第九十話 周・楚王の崩御
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周の霊王27年(紀元前545年)11月25日、周霊王が薨去した。
晋の賢才・叔向を問答で屈服させる才叡を謳われた太子・晋は前年、18歳で早世している。
霊王の子は太子・晋の他に、佞夫、還、姑、潑、弱、鬷、延、定、稠、趙車など
多くの子がいたが、ほとんどは病や戦で早世していた。
存命している霊王の子で年長の公子・貴が周王に即位した。周景王である。
 
霊王は産まれた時から髭が生えており、神とみなされたために
「霊」と諡された。その墓は民の祭祀が絶えなかったという。
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これより9年前、斉の先君・荘公が、弟の公子・牙とその余党を討伐した時に
多くの公子が出奔した。公子・鉏は魯に、叔孫還は燕に奔り、公子・賈は句瀆の丘に住んだ。
その後、慶氏が失脚して魯から呉へ亡命すると
斉景公は諸公子を呼び戻し、土地を返還し、地位を与えた。
斉景公は、慶氏が所有していた土地を家臣に配分する。
北郭佐に60の邑を与え、北郭佐は斉候に拝謝し、全て拝領した。
晏嬰には邶殿の境にある60邑を与えようとしたが、晏嬰は辞退した。
子尾が晏嬰に尋ねた。
「人は誰もが富を欲する。なぜ子は欲しないのか」
「慶氏は斉で自らの欲を満足させようとした結果、斉を亡命しました。
今、私が有する邑は、欲を満たすには足りません。しかし邶殿を加えたら満足します。
欲を満足させたら、慶氏と同様に全てを失うでしょう。私はそれを恐れます」
子雅は受け取った邑の多くを辞退し、少しだけ受け取った。
子尾は下賜された邑を一旦は受け入れ、その後、全てを斉の公室に返還した。
斉景公は子尾を忠臣と称揚し、以後、寵信するようになった。
慶封に与する者とされた盧蒲嫳は北の国境に追放された。
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11月、宋の盟約に従って、魯襄公、宋平公、陳哀公、鄭簡公、許悼公が楚に朝見に行った。
魯襄公が楚へ向かう途中で鄭を通った時、鄭簡公は不在だったため
伯有が黄崖で魯候を慰労したが、態度が不敬だったという。
これを見た魯の卿・叔孫豹が言った。
「伯有は鄭で罪を得る。さもなくば鄭には禍が降るであろう。
敬を棄てた者が祖宗を継ぎ、家を守る事は出来ない。討たねば咎を受ける」
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12月、諸侯が漢水に至った時、楚康王が崩御したとの報せが届いた。
魯の襄公は退き返そうとしたが、魯の大夫・叔仲帯は反対した。
「我々は楚君のためではなく、楚国のために来たのです。行くべきです」
しかし孟椒は帰るべきだと主張する。
「君子に遠謀あり、小人は近くに従います。後の事を考えるより、ひとまず帰国するべきです」
叔孫豹は「叔仲帯の言に従うべきです」と言った。
栄成伯は「叔仲帯は遠くを図る者。君子です」と語る。
魯襄公は叔仲、叔孫、栄成の言に従い、漢水を越えて楚へ入った。
魯候が楚に向かった一方で、宋の宰相・向戌は平公に進言する。
「我々は楚君のために来ました。楚国のためではありません。
今、宋の民は飢えています。楚の事を考える余裕はありません。
帰国して民を休ませ、楚が新君を立ててから備えを考えるべきです」
宋平公は向戌に従い、漢水を渡る事なく引き上げた。
 
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新たな楚王は楚康王の子・員が立った。これを郟敖という。
楚康王と前後するように、楚の令尹・屈建も亡くなった。
晋の正卿・趙武が同盟国と同等の礼で楚を弔問した。
 
楚の王と冷尹が共に亡くなり、年が明けて、周の景王元年(紀元前544年)
春正月、魯襄公が楚に入朝する。
楚は先君・康王の葬儀で、魯襄公に対して
襚(死者に服を着せること。弔問に来た使臣が行う礼)を行うように要求した。
これは楚が魯候を臣下と見做す事を意味する。襄公は困惑したので、叔孫豹が言う。
「殯(霊柩)の不祥を祓ってから襚を行うのは、朝見において
最初に貢物を並べて見せるのと同じ事です。まずお祓いをしましょう」
魯襄公は巫に命じ、桃の棒と茢(竹の箒)で殯を祓わせた。
これは国君が臣下の葬儀に参加した時の礼であるため
叔孫豹の機転により、魯が楚を臣下と見做す形になったのである。
楚では、葬儀が終わってから、魯候に襚を行わせた事を後悔したという。
 
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夏4月、楚康王が埋葬され、魯襄公、陳哀公、鄭簡公、許悼公が送葬して
西門の外に至った。諸侯の大夫は墓地まで同行した。
 
