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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第八十九話 崔杼と慶封




               *    *    *




 宋の左師(宰相)・向戌しょうじゅつの奔走により、締結された不戦条約「弭兵びへいの会盟」


この盟約を結んだのは、晋・楚の二大国と、会盟を主催した宋国

そして中原の主要国たる魯、鄭、衛、曹、許、陳、蔡の、計10ヵ国である。

また、ちゅうは斉の、とうは宋の属国と承認された。


晋・楚に次ぐ二大国、斉・秦は、盟約の儀式には加わっていないために

いわば、敬して遠ざけられる、独立不羈の形となったものと思われる。


晋の正卿・趙武、楚の冷尹れいいん・屈建の考えでは

両国を刺激して中原に無用の争いを起こすつもりはない。



 斉の左相・慶封けいほうと上大夫・陳須無ちんしゅむは6月2日に宋に入国した。

盟約が締結したのは7月5日で、それより以前に慶封と陳須無は斉に帰国していた。


この1ヶ月の間で、斉に政変が起きたからである。




               *    *    *




 斉の右相・崔杼さいじょには、成・きょうの二子がいて、崔杼の妻は二人を産んだ後に亡くなった。


その後、崔杼は後妻に棠公どうこうの寡婦・棠姜どうきょうを迎え、三男・明が産まれた。

棠姜には、棠公との間に産んだ子・棠無咎どうむきゅうという連れ子がいて

棠姜の弟・東郭偃とうかくえんと共に崔氏に仕える事になった。


崔杼の長男・崔成は生まれつき病弱であったために廃嫡され

棠姜の産んだ崔明が嫡子となった。


崔成は身を退き、崔氏の先祖を祀った崔邑に住むことを請い、崔杼は同意した。


しかし、東郭偃と棠無咎がこれに反対したのである。

「崔邑は宗廟があります。ここに住むのは崔氏の後嗣たる崔明でなければいけません」



 これを聞いた崔成と崔彊の兄弟は怒り、東郭偃と棠無咎を排除しようと目論んで

斉で崔杼と並ぶ実力者の慶封に相談したのである。


「主(崔杼)は棠無咎と東郭偃の言いなりです。

このままでは慶氏も邪魔と見て排除しかねません」


「汝等の意見は聞いた。わしに任せておくがよい」



 どうやら、この頃には慶封と陳須無は宋から斉に帰国していたらしい。

なお、宋都・商丘から斉都・臨淄までの距離は約960里(約390km)ある。



 慶封は家臣の盧蒲嫳ろほへつに相談した。

「崔杼は先君(荘公)の讎です。天が崔杼を誅しようとしています。

崔氏の家が乱れるのであれば、慶氏にとって益になる道を取るべきでしょう」


 崔成と崔彊が再び慶封に相談に来た時、慶封は二人にこう言った。

「崔杼に利がある道を行うべきだ。必要ならば、棠無咎と東郭偃を排除しよう。

汝等だけで行うのが困難であれば、わしが助力しよう」




               *    *    *




 9月5日、崔成と崔彊は、崔氏の外朝(政務を執る場所)で東郭偃と棠無咎を殺した。


崔杼は驚き、かつ怒って外朝の部屋を出たが、近侍は皆逃走して馬車もない。

そこで圉人に馬車を用意させ、宦官に馬を御させ、慶封の邸へ逃亡した。


崔杼は逃亡しながら、馬車の中で呟いた。

「天が崔氏を見放さないのであれば、禍はわしの身だけで留まるがよい」



 慶氏の邸に辿り着いた崔杼は慶封に面会した。

「なぜ、成と彊があのような暴挙に出たのであろう。

崔氏と慶氏は一家も同じである。我が子なれど、討伐してもらいたい」


慶封は肯定して、盧蒲嫳に命じて甲士(兵)を率いさせ、崔氏の邸を襲撃した。



 崔成と崔彊は慶氏からの攻撃に激しく抵抗したが

斉の先君を弑逆し、専権を極める崔氏を嫌う斉の国人は多く

彼らが盧蒲嫳に味方したため、攻撃側の勢いが増し、崔氏は敗れた。


