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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第九十話 周・楚王の崩御




               *    *    *




 周の霊王27年(紀元前545年)11月25日、周霊王が薨去した。

晋の賢才・叔向を問答で屈服させる才叡を謳われた太子・晋は前年、18歳で早世している。


霊王の子は太子・晋の他に、佞夫ねいふ、還、はつ、弱、そう、延、定、ちょう、趙車など

多くの子がいたが、ほとんどは病や戦で早世していた。


存命している霊王の子で年長の公子・貴が周王に即位した。周景王である。


霊王は産まれた時から髭が生えており、神とみなされたために

「霊」とおくりなされた。その墓は民の祭祀が絶えなかったという。




               *    *    *




 これより9年前、斉の先君・荘公が、弟の公子・牙とその余党を討伐した時に

多くの公子が出奔した。公子・さいは魯に、叔孫還は燕に奔り、公子・賈は句瀆こうとくの丘に住んだ。


その後、慶氏が失脚して魯から呉へ亡命すると

斉景公は諸公子を呼び戻し、土地を返還し、地位を与えた。



 斉景公は、慶氏が所有していた土地を家臣に配分する。

北郭佐ほくかくさに60の邑を与え、北郭佐は斉候に拝謝し、全て拝領した。


晏嬰には邶殿ほくでんの境にある60邑を与えようとしたが、晏嬰は辞退した。


子尾が晏嬰に尋ねた。

「人は誰もが富を欲する。なぜあなたは欲しないのか」


「慶氏は斉で自らの欲を満足させようとした結果、斉を亡命しました。

今、私が有する邑は、欲を満たすには足りません。しかし邶殿を加えたら満足します。

欲を満足させたら、慶氏と同様に全てを失うでしょう。私はそれを恐れます」



 子雅は受け取った邑の多くを辞退し、少しだけ受け取った。

子尾は下賜された邑を一旦は受け入れ、その後、全てを斉の公室に返還した。


斉景公は子尾を忠臣と称揚し、以後、寵信するようになった。


慶封に与する者とされた盧蒲嫳ろほへつは北の国境に追放された。




               *    *    *




 11月、宋の盟約に従って、魯襄公、宋平公、陳哀公、鄭簡公、許悼公が楚に朝見に行った。


魯襄公が楚へ向かう途中で鄭を通った時、鄭簡公は不在だったため

伯有はくゆう黄崖こうがいで魯候を慰労したが、態度が不敬だったという。


これを見た魯の卿・叔孫豹しゅくそんひょうが言った。

「伯有は鄭で罪を得る。さもなくば鄭には禍が降るであろう。

敬を棄てた者が祖宗を継ぎ、家を守る事は出来ない。討たねば咎を受ける」




               *    *    *




 12月、諸侯が漢水に至った時、楚康王が崩御したとの報せが届いた。


魯の襄公は退き返そうとしたが、魯の大夫・叔仲帯しゅくちゅうたいは反対した。

「我々は楚君のためではなく、楚国のために来たのです。行くべきです」


しかし孟椒もうしゅくは帰るべきだと主張する。

「君子に遠謀あり、小人は近くに従います。後の事を考えるより、ひとまず帰国するべきです」


叔孫豹しゅくそんひょうは「叔仲帯の言に従うべきです」と言った。

栄成伯えいせいはくは「叔仲帯は遠くを図る者。君子です」と語る。


魯襄公は叔仲、叔孫、栄成の言に従い、漢水を越えて楚へ入った。



 魯候が楚に向かった一方で、宋の宰相・向戌しょうじゅつは平公に進言する。

「我々は楚君のために来ました。楚国のためではありません。

今、宋の民は飢えています。楚の事を考える余裕はありません。

帰国して民を休ませ、楚が新君を立ててから備えを考えるべきです」


宋平公は向戌に従い、漢水を渡る事なく引き上げた。




             *    *    *




 新たな楚王は楚康王の子・員が立った。これを郟敖こうごうという。


楚康王と前後するように、楚の令尹れいいん屈建くつけんも亡くなった。

晋の正卿・趙武が同盟国と同等の礼で楚を弔問した。



 楚の王と冷尹が共に亡くなり、年が明けて、周の景王元年(紀元前544年)