葬儀が終わって郟敖が正式に楚王に即位した。
新たな冷尹には先君・康王の弟である王子・囲が就いた。
鄭の行人・子羽が言った。
「松柏(王子・囲)の下で草(郟敖)は繁茂しない。令尹は国君に取って代わるだろう」
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魯襄公が楚から魯に帰国する途中、楚の北境にある方城に至った。
その頃、魯国で留守を守っていた上卿・季孫宿が
魯の公室が所有する卞邑を攻め、これを奪う、という事件が起こった。
卞邑を奪う前、季孫宿は大夫・公冶を魯襄公の元へ派遣した。
公冶が魯を出ると共に、季孫宿は魯軍を動かして卞邑を占拠し
璽書(印章で封をした書)を持たせた急使を公冶に送り、璽書を渡した。
そして、公冶の手から襄公に璽書を渡させたのである。
公冶は璽書の内容を確認せず、そのまま襄公に渡して営舎に入った。
魯襄公が璽書のに目を通すと
「卞を守る者が叛すと聞き、臣(季孫宿)が兵を率いて討伐しました。
卞を既に占拠した事を、ここに報告いたします」と書いてあった。
読んだ後、襄公は激怒した。
「これは季孫宿が卞を欲したのである。それを謀反と偽った。
臣でありながら、国君を蔑ろにする行いである」
この時、公冶は初めて季孫宿が卞を奪った事を知った。
襄公が公冶を招いて尋ねた。
「季孫宿が魯に叛した。わしは国に入ることが出来るであろうか」
公冶が答える。
「国君が国を有している以上、誰が主君に逆らうでしょうか」
襄公は公冶の忠心を認め、冕服(礼冠と服飾)を与えた。
公冶は固辞したが、魯襄公が強いて与え、受け入れた。
 
襄公はなお帰国を躊躇していたが、栄成伯が『式微』を歌ったのを聞いて、魯に向かった。
「空が暗くなったのに、なぜ帰らないのか」という句がある。
 
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5月、魯襄公が魯に帰国した。
公冶は帰国すると、季孫宿を「主君を欺くのに、なぜ私を使ったのか」と非難して
季孫宿から与えられていた邑を全て返し、以後、出仕しなかった。
季孫宿が会いに来た時は話をしたが、いない時は話題にしなかった。
後年、公冶が病に斃れ、死を覚悟した時には家臣を集め、こう命じたという。
「わしが死んだら、冕服を斂(着衣した遺体の納棺)に用いてはならぬ。
あれは、我が徳によって下賜されたものではないからだ。
それと、わしの葬儀に季孫宿を参加させぬように」
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周都で周景王が先君・霊王を埋葬した。
この時、鄭簡公は楚に朝見しており、上卿・子展は国を守っているため
国君も上卿も周霊王の葬儀に参加出来ないため、子石を周都に送ることにした。
伯有がこれに反対した。「子石はまだ若すぎます」
しかし子展は「誰も送らぬより、若い者でも参加した方が良い。
鄭が晋・楚に服しているのは周天子を守るためである。
王事(聘問、朝見、会盟等、王の行事)はまだ廃されていない」
と言ったので、子石は周都に行った。
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呉国は、長江下流域を拠点としており、中原から遠く離れた蛮夷の地とされてきた。
呉王・寿夢の代から急激に力をつけ、晋と盟約を結び、楚としばしば衝突して
時に勝ち、時に敗れを繰り返し、諸侯との交流、婚姻も続いて、すでに40年が経つ。
時機は不明ながら、周王より爵位(子爵)も与えられ、名実ともに諸侯となった。
呉の都は、寿夢の跡を継いだ呉王・諸樊の代に、姑蘇に定められた。
現在の江蘇省蘇州市姑蘇区で、周の都・京帥があったとされる河南省洛陽市までの距離は
おおよそ2,320里(約940km)で、これは東京から新山口の距離に相当する。
急使を派遣しても、往復に1ヶ月は要したであろう。
呉の更に南方に、越という国が勃興しつつある。王の名を夫譚と言う。
越の民は「百越」と呼ばれる種族で、断髪し、顔や身に文(刺青)し、水に入りて魚を獲るという。
中華の風俗、文明の度は、まだ薄い。
呉王・余祭が、その越国を攻め、捕虜を得た。
呉王は越人の捕虜を閽(門衛)に任じ、その後、舟の守備を命じた。
「閽」という字には、宮中・宮殿の門番以外に、宦官の意も包含する。
即ち、刑罰を受けた者全般を指す意味もある。
門構の中に「昏」という字がある事から、生来の盲目者が門番を勤める場合もあった。
後日、呉王・余祭が舟を観察した時、その閽が、手にした刀で呉王を刺殺した。
呉人は次の王に寿夢の末子・季札を指名したが、三度目も固辞したので
余祭の弟・余眛が継ぎ、呉王・余眛となった。
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鄭の執政・子展が死に、子の子皮が鄭の上卿を継いだ。
この当時、鄭を飢饉が襲い、民が窮乏していたので
子展の遺命として、子皮が飢餓救済の策を発表した。
国庫を開放し、一戸当たり一鍾(六斛四斗、約120L(51L説もある))
の穀物を民に施したのである。
この施策は鄭人に歓迎され、子皮は鄭の民から慕われる事となり
以後長く、鄭の上卿として国政の首座に携わった。
これを聞いた宋の司城・子罕は
「上にいる者が善を施すのは民の願いである」と子皮を称賛した。
 
