第八十一話 平陰の戦い
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前年、斉で亡父の喪に服していた晏嬰は、喪が明けて、斉霊公に仕える事になった。
この頃、斉都・臨淄に住む女性の間では、男装が流行っていた。
霊公はこれを、風紀を乱すと宣言して禁止したが、流行は収まらない。
「斉の国人はなぜ、わしの禁令に従わないのか」と悩んで
朝廷で群臣に諮った。
出仕して間もない晏嬰が霊公に進言した。
「斉女が男装する流行は、我が君の后の趣味が源泉です。
我が君は、民に男装の禁令を出しながら、お側に仕える后の男装は許しておられる。
これでは、禁令が斉君の本意ではないと思うのも当然でございます。
我が君のなさっている事は、牛の頭を看板に掲げ、馬肉を売っているようなものです。
まず宮廷で禁止すれば、民に禁令など出さずとも流行は終わるでしょう」
斉霊公は晏嬰の言う通り、后の戎子の男装を禁じると、果たして流行は収まった。
晏嬰が斉霊公に行った諫言は「牛首馬肉」と呼ばれ、後に変化して
現在も使われる四字熟語「羊頭狗肉」となった。
晏嬰は主君を、詐欺を働く肉屋に例えて諫めた事で、その豪勇、諧謔の才覚
勘気を恐れぬ私心のない態度から、斉国内の士大夫から大きな人気を博す。
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周の霊王17年(紀元前555年)10月、晋平公が斉討伐を決断する。
晋は三軍を動員した。
中軍の将・荀偃、佐・范匄
上軍の将・趙武、佐・韓起
下軍の将・魏絳、佐・欒盈である。
晋平公、魯襄公、宋平公、衛殤公、鄭簡公、曹成公、邾悼公、莒犂比公、薛献公
滕成公、杞孝公、小邾君、以上の12諸侯が魯の済水沿岸で一堂に会し
2年前に結んだ湨梁の盟を再確認した後、斉討伐に向かう。
諸侯軍は黄河に至り、ここで晋の正卿・荀偃は、赤い糸で二対の玉を結び、宣言した。
「斉候は、斉国の険阻な地形と数多の衆に頼り、諸侯との友好を棄て
盟約に背き、民を虐げている。晋君は諸侯を率いてこれを討ち、臣が補佐する。
戦勝を得て、功あらば祖先を辱めずに済むが、臣は再び黄河を渡ることはない」
荀偃は玉を黄河に沈めた後、全軍を率いて渡河した。
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斉霊公は平陰(現在の山東省済南市平陰県)で諸侯軍を迎え討ち、防門(平陰の南)に
一里(約423メートル)に及ぶ長大な塹壕を掘った。
斉の夙沙衛が進言した。
「諸侯の兵数は多く、戦いは斉に不利。険阻な地で守りを固めるべきです」
しかし斉霊公は進言に従わず、諸侯軍との決戦を行う覚悟でいる。
「わしは周天子の舅じゃ。晋を討ち、伯(覇者)になるのは今を措いてあるまい」
諸侯軍の兵数は12~13万、兵車の数は1500乗に達するであろう。
それに対する斉軍は推定4~5万。兵車は700~800乗。
諸侯軍が防門に達し、両軍の攻撃が始まった。
兵力で圧倒的に勝る諸侯軍が斉軍を圧倒し、斉兵に多くの死者が出る。
激戦の最中、晋の范匄が旧知の斉の大夫・子家に宣言する。
「貴国に恨みを抱く魯君と莒君が兵車千乗で攻撃することを申し出た。
攻撃が始まったら、斉君は国を失うであろうと、斉君に伝えよ」
子家は本陣に戻って斉霊公にこれを報告すると、霊公は恐ろしくなった。
斉の大夫・晏嬰が言う。
「我が君は怯懦である。その命は長くあるまい」
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斉霊公は巫山に登り、諸侯の軍勢を眺めた。
元帥の荀偃は中軍司馬・張君臣に命じて山沢の険を開かせ
道のない場所にも大旗を立て、兵車の左に兵を立たせ、右に偽兵を置いた。
旗が先に進み、兵車の後ろに柴を牽かせ、砂塵を舞い上がらせ