春正月、魯襄公が楚に入朝する。


 楚は先君・康王の葬儀で、魯襄公に対して

すい(死者に服を着せること。弔問に来た使臣が行う礼)を行うように要求した。

これは楚が魯候を臣下と見做す事を意味する。襄公は困惑したので、叔孫豹が言う。


ひん(霊柩)の不祥を祓ってから襚を行うのは、朝見において

最初に貢物を並べて見せるのと同じ事です。まずお祓いをしましょう」


魯襄公は巫に命じ、桃の棒とれつ(竹の箒)で殯を祓わせた。

これは国君が臣下の葬儀に参加した時の礼であるため

叔孫豹の機転により、魯が楚を臣下と見做す形になったのである。


楚では、葬儀が終わってから、魯候に襚を行わせた事を後悔したという。




             *    *    *




 夏4月、楚康王が埋葬され、魯襄公、陳哀公、鄭簡公、許悼公が送葬して

西門の外に至った。諸侯の大夫は墓地まで同行した。


葬儀が終わって郟敖が正式に楚王に即位した。

新たな冷尹には先君・康王の弟である王子・囲が就いた。


鄭の行人・子羽が言った。

「松柏(王子・囲)の下で草(郟敖)は繁茂しない。令尹は国君に取って代わるだろう」




             *    *    *




 魯襄公が楚から魯に帰国する途中、楚の北境にある方城に至った。


その頃、魯国で留守を守っていた上卿・季孫宿きそんしゅく

魯の公室が所有する卞邑べんゆうを攻め、これを奪う、という事件が起こった。


卞邑を奪う前、季孫宿は大夫・公冶こうやを魯襄公の元へ派遣した。

公冶が魯を出ると共に、季孫宿は魯軍を動かして卞邑を占拠し

璽書じしょ(印章で封をした書)を持たせた急使を公冶に送り、璽書を渡した。

そして、公冶の手から襄公に璽書を渡させたのである。


公冶は璽書の内容を確認せず、そのまま襄公に渡して営舎に入った。


魯襄公が璽書のに目を通すと

「卞を守る者が叛すと聞き、臣(季孫宿)が兵を率いて討伐しました。

卞を既に占拠した事を、ここに報告いたします」と書いてあった。


読んだ後、襄公は激怒した。

「これは季孫宿が卞を欲したのである。それを謀反と偽った。

臣でありながら、国君を蔑ろにする行いである」


この時、公冶は初めて季孫宿が卞を奪った事を知った。


襄公が公冶を招いて尋ねた。

「季孫宿が魯に叛した。わしは国に入ることが出来るであろうか」


公冶が答える。

「国君が国を有している以上、誰が主君に逆らうでしょうか」


襄公は公冶の忠心を認め、冕服えんぷく(礼冠と服飾)を与えた。

公冶は固辞したが、魯襄公が強いて与え、受け入れた。


襄公はなお帰国を躊躇していたが、栄成伯が『式微』を歌ったのを聞いて、魯に向かった。

「空が暗くなったのに、なぜ帰らないのか」という句がある。




             *    *    *




 5月、魯襄公が魯に帰国した。

公冶は帰国すると、季孫宿を「主君を欺くのに、なぜ私を使ったのか」と非難して

季孫宿から与えられていた邑を全て返し、以後、出仕しなかった。

季孫宿が会いに来た時は話をしたが、いない時は話題にしなかった。


後年、公冶が病に斃れ、死を覚悟した時には家臣を集め、こう命じたという。

「わしが死んだら、冕服をれん(着衣した遺体の納棺)に用いてはならぬ。

あれは、我が徳によって下賜されたものではないからだ。

それと、わしの葬儀に季孫宿を参加させぬように」




             *    *    *




 周都で周景王が先君・霊王を埋葬した。

この時、鄭簡公は楚に朝見しており、上卿・子展は国を守っているため

国君も上卿も周霊王の葬儀に参加出来ないため、子石を周都に送ることにした。


伯有がこれに反対した。「子石はまだ若すぎます」


しかし子展は「誰も送らぬより、若い者でも参加した方が良い。

鄭が晋・楚に服しているのは周天子を守るためである。

王事(聘問、朝見、会盟等、王の行事)はまだ廃されていない」

と言ったので、子石は周都に行った。




             *    *    *




 呉国は、長江下流域を拠点としており、中原から遠く離れた蛮夷の地とされてきた。


呉王・寿夢じゅぼうの代から急激に力をつけ、晋と盟約を結び、楚としばしば衝突して

時に勝ち、時に敗れを繰り返し、諸侯との交流、婚姻も続いて、すでに40年が経つ。

時機は不明ながら、周王より爵位(子爵)も与えられ、名実ともに諸侯となった。


呉の都は、寿夢の跡を継いだ呉王・諸樊しょはんの代に、姑蘇こそに定められた。

現在の江蘇省蘇州市姑蘇区で、周の都・京帥があったとされる河南省洛陽市までの距離は

おおよそ2,320里(約940km)で、これは東京から新山口の距離に相当する。

急使を派遣しても、往復に1ヶ月は要したであろう。



 呉の更に南方に、越という国が勃興しつつある。王の名を夫譚ふたんと言う。

越の民は「百越」と呼ばれる種族で、断髪し、顔や身に文(刺青)し、水に入りて魚を獲るという。

中華の風俗、文明の度は、まだ薄い。



 呉王・余祭が、その越国を攻め、捕虜を得た。

呉王は越人の捕虜をこん(門衛)に任じ、その後、舟の守備を命じた。


「閽」という字には、宮中・宮殿の門番以外に、宦官の意も包含する。

即ち、刑罰を受けた者全般を指す意味もある。

門構の中に「昏」という字がある事から、生来の盲目者が門番を勤める場合もあった。


 後日、呉王・余祭が舟を観察した時、その閽が、手にした刀で呉王を刺殺した。



呉人は次の王に寿夢の末子・季札を指名したが、三度目も固辞したので

余祭の弟・余眛が継ぎ、呉王・余眛となった。




           *    *    *




 鄭の執政・子展が死に、子の子皮が鄭の上卿を継いだ。


この当時、鄭を飢饉が襲い、民が窮乏していたので

子展の遺命として、子皮が飢餓救済の策を発表した。

国庫を開放し、一戸当たり一鍾しょう六斛こく四斗、約120L(51L説もある))

