第八十五話 崔杼、其の君を弑す
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晋の首座に就く正卿・范匄は、和邑の大夫と土地の領有権で長く争っている。
ついに和邑を攻撃しようと思い立ち、中軍尉の佐・伯華に相談する。
伯華、范匄に語る。
「外事は軍事、内事は政事と申します。私が掌るのは外事ですので、何も申せません。
正卿が帥を外に向ける場合のみ、お呼びください」
次に中軍司馬・張老に問うと、こう言った。
「私は軍使で晋君と正卿にお仕えしております。それは戦に関係ない事です」
范匄は祁奚に訊ねた。
「私は公族と朝廷の不正を管轄する者です。それは私事ですので
とやかく申す事ではございません」
范匄が上軍司馬・籍遊に問う。
「あなたは晋の群臣の頂にありますが、私は上軍の将・佐の命にのみ従います。
これを破れば私は罰せられますので、意見は憚らせて頂きます」
范匄が叔鮒(叔向の弟)に聞くと、「私が和氏を殺しましょう」と言った。
これらを聞いた叔向が、范匄と面会して進言した。
「正卿と和邑の問題について、様々な意見を募っているそうですが
まだ解決出来ていないと聞いています。
ならば、正卿の家臣・訾祏に意見を聞くのが宜しいです」
范匄が訾祏に問うと、訾祏は答えた。
「あなたが正卿に就き、晋はよく治まり、平穏です。
ですが今、和大夫を怨み、これを討とうとしている。
平穏な国に乱を起こし、何を以て晋国に報いるのでしょう」
范匄はこの諫言を聴き、和大夫に土地を与えて和解した。
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31代目の晋君・平公は、利口だが、些か勇力に欠ける、柔弱の君であったと言われる。
ある時、平公は矢で小鳥を射たが、矢の威力が弱く、殺せなかった。
奴僕の豎襄に命じ、小鳥を捕えよと向かわせたが、逃げられた。
平公は怒り、豎襄を処刑しようとした。
この噂をを聞いた叔向は、夜、平公に面会した。
平公が小鳥を逃がした話をすると、叔向は進言した。
「豎襄を殺すべきです。昔、晋の国祖・唐叔虞は犀を一矢で仕留めました。
そして、犀の皮で鎧を作り、その功で晋に封じられたのです。
今、我が君は唐叔を継ぎましたが、小鳥一羽すら射殺せず、逃げられました。
つまり、竪襄の過ちで我が君の恥を天下に広めたのです。
一刻も早く彼を殺してしまえば、恥はそれ以上伝わる事はないでしょう」
これを聞いた平公は、小鳥すら射殺せぬ自身の非力と
一時の怒りに任せて臣下を殺そうとしたことを恥じ、豎襄を赦した。
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周の霊王24年(紀元前548年)春、東方の大国・斉にて
斉の宰相・崔杼が斉軍を率いて南下し、魯の北境を攻めた。
これは前年、魯の仲孫羯が晋を援けて斉に侵攻した報復である。
斉の国力、兵力は晋、楚には劣るが、他の諸侯国より遥かに勝る。
魯襄公は斉を恐れ、晋に報告しようとしたが、大夫・孟公綽が反対した。
「崔杼は魯など眼中にありません。斉軍は魯から略奪をせず、民に危害も与えていません。
形だけの派兵です。ただ守りを固め、放置して事を荒立てぬ方が良策です」
崔杼は暫く後、何も得ずに斉へ退いた。
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斉の大夫・棠公の妻・棠姜は崔杼の家臣・東郭偃の姉である。
これより数年前、棠公が死に、東郭偃が崔杼の車を御して弔問に行った。
棠公の家で崔杼は棠姜を見て、その美貌を知り、これを自分の妻にしたいと思った。
しかし東郭偃は反対した。
「主は斉丁公の後裔、臣は斉桓公の後裔、つまり、共に姜姓です。