ただでさえ多い軍勢を、更に実態以上の大軍に見せかけている。
「兵車の後ろに柴を牽かせ、砂塵を舞わせるのは
城僕の役に於いて、先君・文公が用いた手であるな」
晋平公は荀偃の策と、その覚悟に感嘆する。
山上から晋軍の様子を眺めていた斉霊公の目には
まさに雲霞の如き大軍に見え、恐慌を来した霊公は戦場からの逃走を図った。
しかし、逃げようとする霊公の腕を、晏嬰が掴んで引き留めた。
「あれは見せかけの偽兵です。晋が攻めて来るのは予期していた事。
斉帥はまだ戦えます。なぜ逃げるのですか」
「晏嬰、放すのだ。放さぬなら汝を斬る」
「お斬りなされ。私を斬る勇を以て、晋に当たって下さい」
「わしは、汝を斬る勇がないから逃げるのだ」
斉霊公は晏嬰の制止を振り切って、戦場から逃走した。
10月29日深夜、斉軍が退却を開始した。
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翌朝、晋の師曠が平公に言う。
「斉陣の方向から鳥烏の鳴き声が聞こえます。斉師は遁走したのでは」
同時刻、晋の大夫・邢伯が荀偃に言う。
「馬が還る時の声が聞こえます。斉師が退却しているのでは」
また、叔向も平公に語った。
「平陰の上に烏がいます。斉陣はもぬけの殻でしょう」
11月1日、諸侯軍が平陰に入り、斉軍を追撃した。
夙沙衛は諸侯軍の追撃を鈍らせるために
大車を連ねて山道を塞ぎ、自らは殿軍を務めた。
だが殖綽と郭最が言う。
「宦官が斉師の殿軍になるのは、斉国の恥である。汝は我が君をお守りせよ」
二人が後方を守り、夙沙衛は馬を殺して狭い道を塞いだ。
晋の州綽が斉軍に矢を射ると、矢は殖綽の左右の肩に中った。
州綽が言う。「退却を止めれば汝は虜囚となる。止めねば汝を射る。どちらを選ぶか」
殖綽が言った。「わしと汝で誓いを行え」
州綽が答えた。「汝を殺さぬと天に誓う」
州綽は殖綽を捕え、州綽の車右・具丙が郭最を捕えた。
殖綽と郭最は晋の中軍へ連行され、戦鼓の下に坐らされた。
もはや勝利は決まったと、晋軍が逃げ遅れた斉の残兵掃討に向かったが
斉と国境を接する魯と衛は、斉の要地への攻撃を求めたので
晋軍は泰山山脈に位置する京茲、邿、盧の三邑を攻撃した。
13日、荀偃と范匄が中軍を率いて京茲を攻略した。
19日には、魏絳と欒盈が下軍を率いて邿を占領した。
趙武と韓起は上軍を率いて盧を包囲したが、陥落出来なかった。
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12月2日、諸侯軍は斉都・臨淄の郊外・秦周に至り
雍門(臨淄の西門)で萩の木を伐り、攻城兵器を造り始めた。
晋の范鞅(范匄の子)が雍門を攻撃し、御者の追喜が戈を使って門内で犬を殺した。
魯の仲孫速が橁木を伐って琴を造り、魯襄公に献上した。
すでに諸侯には余裕があった事を示す逸話である。
12月3日、雍門と西郭、南郭に火がつけられた。
晋の大夫・劉難と士弱は諸侯の軍を率い、南門の外に繁る申池の竹木を焼いた。
12月6日、東郭と北郭にも火がつけられ、范鞅が西北門を攻め、州綽が東門を攻めた。
諸侯軍の猛攻により、もはや臨淄の陥落は避けられないと思い
斉霊公は臨淄を放棄し、郵棠まで逃げようとしたが
大夫・郭栄が霊公を諫めた。
「諸侯の師は斉の財を略奪するのが目的で、斉の地を奪うためではありません。
いずれ退きますから、斉都から逃げる必要はございません」
だが霊公は聞かず、斉都から逃げようとしたので
郭栄は剣で、霊公の馬車の馬と車両を繋ぐ革を斬った。
斉霊公は逃亡を諦めた。
諸侯軍は更に進撃を続け、12月8日には東は濰水、南は沂水に至ったが
斉霊公の籠る斉都・臨淄を陥とす事は出来なかった。
郭栄が予期した通り、諸侯軍の目的は斉での掠奪であった。
この戦いの最中、曹成公が陣中で没した。
曹では成公の子・勝が曹君に即位した。曹武公である。
