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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第八十六話 趙武、晋の正卿となる




             *    *    *




 前回に続き、まだ周の霊王24年(紀元前548年)が続く。


東の大国・斉で政変が起き、崔杼さいちょ慶封けいほうが左右の相となったが

ほぼ同時期、晋と楚の二大国でも、政事を執る宰相が交代した。


晋の范匄はんかいが卒去して、新たに正卿となったのは趙武である。

士会と並び称せられる、晋でも歴代屈指の名宰相として後世に名を残す事となる。


范匄は鄭の子産の手紙を読み、諸侯からの幣(貢物)の負担を軽くしたが

趙武は礼を重んじ、幣を更に減額した。



 楚でも令尹れいいん薳子馮いしひょうが亡くなり、莫敖ばくごうの屈建(字は子木)が新たな令尹に就いた。

屈蕩くつとうが屈建に代わって新たな莫敖になる。



 趙武は魯の上卿・叔孫豹しゅくそんひょうに、こう語ったという。

「今後は戦をなくしていこう。東の斉国は二代続けて武を好む国君であったが

先般、斉候が代わり、政権を執る崔・慶両氏は諸侯との関係を改善しようとしている。

南の楚国でも令尹が子木(屈建)に代わったと聞くが、私はあの者をよく知っている。

恭しく礼を行い、文辞によって彼と交われば、晋楚の戦を止める事も出来よう」



 秋、7月12日、夷儀いぎの会盟で招集された諸侯に斉が加わり

斉の地・重丘ちょうきゅうで再び盟約を結び、斉と晋が講和した。

晋の正卿・趙武が幣を減額した事で斉は態度を軟化させ、盟約に加わる事に同意したのである。


また、衛国は衛の旧君・献公に夷儀の地を譲渡した。




               *    *    *




 中原で和平への機運が高まりを見せていた頃、南の呉国は、楚と争う姿勢を崩していない。



 舒鳩じょきゅうが再び楚から離反し、呉に従いた、との報せが楚都に届き

楚の令尹・屈建が舒鳩を討伐すべく、離城(舒鳩の城)に至った。


呉は舒鳩に援軍を送った。


屈建は右師を率いて舒鳩に急行し

左師を率いる子彊しきょう息桓そくかん子捷ししょう子駢しべん子盂しもうらは逆に後退する。


呉軍は楚の左右の師の間に駐留して7日間が過ぎた。


左師の将の一人、子彊が言う。

「我が軍は長途の遠征で疲労している。時間が経つほど、更に疲労は増して

このままでは敵の虜となろう。もはや、時間はかけられぬ。

わしが諸将の私兵を率いて敵を誘う。諸将は楚の国軍を率い、陣を構えて待機せよ。

わしが呉軍に対して優位に進めば、諸将も全軍を以て共に進行し

もし敗走すれば、陣を出ずに様子を伺えばよい」


楚の諸将は子彊の案に従い、五将の私卒が子彊に率いられて呉軍を攻撃する。

一方、他の四将は陣を構えて待機し、子彊の戦況を見守る。


子彊による急襲は成功して、呉軍は敗れて山に登った。


山上から下方を見渡した呉軍は、子彊の兵が少なく、後続がいない事を確認したので

軍の体制を整え、子彊に反撃すべく接近した。


呉軍が子彊に迫った頃、楚の四将が到着して

楚の左師の全軍が呉軍に総攻撃を仕掛けたので

二度に渡って油断していた呉軍は大敗し、呉領へ敗走した。



 呉軍を撃滅させた楚の左師と右師は合流して舒鳩を完全に包囲し

8月、舒鳩は滅んだ。




             *    *    *




 夏6月に鄭軍が陳を攻め、これを降伏させた後

秋8月に鄭の子産は晋に行き、陳との戦で得た戦利品を晋に献上した。

この時、子産は戎服(軍服)で入朝したと言われている。これは礼に悖る。


子産に応対したのは晋の大夫・士弱である。


子産が士弱に報告した。

「陳は周天子の大徳、大恩を忘れ、鄭の大恵を軽視し、楚に頼って鄭を侵しました。

我が国は陳討伐を申請しましたが、晋君の命を得られず、東門の役を招きました。

結果、陳帥は井戸を埋め、樹木を伐採したので、鄭は衰耗したのです。

鄭は天子に連なる姫姓の国。これが辱められることを恐れて

鄭君は陳討伐という断を行い、今、陳は自らの罪を知り、罰を受けました。

帥(軍)によって得た戦功を、今、こうして晋君の元へ献上に参ったのです」



士弱が問う。

「盟約では大国(鄭)が小国(陳)を攻めるのは禁じられている。

なぜ陳の罪を問うのに帥を以てしたのか」


「先王の命では、罪に対しては刑を以て報いると定められています。

かつて天子の地は一圻(方千里)、諸侯は一同(方百里)と決められていました。

しかし今、諸侯のうちで大国は数圻に及んでおります。

