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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第九十一話 延陵季子、諸国を巡り、徐君の墓に宝剣を譲す




                     *    *    *




 「姓」という字に女偏おんなへんが含まれているように、古代中国は女(母)系社会だった、という説がある。

周代の姓は姫、きょう、妊、とう、妃、など、女偏が多い。


当然だが、子は女性の腹から産まれ出ずる。

礼や制度が確立する前、つまり文明以前の原始社会、「理性」のすくなかった時分

子は、母が誰であるかは分かっても、父が誰かを知るのは難しかった。


その結果、社会は女性中心にならざるを得なかった、というものである。



 春秋時代、同姓婚は禁忌タブーであった。妻妾を取る場合、必ず相手の姓を確認して

姓が分からない場合はうらないを立てた。


21世紀の今日「いとこ婚」は日本では認められているが

中国、韓国、北朝鮮、台湾、ベトナム、フィリピンでは法律で禁止されている。



 周代では、名(いみなあざな)の種類は少なく、同名が多い。

人が増えれば同姓同名が増えて、区別が困難になり、「氏」が生まれた。


氏の由来は複数ある。

馬、牛、羊、熊、鹿といった動物由来

范、虞、魏、趙、韓、菅、祭などは封地由来

司馬、侯、尉、帥は官職が由来

賈(商人)、車、巫、史(史家)は職業由来

公孫、王孫、文、武は祖先の地位やおくりなが由来

東郭とうかく南宮なんぐう、西門、江、楊、林は住んでいた場所が由来

独孤どっこ慕容ぼよう尉遅うつちなどは異民族の姓名の音訳が由来とされる。



 文明の発展に伴い、母系社会は父系社会に移行し

階級社会、身分制度が誕生する。


周代は長子相続が基本であるため、「名」で序列を決める。

長男は「伯」、次男は「仲」、三男は「叔」、末子は「季」が名に入るのが普通である。




                *    *    *




 晋平公の母による要請で、魯は杞に地を還す事となり、杞文公が魯に来て盟約を結んだ。



 この頃、呉王・余昧よまいの即位を知らせるため

呉王の弟・延陵季子(季札きさつ)が諸侯を巡っており、魯を訪問した。


季札は天下に知られた聖賢として諸侯の間で人気があるため

諸国の訪問は、呉が諸侯と友好を結ぶ事も目的である。



 季札は呉を出ると、まず北に向かい、徐国に入り、徐君に面会した。

徐君は季札の履いた宝剣を見て気に入ったが、口には出さなかった。

明敏な季札は徐君の気持ちを察したが、今から諸国を巡らねばならないために

今は剣を献上せず、国を巡り終えた後に剣を譲ると決めた。



 季札は徐を出ると魯国に入り、魯の上卿・叔孫豹しゅくそんひょうに面会し、会話の後に忠告した。

あなたは善を好み、魯国を託されていますが、人材を用いていません。

優れた者を選び、推挙しないと、良い終わりを迎えるのは難しいでしょう」




             *    *    *




 季札は魯国を出て、斉国に入った。

斉では大夫・晏嬰に会って会話を交わし、彼に告げた。

「斉国に難が迫っています。あなたは斉候より授かった邑を公室に還し

身を退くべきです。そうすれば難から逃れる事が出来るでしょう」


晏嬰は季札の忠告に従い、上大夫・陳無宇ちんむうを通じて斉景公に邑を返上した。

これによって、後に起きる欒氏と高氏の乱から逃れる事が出来たのである。



この乱に巻き込まれなかった事で、後年、晏嬰は斉の宰相となり

斉国に桓公・管仲以来の繁栄を到来させた。




            *    *    *




 斉を出た季札は鄭を聘問して子産に会った。

