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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第九十二話 雇われ宰相・子産




             *    *    *




 周景王2年(紀元前543年)の春正月、楚王・郟敖こうごう

重臣の子蕩しとうに命じてを魯を聘問へいもんさせ、楚の新君即位を伝えた。


魯の叔孫豹しゅくそんひょうが子蕩に対応し

楚の令尹れいいん・公子・囲について尋ねた。


「臣はただ、王や冷尹の命に従うのみです。

職務を遂行出来ずに罪を得るのを恐れる立場なので、上の行いを窺い知る事は叶いません」


叔孫豹が幾度聞いても子蕩は何も答えなかった。



 子蕩が帰国した後、叔孫豹が魯の大夫らに語る。

「楚の令尹は、何か大事を興すつもりでいる。

それに子蕩も関わっているようだ、実情を隠している」




           *    *    *




 鄭簡公ていかんこう子産しさんと共に晋を訪問し、晋君と会見した。


晋君を補佐する叔向しゅくきょうが子産と面会し、鄭の政治について聞いた。


「我が国では今、子晳しせき伯有はくゆうの重臣同士が対立しており

この両者が和解出来るか不明瞭です。

和解すれば鄭の先は見通せますが、出来なければ大乱を招くでしょう」


「両名は盟約を結んで、既に和解したと聞いていますが」


「子晳は傲慢で、伯有は奢侈しゃしです。この両者が譲り合う事はないでしょう。

和解しても互いに怨みを重ねています。鄭にわざわいは近いでしょう」




           *    *    *




 2月22日、晋平公しんへいこうの生母が

自身の生国・杞の新都築城に参加している者達に食事を与えた。


絳県こうけんに住む、ある老人は、子がいないため築城の労役に従事している。

この老人が食事を受け取りに向かうと、何歳になるか、役人が尋ねた。


「自分の歳は忘れてしまいました。産まれた年は、正月・甲子朔こうしさくの1年でした。

あれから445回の甲子の日を経ており、最後の甲子から今日で20日になります」


役人はこれを朝廷に報告すると、師曠しこうが言った。


「晋の郤缺げきけつと魯の叔仲しゅくちゅう承匡じょうきょうで会談を行った年である。

てきが魯を攻め、叔孫しゅくそんかんで狄を破り、長狄僑如ちょうてききょうじょかいひょうを捕えて

我が子の名にしたという。今より73年前の事だ」


晋の正卿・趙武ちょうぶが老人を召し、仕えている県大夫が誰か聞くと

趙武の家臣であったと知り、老人に謝罪した。

「臣は晋君より大事を託されながら、不才にして国の憂いを減らす事が出来ないでいる。

汝を用いず、長く辱めを受けさせていたのは、この趙武の罪であった」


趙武は老人に官位を与えようとしたが、老齢を理由に辞退した。

それで老人に土地を与え、絳県こうけんの地方官として労役を管理させた。

絳県の大夫は老人を労役に従事させていたため罷免ひめんされた。



 この時、魯の使者が晋にいた。

使者は帰国してから晋の絳県の老人について、魯の諸大夫に話した。


これを聞いた魯の卿・季孫宿きそんしゅくが言った。

「晋の趙武は君子である。これを士伯瑕しはくかが補佐して

史趙しちょう、師曠に諮問しもんし、叔向、女斉じょせいが晋君の師保しほ(教育補佐官)を勤めている。

晋の朝廷には賢子が多い、軽視してはならぬ。晋に良く仕えるべきだ」




           *    *    *




 夏4月、鄭簡公と諸大夫が子晳と伯有の関係を改善させるための盟約を結んだ。

しかし、鄭の有識者は、未だ鄭の難は終わっていないと見ている。



 蔡景公さいけいこうが、太子・はんの妻を楚から迎えた。

しかし、この女性が非常に美しかったため、蔡景侯は淫心を抱いた。


蔡候は我が子の妻を盗し、これと姦通したので

妻を奪われた般は激しく憤り、蔡景侯を弑逆しいぎゃくした。

そして太子・般が蔡候に即位した。これが蔡霊公さいれいこうである。




           *    *    *




 京帥けいし(周都・洛邑らくゆう)では、周景王の従弟にあたる儋括てんかつが叛逆を目論み

王弟・佞夫ねいふを周王に擁立しようとした。佞夫自身はその企みを知らなかったという。


4月28日、儋括が兵を率いて蔿邑いゆうを包囲し、蔿邑の大夫・単成愆ぜんせいけんを駆った。

敗れた単成愆は周の邑・平畤へいじはしった。


5月4日、周の5人の大夫(尹言多いんげんた劉毅りゅうき単蔑ぜんべつ甘過かんか鞏成きょうせい)が

謀反の罪で佞夫を殺し、旗頭を失った儋括は

協力者の王子・、王子・りょうらと共に晋へ出奔した。




           *    *    *




 5月5日、宋で火災があり、宋平公そうへいこうの母・宋伯姫そうはくきが焼死した。

宋伯姫は、邸宅に火がついても逃げなかったので、側近らが「なぜ逃げないのですか」と問うた。


「婦人の道では、傅母ふぼ(王后・諸侯の夫人を教育・補佐する女性)がいなければ

夜、部屋を出てはならぬ決まりである」


伯姫の左右の者は逃げるように再三勧めたが、伯姫は同じ答えを返し、焼死したという。


伯姫の振舞いは「貞を行動の基準とし、婦人の道に殉じた烈女、賢女」と評価される一方で

「これは寡(未婚女性)の行動であって、婦(既婚女性)の行動ではない。

傅母を待って死ぬ必要はなかった」との評もある。



 諸侯の大夫が澶淵せんえんの地で会し

火災で大きな被害を受けた宋を支援するための財貨を送る事になった。

晋の趙武、魯の叔孫豹しゅくそんひょう、斉の子尾しび、宋の向戌しょうじゅつ、衛の北宮佗ほくきゅうた、鄭の子皮、小邾しょうちゅの大夫(名は不明)

