第八十四話 無謀なれ勇士
国同士で、戦後に講和したり、盟約を結んだりしてますけど
要するに、負けた方が勝った方に賠償金(穀物、人(奴隷)、財宝(鼎、玉壁等))を払ったり
土地を割譲したり、毎年貢物を要求したり、という条約を
互いに話し合って、落としどころの条件を決めてるわけですね。
日露戦後のポーツマス条約なんかと、基本的に同じ事。
他国に侵攻するのも、基本それが目的なんで、戦いたくないなら
ある程度払って妥協してもらう、というのもあったはずです。
特に異民族は基本貧しくて、飢えたら中原に侵攻してくるのがお決まりのパターンです。
戦いを好むウォーモンガーは別として
衣食住が十分に足りてれば、基本的に人は戦いを求めません。
* * *
斉荘公は晋討伐から帰還したが、そのまま斉都・臨淄には入らず
臨淄から300里(約130km)南方の莒に侵攻した。
荘公は莒邑・且于城の城門を攻撃している時に股を負傷したので
一時帰還を決意するが、莒攻略は諦めておらず、再戦に備えて大夫・杞殖と華還に
莒邑・寿舒に軍を集結させるように命じた。
二将は夜、斉軍を率いて且于の隘路に進入し、莒の郊外で一泊する。
翌日、莒邑・蒲侯まで進むと、莒君の犂比公が率いる莒軍と遭遇した。
しかし莒君は斉との戦いを避けるため、二人に厚い賄賂を贈り「斉と盟約を結びたい」と伝えた。
華還がこれに応える。
「昨晩、我が君は我らに莒討伐を命じられました。財を貪って君命を棄てる事は出来ません」
莒君は戦う決心をして、自ら戦鼓を敲いて斉軍に突撃する。
* * *
斉荘公は莒を攻撃する前に、勇士に兵車5乗を与えたとされる。
しかし、この勇士の中に杞殖と華還は入っていなかったので
二人は失望し、家に帰っても食事をしなかったという。
母(どちらの母かは不明)が二人に言った。
「汝等が義を行わず、功なく死ねば、5乗の禄を受けても世人は汝等を笑うであろう。
義を行い、死して名を留めれば、5乗の禄を受けた者は、みな汝等の下になる」
二人は飯を食べ終わると莒討伐に従軍し、同じ車に乗って莒国に至った。
莒との戦が始まると、両名は兵車を降りて戦い、甲首300を獲ったが、さらに戦い続ける。
斉荘公が二人を止めて言った。
「勇士は死んではならぬ。厚く褒賞を与える。わしを補佐し、斉国を治めよ」
「斉君は5乗の禄を我々には与えませんでした。
今、敵に臨んで困難に至り、我々を止めようとしています。
我々の勤めは敵陣に深く入って多くの者を殺す事。
斉国の利は、我々の知る事ではありません」
二人は戦いを続け、莒軍にこれを止められる者はおらず、莒の陣営を崩していく。
* * *
斉軍が莒の城下に迫ると、莒兵は火がついた炭を地に撒いて進撃を止めた。
杞殖の兵車で車右を勤める隰侯重が言う。
「それがしの一身をもって、ニ将を莒城まで通します」
隰侯重は楯を持って炭火の上に伏せ、焼死した。その上を二人が走って渡った。
渡った後、二人は振り返って哭した。
「彼の勇は我々と同じだ。しかし我々より先に死んだ」
莒都の城下に迫る二将に莒兵が言った。
「莒君は両勇に厚く恩賞を与えると仰せである。我々と莒国を共にしよう」
両名は拒否した。
「敵に帰順するのは忠ではない。君から離れ、他者の贈を受け取るのは不正である。
君命に従わないのは信ではない。多くの敵兵を斃すのが臣らの任務である。
莒国の利は我々が知る事ではない」
二人は戦いを続け、莒兵27人を殺した後、戦死した。
この戦いの後、莒犂比公は斉荘公に使者を送り、斉と講和した。