鄭のみならず、宋でも飢饉が起きていたので、子罕は鄭の子皮に倣い
宋平公に注進して、公粟(国の倉庫に蓄えられた粟(穀物))を
民に貸し出すように請い、平公はこれを認めた。
また、宋国中の大夫にも食を拠出させた。
子罕は国庫の粟を飢えた貧民に貸し出したが、契約書を書かなかった。
これは返済の必要がない事を意味する。
民に貸し出す食糧のない大夫にも粟を提供した。
これにより、宋に飢えた者がいなくなった。
晋の叔向は、鄭の子皮と宋の子罕を大いに嘉した。
「鄭の罕氏(子皮の族)と宋の楽氏(子罕の族)はどちらも長く栄えるであろう。
民が帰心しているからだ。施しを自らの徳としない分、宋の楽氏がより勝っている」
 
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6月5日、衛献公が復位から3年で卒去し、太子・悪が衛候を継いだ。衛襄公である。
また、この6月には杞国が淳于に遷都した。
晋平公の生母は杞の出身であったから、杞の新都建設のため
諸侯を招集し、城壁を築く事を智盈に命じた。
魯の仲孫羯、斉の高止、宋の華定、衛の大叔儀
鄭の子大叔と伯石、それに曹、莒、邾、滕、薛、小邾の大夫が動員された。
鄭の子大叔が衛の大叔儀と話をした時、大叔儀が不満を述べた。
「晋君の母のために諸侯を動員し、杞に城を築くというのは、如何なものか」
子大叔が言う。
「晋候は周室の衰弱を気に掛けず、夏朝の後裔(杞)を守ろうとしている。
周、晋と同姓の姫姓諸侯を棄てたら、誰が晋に従うであろう。
同族を棄てて異姓に近づくのは、徳から離れる事である。
近親と親しまない晋は、誰とも友好関係を持てなくなる」
斉の高止と宋の司徒・華定が晋の知盈と面会した。
この時、晋の司馬侯が相(補佐)を勤めた。
両者が退出してから、司馬侯が智盈に語る。
「高氏は驕傲、華氏は奢侈です。二氏には禍が訪れるでしょう」
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杞の築城に協力した事を謝すため、晋平公は范鞅に魯を聘問させた。
魯襄公は宴を開いて范鞅をもてなし、展荘叔が范鞅に幣(帛布)を贈った。
宴の後、射礼という、矢を射る儀式が行われた。
天子と諸侯の宴では12人、諸侯と諸侯の宴では8人、諸侯と大夫の宴では6人が
それぞれ4本の矢を射ち、最後に主と客が矢を射る決まりである。
しかし、魯襄公の側に6人の優れた射手がいなかったので
魯の家臣から礼と射術に通じた者が選ばれた。
展瑕、展王父、公巫召伯、仲顔荘叔
鄫鼓父、党叔の合計6名が揃った。
これは魯の公室が衰退して人材が不足している事を示している。
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晋平公が司馬侯を魯に派遣し、魯が杞国から奪った地を返還させた。
しかし、魯が返還した土地が少なかったと杞から苦情が届いたため
杞の出身である晋平公の母が怒った。
「司馬候の働きは先君の保護を受ける事能わず」
平公はこれを司馬侯に伝えた。
「晋は同じ姫姓の国々を滅ぼして大国になりました。
小国を侵さなかったら、国を拡げることは出来ません。
杞は夏朝の後裔で東夷に属します。魯は周公の後裔で晋と和しています。
魯が杞を滅ぼしても気に留める必要はありません。
魯は晋に対して幣(貢物)を欠かした試しがなく、入朝も熱心です。
魯を枯らせて杞を肥えさせるのは宜しくありません」
紀元前545年から544年にかけ、鄭と宋で飢饉があったようです。
鄭は現在の河南省鄭州市、宋は商丘市にありました。
両国の間には許とか杞もあるんで、同様の事態になっていたと思います。
前話で書いた、木星の軌道が通常よりズレているのと
異常気象が関係あるかどうかは不明ですが
1999年8月に惑星直列とか何とかで騒いだ事もあったし
全く無関係でもないのかな、とか思ったり。
 




