第八話 下剋上の先駆
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斉は天下の東方、現在の山東省北部にある。
天嶮に守られた好立地だが、その土地は農業には不向きである。
そのため、古くから商工業が発展した。斉の女たちはみな機織りに励み
さらには海から採れる塩が豊かな富を生み、斉は大国となった。
斉の君主・僖公はその立場に奢る事なく、無意味な争いを好まず
諸侯とは和平を以て関わる君子とされ、民からも好かれている。
斉僖公の嫡子は諸児という。父と異なり、暴を以て人に臨み
その態度に礼なく、性は狷介で、恥を知らない。
僖公には娘が二人いる。共に美人で知られ、長女の宣姜は衛宣公に嫁いだ。
次女の文姜も妙齢だが、まだ嫁ぎ先は決まっていない。
先般、鄭の世子・忽が斉の救援に赴き、北戎を駆逐した。
その武勇に感じ入った斉僖公は、文姜を鄭の世子に娶せようとしたが
忽は首を縦に振る事なく、文姜を袖にして鄭に帰国した。
その後、世子忽は陳の公女を夫人にした。
これを聞いた文姜の気持ちは如何ばかりであろう。
ほどなく、斉の太子・諸児が腹違いの妹、文姜と私通したという噂が流れた。
斉僖公は諸児を宋の公女と婚姻させ、さらに魯と莒の女を妾に与えた。
折しも、魯の桓公が即位したので、文姜を魯公へ輿入れした。
諸児は満足し、魯候は美しい文姜を愛した。
斉僖公は嫡子と娘の悪評を払拭し
かつ宋、魯とも親密になり、上々の成果に喜んだ。
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周の桓王は、鄭伯が王命を騙って宋を討ったと聞いて怒り
朝政を虢公・林父に任せ、鄭伯を卿士から罷免した。
鄭荘公は王を恨み、五年間参内しなかった。
王は鄭荘公の態度に憮然として
「鄭伯は無礼極まりない。このままでは諸侯が王を軽んじるであろう。
わしは王軍を率いて、鄭伯の罪を問おうと思う」
卿士となった虢公・林父は王を諌めた。
「鄭は代々、卿士として周室に功がありました。
鄭伯が参内しなくなったのは政権を取上げたためです。
親征によって万一の事があれば天威を貶めます。
信頼の置ける将に征討の命を下せばいいと考えます」
「鄭伯は王を軽視している。わしと寤生(鄭伯)は不俱戴天てある」
ついに桓王は鄭討伐を諸侯に宣言した。
だが、応じた諸侯は蔡、衛、陳の三国のみであった。
この頃、陳では陳桓公が亡くなり、弟の公子・佗(字は伍父)が
太子・免を殺し、自らが陳君の座に就いた。
陳の民は、太子を殺害して即位した新君に従わず、国内は乱れていたが
鄭を討伐する王命が下され、大夫の伯爰諸を将にして出兵した。
桓王は右卿士の虢公・林父を右軍の将とし、蔡、衛をこれに属させ
左卿士の周公・黒肩を左軍の将にして、陳軍を従わせた。
そして王は自ら中軍を率い、洛邑を出て、鄭都・新鄭を目指した。
洛邑は現在の河南省・洛陽市、新鄭は同省の新鄭市である。
両市の距離は約138km、周尺での単位で表すと約340里となる。
この時代、一日の行軍距離が30里(約12km)とされていたので
王軍が王都を出て、新鄭に達するまで11~12日を要する。
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一方の鄭荘公は、王軍が鄭に向かっていると聞いて
家臣を集め、対策について尋ねたが、誰も意見を言わない。
やがて、執政の祭足が進言した。
「天子が自ら軍を率いて鄭を攻めるのは、我が君が参内しなかった事が理由。
ここは使者を立てて謝罪し、しかる後に参内すべきでは」
だが、荘公は反論した。
「王はわしから卿士の地位を剥奪した。この上、我が国を攻め
桓公、武公と三代に及ぶ勤王の功を忘却している。
鄭を保つには、いかに王軍といえど、応じるしかあるまい」
続いて高渠弥が発言した。
「陳は鄭と親しい。王命でやむを得ず出兵したとはいえ、戦意は低いでしょう。
ですが、蔡と衛は鄭と不仲ゆえ、本気で戦うはず。
天子自らの親征となれば容易ではありません。
