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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第八十七話 和平前夜




                 *    *    *




 宋の大夫・芮司徒ぜいしとが女子を生んだが、体が赤く、毛が生えていたので、堤の下に棄てた。

それを宋平公の母・共伯姫の侍女が拾い、公宮に入れ、 と名を付けた。


棄は美しく成長した。


ある日、宋平公が母・共伯姫を訪問して、一緒に食事をした。

そこで平公は棄を見て、これを大層気に入り、連れて帰り、妾にした。


棄は平公の寵愛を受け、公子・佐を産んだ。

佐は母に似ず、容姿が醜かったと言われるが、恭敬で温和な君子に育った。


一方で平公の太子・座は容貌は美しかったが、性向は粗暴かつ悪辣であった。

左師・向戌しょうじゅつは太子を恐れ、嫌っていた。


太子付きの宦官の長・恵牆伊戻けいしょういれいを、太子は嫌っており

これに幾度も暴力を奮った。



 周の霊王25年(紀元前547年)秋

楚国の使者が晋を聘問した後、帰国時に宋を通った。

太子・座は楚の使者と旧知だったので、久闊を叙すために

宋平公に、野外で宴を開く許しを請い、同意を得た。


この時、恵牆伊戻が太子に同行する事を申し出た。

平公は「太子は汝を嫌っている」と言い、難色を示した。

「君子に仕える者は、嫌われても離れず、好かれても近付きすぎず

ただ謹んで命を待ち、二心を抱かないものです。

太子の身辺の世話をする者が必要ですので、臣が参ります」


平公は恵牆伊戻を太子に派遣した。



 しかし、恵牆伊戻は太子・座を恨んでおり、この機に、太子を陥れるための策を弄した。

太子・座と楚の使者との、野外での宴が終わった後、穴を掘って盟約の場を作り

生贄を供え、盟いの文書を作成して、太子・座の謀叛の証拠を偽造した。


恵牆伊戻は宋都へ駆け、宋平公に謁見して

「太子は謀叛を起こすつもりです。楚の使者と盟約を交わしました」と讒言した。


宋平公は信じなかった。

「座はわしの太子である。謀反など起こさずとも、いずれ宋君になるではないか」

「太子は、早く君になりたいと望んでおいでです」


そこで宋平公は人を遣わし、宴が行われた辺りを調べると、その証拠が見つかった。

無論、恵牆伊戻が偽造したものである。


宋平公は太子・座を疑い、公子・佐の母・棄と向戌に意見を求めた。

二人とも「太子の謀反は疑いありません」と答えた。


平公は太子・座を捕えたが、無実を強く訴えた。

「公子・佐が私を禍から逃れさせるであろう」


太子・座は公子・佐に使者を送り

「正午までに汝が来なかったら、私は死ぬつもりだ」と伝言した。


太子・座の伝言を知った向戌は、公子・佐に面会して

太子の使者と会わせないため、わざと長話をした。


公子・佐が太子に会いに行く前に正午になり、太子・座は自害した。

公子・佐が宋の太子になった。


ほどなく、宋平公は太子・座が無実であったと知り、恵牆伊戻は煮殺された。



 後日、向戌が棄夫人に仕える下女に出会った。

向戌が、汝は誰に仕えているか、と問うと「宋君の夫人です」と答えた。

「君の夫人とは誰の事であろうか。わしは君夫人など知らぬ」


棄は賤妾の出身だったので向戌は棄を軽視している。

公子・佐が太子になり、棄は妾から宋公夫人になったが

それに助力したのは向戌である事を強調するため、夫人を侮辱したのであろう。


下女が戻って夫人に報告すると、夫人は錦、馬、玉壁を向戌に贈り

「国君の妾・棄は宋の左帥に、これを献上致します」と伝えた。


以後、向戌は棄を宋君の夫人と呼ぶようになり、再拝稽首して財物を受け取った。




                 *    *    *




 鄭簡公が晋から帰国して、すぐ子西を晋に送って聘問させた。


子西が晋平公に言上する。

「鄭君が来朝し、晋侯を煩わせましたが、無礼を働いたのではないかと恐れ慎み

改めて臣を派し鄭の不明を謝罪することになりました」


これを聞いた世の君子は「鄭は善く大国に仕えることが出来る」と称賛した。




                 *    *    *




 楚の大夫・伍挙と蔡の太師・子家は、親の代から交流がある。


伍挙は楚の公子・ぼう(申公)の娘を娶った。

その後、公子・牟は罪を侵して楚を出奔した。


楚の国人が「伍挙が申公の逃走を助けた」と楚康王に訴えた。

王は伍挙を疑ったため、伍挙は恐れて鄭に奔り、その後、晋に移ろうとした。



蔡の子家が使者として晋に向かう途中、鄭で伍挙に会ったので共に食事をした。


子家が言う。

「先人(伍挙の父・伍参と子家の父・子朝)の霊が汝を助けるであろう。

汝が晋君に仕えれば、晋は必ずや、諸侯の盟主となる」


伍挙は反論した。