* * *
斉荘公は斉都に帰還する途中、郊外で杞殖の妻に会ったので、使者を送って弔った。
しかし妻は言う。
「我が夫に罪があるのなら、弔問の使者は不要です。
もし無罪であるなら、郊外で弔を受ける訳には参りません」
周の礼では、郊外で弔問を受けるのは賤臣である。
杞殖は大夫であったから、妻は正式な弔問を要求した。
斉荘公は自分の誤ちに気づき、杞殖の家に弔問に行った。
杞殖の妻には子も親戚もいらず、頼る者がいなくなったので
夫の遺体を抱えて城下で泣き続けた。
その姿は人々の心を動かし、道を通る者は皆涙を流したという。
10日後には妻の激しい感情により、城壁が崩れたと言われる。
夫の葬儀が終わった後、妻は淄水に身を投げて死んだ。
夫の死を知って、残された妻が慟哭し、城璧の一部が崩壊した、という逸話は
遥か後年、秦の始皇帝の時代に残る民間伝承「孟姜女」にも見られるが
源流を辿れば、杞梁(杞殖)の妻の故事が元になっているらしい。
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斉荘公が魯から亡命してきた臧紇に土地を与えようとした。
それを知った臧紇は、荘公に謁見した。
斉荘公が晋との戦いについて話すと、臧紇はこう言った。
「今回の戦で斉候は多くの功績を挙げました。しかし国君は鼠のようです。
鼠は昼は隠れ、夜に動いて、宗廟に穴を掘ろうとはしません。人を恐れるからです。
今、斉君は晋の乱を聞いて兵を動かしましたが、晋が安定したら
また晋に仕えることになります。これは鼠と同じです」
斉荘公は、自分が鼠に喩えられた事に怒り、臧紇に土地を与えるのをやめた。
臧紇は荘公がもう長くないと感じ、用心して深く関わらないようにしたらしい。
* * *
晋平公が叔向に命じて、周霊王を聘問させた。
周都に入った叔向は周霊王の太子・晋と会話し
論戦を5回行って、叔向が3回敗れたという。
帰国した叔向が平公に告げた。
「王太子はまだ15歳に過ぎないのに、臣は論戦で負けました。
我が国は太子に良く接するべきです」
この年、中原は天候が不順であったらしく、黄河流域の多くの国で洪水が起きた。
周都・洛邑の王城より北を流れる穀水と、王城の南を流れる洛水が溢れた。
穀水が王城の西で南下し、洛水に流入し、これによって発生した激流により
王城の西南が破壊されたという。
周霊王は水流を塞ぐ工事を行う事を宣言した。
斉荘公が王命に従い、周都・郟の築城に協力して、人夫と築城の資金を提供した。
斉は晋に背いたため、斉荘公は周王の歓心を得ようとしたのである。
この時、太子・晋が水流を塞ぐ事に反対して霊王を諫めたが、霊王は聞き入れなかった。
築城が終わった後、魯の叔孫豹が京師に入って周王室を聘問し、完成を祝賀した。
周霊王は叔孫豹が礼に則っていることを称賛し、大路(天子の車)を下賜した。
太子・晋はこの3年後に早世し、晋の弟である貴(周景王)が周霊王を継ぐ事になる。
景王の時代に王室は乱れ、景王の薨去後「子朝の乱」が起こり
周王の権威はいよいよ失墜する事になる。
* * *
周霊王23年(紀元前549年)春、魯の叔孫豹が晋を訪問する。
晋では正卿・范匄が叔孫豹を迎え入れて質問した。
「古人は『不朽の死』という言葉を残した。どういう意味であろう」
叔孫豹は答えない。続けて范匄が語る。
「我が祖先は、虞・舜以前は陶唐氏、夏朝の時代は御龍氏、商朝の時代は豕韋氏
