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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第八十五話 崔杼、其の君を弑す




                *    *    *




 晋の首座に就く正卿・范匄はんかいは、和邑の大夫と土地の領有権で長く争っている。

ついに和邑を攻撃しようと思い立ち、中軍尉の佐・伯華はくかに相談する。


伯華、范匄に語る。

「外事は軍事、内事は政事と申します。私が掌るのは外事ですので、何も申せません。

正卿が帥を外に向ける場合のみ、お呼びください」


次に中軍司馬・張老に問うと、こう言った。

「私は軍使で晋君と正卿にお仕えしております。それは戦に関係ない事です」


范匄は祁奚きけいに訊ねた。

「私は公族と朝廷の不正を管轄する者です。それは私事ですので

とやかく申す事ではございません」


范匄が上軍司馬・籍遊せきゆうに問う。

「あなたは晋の群臣の頂にありますが、私は上軍の将・佐の命にのみ従います。

これを破れば私は罰せられますので、意見は憚らせて頂きます」


范匄が叔鮒しゅくふ(叔向の弟)に聞くと、「私が和氏を殺しましょう」と言った。



これらを聞いた叔向が、范匄と面会して進言した。

「正卿と和邑の問題について、様々な意見を募っているそうですが

まだ解決出来ていないと聞いています。

ならば、正卿の家臣・訾祏しせきに意見を聞くのが宜しいです」


 范匄が訾祏に問うと、訾祏は答えた。

「あなたが正卿に就き、晋はよく治まり、平穏です。

ですが今、和大夫を怨み、これを討とうとしている。

平穏な国に乱を起こし、何を以て晋国に報いるのでしょう」


范匄はこの諫言を聴き、和大夫に土地を与えて和解した。




              *    *    *




 31代目の晋君・平公は、利口だが、些か勇力に欠ける、柔弱の君であったと言われる。


ある時、平公は矢で小鳥を射たが、矢の威力が弱く、殺せなかった。

奴僕の豎襄じゅじょうに命じ、小鳥を捕えよと向かわせたが、逃げられた。

平公は怒り、豎襄を処刑しようとした。


この噂をを聞いた叔向は、夜、平公に面会した。

平公が小鳥を逃がした話をすると、叔向は進言した。

「豎襄を殺すべきです。昔、晋の国祖・唐叔虞とうしゅくぐさいを一矢で仕留めました。

そして、犀の皮で鎧を作り、その功で晋に封じられたのです。

今、我が君は唐叔を継ぎましたが、小鳥一羽すら射殺せず、逃げられました。

つまり、竪襄の過ちで我が君の恥を天下に広めたのです。

一刻も早く彼を殺してしまえば、恥はそれ以上伝わる事はないでしょう」


これを聞いた平公は、小鳥すら射殺せぬ自身の非力と

一時の怒りに任せて臣下を殺そうとしたことを恥じ、豎襄を赦した。




              *    *    *




 周の霊王24年(紀元前548年)春、東方の大国・斉にて

斉の宰相・崔杼さいじょが斉軍を率いて南下し、魯の北境を攻めた。


これは前年、魯の仲孫羯ちゅうそんかつが晋を援けて斉に侵攻した報復である。


斉の国力、兵力は晋、楚には劣るが、他の諸侯国より遥かに勝る。


魯襄公は斉を恐れ、晋に報告しようとしたが、大夫・孟公綽もうこうしゃくが反対した。

「崔杼は魯など眼中にありません。斉軍は魯から略奪をせず、民に危害も与えていません。

形だけの派兵です。ただ守りを固め、放置して事を荒立てぬ方が良策です」


崔杼は暫く後、何も得ずに斉へ退いた。




                 *    *    *




 斉の大夫・棠公どうこうの妻・棠姜どうきょうは崔杼の家臣・東郭偃とうかくえんの姉である。


これより数年前、棠公が死に、東郭偃が崔杼の車を御して弔問に行った。

棠公の家で崔杼は棠姜を見て、その美貌を知り、これを自分の妻にしたいと思った。


しかし東郭偃は反対した。

「主は斉丁公の後裔、臣は斉桓公の後裔、つまり、共にきょう姓です。

ご存じの通り、同姓同士での婚姻は出来ません」


崔杼はぜいを使って占わせると、「困(坎下兌上かんかえつじょう)」が「大過(巽下兌上せんかえつじょう)」に変わると出た。

「坎」は壮年の男を意味し、「兌」は若い女性を顕す。

太史達はこの卦を見て、「壮年の男と若い女性の婚姻は吉」と判断した。


崔杼はこの卦を陳無須ちんしゅむに見せると、陳無須がこう語った。

「これは、夫(坎)が風(巽)に従い、その風が妻(兌)を落とす、という意味です。

凶です。娶るべきではありません」


しかし、棠姜を諦めきれない崔杼は反論する。

「その凶兆は先夫・棠公の身に起きた事である。すでに風は過ぎた」


結局、崔杼は棠姜を娶った。




               *    *    *




 斉荘公は戦を好む、武勇に優れた君であるが、無礼な振舞いが多く

頻繁に家臣の邸宅を訪れ、家の中にある物を無断で持ち帰る。


ある日、荘公は崔杼の邸を訪問し、崔氏の冠を持ち出して、他の臣に下賜した。

他の家臣がそれを諫めたが「冠など他にいくらでもある」と言って意に介さない。


荘公を斉君に即位させたのは崔杼と慶封で、両者はこの功で斉の卿位に就いた。

しかし、荘公は国君に相応しくない態度が年々目立つようになり

遂には崔杼の妻・棠姜と姦通するに至り、崔杼は荘公を憎むようになる。



 荘公は宦官の賈挙かきょを鞭打った事があったが、その後も近くで仕えている。

賈挙もまた荘公を憎んでいたため、崔杼と組んで、荘公を弑逆する機会を窺うようになった。




               *    *    *




 5月16日、2年前に起きた斉と莒の戦い(且于しょうの役)後、莒犂比きょれいひ公が

斉と講和を結ぶため、斉都に入城し、北郭で宴が開かれた。


この時、宰相の崔杼は病と称して欠席していた。


 

