第八十二話 孔子、生誕す
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周の霊王19年(紀元前553年)
2年前に行われた諸侯軍と斉軍との戦いの後、督揚の会盟で諸侯が盟約を結んだ。
これを契機に、それまで敵対していた魯・莒二国は講和して
1月21日、魯の卿・仲孫速と莒の大夫(名は不明)が向で盟約を結んだ。
夏6月3日、晋地・澶淵で、晋は斉と正式に講和し、盟約を結んだ。
この会盟に参加した諸侯は12ヵ国で、晋平公、魯襄公、斉荘公、宋平公、衛殤公
鄭簡公、曹武公、邾悼公、莒犂比公、薛献公、滕成公、杞孝公、小邾君である。
しかし、秋になり、収穫期が来ると、邾は軍勢を率いて魯の国境を侵し
魯の粟や黍を刈り取って収奪し、魯人を奪った。
魯は斉から毎年のように侵攻を受けており
また、幾度も会盟に参加して多額の幣(貢物)を晋に拠出しており
国が疲弊して、反撃は出来ないと邾悼公は判断したのであった。
これに対し、魯の仲孫速が邾を攻撃して、邾より収奪した。
この時代の戦争は、人、食、財を掠奪する事が主な目的であった。
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周の天子と同じ姫姓の諸侯国・蔡は、国の位置が楚に近く
楚が強大化して以降、累代の蔡君は楚に従属し続けて80年近い。
楚の蔡に対する仕打ちは厳しく、要求される幣は多く、労役は重い。
かつて蔡文侯は、晋文公の時代、踐士の盟に参加したが
蔡の国人は楚を恐れて、晋との講和に反対し、現在に至る。
蔡人を奴隷の如く使役する楚の暴虐に耐えられず
この年、蔡の公子・燮が蔡文侯の遺志を継ぎ、晋と講和しようと提案した。
しかし、楚は近く、晋は遠いため、蔡の国人は楚に従属した方が良いとして
公子・燮を殺した。
公子・燮の同母弟、公子・履は楚に出奔した。
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蔡と同様の状況にあり、永く楚に従っている陳では
陳の重臣・慶虎と慶寅が、陳哀公の弟である
公子・黄が政権を握ることを恐れ、楚に訴えた。
「公子・黄は蔡の司馬(公子・燮)と共に晋と結ぼうと謀っております」
楚が陳を討伐したたため、公子・黄は楚に出奔し、無罪を訴えた。
公子・黄は楚へ出奔する前、陳都で国人に訴えた。
「慶氏は陳君を軽視し、国君の弟たるわしを排斥し、陳を独占しようとしている。
今後5年の内に、天は陳を滅ぼすであろう」
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冬10月、魯の季孫宿が宋を聘問した。
5年前、宋の左師・向戌の魯聘問に対する返礼である。
宋の大夫・褚師段が季孫宿を迎え、宴に招いた。
季孫宿は宴席上で、詩経・小雅の「常棣」第七章と末章を賦した。
これは家族の関係を扱った詩で、婚姻関係にある魯と宋が
今後も長く友好でありたいとする意志を示したのである。
宋は季孫宿の意思を汲み取り、感謝して厚い礼物を贈った。
季孫宿が魯に帰国し、魯襄公に報告すると、魯候は宴を開いた。
季孫宿は詩経・小雅から「魚麗」末章を賦した。
これは新鮮な魚と美酒を語った詩で
魯襄公が季孫宿を宋に派遣したのが旬の時期だった事を称えたのである。
それに対し、魯襄公は「南山有台」を賦した。
君子(優秀な人物)が良く国を補佐する内容で、季孫宿の功績を賞している。
季孫宿は席から離れ「臣は過分でございます」と恐縮した。
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衛の重臣・甯殖が病に倒れ、死期を悟って