など、諸侯の重臣が一堂に会したものの、結局、宋の救済は行われなかった。


世の君子はこの会を以て「信がない」と、一刀の元に批難している。




           *    *    *




 夏6月、鄭の子産が陳に入って盟約を結び、帰国した後、諸大夫に告げた。


「陳は滅ぶであろう。食を蓄え、城郭を堅固に修築しているが、民を労わっていない。

陳君は惰弱、公子・留は奢侈、太子・偃師えんしは卑劣、陳の大夫は傲慢である。

政令が頻発され、国は混乱している。滅ばぬはずはない。10年は持たないであろう」



 秋7月、魯の子叔敬叔ししゅくけいしゅくが宋に行き、宋共姫の葬儀に参列した。

宋共姫が魯国から嫁いだ関係である。



 この頃、鄭の伯有は地下に部屋を作って毎晩酒を飲み

鐘を演奏し、翌朝まで酒盛りを続ける日が続いた。


鄭の政権は伯有が握っていたために

朝廷に出仕した卿大夫は、伯有の家に朝見するようになっていた。


伯有が酒を飲み、酔っている時、朝見に来た者が伯有の家臣に居場所を聞き

家臣は「主は地下にいます」と答えた時は、諦めて帰るしかなかった。



 ある日、久々に入朝した伯有が子晳に面会し、再び楚へ行くように命じた。

朝令が終わり、家に帰った伯有は、また地下で酒を飲んだ。




             *    *    *




 7月11日、子晳が駟氏ししの兵を率いて伯有の家を襲い、火を放った。

伯有は家臣に連れられて雍梁ようりょうへ奔り、その後は許国に亡命した。



 伯有は鄭で重職にあったため、大夫らが集まり、今後について相談した。


執政・子皮が述べた。

「乱れた者は除き、滅んだ者は顧みない。滅ぶべき者は滅ぼし、残るべき者で固めよう。

伯有は驕慢で奢侈であった。故に禍から逃れる事が出来なかった。

伯有を討った子晳には道理がある。これを助けるべきであろう」


子産が言う。

「国の禍難がいつ終わるかは誰にも分かりません。

子晳に道理があり、その族が強盛なら、乱は起きなかったはず。

私は今暫く、中立の立場を守ります」


子産が伯有氏の犠牲者を埋葬し、諸大夫と相談せずに鄭を去った。

子石が子産に従った。



 子皮が子産の亡命を止めようとしたが、諸大夫が言う。

「子産は我々に従順ではありません。なぜ留めるのでしょう」


夫子ふうし(彼)は死者に礼を行った。生者に対してなら尚更であろう」


子皮は子産を追い、礼を以て鄭に帰国を懇願した。




          *    *    *




 子産が鄭都・新鄭に戻り、翌14日には子石も帰国した。

二人は子晳の家で盟約を結び、協力を約束した。



 7月16日、鄭簡公と諸大夫が太廟で盟約を結び

城門の外で鄭の国人と盟約を結び、乱の収束が宣言された。


許国に亡命した伯有は、鄭伯と鄭人が盟約を結んだのを知って

これは自分に対抗するためだと思い、怒り、かつ警戒した。


子皮の兵が伯有討伐に参加していないと聞き

「子皮はわしに協力するつもりであろう」と判断した。



 7月24日朝、伯有が鄭都の城門のとく(雨水等を流し出す孔)から鄭都に侵入して

馬師(官名)・羽頡うきつの協力を得て、武器倉庫に蔵された武器や甲冑を自分の士卒に配る。


伯有の兵が北門を急襲した。


それを知った子上しじょう(子西の子)が鄭の国人を率いて伯有の討伐に向かう。


子上と伯有の双方が子産を招いたが

「鄭の公族同士の争いには加わらない。私は天が助ける者にのみ従う」

と言って、どちらにも附かなかった。



 鄭都での子上と伯有の争いは、子上の勝利に終わった。

敗れた伯有は羊を売る市場で死んだという。


子産は伯有の服を替え、死体に伏せて哀哭あいこく