ご存じの通り、同姓同士での婚姻は出来ません」
崔杼は筮を使って占わせると、「困(坎下兌上)」が「大過(巽下兌上)」に変わると出た。
「坎」は壮年の男を意味し、「兌」は若い女性を顕す。
太史達はこの卦を見て、「壮年の男と若い女性の婚姻は吉」と判断した。
崔杼はこの卦を陳無須に見せると、陳無須がこう語った。
「これは、夫(坎)が風(巽)に従い、その風が妻(兌)を落とす、という意味です。
凶です。娶るべきではありません」
しかし、棠姜を諦めきれない崔杼は反論する。
「その凶兆は先夫・棠公の身に起きた事である。すでに風は過ぎた」
結局、崔杼は棠姜を娶った。
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斉荘公は戦を好む、武勇に優れた君であるが、無礼な振舞いが多く
頻繁に家臣の邸宅を訪れ、家の中にある物を無断で持ち帰る。
ある日、荘公は崔杼の邸を訪問し、崔氏の冠を持ち出して、他の臣に下賜した。
他の家臣がそれを諫めたが「冠など他にいくらでもある」と言って意に介さない。
荘公を斉君に即位させたのは崔杼と慶封で、両者はこの功で斉の卿位に就いた。
しかし、荘公は国君に相応しくない態度が年々目立つようになり
遂には崔杼の妻・棠姜と姦通するに至り、崔杼は荘公を憎むようになる。
荘公は宦官の賈挙を鞭打った事があったが、その後も近くで仕えている。
賈挙もまた荘公を憎んでいたため、崔杼と組んで、荘公を弑逆する機会を窺うようになった。
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5月16日、2年前に起きた斉と莒の戦い(且于の役)後、莒犂比公が
斉と講和を結ぶため、斉都に入城し、北郭で宴が開かれた。
この時、宰相の崔杼は病と称して欠席していた。
翌17日、斉荘公は崔杼の見舞いを口実に崔氏の家を訪れた。
目的は棠姜に会う事である。
棠姜は荘公を迎えた後、自室に入り、崔杼と共に、秘かに横の戸から外に出た。
棠姜がいない事に気づかない荘公は、部屋の外で柱を叩きながら歌う。
これは棠姜を呼ぶ合図である。
その間、侍人の賈挙は他の従者が屋敷の中に入ることを禁じて
自分だけが崔氏の邸内に入って扉を閉め、兵を率いて斉荘公を襲撃した。
荘公は逃げ回り、最後は楼台に登って命乞いをしたが、兵は拒否した。
荘公が邸の壁を乗り越えて逃亡しようとした時、兵が矢を射た。
矢は荘公の股に中り、荘公は壁の内側に頭から落ちて死んだ。
斉荘公の死を見届けた後、崔杼は兵を率いて、荘公に仕える勇力の士を攻撃する。
州綽、邴師、公孫敖、封具、鐸父、襄伊僂堙など
荘公に気に入られていた者の多くが殺された。
ただ2人、盧蒲癸は晋に、王何は莒に奔り、生き延びた。
この時、祭祀官の祝佗父は、高唐にある斉の別廟で祭祀を行っており
斉荘公に復命すべく崔氏の屋敷に入ったところで殺された。
斉は海に面した国で、海で魚を獲る者(漁師)があり、漁獲量に応じて税を払う。
「魚税」を徴収する役人を侍魚者と言い、申蒯がその役に就いていた。
申蒯は崔杼の乱を知ると、家に戻り、家宰(家臣の長)に告げた。
「汝は我が妻子を連れて逃げよ。わしは死ぬ」
家宰は主に語る。
「主が義によって国君のために死ぬのです。臣が逃げたら、主の義に背く事になります」
そう言うと、二人とも自害した。
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この前年、斉の大夫・晏嬰は、斉荘公の怒りを得て、職を辞しており
私邑・夷維に退いていたが、異変を知り、崔氏の門外まで来た。
晏氏の家宰が晏嬰に訊ねた。
「主は我が君を追って死ぬのですか」
「わしの命は、我が君のためだけにあるのではない」