子の甯喜を呼び、病床から遺言を告げた。
「かつてわしは、国君を他国に逐うという大罪を犯した
我が悪名は諸侯の知る所となり、諸侯の太史官は
『孫林父と甯殖、その君を駆逐す(孫林父甯殖出其君)』と記したという。
わしの死後、汝は斉に住む衛君を帰国させ、我が悪名を覆してほしい。
それが出来れば、汝を我が一族と認めよう。
もし、これが叶わぬならば、わしは鬼神となり、甯氏の祭祀を絶やすであろう」
甯喜は父の遺言に同意し、ほどなく甯殖は死去した。
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周の霊王20年(前552年)春正月、魯襄公が晋を訪れた。
斉討伐と邾の地を得たことに対する拝謝である。
邾の大夫・庶其が漆と閭丘の地を魯に献上し、自らも魯へ奔った。
魯の季孫宿は庶其を魯の大夫に任じ、襄公の姑姊(従妹)を庶其に嫁がせ、従者にも賞賜を与えた。
この頃から魯で盗賊が横行するようになり、季孫宿が臧孫紇を詰った。
「卿はなぜ盗賊を取り締まらないのか」
「私にはそれだけの力がない」
「卿の地位は司寇である。賊を取り締まるのが役目だ。なぜ力がないのか」
「卿の地位は正卿であるが、外より盗賊を招き、大礼で遇した。
庶其は邾の地を盗み、それを魯に与えた。それに対し、卿は公女を娶らせ
邑を与え、従者に賞賜を与えたのである。
私の力では、正卿の遇する賊を取り締まる事が出来ない。
一方で賊を放置し、一方で賊を取り締まるのは、司寇の取る道ではない」
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この年、楚の冷尹・子庚が死に、楚康王は大司馬・蔿子馮を次の令尹に任命した。
蔿子馮は、王命を受けるべきか悩み、申叔豫に意見を聞いた。
申叔豫の曰く「国に悪臣多く、王は幼少、令尹になるべきではありません」と答える。
蔿子馮は令尹を辞退するため、仮病を装う事にした。
氷の上に莚を敷いて起居し、痩せるために食事を減らした。
楚康王は蔿子馮に医家を送り、様子を診させた。
「身は痩せ衰えていますが、血色は良く、病ではありません」
王は蔿子馮の本意を理解し、叔父の子南(公子・追舒)を令尹に任命した。
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晋の卿・欒盈の父は欒黶で、母の叔祁は范匄の娘である。
范匄の子・范鞅は、かつて欒黶の勘気を蒙り、秦に出奔したことがあった。
このため、范氏は欒氏を怨んでおり、両家は血縁にありながら仲が悪い。
この頃、欒黶が死去し、欒盈が欒氏の当主となった。
叔祁は寡婦となった事で、欒氏から范氏の者に戻った、という意識からか
欒氏の家財を取り仕切る室老(大夫・家臣の長)・州賓と私通し
欒氏の財産を独占して、これを范氏に流そうと企んでいる。
欒盈は母の淫蕩と企みを知り、注意を促したために
叔祁は我が子に討たれるのでは、と恐れ、父の范匄にこれを告げた。
「盈は乱を起こすつもりです。彼は范氏が父・黶を殺したと思っています」
范鞅は叔祁の報告を信じ、これに同調した。
欒盈は若年より施しを好み、晋の多くの士が欒氏に帰順している。
そのため、范匄は以前から欒盈の勢力と人気を恐れていた。
范匄も叔祁の言葉を信じて、欒盈を呼び、晋都から遠く離れた著の地に築城を命じた。
その間に叔祁は欒氏の財産を尽く范氏に運び込ませ、欒盈を追放した。
著に築城を終えた後、自身の追放を知った欒盈は、楚へ出奔した。
晋都では欒盈の追放に反対する欒氏の党人が集まり、范匄を討つ計画を立てた。