市で殺された伯有の臣も全て棺に納めて、斗城とじょうに埋葬した。


子上の一族が子産を攻撃しようとしたが、子皮が怒り、これを制止した。

「礼は国の基である。礼がある者を殺す者には禍が降りかかろう」




            *    *    *




 子上と伯有の乱が起きていた時、子大叔したいしゅくは晋に使いしており、鄭にいなかった。

役目を終えて鄭に帰国する途中で鄭の内乱を知り、副使の公孫肸こうそんきつ

鄭都に送って復命させ、8月6日に子大叔自身は晋にへと奔った。


しかし子上が子大叔を追い、酸棗さんそう(現在の河南省開封)で追いついた。

両者は盟約を結び、黄河に二つの玉珪ぎょくけいを沈め、鄭のために協力する事を誓う。


8月11日に帰国し、先に帰国していた公孫肸と共に、諸大夫とも盟約を結んだ。



 伯有の家臣・僕展ぼくてんは伯有に殉じた。

羽頡は晋に出奔して、任邑じんゆうの大夫になった。


子皮は羽頡に代わり、公孫鉏こうそんしょを馬師に任命した。


これより27年前、雞沢けいたくの会盟で鄭の大夫・楽成がくせいが楚へ出奔して

後に晋に移り、この時は晋の正卿・趙武に仕えている。


晋に入った羽頡は楽成を頼り、共に趙武に仕えるようになり、鄭討伐を進言したが

趙武は宋で結んだ「弭兵びへい(不戦)の盟」を理由に出兵を拒否した。




            *    *    *




 冬10月、楚の冷尹・公子・囲が大司馬・蔿掩いえんを殺し、その家財を奪った。


楚の大夫・申無宇しんむうが公子・囲を非難した。

「公子・囲は楚国の相として善を育てる立場でありながら、悪を行った。

大司馬は令尹の補佐であり、楚王の手足である。

民の主を絶ち、自身の補佐を討ち、王の体を除けば

国に禍を招く。これ以上の不祥があるだろうか。難を逃れられるはずがない」




            *    *    *




 鄭の執政・子皮が子産に政権を譲ると告げたが、子産は辞退した。

「鄭は小国、しかも大国から常に圧迫を受け、公族は多く、相剋の争いが絶えず

臣に鄭を治めるのは無理です」


しかし、子皮は子産を説得する。

「鄭の公子等は、わしがどうにかしよう。卿には鄭伯を補佐してほしい。

この小国を寬(余裕ある状況)に導けるのは卿しかいないのだ」



 子産は子皮の説得に折れ、ここに、子産は鄭の執政となった。

ここから、子産による鄭の政治改革が始まる。




            *    *    *




 鄭の執政となった子産が最初に行ったのは

子石に政務を命じ、同時にゆう(城市)を贈った事である。


子大叔が子産に尋ねる。

「なぜ子石にだけ邑を贈るのでしょうか」


「人が無欲になるのは難しい。全ての欲を満足させて命令に従わせ

成功に導く事が出来れば、それは私の成果となる。

鄭の臣に邑を与えても、その邑は鄭国にあり、他国に遷る訳ではない」


「他国が鄭国を非難したらどうするのでしょう」


「四方の国を憂う必要はない。国内が団結すれば諸国の非難は意に介しない。

国を安定させるには、まず大きい者から始めよ、とある。

子石の族は大きい。まず大族を安定させ、他の群臣がどうするかを観る」


子石は鄭の国人からの謗りが不安になり、邑を返還した。

しかし子産は再びその邑を子石に与えた。



 しばらくして、鄭簡公が大史に命じて、子石を卿に任命させた。

大史が子石の元へ行き、卿に任命すると伝えると、子石は辞退した。


しかし、大史が退席すると、子石は大史に会いに行き、再び卿に任命させた。

改めて大史が任命したが、子石は再び辞退した。


これがもう一度繰り返され、三回目で子石はようやく卿の任命を受け入れた。