これは大国が小国に侵攻し、併呑した結果ではないでしょうか」


「汝はなぜ戎服を着ているのか」


「我が鄭の先君(鄭文公)は城濮の役において、貴国の先君(晋文公・重耳)より

『鄭伯には戎服を着て周王を輔弼致すように』と命ぜられ

楚から得た戦利品を王室に献上させました。

私が戎服を着ているのは王命を廃さないためです」


士弱は言葉に詰まり、正卿・趙武に報告した。


趙武は「鄭卿(子産)の言は理に適っている。これに背くのは不祥である」

と言い、戦利品を受け取った。



 冬10月、鄭簡公は晋に入朝した。子展が補佐を行い、陳との戦で得た戦利品を

晋が受け入れた事に対して拝謝した。



 この後、鄭の子西が再び陳を攻撃し、陳は鄭と講和した。




             *    *    *




 楚康王は舒鳩を滅ぼした功を称え、屈建を賞しようとしたが、屈建は辞退した。


辞退した理由について、屈建が語る。

「先年、我が君が舒鳩を攻撃しようとした時、当時の冷尹・薳子馮いしひょうが反対しました。

舒鳩が楚より離反した時に討伐すれば、容易く勝てると申し、その通りになりました。

つまり、真に賞されるべきは、薳子馮の先見の明です」


楚康王は賞賜を薳子馮の子・薳掩いえんに与え、薳奄を司馬に任じた。



 令尹・屈建は薳奄に賦税を管理させ、武器、甲冑の検査を命じた。


薳奄は楚の領内にある田地の状況を調査し、山林を調査し、藪沢の産物を集め

地形の高さ、水利を精査し、淳鹵じゅんろ(塩分の濃い土壌)と湿地の広さを調べた。

淳鹵、湿地は農作物が育ちにくいため、税が軽くなる。


堤や溜池を作って水不足や洪水に備え、灌漑を行って農地を拡げ、狭隘な地を区画整理して

水草が多い湿地では放牧を行わせ、肥沃な土地では井田制せいでんせいを施行した。


井田制とは「井」の字の如く、田を9区画に分割して

周囲の8区画の収穫が民の取り分、中央の1区画が租税となる1/9税の制度である。


収穫数を量って賦税を調査し、徴収した税で車馬、兵器を備え

これらを書類に整理して冷尹に報告した。




             *    *    *




 冬12月、呉王・諸樊しょはんが楚に侵攻し、呉軍はそう邑を攻撃した。


巣邑を守備する牛臣ぎゅうしんが策を提案した。

「呉君は勇猛だが、軽率なところがあり、常に自ら先陣を切る。

我々が城門を開けば、自ら先頭に立って門に進んで来るはずだ。

これを射れば、必ず呉君を討ち取れよう。

今の呉君が斃れれば、楚と呉との国境も静まるであろう」


楚の諸将は牛臣に従い、巣の城門を開けた。

呉王諸樊が城門に入ると、牛臣は短牆たんしょう(城壁の低くなった場所)に隠れて矢を射た。

矢は諸樊に当たり、呉王は戦死した。


王を討ち取られた呉軍は総崩れとなり、巣の戦いは楚の大勝に終わる。



 呉の国人は、戦死した呉王・諸樊の後継に末弟の季札きさつを指名した。

元々、諸樊の先君・寿夢じゅぼうは、末子の季札を後継に指名していた。

しかし、季札が呉王に就く事を拒否したため、長子の諸樊が呉君に就いたのである。


しかし季札は今回も呉王となる事を拒否したため

諸樊のすぐ下の弟・余祭が呉君に即位した。


余祭は季札を呉の領内にある延陵えんりょうの地に封じ、以後、季札は延陵季子と号する。




             *    *    *




 この年、晋の下軍の佐・程鄭ていていが死んだという。

この噂を聞いた鄭の子産は、程鄭の死を予期した然明ぜんめいの先見性を知る。


子産が然明の家を訪れ、政治について尋ねた。

「民を我が子のように愛育し、不仁、不徳の者を見れば

鷹や隼の如く、性急に駆逐せねばなりません」


子産は感謝し、子太叔したいしゅくに語った。

「私はかつて、然明の外貌しか見ていなかった。今、その心の内を見る事が出来た」


子太叔が政治に関して子産に訊ねると、子産は応えた。

「政治は農耕と同じである。日夜常に始まりを想い、成果を想い、熟考の末に実行する。

たとえるなら、農地にあぜがあるが如く。さすれば過失は少なくて済むであろう」




             *    *    *




 衛の旧君・献公が衛地・夷儀に入った。

その後、衛の卿・甯喜ねいきに使者を送り、自身の衛君復帰に関する相談をした。

「子鮮(献公の弟)に協力を取り付けましょう」

甯喜は献公の帰国に同意した。


その話を聞いた太叔儀たいしゅくぎが言った。

「甯喜は国君の地位を軽々しく扱う。禍から逃れられないだろう。

衛で9代続いた名門の甯氏が滅びようとしている。悲しきかな」



 年が明け、周の霊王25年(紀元前547年)