崔成と崔彊は殺され、崔氏の家財は悉く奪われた。

東郭姜は密かに崔明を逃がし、崔明は墓地に隠れた。

明を逃がした後、崔杼の妻・東郭姜は首を吊って死んだ。



 全てが済むと、盧蒲嫳は慶封の元に戻り

崔杼に討伐の終了を報告して、崔杼の車を御して帰らせた。


家に戻った崔杼は、帰る場所がなくなったことを知り、東郭姜の後を追って自害した。



翌6日、崔明は魯に出奔した。

斉で強権を奮った崔氏一族は、僅か1日で滅亡したのである。


崔杼亡き後は慶封が斉の国相となり、斉の政権を掌握した。




           *    *    *




 弭兵の会盟が済んだ後、晋の荀盈じゅんえいが楚に入って盟約を結び

楚からは子蕩しとうが晋に行って盟を結んだ。


子蕩は晋で宴席に招かれ、帰国する時に『既酔』を賦した。

「美酒に酔い、その徳に満たされる。君子(晋平公)の万寿を願い、大福を祈ろう」


これを聞いた晋の叔向が言った。

「子蕩の族は楚国で長く栄えるであろう。君命を受けて聡明であり

宴に感謝し、晋君の長寿を願い、去る時に相応しい詩を賦した。

子蕩は楚の政事を担う。主君に仕えて民を良く養い、政権は彼から離れない」



 斉荘公が弑逆された崔氏の乱の後、申鮮虞しんせんぐが魯に逃亡して2年が経つ。

申鮮虞は魯の郊外で荘公のために喪に服していた。


楚が申鮮虞の噂を聞いて、魯へ使者を送って申鮮虞を召した。

この冬、申鮮虞は楚に入り、右尹ゆういん(冷尹に次ぐ重職)に任命された。




                 *    *    *




 年が明けて、周の霊王27年(紀元前545年)春

この年は暖冬であったらしく、厳寒の時期でも湖に氷が張らなかったという。


周の暦では、春は1~3月を指すが

これは現在の12~翌2月に当たり、最も寒い時期になる。


暦は歳星(木星)の運行によって決められ、歳星が約12年で天を一周する事から

天を赤道帯に沿って西から東に12分割して、歳星のある位置にそれぞれ名称がある。

星紀せいき玄枵げんきょう娵訾しゅし降婁こうろう大梁だいりょう実沈じっちん鶉首じゅんしゅ鶉火じゅんか鶉尾じゅんび寿星じゅせい大火たいか析木せきぼく


なお、木星の公転周期は11.86年で、正確に12年ではないため

春秋時代では、この誤差によって、歳星の位置に狂いが生じる事を不吉と捉えた。



 この年、魯の大夫・梓慎ししんが歳星を見て凶事を告げた。

「今年は宋と鄭を飢饉が襲うだろう。星紀にいるはずの歳星が、既に玄枵にいる。

天の時が正しくなければ災害が起きる。だから氷が張らず、陰(冬)が陽(夏)に勝っている。

蛇(玄枵は蛇を意味する)が龍(歳星・木徳は龍を象徴する)に乗った形をしている。

龍の宿星を諸侯の位置に当てると、宋と鄭になる。だから宋と鄭は必ず飢える。

玄枵は虚宿(虚は何もないこと)が中心に居り、枵は消耗を意味する。

土(地)が虚ろになり、民が消耗したら、飢えないはずがない」




               *    *    *




 夏になり、斉景公、陳哀公、蔡景侯、燕懿公、杞文公、胡君、沈君、白狄が

前年に宋で行われた弭兵の会盟を確認するため、晋に入朝した。


 斉景公が斉を出国する前、慶封が言った。

「我々は宋の盟に参加していません。なぜ晋に入朝するのでしょう」


陳須無が慶封に言う。

「小国は大国に仕えることをまず考え、それから財貨について考える、それが礼です。

会盟に参加していなくても、小国は大国に従うのが、礼です。

今回の盟に参加していなくても、晋に背くのは宜しくありません。

すでに斉は重丘の盟で晋と盟約を結んでいます」



 一方、ちゅう悼公は従属する魯に来朝した。時節に応じた定例の朝見である。



 衛では、甯氏の党が討伐されて、甯氏の与党である石悪は晋に出奔した。

石悪の従弟・石圃が石氏の後を継いだ。




               *    *    *




