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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第八十話 斉候、戦を嗜む




              *    *    *




 周の霊王14年(紀元前558年)春

宋平公が魯との盟約を確認すべく、左師・向戌しょうじゅつを聘問させた。


向戌は魯の重臣・仲孫蔑ちゅうそんべつと会見するため、その邸宅に入ると

臣の住む家屋としては煌媚に過ぎ、進言した。

「あなたの住まいは絢爛に過ぎます。これは魯民の求める事ではない」


「申される通りですが、私が晋に入っている間に兄上がこれを建てたのです。

取り壊す訳にもいかず、兄を非難する訳にも参りません」



2月11日、魯都・曲阜きょくふに近い劉の近郊で、魯と宋は盟約を更新した。




              *    *    *




 公女を王后に送った斉霊公だが、迎えに来たのは大夫の劉公であった。


本来、天子の后を諸侯より迎えるのは卿、という決まりがある。

それを晏弱から聞かされていた霊公は、非礼を感じ、不機嫌であったという。




              *    *    *




 楚国では人事の刷新が行われた。

令尹れいいん子庚しこう

右尹ゆういん・公子・罷戎ひじゅう

大司馬・蔿子馮いしひょう

右司馬・公子・橐師たくし

左司馬・公子・成

莫敖ばくごう屈到くつとう

箴尹しんいん・公子・追舒ついじょ

連尹れんいん屈蕩くつとう

宮厩尹きゅうしいん養由基ようゆうきである。


「尹」は長官を意味し、「司馬」は軍を統率する役職であるが

さて、屈到の官職「莫敖(怠ける事なかれ)」とは何であろうか。




          *    *    *




 5年前、鄭で尉氏と司氏が乱を起こし、その残党が宋へ逃亡した。

この年3月、鄭は車40乗と楽師2名を宋に贈り、更に子晳しせきを人質に送り、残党の返還を求めた。

尉氏と司氏の一派に父を殺された子西、伯有、子産の仕儀と思われる。


宋の司城・子罕しかん堵女父とじょほ尉翩うつへん、司斉を鄭に返還した。

ただ司臣のみ、賢人として名声が高かったので、子罕は彼を魯国に送り

魯の重臣・季孫宿きそんしゅくに司臣の保護を頼んだ。

季孫宿は司臣をべんに住まわせた。


鄭では帰国した三人を処刑した。



 一方、鄭から宋に贈られた盲目の楽師・けいがある日、朝廷の庭で放尿をしようとした。

慧の従者が「ここは朝廷です」と言って止めたが「構わない。誰もいない」と言う。

「朝廷に誰もいないはずがありません」

「車40乗と盲人を賄賂として受け取り、罪人と交換させる。そのような国の朝廷に人などおらぬ」


子罕はこれを聞き、宋平公に進言して楽師・慧を鄭に帰国させた。




           *    *    *




 夏になり、斉霊公は魯国の北境を侵した。


昨年、晋の次卿・范匄はんかいが斉に不徳を行った。(儀仗の装飾品を借りたまま返さない)