献公は子鮮に使者を送って衛国復帰の協力を求めたが、子鮮は拒否した。

敬姒けいじ(献公と子鮮の母)が子鮮に命じると、子鮮は言った。


「旧君(献公)が衛候を逐われて斉に奔ったのは、信がないからです。

今、復位に協力すれば、臣は禍から逃れられないでしょう」


敬姒は「たとえそうであっても、協力するように」

子鮮は仕方なく、献公の復位に同意した。



 子鮮は甯喜の元へ行き、献公の言葉を伝えた。

「わしの復位が叶えば、甯喜を上卿に任じて衛の政治を任せ、わしは衛の祭祀を祀る」


甯喜は蘧伯玉きょはくぎょくに相談した。

「私は先君が斉に奔った時、関与しておりません。入る時も関与しません」

と言い、禍を避けるため、衛国を出奔した。


甯喜は衛の大夫・右宰穀ゆうさいこくに話した。

「卿は二人の国君から罪を得ようとしている。天が赦すはずがない」


甯喜が言う。

「衛候の復帰には多くの衛人が反対しているのは承知している。

しかし、これは亡父の遺言である。断じて棄てる事は出来ない」


右宰穀がこれに応えて

「では、私が先君にお会いして参る」と言い、夷儀に行き、献公と面会した。


 夷儀から戻った右宰穀が甯喜に語る。

「旧君は難を避けて斉に住む事12年に及ぶ。

しかし、その面に憂色なく、言は尊大で、かつてと変わりなかった。

卿が復帰に協力すれば、失敗して死ぬであろう」


「敬姒と子鮮が協力してくれる」

「共に役に立たぬ。失敗すれば他国へ奔る」

「それでも、中止するわけにはいかない。」



 衛殤公の執政を勤めるのは孫林父そんりんぽであったが、この頃は既に告老(退隠)して

孫氏の食邑・戚におり、孫林父の二子・孫嘉そんか孫襄そんじょうが衛の重臣である。



 2月6日、甯喜と右宰穀は衛都にある孫氏の邸を襲ったが

兵が寡なく、孫襄に傷を負わせるだけの結果に終わる。


甯喜は失敗を覚り、衛からの出奔を考えたが

孫氏の邸宅で、号哭する声が絶えない、という噂を衛の国人が甯喜に伝えて来た。

負傷した孫襄が間もなく死んだのである。


衛の国人は甯喜を衛都の城内に招き、甯喜は再び孫氏を攻撃した。

孫氏の側は孫襄の死を嘆き、抵抗する暇がなく、敗れた。


翌7日、甯喜は衛殤公と太子・角を弑殺した。


異変を知った孫林父は戚邑を挙げて衛から離れ、晋に属した。



 2月10日、献公が12年ぶりに衛都・帝丘に帰還した。

衛の朝廷に戻った献公は使者を送って太叔儀を譴責した。


「わしが斉国にいる間、衛の群臣は朝夜となく、わしに衛国の情勢を伝えた。

ただ汝のみ、わしに声をかけなかった。わしには汝を怨む理由がある」


太叔儀が言う。

「臣は不才ゆえ、国君の亡命に従えなかった。これは罪です。

国を出た者(献公)あり、国に残る者(殤公)あり、臣は二心なく、ただ国に残る者にのみ仕え

内密の言を、出た者に伝える事が出来なかった。これも罪です。

臣には二罪がある事を知り、死を忘れる事はありません」


太叔儀は衛を出奔しようとしたが、衛献公は使者を送って呼び戻した。



 復位を果たした衛献公は、衛を離れ、晋に属した孫氏の戚邑を討つため

先に衛都・帝丘の東北に位置する戚邑の東境・茅氏ぼうしを攻撃した。


孫林父がこれを晋に訴えたため、晋は茅氏に守備兵を置いた。



 これに対し、衛の勇士・殖綽しょくしゃくが茅氏を攻め、晋の守備兵300を討伐した。

殖綽は斉の大夫であったが、前年に崔杼さいじょの乱が起こり

斉荘公が弑逆されたため、衛に出奔し、この時は衛君に仕えていた。


茅氏の晋軍が敗れたのを見た孫林父の子・孫蒯そんかい

殖綽を追撃したが、殖綽を恐れて攻撃しなかったので

息子の怯弱に激昂した孫林父は、「汝は死後、孫氏の墓に入れぬ」と罵倒した。


これで発奮した孫蒯は衛軍に追いつき、ぎょの地で衛軍を破った。