両者は旧知の如く親密となり、季札は子産に縞帯こうたい(白絹の帯)を贈り

子産は返礼に麻の服を贈った。


季札が子産に語る。

「伯有は奢侈なので、いずれ禍難が訪れ、鄭の政権はあなたの手に渡ります。

子は礼に基づき、慎重に政治を行わねば、子も鄭国も亡ぶでしょう」


この頃、鄭の執政は子皮しひであったが、子皮は賢才で知られた子産に政事を託し

子産は子皮の下で鄭の国政を担う事になる。

これより8年の後、子産は中国史上初の成文法「鼎書ていしょ」を制定する。



遥かな後年の戦国時代、子産は法治主義の始祖とされ

荀子、商鞅、韓非、李斯と言った法家主義者に影響を与えたと言われる。




               *    *    *




 鄭を出た季札は衛に入り、蘧伯玉きょぎょくはく史狗しく、史魚、公子荊、公叔発、公孫朝らと親しくなり

季札は「衛には君子が多く、憂いがない」と語ったという。



 衛から晋に向かう途中、戚(孫林父そんりんぽの食邑)の地で宿泊した。

そこで鐘の音を聞いたので、季札は奇妙に感じた。

夫子ふうし(彼。孫林父の事)はかつて、衛候を国より逐った。

乱を起こした者に徳がなければ、必ず誅殺されるという。

夫子が戚にいるのは国君の罪を得たせいだ。大いに恐れ慎まねばならぬ身でありながら

鐘を鳴らし、その音を楽しんでいる。夫子は危ういであろう」


この話を聞いた孫林父は、その後、音楽を聴かなくなったという。




          *    *    *




 季札が晋の国境に入ると「ここは、暴虐の国である」と言った。

晋都・絳に入ると「民を耗弱する国である」と言い

晋の朝廷に入ると「乱れた国である」と言った。


季札の従者が尋ねた。

「主は晋に入って間もないのに、なぜ躊躇せず、斯様な事を申すのでしょう」


「晋の国境に入ると、田地は荒廃し、雑草が茂っており、国の暴を知った。

晋都に入り、建てられた家を見ると、新築は質が悪く、旧宅は美しかった。

また、新しい壁は低く、古い壁は高い。これは民力が消耗されている証である。

朝廷に立った時、晋君は意見を聞くだけで下に問わず

臣下は自らの功を誇るのみで上を諫めなかった。これは国の乱れである」



 季札は晋で趙武、韓起、魏舒と面会して、こう言ったという。

「晋の政権は将来、趙、魏、韓の三氏に集まるでしょう」


季札は叔向とも親しくなり、晋を去る時、叔向に語った。

あなたは勉めるべきです。晋君は奢侈ですが、良臣が多くいます。

晋君の政権はいずれ卿・大夫に遷るでしょう。子は難を避ける方法をよく考えねばいけません」



百年後、中原の超大国・晋は趙、魏、韓の三国に分割され、戦国時代が始まる。




             *    *    *




 季札は、諸国を巡る旅を済ませ、呉への帰路、再び徐国に寄った。


宝剣を譲ろうと徐君に謁見すると、徐君は既に卒去していたので

季札は宝剣を外し、徐君の後嗣に譲った。


季札の従者が言った。「その宝剣は呉の宝です。人に贈ってはいけません」


「贈るのではない。以前、徐君は言葉にしなかったが、この剣を欲していた。

しかし、私は諸侯を巡らなければならなかったから、献上しなかった。

帰途、この剣を譲る事を心中で決めていた。徐君が卒去された事を理由に

献上しなければ、自分の心を欺く事になる。剣を愛し、心を偽る事は出来ない」


季札は宝剣を徐の嗣君に譲ると、嗣君はこう言った。

「私は先君からそのような命は受けていません。受け取る事は出来ません」


そこで季札は徐君の墓に行き、樹木に剣を掛けて去った。



徐人は季札を称賛し、歌を残した。


      「延陵季子は故人を忘れず、千金の剣を外して丘墓に帯した

        (延陵季子兮不忘故,脱千金之剣兮帯丘墓)」


この故事は「季札掛剣」という美談として永く語り継がれたという。