以後、子産は子石を嫌うようになったが子石の勢力を警戒し、自分の直属下に置いた。




            *    *    *




 子産は国都、采邑さいゆう(大夫・工・商が住む場所)と

郊外(農民が住む場所)の区別を明確にして、上下の秩序に従って職責を与えた。


田地の境界を定め、灌漑を行って水路を増やした。

これまでの井田制せいでんせいでは九戸の農家が一つの井戸を共用していたが

新たな区画が行われ、配置が変わった。


税制が整理され、より効率的な手段に代わり

周代の伝統的な税制度であった井田制が形骸化していく。



 子産は卿大夫の中でも忠倹の者に親しみ、驕慢奢侈な者は遠ざけ、淘汰していった。


鄭の大夫・子張が、自家の祭祀を行う時のために

祭品を得るための狩猟許可を求めたが、子産はこれを拒否した。


「狩猟で得た新鮮な獲物を供えるものは国君だけである」


子張は怒って退席し、自邑に戻って兵を集め、子産を攻めようとした。


子産は晋に亡命しようとしたが、子皮が子産を留め、逆に子張を晋に放逐した。



子産は子張の土地を没収しないように子皮に懇願して

3年後、子張を晋から帰国させ、土地と3年分の収入を全て返還したという。




            *    *    *




 子産が鄭の執政となって1年が過ぎ、鄭の人々は歌を歌った。


   「我等の衣冠を奪い、我等の田地を奪う者。誰が子産を殺すのか、我らはそれに協力しよう

        (取我衣冠而褚之,取我田疇而伍之。孰殺子産,吾其與之)」



子産による政治改革は性急で、鄭の国人の間では不満が多く

それを子皮が抑えている状態であった。



 それから3年後、鄭人はこう歌うようになったという。


   「我等に子弟あり、子産が教導する。我等に田地あり、子産がこれを殖やす。

    もしも子産が死んだなら、誰がその後を継ぐのだろう

    (我有子弟,子産誨之。我有田疇,子産殖之。子産而死,誰其嗣之)」


子産による改革が実を結び、子産を称賛する者が増えた証であろう。



 鄭簡公が子産に言った。

「宮内での政事を外には出さぬが、宮外(朝廷)の政治を宮内に入れてはならぬ。

衣服が華美でなく、車馬に装飾なく、公子、公女の品徳が欠けていれば、我が過失である。

国が治まらず、賞罰が不正で、国境が安定しないのは、汝の失態である」


子産は鄭簡公が亡くなる死ぬまで執政として鄭の政治を行い

結果、国内では乱が起きず、国外では諸侯の脅威がなくなったのである。



 子産の政治改革はこの後も続くが

それは同時に、春秋時代という、人と天が共存する世の終わりを告げる挽歌でもあった。


子産による改革が成果を出す事で、他の諸侯にも、それは導入されていく。

礼と徳を以て国を治める、牧歌的な世が限界に来ていたのである。


こうして、中原に戦国時代の萌芽が生まれつつある。



春秋時代の鄭の政治家・子産は

中国史上初の「官僚政治家」かもしれません。


鄭の穆公の孫で、七穆の一つだから、地位が低いわけではないけど

トップに立てるほどでもなく、本人にもそれほどの出世欲がなかった。


しかし、その識見と教養と頭脳は当代随一と絶賛され

鄭という悲惨な状況に置かれた国では、どうしても彼に仕事をさせなければならなかった。


子産が子皮というパトロン(?)に保護され、割と自由に仕事が出来るようになった事が

春秋時代の終わりを少し早めた、と言えるかもしれません。

やはり、成文法「鼎書」の登場が、中国史における大きなエポックでしたので。

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