「それは私の願いではない。私は楚で死にたい」


「では、私が楚に赴き、汝を帰国させるように取り図ろう」


伍挙は子家を三拝し、馬車一乗を贈った。




            *    *    *




 この頃、宋の向戌が晋と楚の関係を調停するために奔走している。

蔡の子家も、この講和の準備のために晋を訪れ、その後は楚に向かった。



 楚の令尹・屈建は、子家に面会し、晋の状況について尋ねた。

「晋と楚の大夫、どちらが優れていると思う」


子家が答える。

「晋の正卿(趙武)は楚の冷尹に劣ります。

しかし晋の大夫は皆、賢明で、卿に相当する者ばかりです」


「晋は政事に公族を用いないのか」


「用いますが、楚の方が人材は多いです。

ただ、楚の人材は多くが晋に流出し、晋で重く用いられています」


「我が国から晋に流出した者は誰がいるか」


「伍挙は申公の娘を娶りましたが、申公が罪を得て楚より奔り

楚君は伍挙に『汝が申公を逃がした』と言いました。

そのため伍挙は恐れて鄭に奔り、今は晋にいます。

晋候は彼に叔向と同列(上大夫)の地位を与えました。

伍挙が晋のために働き、楚を害するようになったら、楚国の禍となるでしょう」


屈建はこの話を楚康王に報告した。

楚康王は伍挙の禄を殖やし、晋から呼び戻すように命じた。


子家は伍鳴(伍挙の子)を晋に派遣して伍挙を招き、帰国を果たした。




            *    *    *




 楚の冷尹・屈建の父は屈到くつとうで、りょう(薬膳効果のある植物)が好物であった。

すでに老齢で、病に倒れると、家老に命じた。「我が祭祀では菱を使うように」


 ほどなく屈到が死に、葬儀の後、祭祀が行われると、家老が菱を供えようとした。

しかし屈建は反対したので、家老は「死者の遺言でございます」と述べた。


屈建は言う。

「亡父は楚の政を奉じ、その法・刑は民心に留まり、王府にも保管されている。

上は先王に比肩し、下は後世を訓導する事の出来る人物であった。

今後、楚でその栄誉を称えられなくなっても、忘却される事はないであろう。

祭祀の規則では、珍味を供えてはならぬ決まりである。

いかな遺言であろうと、国典を犯すことは許されない」


菱は供えられなかった。




            *    *    *




 鄭国と許国は長く敵対の間柄にある。

鄭が最初に許を攻めたのは、鄭荘公・寤生ごせいの代まで遡り、実に170年の昔である。



 許霊公が楚に入朝し、楚君に鄭討伐を請うた。

この時、許霊公は「楚師が動くまで許には戻らぬ」と言った。


秋8月、許霊公はそのまま楚で客死した。

楚康王は「本意ではないが、鄭を討伐せねばならん」と宣言して、鄭への出兵を決意した。



 冬10月、楚康王は蔡景侯、陳哀公の連合で鄭を攻撃した。


 鄭簡公は楚軍と戦うための準備を子展に命じたが、子産は楚との戦いに反対した。

「今、晋と楚の間には和平の機運が高まっており、諸侯も和そうとしています。

楚王はそれを承知していながら、此度、特に意味のない出師を行いました。

ここは戦わずに守りを固め、彼等を満足させて帰らせるべきです」


子展は子産の意見に納得して、全ての城門を固く閉じ、楚に抵抗しなかった。


 冬12月5日、楚軍が南里に入って城を破壊した。

楽氏(洧水ゆうすいの渡河点)を渡り、鄭都の城門を攻撃する。

鄭は野外の民を回収して城門を閉じたが、楚軍は逃げ遅れた鄭人9人を捕虜にした。

楚軍は南氾なんはんで汝水を渡って帰国した。



 その後、楚軍は許国に入り、楚で客死した許霊公を埋葬した。

許では霊公の子・ばいが許君に即位した。許悼公である。




           *    *    *




 衛国の公女・衛姫が晋平公に嫁いだ。

晋平公には姫姓の妾が既に4人あり、衛姫が嫁いだ事で4人となった。



晋は姫姓の諸侯なので、同じ姫姓の妃妾を晋候が持った理由は不明である。

ただ、晋は姫姓諸侯の中でも異質な点が多く、晋献公の代から姫姓諸侯と婚姻を重ねており

しかも姫姓諸侯を次々に滅ぼし、これを併呑して、現在の大国の地位を築いたのである。

近年の考古学研究では、晋は姫姓ではなかった、という意見も多く

晋の国祖・唐叔虞は実在しない架空の存在であった、とする主張もある。



冬12月、晋平公は衛献公、甯喜ねいき北宮遺ほくきゅういを釈放し、衛に帰国させた。



 晋の卿・韓起が周王室を聘問した。


周霊王が使者を送って聘問の理由を尋ねたところ、韓起はこう答えた。

「臣は天子に、時事(四季の貢物)を奉じに参りました。それだけです」


これを聞き、霊王が言う。

「韓氏は以後、晋で盛えるであろう。その言に礼がある」


趙武の死後、韓起が晋の正卿になる。




           *    *    *




 2年前の夏、斉の大夫・烏余うよが自邑の廩丘りんきゅう(元は衛地。斉が奪って烏余に与えた)