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鄭簡公に従って斉討伐に参加しているのは、子蟜、伯有、子張で
鄭の留守を守るのは子孔、子展、子西である。
この時、子孔が晋に背いて楚に属き、晋に従う鄭の諸大夫を殺そうと企てた。
子孔は楚の令尹・子庚に使者を送り、この計画を伝えた。
しかし子庚は、鄭への出師に同意出来ず、楚康王にこれを伝えた。
「わしが楚の社稷を継いで5年、楚の国人は、未だ出師を行わぬ事に対して
地位の安逸のみ図り、先君の業を忘れたと誹謗して
わしの死後、礼に従って葬儀を行わぬと言っている。
ここは子孔の誘いに乗るべきではないか」
「諸侯ことごとく晋と和しています。まず、臣が試みに鄭へ向かいます。
上手く行くようであれば、我が君も臣に続いてください。そうでなければ、師を退きます。
さすれば楚の社稷は害を蒙らず、我が君の徳を損なう事にもならないでしょう」
子庚は汾に向かい、楚軍を動員した。
楚の左師は冷尹・子庚
楚の右帥は右尹・公子・罷戎
それに大司馬・蔿子馮と公子・格が別軍を率いる。
楚軍は北上して鄭に向かい、魚陵に駐軍した。
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鄭では子展と子西が子孔の陰謀を知り、城の守りを固めたので
子孔は楚軍に合流できなくなった。
楚の右師は上棘に城を築き、穎水を渡って旃然水沿岸に布陣した。
蔿子馮と公子・格は費滑、胥靡、献于、雍梁を攻め
梅山を右に回って鄭の東北を侵攻しつつ蟲牢に至り、兵を還した。
子庚は左師を率いて鄭都の外郭を攻めたが
子展と子西が守りを固めて出撃しなかったので、城下に2日留まった後、帰還した。
楚軍は魚歯山の麓に至って滍水を渡った時
大雨に襲われ、多くの兵が凍傷に悩み、大半の労役夫が死んだという。
斉を攻撃する晋軍の元に、楚が鄭に出師したという報が届いた。
師曠「この季節、南から吹く風は弱い。楚の帥は虚しいであろう」
董叔「天道(木星)は西北にあり、南師に天は合っていない、楚の功は無い」
叔向「今の楚は人が和していない。楚師の成功はありえない」
ほどなく、楚軍は鄭の守りを崩せず、撤退したという報が届いた。
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年が明けて、周の霊王18年(紀元前554年)の春正月
斉を討伐した諸侯軍が沂水から引き上げ、督揚(祝阿とも)で盟約を結んだ。
この会盟で、「大国が小国を侵してはならない」と決められた。
会盟の後、晋が邾悼公を捕えた。2年前に魯を攻撃した罪を問うためである。
斉討伐から帰還する諸侯は泗水沿岸に駐軍し、魯の国境を定めた。
魯は邾から漷水以西の地を取り、魯領となった。
晋平公は帰国し、魯襄公は晋の六卿を魯都に招いて歓待した。
晋への帰国の途上、晋軍の元帥・荀偃は頭部に腫物が出来て爛れていた。
黄河に近い著雍に着いた頃、腫物が悪化して動けなくなった。
次卿・范匄が荀偃に面会を求めたが、荀偃は拒否した。
「わしに会ってはならぬ。卿に病が伝染るやもしれぬ」
范匄は天幕に入った荀偃から距離を置いて、荀氏の後嗣を誰にするか尋ねた。
「荀呉にせよ」と答えた。
2月19日、荀偃は死去した。
その遺体は瞳孔が開いたまま、口を固く閉じていた。
范匄は荀偃の死体を撫でて「臣は卿と同じく荀呉にも仕えましょう」と語った。
荀偃の目は開いたままである。
欒盈が死体を撫でながら「斉討伐はまだ終わっていません。必ず斉を服させます。
もし叶わなければ、臣らは黄河の神より罰を受けるでしょう」と言った。
荀偃は目を閉じ、口を開いた。死者の口に玉が入れられた。
退出した范匄が嘆いた。
「わしは浅慮であった。荀偃が家の事より国の事を想っていた事に気づかなかった」
