、暗に批判している。
楚の大夫・伯州犁が弁解した。
「これらは今回、国を出た時に、楚君より拝借したものである」
鄭の子羽は
「借りても、楚君に返すおつもりはないのでは」と皮肉を言う。
伯州犁はこれに皮肉で返す。
「鄭の者が楚の心配をする必要はございません。
子は子晳の背信に気をつけなされ」
子羽が更に言う。
「楚君より借りたものを返さなくて、子は心配ではないのですか」
斉の卿・国弱が言う。
「私は二子(公子・囲と伯州犁)を心配する。
国君を蔑ろにするは危うい」
続いて陳の公子・招が言う。
「危険を憂慮せずして、事を成すのは難しい。
今、二子は危険を考慮せず、現状を楽しんでいる。事は成功しないであろう」
衛の大夫・斉悪が言った。
「事前に知っていれば、禍があっても害される事はないと言う」
宋の宰相・向戌が言う。
「大国が発する令に、小国は仕えるのみである。
我々は、ただ恭敬であれば良く、楚を批判する必要はない」
晋の楽王鮒が言った。
「『小旻』の最後の一章は、冒険をせず、慎重に生きる、という内容である」
これは諸侯の議論に加わらず、自分の道を進むと表明したのである。
会盟が終わり、子羽が子皮に言った。
「魯の叔孫は適切かつ婉曲で、宋の向戌は簡潔で礼があり
晋の楽王鮒は自愛して恭敬で、子と蔡の子家は
非難しつつも反発を買う物ではありませんでした。
しかし、斉の国弱、衛の斉悪、陳の公子・招らには禍が訪れるでしょう。
国弱は人の憂いを自らの憂いとし、公子・招は憂いを楽しみ
斉悪は憂いを害としませんでした。
言葉によって事象を知ると申すは、まさにこの事でしょう」