を挙げて晋に従属し、衛の羊角ようかくを攻撃、これを奪い

更に魯の高魚こうぎょにも攻撃を開始した。


この時、大雨が降ったのでとく(城内の水を出す孔)が開かれた。

烏余の兵は竇から城内へ侵入し、城内の武庫に入って武器を奪い

兵を武装させた後、城壁に登って高魚を占領した。


烏余はその後、宋の邑も奪ったという。


この当時、晋の正卿・范匄が死んで間もない時期であったために

諸侯は烏余を討伐する事が出来なかった。



 その後、晋は趙武が正卿に就任して、晋の政弊を握った。


趙武が平公に進言した。

「烏余は晋に帰順していますが、本来であれば討伐を受ける対象です。

我が国は、烏余が諸侯から奪った地を自国の利としていますが

これは諸侯の盟主たる国が執る道ではありません。烏余の奪った地は返すべきです」


晋平公は納得し、誰を派遣するべきか趙武に尋ねた。

胥梁帯しょりょうたいであれば、師(軍)を用いず任務を遂げるでしょう」


平公は胥梁帯を烏余の邑に派遣した。



 年が明け、周の霊王26年(紀元前546年)春、晋の胥梁帯は

烏余の侵攻で城を失った斉、魯、宋の三諸侯に兵車と歩兵を用意させ

秘かに反撃の準備が進められた。


その後、胥梁帯は烏余に命じて封地を受け取りに来させる。


烏余が自兵を率いて到着すると、胥梁帯は諸侯に命じて烏余に城を譲るように見せかけて

油断した烏余を捕えた。その兵も全て捕虜にした。


烏余が侵略した邑は全て諸侯に返還され、諸侯は晋に帰順した。




           *    *    *




 斉景公が左相・慶封けいふうに命じ、魯を聘問させた。


慶封の乗る車は美麗であったので、魯の卿・仲孫速ちゅうそんそく叔孫豹しゅくそんひょうに言った。

「慶封の車の、なんと美しいことか」


叔孫豹は言う。

「装飾と人は釣り合いが取れねばならぬ。そうでなければ、終わりを全うする事は出来ない。

美々しい事など役には立たない」


叔孫豹が慶封を食事に招いたが、慶封は不敬であったという。


叔孫豹は『相鼠』を賦した。

「人に儀がなければ、死ぬしかない」「恥を知らぬ者は、死なずに何を待つのか」

「無礼な者は、速やかに死すべきだ」等の句がある。


しかし、慶封はその意味を理解出来なかった。




           *    *    *




 衛国では、上卿・甯喜ねいきが権力を集中して、衛献公はこれを疎むようになった。


衛献公の意思を察した大夫・公孫免余こうそんめんよが甯喜の誅殺を進言した。


しかし献公は反対した。

「甯喜なくば、わしは衛候に復位出来なかった。それに、わしは甯喜と約定を交わした。

わしの復位が叶えば、甯喜を上卿に任じて衛の政治を任せる、と。

事が成ろうと失敗しようと、後世に悪名を残すのは本意ではない」


「ならば、臣が甯喜を殺します。我が君は何も知らない事にして下さい」



 公孫免余は公孫無知、公孫臣の二人と相談して甯喜を攻めた。

しかし、甯喜に敗れ、無知と臣は戦死した。


献公は「共に、わしのために死んでしまった。彼らに罪はない」と言って嘆いた。