 蔡景侯が晋に朝見し、蔡に帰る途中、鄭に入り、鄭簡公が宴を催して歓迎した。

だが、蔡景侯の態度は不敬であったという。


鄭の子産が言う。

「蔡侯には禍が訪れる。かつて晋からの帰途、鄭君は子展を送り

東門の外で蔡候を労ったが、蔡侯の態度は傲慢だった。

そして今回も、宴の礼を受けながら怠惰であった。

小国が大国に仕えながら惰傲であれば、死から逃れる事は出来ない。

それは、蔡侯の太子によってもたらされるであろう」



 鄭簡公は大夫・子大叔を楚に派遣して聘問させた。

しかし、子大叔が漢水に至った時、楚は子大叔の入国を拒否した。

「宋の盟約には国君が自ら参加した。今回は大夫が来た。

楚君はひとまず汝に帰国を命じ、国君が入朝すべきか、晋候に問うと申された」


これに子大叔が言う。

「宋の盟において、楚君の令は諸侯の利となり、以て社稷を安定させ

民を鎮撫させ、礼によって天の福禄を受け入れることになりました。

それゆえ、鄭君は臣に命じて楚に幣(貢物)を献上すべく奉じたのです。

小国(鄭)は大国(楚)の恩恵を望み、その命に背くことはありません。

盟約に背けば君は徳を損ない、楚君の不利になる事を恐れます。

そうでなければ、労苦を厭わず鄭君は楚に入朝するでしょう」



 子大叔は帰国して鄭簡公に報告し、鄭伯と子展に語った。

「楚君はもうすぐ死ぬでしょう。徳を修めず、諸侯から貪り、我欲のみ求めています。

いかに長寿を求めようと、得る事は叶いません。

その時、我が君は楚に赴いて葬儀に参加して帰れば、楚は満足します。

以後、楚は10年、諸侯を従える事は出来ず、その間、鄭は安息を得ます」


鄭の卜官・裨竈ひそうが言った。

「今年、周の天子と楚君が死ぬであろう。歳星がいるべき所を失い

来年の位置に移動して、鶉火・鶉尾(それぞれ周と楚の位置)を害している」




               *    *    *




 9月、鄭の子大叔が晋に行き、宋の盟に従って鄭君が楚に入朝することを報告した。


子産が鄭簡公の相(補佐)となり、楚に入る。

当時の決まりで、諸侯が他国に入ると、郊外で草を除いて壇を築き、慰労を受ける。


しかし子産は壇を築かず、舎(帳)だけを作ったので、舎・壇を担当する者が言う。

「これまで国君の相を務める者が壇を造らなかった試しはありません。

草を除かず、舍しか作らないのは、相応しくありません」


これに子産が言う。

「大国が小国に行く時は壇を作るが、小国が大国を訪問する時は、舍だけで充分である。

大国が小国に赴く時、小国には五つの利がある。

罪に寛大、過失を赦し、災患を救い、徳を賞し、至らない事を教わる。

ために小国は困窮せず、喜んで大国に服する。そのために壇を築いて功を明らかにし

後人が徳を怠らぬようにするのだ。


小国が大国に行くと五悪がある。大国の罪を誤魔化し、大国が不足している物を求め

小国を強いて従わせ、貢物を要求し、命に従わせる。

これらは全て小国の禍である。壇を作って禍を明らかにする必要はない」




              *     *     *




 斉の慶封は崔氏を滅ぼし、斉君をも凌ぐ権限を手にした。

しかし、その後の慶封は政治の実務は子の慶舍けいしゃに任せ

自身は酒と狩猟に明け暮れる日々を過ごしている。


慶封は家財や妻妾を盧蒲嫳の家に遷し、毎日のように妻妾を交換して酒を飲み

斉の官員は盧蒲嫳の家に集まって政令を聴くようになった。



 慶封は、かつて斉荘公が弑逆されて亡命した者であっても

崔氏の党人・族人に関する情報を知る者であれば帰国を許した。


この時、盧蒲嫳の兄・盧蒲癸ろほきが斉に帰国した。

かつて斉荘公に仕え、勇力の士として重用されていたが

崔杼の乱によって荘公が弑逆された後、難を避けて晋に亡命していた。



 盧蒲癸は慶舎の臣となり、慶舎は盧蒲癸を寵用して

娘を娶らせようとしたが、慶舍の家臣が反対した。