ここは新鄭の堅固を頼み、戦意が緩むのを待った上で
戦うか和するかを決めるべきです」
次に公子・突が述べた。
「周の諸侯たる鄭が周王と戦うのは大義名分が立ちません。
長期に及ぶほど、傍観する他の諸侯は王の側に属くでしょう。
戦うなら速戦即決が大切です。それがしに一計がございます」
「申せ」
「王軍は三軍に分けているので、我が軍も三分して、それぞれにあたります。
我が左軍は敵の右軍に、我が右軍は敵の左軍にあたり
我が君には中軍を指揮されて、王に当たります」
「特に変わった策とも思えぬが」
「陳侯は主君を弑して君主になったばかりで、陳軍の士気は低いはず。
先ず、我が右軍が全力を以て陳を撃てば、容易く壊乱しましょう。
陳軍が崩れた後、左軍が蔡と衛を攻めれば、ろくに戦わず後退するでしょう。
しかる後に我が三軍を合流して中軍の王に当たれば、我が勝利は疑いなしです」
「うむ、突の兵略は亡き公子・呂の如しである」
ほどなく国境より報せが届いた。
「王軍は繻葛(現在の河南省長葛市)に到りました」
荘公は腹を決めた。「皆の者、出陣である」
時に、桓王の13年(紀元前707年)秋であった。
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鄭軍は大夫・曼伯が右軍を担当、執政の祭足に左軍を任せ
荘公自らは高渠弥、原繁、瑕叔盈、祝耼等を率い、中軍に蝥弧の旗を立てた。
祭足が荘公に「蝥弧旗は奉天討罪を意味します。
宋、許の討伐時はともかく、王軍に対しては不適当では」
荘公は旗を換えた。
以後、蝥弧旗は倉にしまわれ、使われることはなかった。
「王は兵法に詳しいが、実戦の経験は少ない。
一方、我が帥(軍)は多くの戦を経て、戦いの呼吸を知悉しておろう。
兵数は王軍の方が多い。我らは魚麗の陣を取る」
高渠弥が「我が君、魚麗の陣とは」と尋ねる。
「前に偏(兵車25乗)を置き、後ろに伍(兵車125乗)を配置する。
伍が偏の隙間を縫って進む強固な陣形である」
三軍は繻葛の近くで陣を敷いた。
桓王は、王軍を見た鄭伯は畏まって恭順すると思っていたが
鄭伯が自ら軍を率い、王に敵対して来た事を見て取り
赫怒のあまり、言葉も出ないほどであった。
若い王は、自ら打って出ようとしたのを、虢公が押し留めた。
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翌日、鄭荘公は陣形を整え、三軍に命じた。
「左右の二軍は軽々に動いてはならぬ。
我が旗の動きに従い、合図すれば一斉に攻撃を開始せよ」
そのまま、鄭荘公は整然と布陣し、陣を動かさない。
一方、周王は陣前で鄭伯の罪を数え上げ、鄭兵の士気を下げようと試みた。
さらに、兵たちに大声で挑発させたが、鄭軍は一向に応じない。
正午を過ぎ、王軍に気の緩みを見て取った荘公は
瑕叔盈に大旗を振らせると、左右の両軍は突進した。
まず右軍の曼伯が敵の左軍に突入する。
王軍の左に属する陳軍は、元より闘志に欠けているので
鄭軍の突撃を受けると、ろくに戦わず逃げ出した。
その流れは周兵をも巻き込み、将である周公までが敗走したのである。
続いて左軍の祭足は王の右軍を攻め、蔡、衛の旗がある方向へ突進する。
二国はすでに陳軍の敗走を目の当たりにしているため
鄭軍の統率された攻撃を支えられず、逃げ出そうとした。
しかし、右軍の将、虢公は毅然と車上で屹立し
浮き足だった兵に「逃げる者は斬る」と大喝したので
周軍は踏みとどまり、鄭軍を押し返したので
右軍の崩壊は免れ、戦線は一時的に拮抗状態となった。
祭足は兵の損耗を恐れ、過度な突撃は避けたので、追撃が鈍った。
虢公はあえて反撃はせず、整然と後退した。失った兵は一人もいなかった。
桓王は中軍にあって鄭軍の主力と交戦し、一進一退の攻防が続いていたが
次第に味方の兵が浮足立ってきたのに気づいた。
周囲の状況を見渡すと、すでに左右の軍は敗走している。
中軍が互角に渡り合っている間に、左右から包囲されつつあった。
頃合いは良しと、鄭の中軍の将、祝耼と原繁は猛然と突進を開始した。