             *    *    *




 斉の大夫・晏嬰は斉景公の命を受け、東阿とうあを3年間統治した。

その間、東阿から来る報せは晏嬰に関する悪評ばかりであった。


斉景公は晏嬰を呼び出して叱責した。

「わしは汝を信用して東阿を治めさせた。しかし、東阿はすっかり乱れたと聞く。

汝には追って刑罰を降す。それまで謹慎しているがよい」


晏嬰が言う。

「では、これまでと異なる方法で東阿を治めさせてください。

それでも我が君が満足頂けなかったら、臣は自らを罰し、死を賜ります」


景公は同意した。



 その後、景公の元に届く晏嬰の評判は頗る好評で

東阿も良く統治されているとの報ばかりであった。


翌年、晏嬰が賦税の収入を報告すると、それまでの数倍にも及んだ。

斉景公は自ら晏嬰を迎え入れ、祝賀した。

「汝による東阿の統治は素晴らしい。我が側近の誰もが称賛している」


晏嬰は、落胆した表情でこれに応えた。

「以前の3年間、臣が東阿を治めた時は、誰にも賄賂を贈らず、租税を安く抑え

貧民を助け、民の中に飢える者はいませんでしたが、我が君は臣を罰すると申しました。

この1年、臣は我が君のお側に仕える者に賄賂を用い、民に重税を課し

民の半数が飢えに苦しんでおりますが、我が君は臣を賞賛なさりました。

臣は愚かでございます。これ以上、東阿を治める自信がありません。

臣より賢き者に譲りたいと思います」


晏子は斉候に再拝して去ろうとした。


景公は慌てて席を下りると、晏嬰に謝罪して言った。

「わしが誤っていた。東阿は汝に授けよう。以後、わしは汝の行いに口を出さぬ」




             *    *    *




 秋9月、斉の大夫・高止は自分の功を恃み、専横が目立ったため

斉の卿・子尾と子雅が高止を北燕に追放した。


高止の追放に憤った高止の子・高豎こうじゅ

高氏の食邑・りょに籠り、斉に叛した。



 10月27日、斉の勇士・閭丘嬰りょきゅうえいが斉の国軍を率い、盧を包囲した。


高豎は敵わないと判断して、閭丘嬰に使者を送り

「高氏を絶やさぬと我が君が約して頂ければ、盧邑を返上し、わしは斉を出よう。

あくまで高氏を滅ぼすと申されるなら、最後まで戦う」と言上した。


斉景公は高氏の一族・高偃こうえんに高氏を継がせ、盧を与えると約束したので

11月23日、高豎は盧を返上して晋に出奔した。


晋は高竪のために緜上めんじょうに城を築き、高竪はここに住んだという。




             *    *    *




 鄭の卿・伯有が、行人(外交官)・子晳しせき

楚を訪問するように命じたが、子晳はこれを拒否した。

「今、楚と鄭の関係は良くない。臣が楚に赴けば、楚君に殺されるであろう」


伯有が言う。「卿は代々、行人を勤める家である」


「行くべき時には行く、難があれば行かぬ。先代とは関係ない」


伯有はなおも強制したので、子晳は怒り、伯有を攻めようとしたが

12月7日、他の大夫が両者の間に入って和睦させ、伯有の家で盟約を結んだ。


しかし、鄭の臣・裨諶ひじんはこれを冷ややかに評した。

「この盟は長続きしない。頻繁に盟を結べば、乱を助長させるという。

伯有の禍はまだ終わっていない。解消には3年はかかるであろう」


友人の然明ぜんめいが裨諶に尋ねた。「鄭の政権はどこに移るであろうか」


裨諶は、これに応えた。

「政権は子産に帰するであろう。

階級を越えて政権を握る者がいなければ、位階に則る事になる。

善を選んで用いるならば、世に重んじられた者が政権を握る。

天は子産のため、障害(伯有)を除こうとしている。

天が鄭に禍を降して久しい。子産がそれを終息させ、安定を取り戻す。

そうでなければ、鄭は亡びるであろう」



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