孫氏の家臣・雍鉏ようそが殖綽を捕え、孫林父は再び晋に援助を請うた。



 晋平公は孫氏のために衛を討つべく、諸侯を招集する事にした。

夏4月、晋平公が魯襄公を会盟に呼ぶため、荀呉じゅんご(荀偃の子)を魯に送った。




             *    *    *




 2年前の5月、秦と晋が講和した。

晋の韓起かんきが秦に、秦の伯車はくしゃが晋に入り、それぞれが盟約を結んだ。

しかし、両国は互いに警戒を緩めず、盟約の紐帯は強くなかった。


 この年の春3月、秦景公が秦と晋の関係を強化すべく、弟の公子・かんを晋に送った。


これに対し、晋では叔向が、公子・鍼を応接するため、行人(外交官)の子員しいんを招いた。


この時、もう一人の行人・子朱ししゅが進み出て「臣は必要ないのですか」と懇願する。

子朱は三度、秦の使者の対応を願い出たが、叔向は同意しなかった。


子朱は怒って剣に手をかけ「臣の位階は子員と同じです。なぜ臣だけ退けるのでしょう」

と、叔向に迫った。


 叔向が子朱に説明する。

「秦・晋二国の不和は久しいが、今日、幸いな事に両国の代表が会した。

正卿(趙武)は諸侯より戦をなくさんと、この機を大いに頼っておられる。

もし、この会で失敗するような事があれば、晋の三軍は荒野に屍を晒すであろう。

子員は私心を持たない者であるが、汝は姦悪の心を以て君に仕え、私心がある。

私は、これを防がねばならぬ」


言い終わると、叔向も剣を抜き、子朱と戦おうとしたので、周りの者が抑えた。



 これを聞いた晋平公が言った。

「我が臣は大事について争う。晋はよく栄えるであろう」


しかし、師曠しこうは快く思っていない。

「臣が心で競わず、力で争い、徳に務めず、是非を争うのは

臣らの私欲が大きくなっている証です。

いずれ晋の公室が卑しくなり、地位は低下するでしょう」




          *    *    *




 鄭簡公が前年の陳討伐の功を賞し、子展に8邑を与えた。

子産には6邑を与えようとしたが、子産は辞退した。

「上から下へは2つずつ下がるのが礼です。現在、臣の位階は4位で

上から子展、伯有、子西、そして臣と続きます。

賞賜が上から2つずつ減るなら、子展に8邑なら、臣に6邑は多すぎます。

それに、陳討伐の功は子展が挙げたものです。臣が賞を受ける訳には参りません」


しかし簡公は頑なに子産に賞を与えようとしたため、子産は3邑だけ受け取った。


公孫揮(子羽)が子産を称した。

「子産は鄭の政事を執るであろう。謙譲して礼を失わない」



 ほどなくして、陳国の盟主である楚が、秦と連合を組み、鄭に侵攻した。


楚・秦の連合軍の目的は呉国への侵攻であったが

雩婁うろうに至り、呉の堅固な備えを見て兵を還し、目標を鄭に変更したのである。



 夏5月、楚・秦連合軍が鄭の城麇じょうきんに駐軍した。

城麇を守っていた鄭の大夫・皇頡こうきつが城を出て楚軍と戦ったが、敗れて

楚の将・穿封戌せんふうじゅうに捕まった。


楚の公子・囲(楚康王の叔父)が穿封戌と功を争っており、楚の大夫・伯州犂はくしゅうりに尋ねた。

伯州犂は「虜囚に聞こう」と言い、捕えた皇頡を連れて来て

「汝に問う。両名のうち、どちらが汝を捕えたのか」と聞いた。


この時、皇頡は身分の高い方の歓心を得た方が得になると思ったので

「公子・囲である」と偽りを答えた。


穿封戌は怒り、を持って公子・囲を追ったが、囲は逃亡した。

後に楚は皇頡を釈放して鄭に帰国させた。



    この時、伯州犂は事前に穿封戌と公子・囲の身分や地位を伝えており

    皇頡が「公子・囲」と答えるように誘導していたという。

    この逸話から、狡賢く小細工を弄する事を意味する

    『上下其手』という四字熟語が生まれた。



 皇頡と共に城麇を守っていた大夫・印堇父いんきつほも、楚軍に捕えられた。