 翌17日、斉荘公は崔杼の見舞いを口実に崔氏の家を訪れた。

目的は棠姜に会う事である。


棠姜は荘公を迎えた後、自室に入り、崔杼と共に、秘かに横の戸から外に出た。


棠姜がいない事に気づかない荘公は、部屋の外で柱を叩きながら歌う。

これは棠姜を呼ぶ合図である。


その間、侍人の賈挙は他の従者が屋敷の中に入ることを禁じて

自分だけが崔氏の邸内に入って扉を閉め、兵を率いて斉荘公を襲撃した。


荘公は逃げ回り、最後は楼台に登って命乞いをしたが、兵は拒否した。

荘公が邸の壁を乗り越えて逃亡しようとした時、兵が矢を射た。

矢は荘公の股に中り、荘公は壁の内側に頭から落ちて死んだ。



 斉荘公の死を見届けた後、崔杼は兵を率いて、荘公に仕える勇力の士を攻撃する。

州綽しゅうしゃく邴師へいし公孫敖こうそんごう封具ほうぐ鐸父たくほ襄伊じょうい僂堙ろういんなど

荘公に気に入られていた者の多くが殺された。


ただ2人、盧蒲癸ろほきは晋に、王何おうかは莒に奔り、生き延びた。


この時、祭祀官の祝佗父しゅくたふは、高唐にある斉の別廟で祭祀を行っており

斉荘公に復命すべく崔氏の屋敷に入ったところで殺された。


 斉は海に面した国で、海で魚を獲る者(漁師)があり、漁獲量に応じて税を払う。

「魚税」を徴収する役人を侍魚者じりょうしゃと言い、申蒯しんかいがその役に就いていた。


申蒯は崔杼の乱を知ると、家に戻り、家宰(家臣の長)に告げた。

「汝は我が妻子を連れて逃げよ。わしは死ぬ」


家宰は主に語る。

「主が義によって国君のために死ぬのです。臣が逃げたら、主の義に背く事になります」

そう言うと、二人とも自害した。




               *    *    *




 この前年、斉の大夫・晏嬰は、斉荘公の怒りを得て、職を辞しており

私邑・夷維いいに退いていたが、異変を知り、崔氏の門外まで来た。


晏氏の家宰が晏嬰に訊ねた。

「主は我が君を追って死ぬのですか」

「わしの命は、我が君のためだけにあるのではない」

「では、このまま立ち去り、斉を奔るのですか」

「わしに何の罪があって斉を去るのか」

「では、夷維に戻りますか」

「国君が死んだのに、どうして戻れよう。

国君は民を虐げず、社稷を主持し、臣は、民と社稷を守らねばならぬ。

国君が社稷のために死ねば、臣下も死ぬ。社稷のために亡命したら、共に亡命する。

国君が自分のために死ねば、その責を負う者はいない。

国君は崔杼によって立てられ、崔杼によって弑された。

わしは死ぬ必要も、亡命する必要もない。しかし、このまま帰る事も出来ぬ」


 晏児は門を開いて崔氏の邸に入ると、荘公の死体を膝の上に置き

号哭し、立ち上がってから三踊して去った。


崔杼の家臣は「晏嬰を殺すべきです」と言ったが、崔杼は反対した。

「晏嬰は斉民の人望を得ている。生かせて斉を安定させるために利用すべきだ」

と言って、晏嬰の後を追わなかった.。



 斉荘公の母・鬷声姫そうせいきの親族に鬷蔑そうべつがいて、荘公と親しかった。

かつて斉霊公が諸侯軍に敗れた平陰は、斉都・臨淄りんしに近い険阻の邑で

鬷蔑が守っており、荘公の与党が険要の地を擁する事を恐れ、崔杼は鬷蔑を殺した。




               *    *    *