の穀物を民に施したのである。


この施策は鄭人に歓迎され、子皮は鄭の民から慕われる事となり

以後長く、鄭の上卿として国政の首座に携わった。



 これを聞いた宋の司城・子罕しかん

「上にいる者が善を施すのは民の願いである」と子皮を称賛した。


鄭のみならず、宋でも飢饉が起きていたので、子罕は鄭の子皮に倣い

宋平公に注進して、公粟こうぞく(国の倉庫に蓄えられた粟(穀物))を

民に貸し出すように請い、平公はこれを認めた。


また、宋国中の大夫にも食を拠出させた。


子罕は国庫の粟を飢えた貧民に貸し出したが、契約書を書かなかった。

これは返済の必要がない事を意味する。


民に貸し出す食糧のない大夫にも粟を提供した。

これにより、宋に飢えた者がいなくなった。



 晋の叔向は、鄭の子皮と宋の子罕を大いに嘉した。

「鄭の罕氏(子皮の族)と宋の楽氏(子罕の族)はどちらも長く栄えるであろう。

民が帰心しているからだ。施しを自らの徳としない分、宋の楽氏がより勝っている」




               *    *    *




 6月5日、衛献公が復位から3年で卒去し、太子・悪が衛候を継いだ。衛襄公である。



 また、この6月には杞国が淳于じゅんうに遷都した。

晋平公の生母は杞の出身であったから、杞の新都建設のため

諸侯を招集し、城壁を築く事を智盈ちえいに命じた。


魯の仲孫羯ちゅうそんかつ、斉の高止こうし、宋の華定かてい、衛の大叔儀だいしゅくぎ

鄭の子大叔しだいしゅく伯石はくせき、それに曹、きょちゅとうせつ小邾しょうちゅの大夫が動員された。


鄭の子大叔が衛の大叔儀と話をした時、大叔儀が不満を述べた。

「晋君の母のために諸侯を動員し、杞に城を築くというのは、如何なものか」


子大叔が言う。

「晋候は周室の衰弱を気に掛けず、夏朝の後裔(杞)を守ろうとしている。

周、晋と同姓の姫姓諸侯を棄てたら、誰が晋に従うであろう。

同族を棄てて異姓に近づくのは、徳から離れる事である。

近親と親しまない晋は、誰とも友好関係を持てなくなる」



 斉の高止と宋の司徒・華定が晋の知盈と面会した。

この時、晋の司馬侯が相(補佐)を勤めた。


両者が退出してから、司馬侯が智盈に語る。

「高氏は驕傲、華氏は奢侈です。二氏には禍が訪れるでしょう」




               *    *    *




 杞の築城に協力した事を謝すため、晋平公は范鞅はんおうに魯を聘問させた。


魯襄公は宴を開いて范鞅をもてなし、展荘叔てんそうしゅくが范鞅に幣(帛布)を贈った。


宴の後、射礼という、矢を射る儀式が行われた。

天子と諸侯の宴では12人、諸侯と諸侯の宴では8人、諸侯と大夫の宴では6人が

それぞれ4本の矢を射ち、最後に主と客が矢を射る決まりである。


しかし、魯襄公の側に6人の優れた射手がいなかったので

魯の家臣から礼と射術に通じた者が選ばれた。

展瑕てんか展王父てんおうほ公巫召伯こうふしょうはく仲顔荘叔ちゅうがんそうしゅく

鄫鼓父しょうこふ党叔とうしゅくの合計6名が揃った。


これは魯の公室が衰退して人材が不足している事を示している。




               *    *    *




 晋平公が司馬侯を魯に派遣し、魯が杞国から奪った地を返還させた。


しかし、魯が返還した土地が少なかったと杞から苦情が届いたため

杞の出身である晋平公の母が怒った。

「司馬候の働きは先君の保護を受ける事能わず」


平公はこれを司馬侯に伝えた。

「晋は同じ姫姓の国々を滅ぼして大国になりました。

小国を侵さなかったら、国を拡げることは出来ません。

杞は夏朝の後裔で東夷に属します。魯は周公の後裔で晋と和しています。

魯が杞を滅ぼしても気に留める必要はありません。

魯は晋に対して幣(貢物)を欠かした試しがなく、入朝も熱心です。

魯を枯らせて杞を肥えさせるのは宜しくありません」


紀元前545年から544年にかけ、鄭と宋で飢饉があったようです。

鄭は現在の河南省鄭州市、宋は商丘市にありました。

両国の間には許とか杞もあるんで、同様の事態になっていたと思います。


前話で書いた、木星の軌道が通常よりズレているのと

異常気象が関係あるかどうかは不明ですが

1999年8月に惑星直列とか何とかで騒いだ事もあったし

全く無関係でもないのかな、とか思ったり。

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