「慶氏と盧蒲氏は同姓(共に姜姓)です。婚姻を結ぶのは不吉です」


盧蒲癸が言う。

「主が姻戚を求めている。わしが避けるわけにはいかない。

詩を賦す時は、内容の一部のみ抜粋し、自分の意見に合うように解釈する。

わしも自分が必要と思う事を選ぶ。同姓かどうかは気にしない」


盧蒲癸は慶舎の娘を娶った。



 盧蒲癸は、自分が晋へ出奔したのと同時期、きょに亡命した

友人の王何おうかを斉に帰国させ、共に慶舎に仕えた。


王何は枕戈ちんか(近衛兵の持つ仗)を持って、慶舎を警護する地位を得た。


しかし、盧蒲癸と王何は共に斉荘公に重用されていたので

斉荘公を弑逆した崔氏と同様、慶氏をも憎んでいる。




             *     *     *




 この当時、斉の朝廷では、公膳(朝廷で出される食事)が出される時

大夫には二羽の鶏が提供される決まりがあった。


ある日、饔人ようじん(調理人)が秘かに鶏を鴨に換えた。

食事の膳を運ぶ者はそれに気づいて、肉を除き、汁だけを大夫に配った。


これに大夫の子雅と子尾が怒った。

公膳は国政を行う者が主管する事になっており、怒りは慶封に向けられた。


慶封は盧蒲嫳に相談する。

「殺された禽獣の肉は食われ、皮は寝具に使われます。

彼等を禽獣に喩えれば、禽獣を殺し、その皮の上で寝ればいいのです」

慶封は同意して、子雅と子尾を討つ事に決めた。



 慶封は大夫・晏嬰の元に析帰父せききほを送り

子雅・子尾討伐の協力を要請したが、晏嬰はこれを拒否した。

「臣の衆(兵)も智慧も卿の役に立たないでしょう。

しかし、この秘事を漏らす事はしません。誓約を行います」


析帰父が帰って報告すると、慶封は

「晏嬰は約束を守る。誓約を結ぶ必要はない」と言った。


続いて慶封は大夫・北郭佐ほっかくさに子雅・子尾討伐を伝えたが

北郭佐も拒否した。

「人それぞれ、主に仕える方法があります。

今回の事は、臣の協力出来る事ではありません」



 陳須無が子の陳無宇ちんむうに語った。

「また、斉に乱が起きようとしている。我々は何を得るであろう」

「慶氏が敗れ、我々が取って代わるでしょう」

「もし、それを得たとすれば、我々は大いに恐れ、慎重にならねば

必ずや崔氏の二の舞となるであろう」



 盧蒲癸と王何が慶氏討伐をうらない、慶舎に兆を見せた。

「これは、ある者が仇讎を攻撃する事を卜った兆です」

無論、慶舎は自分が卜われた事は知らず、兆を見て

「勝つであろう。そして血を見る」と言った。




       *     *     *




 冬10月、慶封が陳無宇を従え、萊へ狩猟に行った。


17日、陳須無が慶封に使者を送って陳無宇を呼び戻した。

「母が病に斃れました。どうか帰ることをお許しください」


慶封は陳無宇の母を卜い、兆を見せた。

陳無宇は「母は死ぬでしょう」と言い、卜の亀甲を胸に抱いて泣いた。

慶封は陳無宇の帰宅を許した。


慶封の側にいた慶嗣けいしが慶封に警告を告げる。

「我々も斉都に帰るべきです。禍は嘗(秋の祭祀)の儀式で起きるでしょう」


しかし慶封は同意しなかった。


慶嗣は嘆き「我々は斉を奔る事になるであろう。

何処かに我々を受け入れる国があろうか」と叫んだ。



陳無宇は斉都に帰る途中、淄水しすい等の川を渡った後、舟や橋を尽く破壊した。



 慶氏を討つ準備を進める盧蒲癸に、ある日、妻の盧蒲姜ろほきょう(慶舎の娘)が言った。

「何事かを起こすのに、妻に話さないようでは、成功しないでしょう」


盧蒲癸は慶氏討伐の計画を妻に話した。

「父は頑固なので、誰も止めなければ、逆に出て来ないでしょう。

祭祀の参加を辞めるように諫めれば、逆に出てきます。私が諫めに行きます」

盧蒲癸は妻に感謝した。




             *     *     *




 11月8日、斉の国祖・太公望呂尚の廟で嘗の儀式が行われた。


盧蒲姜が父である慶舎に危険を伝え、参加を止めるように勧めたが