楚軍は印堇父を秦軍に送った。


 鄭伯は、印氏の財を秦に贈り、印堇父の返還を求めた。

令正(文書を掌る官)・子太叔が秦との交渉文を作成する。


しかし、子産がこれに反対した。

「秦は楚の功を受け取った。それを用いて鄭から財貨を得るのは

賄賂のために秦が楚を裏切る事を意味する。秦には出来ないだろう。

秦は楚と連合を組んでいるが、まだ鄭とは戦っていない。

秦軍が接近したから楚が戦いを停止した、と言って礼物を贈れば

秦は鄭に感謝して印堇父を返還するであろう」


子太叔は子産の忠告を聴かず、秦陣へ向かった。

しかし、子産が予測した通り、秦は楚を裏切らず、印堇父の返還は叶わなかった。


改めて礼物を持った使者を派遣し、子産の言葉を秦に伝えた。

印堇父は鄭に返還された。



ほどなく、楚・秦連合軍は鄭から退いた。




          *    *    *




 6月、晋の正卿・趙武、魯襄公、宋の宰相・向戌しょうじゅつ、鄭の伯有

それに曹の大夫(名は不明)が澶淵せんえんに集まった。


ここで衛の討伐についての相談と、衛から離脱した孫氏の食邑・戚の境界が定められた。

衛の西部・懿氏の60邑が孫氏に与えられ、戚は晋の飛び地として領有する事に決まった。


この会盟には衛献公も参加したが、晋の趙武は、献公に従う甯喜と北宮遺ほくきゅういを捕え

司馬侯に命じて二人を晋に連行した。


衛献公は両名の釈放を求めて晋に入ったが、晋は衛献公を捕え、士弱の家に監禁した。




              *    *    *




 秋7月、斉景公と鄭簡公が晋に入り、晋平公は宴を開いて両君を歓迎した。


晋平公が『嘉楽』を賦した。

「君子(斉景公と鄭簡公)を称賛し、その美徳を顕らかにする」という意味である。


斉景公を補佐する斉の卿・国弱が『蓼䔥(びゅうしょう)』を賦す。

「君子に会い、互いに親しく兄弟と呼び(晋、鄭、衛は同じ姫姓)、その美徳は限りない」


鄭簡公を補佐する子展は『緇衣しい』を賦した。

「貴公の邸を訪れ、美食を贈る」

鄭が晋に入朝して言葉を贈る、どうか受け取ってほしい、という意味がある。



 叔向が晋平公に二君を拝礼させて言った。

「我が君は、斉君が先君の宗廟を安定させた事に拝し、鄭君に二心がない事に拝します」


平公も叔向も、斉と鄭の意志が衛献公の釈放にある事を知っている。

しかし、敢えてここでは触れず、ただ感謝の拝礼のみ行った。



 斉の国弱の副使として随行してきた晏嬰が、叔向の元に行き、告げた。

「晋君は諸侯の間に明徳を掲げ、諸侯の軋轢を憂い、過失を補い、礼に従い

乱を治めていますが、孫林父のために衛君を捕えています。これを如何するつもりですか」


叔向は晏嬰の言を趙武に伝え、趙武は晋平公に報告した。

平公は衛献公の罪状を上げ、叔向を送って斉候と鄭伯に伝えた。


国弱が『轡之柔矣』を賦した。

「馬が強情なら手綱を緩める。馬が穏健なら手綱を強く握る」

剛と柔を使い分ける必要がある事を意味する。


子展が『将仲子兮』を賦した。

「あなたを愛しているが、人々が我々の噂をする事を恐れる」

盟主国・晋の行動は常に天下の耳目を浴びている。

注意しなければならない、と晋候に伝えている。


晋平公は衛献公の釈放に同意した。



叔向が語った。

「鄭の七穆では罕氏(子展)の族が最後まで残るであろう」



七穆とは、鄭穆公・蘭から生まれた7人の公子の子孫である。

穆公から生まれた男子は13人と言われ、夷と堅が鄭君に就いた。

志、嘉、子然の3氏は既に滅び、揮は卿になっていない。

残った7公子(罕、駟、国、良、遊、豊、豊)を七穆と言う。

子展は罕氏、子西は駟氏、子産は国氏、子大叔は遊氏である。



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