さらに曼伯と祭足が左右から王の中軍を挟撃したので
王軍の兵車、将兵に甚大な犠牲が出た。
桓王は敗北を認めて退却を決断し、自らが殿軍となって
鄭軍と戦っては逃げ、逃げては戦った。
祝耼は退く周王に狙いを定め、一矢を放つと、見事、周王の左肩に当った。
傷は浅かったが、祝耼が王の兵車に接近し、さらに一矢を放とうとした。
そこへ虢公が飛び込み、王を助けるべく祝耼に挑んだ。
さらに原繁、曼伯までもが参戦し、豪傑入り乱れての乱戦が展開される。
突然、鄭軍から引揚げの太鼓が打ち鳴らされたので
両軍共に引き上げた。 すでに日は沈みかけていた。
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周軍は繻葛の戦場より二十里引下って陣を立て直した。
周公・黒肩も合流し、敗戦の元凶は陳軍だと訴えた。
「敗れた責はわしにある」と桓王は屈辱に顔を歪めた。
一方、鄭軍であるが、祝耼らは帰陣して荘公に言った。
「王の肩を射て、今少しで王を生け捕りに出来たところでしたが
なぜ、我が君は引揚の太鼓を打たれたのですか」
「この戦が起きた因は、天子が不明にして、代々の鄭君の功績を蔑ろにして
攻めて来たから、やむを得ず、わしは応戦したのだ。
今、卿らの活躍により、鄭の社稷は守られた。これ以上に望むものはない。
天子を生け捕りにしたところで、どう始末をつけるのか。
王を射て、もし亡くなられていたら、わしは周王弑逆の汚名を被っていた」
祭足も「我が君の仰る通りです。これで鄭の威厳も保たれました。
王も我々の実力を知ったでしょう。すぐに王へ見舞いの使者を出し
丁重に詫びを申し入れる事が大切だと思います」と語った。
「うむ、卿が使いに行ってくれるか」
戦で捉えた捕虜と戦利品、それに粟や黍、さらに馬の飼料を
百を超える馬車に積んで、祭足を王の陣中へ見舞に行かせた。
祭足は桓王に謁見し、慇懃に挨拶を申し上げた。
「王臣・寤生は、鄭の社稷が災禍に巻込まれるのを放置できず
止むを得ず自衛の軍を出させていただきました。
王のご尊体を傷つけてしまった事、誠に恐懼に耐えません。
謹んで、寤生が臣・足を遣わし、王にお見舞申し上げますと共に
深くお詫びを申し上げます。当軍で預かる王兵と王の財物はお返し致します。
また、粗品ではございますが、どうぞお納めいただき
以て王のご宥恕賜りますよう、お願い申し上げます」
桓王は黙っていたので、虢公が代って答えた。
「鄭伯が自身の過ちと認めているのであれば、今回は許そう。ご苦労であった」
祭足は礼をして退出し、陳、蔡、衛の陣営にも見舞いを言って回った。
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桓王は帰国したが、敗戦と鄭伯の無礼による怒りが収まらない。
諸侯に檄を飛ばし、鄭を討伐させようとしたが、虢公に諌められた。
「四方に檄を飛ばせば、敗戦を自ら喧伝して嘲笑を買うだけです。
鄭は強く、多くの諸侯と盟約を結んでおりますので
出兵の王命に応じる諸侯はいないでしょう。
しかも鄭は祭足を遣わして謝罪し、各陣営をねぎらっています。放っておくべきです」
以後、桓王は鄭のことは言わなくなった。
諸侯国の鄭が単独で周王と陳、蔡、衛の三国と戦い
これを破った戦いを、戦場の地名から「繻葛の役」と言う。
周の平王が鎬京から洛邑に遷都して60余年が経ち
周王の威信が名実共に失墜した事を天下に曝け出した。
当時、司徒の衛武公が憂慮した通りになったわけであるが
これを怯懦の報いと非難するは、短慮に過ぎよう。
鄭の荘公が非凡な資質を秘めた英傑であった事は疑いなく
これが鄭国の絶頂期であり、彼は後世「小覇」と呼ばれる。
繻葛の戦いで唐突に登場した、鄭の右軍の将・大夫の曼伯ですが
伯というのは長男を意味するので、世子の忽と同一人物の可能性があります。
それだと、国君と嫡子は別行動という
リスクを分散させる当時の不文律を破ってる事になり
相当な覚悟で王軍との戦いに挑んだ、と解釈できるかもしれません。