 28年前、魯の宰相・叔孫僑如しゅくそんきょうじょが魯から斉に亡命した。

斉霊公は叔孫僑如の娘・穆孟姫ぼくもうきを娶り、公子・杵臼しょきゅうが産まれた。


5月19日、斉荘公を弑逆した崔杼は、荘公の異母弟・杵臼を斉君に擁立した。斉景公である。

崔杼は自らを斉の右相に任じ、慶封けいふうを左相に任じた。



 崔・慶の二相は斉に乱が起きる事を恐れ、大宮(太公廟)に斉の全ての士大夫を集め

「崔氏と慶氏に与しない者は死ぬであろう」という盟約を誓わせた。


崔・慶への協力に躊躇する者、拒む者は全て殺され、その数は10人を超えた。


晏嬰の順番が来た時、天を仰ぎ、嘆息して言った。

「崔杼は無道を行い、その君を弑した。これに与する事は出来ぬ。

嬰は、君にのみ忠であり、社稷を利する者にのみ従う」


慶封が晏嬰を殺そうとしたが、崔杼がそれを止め、晏嬰に言った。

「汝は君子である。わしに与するなら多くを与えよう。協力しないなら殺すしかない」


晏嬰がこれに返す。

「いかに脅されようとも、利で誘い、君に背かせようとする者には与しません」


晏嬰は盟約を誓わず、その場を去った。


晏嬰は車に乗り、御者が急いで出発しようとすると、晏嬰は言った。

「崔・慶がわしを討つつもりなら、いくら急いでも間に合わぬ。

討つ気がないなら、急ぐ必要もない」


崔杼は晏嬰を追わなかった。




               *    *    *




 5月23日、斉景公と諸大夫が莒君と盟約を結んだ。

莒犂比公は斉荘公の存命中に入朝したが、崔杼の乱が起きた事で

斉君は景公に代わったので、改めて盟約が結ばれた。



 斉の太史が「崔杼、その君を弑す(崔杼弑其君)」と記録した。

崔杼は怒り、太史を殺し、その記録を削除した。


数日後、太史の弟が「崔杼弑其君」と書いて記録した。

崔杼はこの弟も殺し、再び削除した。


数日後、さらに下の弟がやはり「崔杼弑其君」と書いて記録した。

崔杼は天を仰ぎ、この者を殺さず、削除もしなかった。


この時、南史氏は太史が殺されたと聞き「崔杼弑其君」と書いた木簡を持って

斉の宮廷に向かっていたが、3人目の太史は殺されなかったと聞いて帰った。



 斉の閭丘嬰りょきゅうえいが妻を幕で包んで隠して車に乗せ

申鮮虞しんせんぐと共に斉を出奔した。共に斉荘公の近臣であった。


申鮮虞は閭丘嬰の妻を車から落として言った。

「国君の暗愚を糾せず、危難を救えず、殉死も出来ないのに、妻を隠す事は出来る。

そのような者を、どの国が受け入れるのか」


二人は斉都・臨淄の西南・弇中えんちゅうで一泊した。

閭丘嬰が言う「崔氏と慶氏が我々を追ってくるであろうか」

申鮮虞が返事する「この辺りの道は狭い。戦えば常に一対一となる。恐れるに足らず」


弇中を出て道が広くなると、申鮮虞が閭丘嬰に言う。

「急がねばならん。道が広くなった。兵を率いて来られたら敵わない」

二人は魯に亡命した。



 5月29日、崔杼は荘公の棺を北郭に置いた。本来、国君の葬儀は宗廟に置いて行われる。


斉荘公の遺体は士孫の里に埋葬された。周礼では、諸侯は死後5ヶ月で埋葬される。

しかし、荘公は死んでから僅か13日で埋葬された。


荘公の葬礼では四本のそう(扇形の幟)が用いられた。