周の時代は唐杜氏で、晋君が盟主になって范氏となった。これを不朽と言うのか」
叔孫豹が口を開く。
「それは世禄であって不朽ではありません。かつて魯に臧文仲という者が
『まず徳を立て、次に功を立て、更に言を立てよ』と発した言は
今なお生きており、これを不朽と言います。
姓を保って氏を受け、宗廟を守って祭祀を途絶えさせない者は、どこの国にもいます。
これは禄が大きいのであり、不朽とは申せません」
* * *
晋では范匄が正卿となり、政事を行うようになってから
諸侯の幣(盟主への貢物)が重くなり、その負担に苦しんでいる。
2月、鄭簡公が晋に入朝した時、子西が簡公の補佐を務める事になり
子産は子西に書を預け、范匄に渡すように告げた。
「范氏が晋を治めて以来、諸侯から美徳を聞かず、重幣に関する事ばかり耳にします。
君子が国や家を治める時は、財がない事を憂えず、名がない事を嘆くとか。
諸侯の財が晋に集まれば、諸侯は二心を抱くでしょう。
范氏が諸侯の財を自分の利としたら、晋は乱れます。
諸侯が背けば晋国が害を受け、晋が乱れれば、范氏の家も害を受けます。
名とは徳を載せる車です。徳とは国の基礎です。基礎があれば破滅しません。
故に、人は名を得るために努力します。徳があれば楽しみ、楽しめば長久を得る。
他者から『あなたは私から搾取して生きている』と言われたいでしょうか。
それとも『あなたのおかげで私は生きている』と言われたいでしょうか」
范匄は子産からの手紙を読んだ後、幣を軽くした。
鄭簡公は晋に入朝し、幣の軽減を請うと同時に陳の討伐も願い出て、范匄に稽首した。
范匄は恐縮して稽首を止めさせようとしたが、子西が言う。
「陳は大国(楚)に頼って鄭を侵しています。鄭君は陳の罪を問う事を晋に請願しています。
稽首しないわけには参りません」
* * *
夏、楚康王が水軍を率いて呉を討伐したが、功無く還った。
楚の水軍は、兵への指導、教育、訓戒が行われず、練度が不足しており
論功、賞罰の規定も明確に定まっておらず、楚兵の士気が低かった事が原因であるという。
呉は楚の舟師(水軍)の役に報復するため、楚の属国・舒鳩に使者を送った。
舒鳩は楚に背き、呉に従いた。
楚康王は舒鳩の地・荒浦に駐軍し、楚の大夫、沈尹・寿と師祁犂
を舒鳩に送り、呉に寝返った事を譴責した。
舒鳩君は二人を迎え入れ、楚から背反していはいない、改めて楚と盟約を結ぶと言った。
二人が楚君に復命した後、楚康王は、舒鳩君の言は偽りであると言い
これを攻撃しようとしたが、冷尹・薳子馮が反対した。
「舒鳩君は背いていないと申し、楚との盟約を求めています。
これを攻めたら無罪の者を討つ事になります。
今は帰国して民を休め、経過をよく見守るべきでしょう。
舒鳩君に二心がないと分かれば、盟約を結び
もし背いたのであれば、改めて討伐すればいいでしょう」
楚康王は薳子馮に従い、楚軍を引き上げた。
* * *
魯の仲孫羯が魯軍を率いて斉を攻めた。
前年、斉が晋を攻めたので、晋のため、斉に報復するための出兵である。
魯からの侵攻を受けた斉荘公は、晋を攻撃した事が不安になり
晋と対立する楚と友好を持つため、楚康王に使者を送って面会を決める。
楚康王は薳啓彊を斉に送って聘問し
斉候と楚王の会見の日時について決める。
斉荘公は社を祭り、大規模な蒐(軍事演習)を薳啓彊に見せ、斉の武威を示した。
斉の陳須無が言う。
「斉は他国の侵略を招くであろう。兵を見せれば、兵による禍を招くのだ」
* * *