「では、このまま立ち去り、斉を奔るのですか」
「わしに何の罪があって斉を去るのか」
「では、夷維に戻りますか」
「国君が死んだのに、どうして戻れよう。
国君は民を虐げず、社稷を主持し、臣は、民と社稷を守らねばならぬ。
国君が社稷のために死ねば、臣下も死ぬ。社稷のために亡命したら、共に亡命する。
国君が自分のために死ねば、その責を負う者はいない。
国君は崔杼によって立てられ、崔杼によって弑された。
わしは死ぬ必要も、亡命する必要もない。しかし、このまま帰る事も出来ぬ」
晏児は門を開いて崔氏の邸に入ると、荘公の死体を膝の上に置き
号哭し、立ち上がってから三踊して去った。
崔杼の家臣は「晏嬰を殺すべきです」と言ったが、崔杼は反対した。
「晏嬰は斉民の人望を得ている。生かせて斉を安定させるために利用すべきだ」
と言って、晏嬰の後を追わなかった.。
斉荘公の母・鬷声姫の親族に鬷蔑がいて、荘公と親しかった。
かつて斉霊公が諸侯軍に敗れた平陰は、斉都・臨淄に近い険阻の邑で
鬷蔑が守っており、荘公の与党が険要の地を擁する事を恐れ、崔杼は鬷蔑を殺した。
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28年前、魯の宰相・叔孫僑如が魯から斉に亡命した。
斉霊公は叔孫僑如の娘・穆孟姫を娶り、公子・杵臼が産まれた。
5月19日、斉荘公を弑逆した崔杼は、荘公の異母弟・杵臼を斉君に擁立した。斉景公である。
崔杼は自らを斉の右相に任じ、慶封を左相に任じた。
崔・慶の二相は斉に乱が起きる事を恐れ、大宮(太公廟)に斉の全ての士大夫を集め
「崔氏と慶氏に与しない者は死ぬであろう」という盟約を誓わせた。
崔・慶への協力に躊躇する者、拒む者は全て殺され、その数は10人を超えた。
晏嬰の順番が来た時、天を仰ぎ、嘆息して言った。
「崔杼は無道を行い、その君を弑した。これに与する事は出来ぬ。
嬰は、君にのみ忠であり、社稷を利する者にのみ従う」
慶封が晏嬰を殺そうとしたが、崔杼がそれを止め、晏嬰に言った。
「汝は君子である。わしに与するなら多くを与えよう。協力しないなら殺すしかない」
晏嬰がこれに返す。
「いかに脅されようとも、利で誘い、君に背かせようとする者には与しません」
晏嬰は盟約を誓わず、その場を去った。
晏嬰は車に乗り、御者が急いで出発しようとすると、晏嬰は言った。
「崔・慶がわしを討つつもりなら、いくら急いでも間に合わぬ。
討つ気がないなら、急ぐ必要もない」
崔杼は晏嬰を追わなかった。
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5月23日、斉景公と諸大夫が莒君と盟約を結んだ。
莒犂比公は斉荘公の存命中に入朝したが、崔杼の乱が起きた事で
斉君は景公に代わったので、改めて盟約が結ばれた。
斉の太史が「崔杼、その君を弑す(崔杼弑其君)」と記録した。
崔杼は怒り、太史を殺し、その記録を削除した。
数日後、太史の弟が「崔杼弑其君」と書いて記録した。
崔杼はこの弟も殺し、再び削除した。
数日後、さらに下の弟がやはり「崔杼弑其君」と書いて記録した。
崔杼は天を仰ぎ、この者を殺さず、削除もしなかった。
この時、南史氏は太史が殺されたと聞き「崔杼弑其君」と書いた木簡を持って
斉の宮廷に向かっていたが、3人目の太史は殺されなかったと聞いて帰った。
斉の閭丘嬰が妻を幕で包んで隠して車に乗せ
申鮮虞と共に斉を出奔した。共に斉荘公の近臣であった。
申鮮虞は閭丘嬰の妻を車から落として言った。
「国君の暗愚を糾せず、危難を救えず、殉死も出来ないのに、妻を隠す事は出来る。
そのような者を、どの国が受け入れるのか」
二人は斉都・臨淄の西南・弇中で一泊した。