夏、公孫免余は再び甯喜を攻め、甯喜と右宰穀ゆうさいこくを殺した。

彼らの遺体は朝廷に晒された。


衛献公は公孫免余に60邑を与えたが、 公孫免余は30邑だけ受け取った。

献公は公孫免余を卿に任命しようとしたが、公孫免余は辞退して

代わりに大叔儀だいしゅくぎを推薦した。



 衛の大夫・石悪は衛献公の命で、宋国で行われる会盟に参加するように命じられた。

しかし、この異変を知った石悪は出発する前に朝廷に入り

甯喜の死体に服を着せ、太股の上に寝かせて号哭した。


その後、死体を棺に入れて埋葬してから衛を出奔しようとしたが

後の禍を恐れて諦め、「君命を受けた」と言って宋の会盟に向かった。



 衛献公の弟・子鮮は、甯喜と右宰穀の変を知り、こう語る。

「国君を駆逐した孫林父そんりんぽは逃亡し、国君を国に入れた甯喜は死んだ。

賞罰に基準なくして悪を防ぎ、善を勧める事は出来ない。

今、衛は国君が信を失い、正しい刑罰が行われない。

衛候の帰国を甯喜に指示したのは私である」


そう言うと、子鮮は晋に出奔した。


衛献公は出奔を止めたが、子鮮は衛国を出た。

黄河を渡ろうとした時、献公の使者が呼び戻しに来たが、子鮮は使者を留めて去った。



 子鮮は晋地の木門に住んだ。

以後、子鮮は衛の方向を向いて坐る事はなく、衛国の地を踏む事なく

衛で採れた食物は食べず、衛について話す事もなかったという。


木門を治める晋の大夫は、子鮮に仕官を勧めたが、子鮮は拒否した。

「晋に仕えても、禄に応じた職を勤めねば罪になる。

職を全うすれば、衛候の罪を天下に明らかにし、私は晋に仕えるために出奔した事になる」


ほどなく、子鮮は死んだ。



子鮮の死を聞いた衛献公は、その日から崩御するまで喪服を着続けたという。




             *    *    *




 甯喜の変が起きる少し前の事である。

魯の大夫・郈成子しせいしが晋に聘問に向かい、途中で衛を通った。


衛の右宰穀が郈成子を留め、宴を開いた。

楽が奏でられたが、曲には楽しさがなく、酒に酔った右宰穀は、郈成子に玉璧を贈った。


 郈成子が役目を終え、晋から帰る時、衛を通っても右宰穀を訪ねなかったので

郈成子の御者が理由を聞いた。

「晋に行く時、右宰穀は主を大いにもてなしました。なぜ、帰りは寄らないのですか」


「右宰穀が私をもてなしたのは、ほんの一時でも楽しみたかったからである。

しかし、奏でる音は楽しさがなかった。これは私に憂いを伝えたかったからだ。

酒が廻り、私に玉璧を贈ったのは、私に後事を託したからである。

恐らく衛で乱が起きるであろう。私は難を避けるため、右宰穀を訪ねないのだ」



 郈成子が衛を離れて三十里まで進んだ時

甯喜の変によって右宰穀が死んだと聞いた。

郈成子は衛に引き返し、右宰穀の遺体に三回哀哭して帰国した。


その後、郈成子は人を送って右穀臣の妻子を自邸に呼び、魯で生活させた。

右穀臣の子が成長すると、郈成子は玉璧を返したという。



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