慶舎は「誰がわしを討つというのか」と言って廟に入り、祭祀を主宰した。


慶舎の臣・麻嬰まえいかたしろ(神霊に代わって祭祀を受ける者)を

慶氏の親族・慶奊けいけつが上賓(最初に酒を献上する者)を担った。


盧蒲癸と王何は枕戈を持ち、慶氏の兵が警護のため公宮を囲む。

廟は公宮の中にある。



 嘗の儀式が終わり、優(役者)による演技が催された。

斉景公に慶氏の者たちは酒を飲みながら、それに見入っていた

慶氏の兵たちも、みな甲冑を脱いで寛ぎ、同様に酒を飲んで

優の演技を見るために魚里(宮門外の里)へと移った。


この時、慶氏の馬が演技の音に驚いたため、兵達が馬を繋いだ。



 こうして、全ての準備が揃った事を確認した

欒氏(子雅)、高氏(子尾)、陳氏(陳須無)、鮑氏(鮑国)の兵は

慶氏の兵が脱いだ甲冑を身につけて廟に入った。


演技をしている役者たちは、慶氏を油断させるために

陳、欒、高、陳、鮑ら四氏が用意した者で、圉(馬飼い)であった。


子尾が槌で門を三回叩いて合図を送ると、盧蒲癸が慶舎を後ろから刺した。

王何も戈で慶舎を襲い、左肩を打つ。

廟に四氏の兵が乱入するのを見ると、慶舎は廟のかく(四角い柱)を掴み

いらか(棟梁)を震わせてまないたや壺を投げて抵抗したが

ほどなく力尽きて死に、麻嬰、慶奊も殺された。



 慶舎と共に儀式に参加していた斉景公は

突如の乱に驚き、恐れたが、鮑国が斉君に告げた。

「慶氏は君側の奸です。我々は斉君のために行っています」


陳須無が斉景公を連れ、祭服を脱いで内宮に入った。




        *     *     *




 慶封は狩猟から帰る途中、慶氏が討伐されたとの報を受けた。


19日、慶封が私兵を率いて斉都の西門を攻撃した。

しかし、慶氏の準備が不足していたために攻略出来ず

備えの薄い北門に移って攻撃すると、ほどなく北門は陥落した。


慶封は城内に入り、内宮を攻めたが、四氏の兵に敗れたので

ごく(大通り)まで後退して陣を構え、決戦を求めた。


しかし四氏は戦いに応じず、慶封は斉を出て魯に奔った。




        *     *     *




 魯都に入った慶封は、上卿・季孫宿きそんしゅくに車を献上した。

その車は贅沢に漆が塗られ、車全体が光輝に満ちていた。


魯の大夫・展荘叔てんそうしゅくがそれを見て言った。

「車が光沢を放つほど、人は憔悴する。彼が斉を亡命したのは当然であった」



 魯の卿・叔孫豹しゅくそんひょうが慶封を食事に招いた。

当時、食事の前に必ず神を祭っていたが、慶封の祭は礼から外れていた。


それを見た叔孫豹は不快になり、工(楽師)に『茅鴟』を歌わせた。

不敬を風刺する内容だったらしいが、その内容は今日に伝わっていない。


しかし、慶封は詩の意味を理解出来なかった。



 魯が慶封を匿っている事について、斉景公が譴責し、慶封の身柄を要求した。

斉を恐れた魯は慶封を捕え、斉に召還させようとしたので、慶封は呉に奔った。




               *     *     *




 呉王・余祭は慶封を受け入れ、呉の邑・朱方を与え、慶氏の族人を集めて住ませた。


数年後、慶封は斉にいた頃よりも富貴になったという。



 呉で富んだ慶封を見て、魯の孟椒もうしゅくが叔孫豹に語った。

「天が悪人を富ませようとしている。慶封がまた富を手に入れた」


「善人が富を手に入れることを賞と言う。悪人が富を手にする事を禍と言う。

天は慶氏に禍を与えようとしている。一族を一つ所に集めて全滅させるのだろう」



 慶封が斉から出奔した後、斉では崔杼に弑逆された先君・荘公を改葬した。

また、崔杼を逆臣として、その死体を市に晒したという。


斉で独裁を振った崔氏と慶氏は斉から一掃されたのである。



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