范匄はこの噂を聞くと、欒盈の一党である10人の大夫(箕遺、黄淵、嘉父
司空靖、邴豫、董叔、邴師、申書、叔虎
叔熊)を殺し、伯華、叔向、籍游を捕えた。
楽王鮒が捕われの叔向に言った。
「あなたは賢臣と名高いが、范氏に逆らって罪を得た。これが智者の振舞いでしょうか」
叔向がこれに答えた。
「私が捕われたのは叔虎の兄だからだ。幸い、誅殺、亡命にまでは至っていない。
誰にも与せず、政争に巻き込まれず、気儘に生きる事が智者の在り様である」
「私が晋君と正卿(范匄)に進言して、あなたの釈放を乞いましょう」
叔向は「私を開放するのは祁奚でなければならぬ」
「私は晋君に進言して拒否されたことがありません。なぜ祁奚でないといけないのか」
「あなたは晋候の申される事なら何でも従う。故に任せるわけにはいかぬ。
祁奚は好悪に拠らず人を推挙し、親族でも遠慮せず人を選ぶ実直の者である」
晋平公にとって叔向は、かつての傅(教育官)であり、今は師(相談役)である。
処刑するには忍びず、叔向の罪について楽王鮒に訊ねた。
「叔向の兄・叔虎は正卿への謀反を企んでおりました。彼も共謀していたはずです」
平公は仕方なしと、叔向の処刑を范匄に伝えたが、この噂を聞いた
祁奚は、既に老齢で引退していたが、車に乗って范匄の邸に向かった。
「叔向は晋の柱石です。彼の罪を赦し、晋国のために働かせるべきでしょう」
叔向の処刑に内心反対だった范匄は、これを聞いて喜び
祁奚が乗って来た車に、共に座上して参内し
晋平公を説得して、叔向の罪を赦して貰い、ほどなく叔向は釈放された。
祁奚は叔向に会うことなく去り、叔向も祁奚に釈放の報告をしなかった。
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晋から出奔した欒盈は、楚に向かう途上で周の西境を通り
ここで盗賊に襲われ、持っていた財物を奪われた。
欒盈は周都に入り、官人に言った。
「私は晋候の罪を得て地を失い、国を逐われた。
そして今、周都の郊外で罪を得て、財をも失った。
かつて祖父(欒書)は王室に尽力したが、父(欒黶)はその功労を守れなかった。
もし、天子が祖父の努力を棄てなければ、臣に道は開かれるが
父の罪を問うなら、臣は誅されても余りある。
帰国して軍尉に裁かれるか否か、ただ天子の命に従う」
周霊王は晋が欒盈を出奔させたことを過ちと見ていた。
「過ちと知りつつ、これを放置せば、更に大きな過ちになる」
霊王は司徒に命じて盗賊を捕え、欒盈から奪った物を全て取り戻し
候人(客に道を案内する者)を送って険道を越えさせた。
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周の霊王20年(前552年)10月21日
魯国・昌平郷・陬邑の大夫・孔紇に次子が誕生した。
氏は孔、名は丘、字は仲尼。後の儒教の祖・孔子である。
孔子の祖先は宋人で、宋湣公の死後、弟が即位して宋煬公となり
宋湣公の子・魴祀が宋煬公を殺した。
魴祀は宋湣公の庶子であったため、兄である宋湣公の太子・弗父何に即位を勧めたが
弗父何はこれを拒否したので魴祀が宋君に即位した。宋厲公である。
弟に宋公の地位を譲った弗父何は、宋父・周を産み、周は世子・勝を産み
勝は正考父を産み、考父は孔父・嘉を産み、嘉は木金父を産み、金父は睪夷を産み
睪夷が防叔を産んだ頃、宋の華氏によって弾圧され、一族は魯に遷った。
魯に遷った後、一族は孔氏を名乗り、孔防叔が伯夏を産み、伯夏は孔紇を産んだ。
孔紇は魯で勇士として名を知られている。
孔紇と妻の間に9人の娘が産まれたが、男子はいなかった。