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魯の季孫宿が晋を訪問し、斉討伐に感謝し、礼物を捧げた。
晋平公は魯の使者を歓迎し、宴を開いた。
荀偃の死後は次卿の范匄が晋の主事を務めている。
帰国後、季孫宿は斉との戦いで得た兵器を鋳て
林鐘を造り、魯の立てた軍功を銘文にした。
しかし臧孫紇がこれに異議を唱えた。
「銘とは、天子の徳を記し、諸侯は治世の功を記し、卿大夫は征伐を記すのです。
諸侯が征伐を記せば位を下げることになります。
しかも、此度の功は晋の力を借り、民事を妨げました。
小国(魯)が大国(斉)に勝ち、それを顕示したら、大国の怒りを買うでしょう」
夏になり、晋の欒魴と衛の孫林父が斉に侵攻した。
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平陰の戦いで諸侯に大敗した斉霊公は、ほどなく病に倒れた。
この時、斉の太子は光ではなく、仲子が産み、戎子が育てた公子・牙である。
霊公が戎子を寵愛したため、その子を太子に立て、元太子・光を東の辺境に追いやった。
太子・牙の太傅(教育官)は上卿の高厚、少傅は夙沙衛である。
斉霊公の病が重くなると、斉の卿・崔杼は秘かに公子・光を迎え入れ、太子に復位させた。
太子・光は戎子を殺し、その死体を朝廷に晒した。
5月28日、斉霊公が崩御した。太子・光が斉君に即位した。斉荘公である。
斉荘公が即位すると、公子・牙は畏れて斉を出奔しようとしたが
荘公は斉の国境に近い句瀆の丘で公子・牙を捕えた。
夙沙衛は高唐(現在の山東省聊城市高唐県)に奔り、斉荘公に謀反を起こした。
崔杼は臨淄の城外・灑藍で高厚を殺し、その財産と食邑を奪った。
この頃、晋の范匄が斉を攻撃し、穀に至ったが、斉霊公の死を聞いて兵を退いた。
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鄭の執政・子孔の政治は横暴で鄭の国人を苦しめたため
鄭の群臣は前年、子孔が楚に通じた事の責任を追及した。
危険を感じた子孔は自邸に籠って、自身の兵と
子革、子良(共に子孔の甥)の兵を集め、守備を固めた。
4月11日、子展と子西が鄭の国人を率いて子孔の邸を攻撃した。
子孔は殺され、その財産や食邑は二氏で分配された。
子革と子良は楚に亡命し、子革は楚で右尹に任命されたという。
鄭では、子展が当国(執政)に就任し、子西が聴政、子産が卿となった。
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斉の卿・慶封が夙沙衛の籠る高唐を包囲したが
攻略出来ないまま冬を迎えたので、斉荘公が自ら斉軍を率いて高唐を包囲した。
荘公は城壁の上にいる夙沙衛を見つけたので、声を出して招いた。
夙沙衛は城壁を下り、濠を隔てて荘公と面会した。
荘公が城内の守備について尋ねた。
夙沙衛は何の備えも無いと答えた。
両者は互いに返礼して別れた。
夙沙衛は戻ると、明日の戦に備えて兵に食事を与えた。
その夜、高唐城内の大夫・工僂会が城壁の上から縄を下ろし
斉軍を招き入れ、夙沙衛を殺した。
翌日、高唐城は陥落したが、西から范匄の率いる晋軍が接近していた。
高唐に出奔した直後、夙沙衛は晋に救援を依頼して
晋がそれに応じたものであった。
夙沙衛は既に死んでおり、また、晋と争った先君・霊公も亡いため
高唐にて、斉荘公と晋の范匄は会見し、斉と晋は和解し、会盟を行った。
晋軍が晋へ帰国する途上、魯の叔孫豹は柯の地で叔向と面会した。
叔孫豹は斉の脅威が去ったとは思っていない。
魯は今後も晋を恃みにする旨を、叔向に伝えた。
叔向もまた、斉荘公が本心では晋に帰服していないと判断している。
「晋が魯に背くことはありません」と叔孫豹に伝えた。
叔孫豹は帰国後「斉への警戒を解いてはならぬ」と言い
斉の侵攻に備えて西郭に外城を築き、武城にも築城した。