そのため、斉は晋に対して二心を抱き、晋と盟約を結ぶ魯に侵攻したのである。


斉軍は魯の北部にある成邑を包囲した。

魯は成を援けるため、季孫宿きそんしゅく叔孫豹しゅくそんひょうが魯軍を率いて

魯の地・遇に至り、ここに外城を築いた。


斉霊公は魯の南にあるちゅう国に賄賂を持たせた使者を送り

魯の南境を攻撃するよう依頼し、斉は北、邾は南から魯を挟撃したのである。


この事態に、魯襄公は晋に急使を派遣した。



 晋は諸侯を集め、斉と邾、それに前年に魯を攻めたきょの討伐を宣言したが

この時、晋悼公が病に倒れたので、出師の計画は、一時棚上げとなった。



 結局、11月9日、晋悼公は病臥より復帰する事叶わず、在位15年、29歳で没した。

悼公の子・ひょうが晋君に即位した。晋平公である。



鄭の執政・子西が晋を弔問し、子蟜しきょうが晋悼公を送葬した。



悼公は晋で最後の名君であったとされ、18世紀の儒学者・全祖望は

春秋五覇の一人に晋の悼公を挙げている。




              *    *    *




 宋に住む者が玉を得たので、これを子罕に献上したが、子罕は受け取らなかった。


「この玉は本物、真の宝でございます。どうかお納めください」

「わしは貪欲にならぬ事が宝だと思っている。汝は玉を宝だと思っている。

わしが玉を得たら、双方が宝を失う事になろう。それぞれが自分の宝を持てばよい」

「これを持って帰ると、必ず途中で賊に襲われ、殺されて玉を奪われるでしょう。

何卒、私を死なせないでください」


子罕は玉を受け取り、職人に命じて玉を加工させて売りに出し

そこから得た富を玉を献上した者に与えて帰らせた。



 この年の3月、宋から鄭に戻されて処刑された堵女父の一族に、堵狗とくという者がいた。

堵狗の妻は晋の范氏の出であったため、鄭の大夫・子産は

堵狗が范氏と組んで鄭に謀反することを恐れ、妻を奪って晋に帰らせた。




        *    *    *




 周の霊王15年(紀元前557年)春正月

晋では悼公を埋葬し、晋平公が正式に即位した。


叔向しゅくきょうが太傅(教育官)、張君臣ちょうくんしんが中軍司馬

祁奚きけい韓襄かんじょう欒盈らんえい范鞅はんおうが公族大夫

虞丘書ぐきゅうしょが乗馬御に、それぞれ任命された。



 3月、晋平公は黄河の南・湨梁きゃくりょうに諸侯を招集して、会盟を行った。


晋平公、魯襄公、宋平公、衛殤公、鄭簡公、曹成公、杞孝公

莒犂比きょれいひ公、・ちゅう宣公、せつ献公、小邾しょうちゅ君が湨梁に集まった。

斉国からは国君の霊公ではなく、上卿・高厚が出席した。


 晋平公は、諸侯が互いに侵した土地を返還するように命じた。


昨年、莒と邾が魯を攻撃したので、晋は邾宣公と莒犂比公を捕えたが

斉の高厚を捕えなかったのは、莒・邾に比べ、斉が大国であるせいか。




           *    *    *




 晋平公は温邑で宴を開いて諸侯をもてなし、舞を披露させて

「舞は歌詩と必ず一致しなければならない」と言った。


しかし斉の高厚の歌詩は舞に合わなかったので

晋の正卿・荀偃じゅんえんは高厚に「斉は二心を抱いている」と告げた。


晋は諸侯に、高厚と盟約を結ぶよう命じたが

高厚はこれを拒否し、斉に帰国した。



 3月26日、晋の荀偃、魯の叔孫豹しゅくそんひょう、宋の向戌しょうじゅつ、衛の甯殖ねいしょく

鄭の子蟜したい、小邾の大夫らが盟約を結び、「盟主(晋)に逆らう者を討つ」と決められた。



 高厚が帰国した後、斉霊公は前年に続いて魯の北境を侵した。




         *    *    *




 許国は20年前に楚の附庸国になり、葉に遷都したが

許の国内では、楚から離れて晋に帰順すべきである、という機運が年々高まり

許霊公は晋に使者を送って、晋の盟下に入り、同時に葉からの遷都を請うた。


晋は諸侯を招集して、許都をどこに遷すか相談を始めた時

許の大夫が晋に帰順する事に反対したので

晋は一旦、諸侯を解散し、先に許の大夫を討伐する事にした。



 夏6月、晋の荀偃、鄭簡公、魯の叔老、衛の甯殖が軍を率いて

許地の棫林よくりんに集結し、9日には許地の函氏かんしまで侵攻した。


許の大夫は楚に急使を送り、楚は公子・格が兵を率いて許の救援に向かうが

楚軍が到着するより早く、許霊公は諸侯軍に降伏した。


諸侯軍は解散して、それぞれの国へ帰国した後、楚軍が接近したので

晋の荀偃と欒黶らんえんが楚軍を迎撃した。


晋・楚両軍は湛阪じんはんで戦い、晋軍の勝利に終わった。


晋軍は楚軍を追撃して、楚の北境・方城ほうじょうまで侵攻した後、兵を退いた。