「天子八翣、諸侯六翣、大夫四翣」と決められていたので、荘公は大夫の礼で行われた。


斉侯の葬送には車9乗を使うが、荘公には粗末な車7乗しか使われなかった。

道路の清掃や警護はなく、埋葬品には兵器甲冑を使わなかった。


全て、国君の葬礼から外れた事である。

崔杼の斉荘公への恨みの深さが窺い知れる。




          *    *    *




 晋平公が泮水はんすいを渡り、衛の邑・夷儀いぎに諸侯を集め、会盟を行った。

晋平公、魯襄公、宋平公、衛殤公、鄭簡公、曹武公、莒犂比公、ちゅう悼公

とう成公、せつ献公、杞孝公、小邾君が参加して

2年前の朝歌の役に報復するため、斉討伐が相談された。



 斉は夷儀に大夫・隰鉏しゅうさいを送り、諸侯との講和を求めた。

慶封は投降の礼に則って男女の奴隷を整列させ

晋平公には宗器(宗廟の器物)や楽器を贈った。

晋の六卿、五吏(軍尉、司馬、司空、興尉こうい候奄こうえん)、大夫、百官、師旅(官属)、処守(留守役)

いずれにも多額の財物が贈られた。


晋平公は講和に同意し、叔向を送って斉の帰順を諸侯に告げた。



 晋平公は魏舒ぎじょ宛没えんぼつを衛に送り

12年前、斉に亡命した衛の先君・献公を迎え入れ、夷儀を献公に譲るように命じた。


斉の崔杼は衛献公の妻子を人質として斉に留め、衛に五鹿ごろくの地を要求した。




              *    *    *




 前年、陳哀公が楚康王と共に鄭を攻撃した時に

陳軍は通った場所で井戸を埋め、木を伐採したので、鄭人は陳を憎むようになった。



 6月24日、鄭の子展と子産が兵車700乗を率いて陳都を攻めた。

鄭軍は深夜、秘かに陳城へと突入した。


鄭軍の侵入に気づいた陳哀公は、密かに城を脱出し、太子・偃師えんしを抱えて墓地に奔った。

途中で司馬・袁僑えんきょうに会い「わしを車に乗せよ」と命じたが、

袁僑は「今は城を巡視するところです」と言って断った。


墓地へ向かう途上、哀公は次に大夫・賈獲かかくに会った。

賈獲は車に母と妻を乗せていたが、太子を抱えて奔って来る陳君を見つけると

母と妻を下ろして哀公に車を譲った。

哀公は「降ろすのは妻だけでよい、母は車に乗せよ」と言ったが

「車が重くなったせいで、我が君が捕われれば、私は不忠となります」と言って断った。


賈獲は母を抱え、妻と共に墓地に逃げ、全員が無事であった。



 夜が明け、侵入した鄭兵によって内側から城門が開かれ、陳都は落城した。


子展は鄭軍が陳の公宮に入ることを禁じ、子産と共に諸門を守った。


陳哀公は袁僑を鄭軍に派遣し、宗器を贈った。

哀公は喪服を着て、社主(土地神の神主)を持ち

百官、将佐、官奴を男女で分けて整列させ、朝廷で鄭の指示を待った。

これは降伏を示す姿である。


子展はちゅう(縄)を持って陳哀公に会い、再拝稽首して

陳君に酒杯を勧めた。戦勝国の臣が敗戦国の国君に会う時の礼である。


子産も陳の朝廷に入り、捕虜の数を数えたら退出した。

捕虜は釈放され、人数だけが鄭に報告された。


鄭は陳の司徒に人民を返還し、陳の司馬に兵符(軍権の証明)を返し

司空に土地の台帳を返して、陳と講和を結び、軍を退いて帰国した。


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