閭丘嬰が言う「崔氏と慶氏が我々を追ってくるであろうか」
申鮮虞が返事する「この辺りの道は狭い。戦えば常に一対一となる。恐れるに足らず」
弇中を出て道が広くなると、申鮮虞が閭丘嬰に言う。
「急がねばならん。道が広くなった。兵を率いて来られたら敵わない」
二人は魯に亡命した。
5月29日、崔杼は荘公の棺を北郭に置いた。本来、国君の葬儀は宗廟に置いて行われる。
斉荘公の遺体は士孫の里に埋葬された。周礼では、諸侯は死後5ヶ月で埋葬される。
しかし、荘公は死んでから僅か13日で埋葬された。
荘公の葬礼では四本の翣(扇形の幟)が用いられた。
「天子八翣、諸侯六翣、大夫四翣」と決められていたので、荘公は大夫の礼で行われた。
斉侯の葬送には車9乗を使うが、荘公には粗末な車7乗しか使われなかった。
道路の清掃や警護はなく、埋葬品には兵器甲冑を使わなかった。
全て、国君の葬礼から外れた事である。
崔杼の斉荘公への恨みの深さが窺い知れる。
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晋平公が泮水を渡り、衛の邑・夷儀に諸侯を集め、会盟を行った。
晋平公、魯襄公、宋平公、衛殤公、鄭簡公、曹武公、莒犂比公、邾悼公
滕成公、薛献公、杞孝公、小邾君が参加して
2年前の朝歌の役に報復するため、斉討伐が相談された。
斉は夷儀に大夫・隰鉏を送り、諸侯との講和を求めた。
慶封は投降の礼に則って男女の奴隷を整列させ
晋平公には宗器(宗廟の器物)や楽器を贈った。
晋の六卿、五吏(軍尉、司馬、司空、興尉、候奄)、大夫、百官、師旅(官属)、処守(留守役)
いずれにも多額の財物が贈られた。
晋平公は講和に同意し、叔向を送って斉の帰順を諸侯に告げた。
晋平公は魏舒と宛没を衛に送り
12年前、斉に亡命した衛の先君・献公を迎え入れ、夷儀を献公に譲るように命じた。
斉の崔杼は衛献公の妻子を人質として斉に留め、衛に五鹿の地を要求した。
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前年、陳哀公が楚康王と共に鄭を攻撃した時に
陳軍は通った場所で井戸を埋め、木を伐採したので、鄭人は陳を憎むようになった。
6月24日、鄭の子展と子産が兵車700乗を率いて陳都を攻めた。
鄭軍は深夜、秘かに陳城へと突入した。
鄭軍の侵入に気づいた陳哀公は、密かに城を脱出し、太子・偃師を抱えて墓地に奔った。
途中で司馬・袁僑に会い「わしを車に乗せよ」と命じたが、
袁僑は「今は城を巡視するところです」と言って断った。
墓地へ向かう途上、哀公は次に大夫・賈獲に会った。
賈獲は車に母と妻を乗せていたが、太子を抱えて奔って来る陳君を見つけると
母と妻を下ろして哀公に車を譲った。
哀公は「降ろすのは妻だけでよい、母は車に乗せよ」と言ったが
「車が重くなったせいで、我が君が捕われれば、私は不忠となります」と言って断った。
賈獲は母を抱え、妻と共に墓地に逃げ、全員が無事であった。
夜が明け、侵入した鄭兵によって内側から城門が開かれ、陳都は落城した。
子展は鄭軍が陳の公宮に入ることを禁じ、子産と共に諸門を守った。
陳哀公は袁僑を鄭軍に派遣し、宗器を贈った。
哀公は喪服を着て、社主(土地神の神主)を持ち
百官、将佐、官奴を男女で分けて整列させ、朝廷で鄭の指示を待った。
これは降伏を示す姿である。
子展は縶(縄)を持って陳哀公に会い、再拝稽首して
陳君に酒杯を勧めた。戦勝国の臣が敗戦国の国君に会う時の礼である。
子産も陳の朝廷に入り、捕虜の数を数えたら退出した。
捕虜は釈放され、人数だけが鄭に報告された。
鄭は陳の司徒に人民を返還し、陳の司馬に兵符(軍権の証明)を返し
司空に土地の台帳を返して、陳と講和を結び、軍を退いて帰国した。