陳須無の不吉な予見が早くも的中して、6月に晋地・夷儀に諸侯が集まる。
晋平公、魯襄公、宋平公、衛殤公、鄭簡公、曹武公、莒犂比公、邾悼公
滕成公、薛献公、杞孝公、小邾君が会盟に参加した。
晋平公はこの会盟で、斉の討伐を宣言し、諸侯は軍勢を率いて斉に向かう。
斉荘公は諸侯軍が斉に向かっている事を知って、陳無宇を薳啓彊に従わせて楚に送った。
晋との戦が近いため、会見の延期を説明し、併せて楚の出兵を請うた。
崔杼が斉軍を率いて斉都から南方へ向かい、陳無宇等を送り出した後
そのまま莒を攻撃して莒の旧都・介根を侵した。
万が一、斉都が陥落した場合に備えての避難先を確保したと思われる。
諸侯軍が夷儀から斉に向かう途上で魯に差し掛かった頃、皆既日食が起きた。
その直後に大水(洪水)が発生して諸侯軍はこれに巻き込まれた。
戦わずして大きな損害を蒙った諸侯軍は、斉討伐を中止した。
* * *
冬になり、楚康王、蔡景侯、陳哀公、許霊公が斉を救うため、鄭に侵攻した。
楚軍は鄭の東門を攻撃した後、棘沢に駐軍する。
魯から引き揚げる諸侯軍は鄭の救援に向かった。
晋平公は張骼と輔躒を楚軍に向かわせるため
棘沢周辺の地形に詳しい者がいないか、鄭君に訊ねる。
鄭簡公は、宛射犬を送るべきかを卜ったら、吉と出た。
鄭の子太叔が宛射犬を戒めて言う。
「我が鄭は小国、晋は大国である。対等の礼を行ってはならない」
だが、宛射犬はこれに反論した。
「衆寡に関係なく、大国でも小国でも、兵車を御する者は車右・車左より地位は上です」
子太叔が言う。
「大樹は大山にのみ育ち、小山には育たないように、大国と小国は平等ではない」
張骼と輔躒は晋陣の帳幄の中にいたが、宛射犬は外に坐らされた。
食は二人が終わってから宛射犬に送られた。
二人は宛射犬に広車(敵に挑戦する時に使う兵車)を御させ、彼らは通常の兵車に乗って移動する。
楚陣に近づくと二人は広車に移り、轉(車の後ろの横木)に坐って琴を弾き始めた。
車が楚陣に接近した時、宛射犬は急に速度を上げた。
二人は慌てて甲冑を装備し、楚の営塁に入ると、車から下りて
楚兵を攻撃し、数人を捕虜にして帰還しようとした。
宛射犬は二人を待たずに車を還したので、二人は車を追って飛び乗り
矢を射て楚の追手を躱した。
難を逃れた二人は再び轉に跪いて琴を牽き、宛射犬に語る。
「宛射犬、なぜ兵車を動かす時、二度とも我らに声をかけなかったのか」
「始めは突入する事で必死でした。その後は楚兵の多さに恐れ、余裕がなかったのです」
「汝は性急である」と言って二人は笑った。
楚康王は呉と舒鳩の動向も気になるために
諸侯軍との本格的な争いは避け、棘沢から楚へ帰還した。
楚陣にいた陳無宇も斉に帰国した。
楚軍が退いたのを見て、諸侯軍も兵を退き、それぞれ帰国した。
* * *
陳国では前年に続いて慶氏の党を討伐し、鍼宜咎が楚に出奔した。
晋平公は乱を起こして滅亡した欒盈に代わり、程鄭を下軍の佐に任じた。
鄭の行人(外交官)・子羽が晋を聘問した時、程鄭が尋ねた。
「どうすれば位階を下げられるでしょうか」
子羽はこの問いに答えられず、鄭に帰国してから鬷蔑に聞いた。
鬷蔑は子羽に答えた。
「程鄭はもうすぐ死ぬか、晋を出奔する事になるであろう。
位を下げるなら、人に位を譲ればいいだけで、訊ねる事ではない。
既に高位に登ってから、自分には相応しくないと思って
階位を下げる事が出来るのは、よほどの智者のみである。
程鄭は主君への阿諛追従で卿位を得た。智者ではない」
翌年、程鄭は死去する。