妾が孟皮(字は伯尼)という男子を産んだが足に障害があり、後嗣に出来ない。
そこで孔紇は魯の大夫・顔氏に相談した、顔氏には娘が3人いる。
顔氏が3人の娘に言った。
「孔紇は父祖の代から魯の士階級だが、先祖は殷王の後裔である。
身の丈9尺(約202cm)、武勇に優れ、すでに年を取っているが、これに嫁する者はいないか」
長女と次女は黙っていたが、三女の顔徴在が発言した。
「父の決めた事です。私が嫁ぎましょう」
顔徴在は孔紇の家に嫁ぐ途中で宗廟を通り、ここで孔紇に会った。
孔紇が既に70歳を過ぎた老翁と知った顔徴在は、子が出来ない事が不安になり
尼丘の山に登って出産を祈祷した。
やがて顔徴在は孔子を産んだ。尼丘の山に因み、名は丘、字は仲尼とした。
孔丘が3歳の時、父・孔紇が死に、防山に埋葬されたが
母の顔徴在は、結婚してそれほど間がなく、孔氏の一族に疎まれたので
孔紇の葬儀に参加出来ず、どこに埋葬されたか知らされず
孔丘もまた、父の墓がどこにあるのか知らずに育ったと言う。
孔丘は幼時の頃、木で俎や豆(共に祭祀で使う食器)を作り
儀礼の真似をして遊んだと言われる。
顔徴在が死んだ時、孔丘は母の亡骸をすぐに埋葬せず、五父衢(大通り)に置いた。
その時に陬邑の人・輓父の母が孔丘に孔紇の墓の場所を教えたので
孔丘は両親を合葬した。
孔丘がまだ母の喪に服していた時、魯の季氏が士を集めて宴を開いた。
孔丘も季氏の屋敷を尋ねたがま、季氏の家臣・陽虎が
「季氏は士を招待した。汝はまだ幼く、士ではない」と言って拒否した。
孔丘は引き返した。
後年、成長した孔子は、陽虎の外貌に酷似していたと言う。
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諸侯が晋地・商任に集まり、会盟が行われた。
晋平公、魯襄公、斉荘公、宋平公、衛殤公、鄭簡公、曹武公、邾悼公、莒犂比公が集まり
晋から出奔した欒盈を受け入れる事を禁じる盟約を結んだ。
この会盟で斉荘公と衛殤公が不敬だったので、叔向が彼らを評した。
「二君には禍が訪れる。会は礼、礼は政、政は身を守る。
礼を怠れば政を失い、政を失えば乱が起きる」
晋の知起、中行喜、州綽、邢蒯の4大夫が斉に出奔した。
4人とも欒氏の党人である。
楽王鮒が范匄に告げた。
「州綽と邢蒯は勇士です。呼び戻しましょう」
「わしの勇士ではない。欒盈の勇士だ」
「あなたが欒盈の如く振舞い、彼らに施せば、あなたの勇士になります」
「わしに欒盈と同じ事は出来ぬ」
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斉荘公は太子であった頃から勇士を好む。
ある日、朝廷で殖綽と郭最に告げた。
「汝等はわしの雄(雄鶏)である」
晋から亡命してきた州綽が言う。
「国君が雄と申されるなら間違いないでしょう。しかし、臣は平陰の役で両雄より先に鳴きました」
闘鶏では勝った鶏が先に鳴くため、平陰の役で州綽は
殖綽と郭最を捕えたので、先に鳴いた(勝った)と言ったらしい。
斉荘公は勇士らに爵(酒の杯)を与える事にした。
殖綽と郭最が爵を望むと、州綽が発言した。
「東閭の役で、臣は兵車を失っても退かず、斉の城門に留まったのです。
この勇には爵が与えられませんか」
「その時、汝は晋君に仕えていた。我が爵を受ける事能わず」
「申される通り、臣は斉君に仕えて間がありません。
しかし両雄は、禽獣に喩えるならば、既にその身は臣に食われております」
斉荘公は3人に勇爵した。
州綽は勇士として斉荘公の信用を得て重用されるが
数年後の斉に「崔杼の乱」が起きた際、荘公と共に州綽も処刑された。