その後、晋軍は再び許を討伐し、許霊公は降伏して晋と盟約を結んだ。

許都の遷都は棚上げとなり、実現するのは18年後になる。




          *    *    *




 秋になり、またも斉霊公は魯の北境を侵し、成邑を包囲したので

魯の仲孫速ちゅうそんそく(仲孫蔑の子)が斉軍を迎え討ち、これを破った。


斉霊公は勇者を好み、仲孫速を気に入ったので

「ここは兵を退き、彼の名を成さしめよう」と言い、撤兵した。


仲孫速は斉軍の侵攻を阻むため、斉・魯間の隘路・海陘かいけいを塞いだ。



この年、魯では雨が降らず、雨乞いの儀を行った、とある。



 冬、魯の上卿・叔孫豹が晋に行き、魯を頻繁に侵す斉の討伐を懇願した。


しかし、晋では叔孫豹の懇請を承諾しなかった。

「我が君は多忙にして、未だ先君・悼公の祭祀を行っておれらぬ。

また、晋は夏に許と楚を討ち、然程も経っておらず、今しばらく晋の民を休める必要がある。

我が君は決して魯を忘れてはおらぬ。魯候には今暫くの御辛抱を願いたい」


「斉候は昼夜となく敝国を侵し、それゆえ晋候に請願に参ったのです。

魯の急は一刻を争い、魯民はただ晋を恃むのみ。

晋の君臣に暇が訪れるのを待っていては、手遅れになりましょう」


叔孫豹は正卿・荀偃に面会して「圻父きふ」を賦した。

王を輔弼する圻父が職責を全うせず、民に苦難をもたらした内容である。


荀偃は泣き、叫んだ。

「わしは自分の罪を知った。社稷を憂えず、魯国に難をもたらしたのだ」


叔孫豹は范匄にも会い「鴻雁こうがん」を賦した。

「鴻雁が飛び、悲しく鳴いている。ただ賢者のみ、我が労苦を知る」


范匄は「わしは魯の安寧を保証する」と語った。



しかし結局、晋が兵を出すのはこれより2年の後になる。




        *    *    *




 周の霊王16年(紀元前556年)春2月23日、邾宣公が崩御した。

邾宣公は前年、晋に捕えられていたので、あるいは晋で客死したであろうか。

宣公の子・華が即位して邾悼公となる。



宋の荘朝そうちょうが、楚に従属する陳に侵攻した。

陳は宋を軽視していたため、宋が勝利して、陳の大夫、司徒・ごうは荘朝に捕えられた。



 衛の孫蒯そんかいが曹の地・曹隧そうすいで狩猟に向かった時の事である。


途上、孫蒯の一行は曹の邑・重丘じゅうきゅうで馬に水を飲ませた時

重丘から借用した水汲み用の瓶甕を壊した。


重丘の民はこれに怒り、城門を閉じて孫蒯を罵倒した。

「汝は父(孫林父)と共に国君(献公)を放逐した。曹地で狩りをする事能わず」


父を侮辱された孫蒯は激怒した。


 夏、衛の石買せきばいと孫蒯が曹国を攻撃し、重丘を占領した。


曹国は会盟での盟約に背いた衛の横暴を晋に訴えた。




          *    *    *




 秋、この年にも斉霊公は魯の北境を攻め、桃邑を包囲した。


斉の高厚も魯の北境を攻め、防邑を包囲した。

防は魯の重臣・臧紇ぞうこつの采邑である。


魯軍は臧紇を迎え入れるために陽関を出たが、旅松りょしょうで進軍を止めた。


防の城内から孔紇こうきつ(孔子の父)、臧疇ぞうちゅう臧賈ぞうか(共に臧紇の弟)が

300の兵を率いて斉軍に夜襲を敢行し、臧紇を旅松まで送った。

3勇士は再び防に戻った。


斉軍はこの戦いで臧堅ぞうけん(臧紇の一族)を捕え、兵を還した。


斉霊公は宦官の夙沙衛しゅくさえいを送って臧堅を慰問し「死ぬ事は許さぬ」と伝えた。

臧堅は稽首して「斉君のお心遣い感謝します。宦官を士に遣わした事に報いましょう」

そう言って、木の杭に頭を打ち付けて自害した。



 冬になり、邾国も斉に倣ってか、魯の南境を攻撃した。




          *    *    *




 宋で、六卿の一人、華閲かえつが亡くなり、華閲の子・皋比こうひが後を継いだ。

華閲の弟・華臣は年若い皋比に従う事が気に入らず、自らが華氏の主になるべく

賊を雇って華氏の家宰・華呉を殺した。


宋平公はこの事件を聞き、朝廷で華臣を弾劾した。

「華臣は主家を乗っ取り、宋国を大いに乱した。追放するべきである」


向戌が言う。「華臣は宋の卿です。大臣の不祥は国の恥です。

これを公にせず、隠匿すべきでしょう」


平公は向戌に従い、華臣を処罰しなかった。



 11月22日、宋で、狗(犬)肉を売る商人が、手違いで犬を開放してしまった。

犬の群れは華臣の家に逃げ、肉屋はそれを追って華臣の家に入ると

華臣は、自分が襲撃されたと勘違いし、恐れて陳に出奔した。


華臣を嫌っていた向戌は肉屋に褒美を与えた。



 宋では、皇国父こうこくほが大宰となり、宋平公のために楼台の建設を開始した。


多くの宋民が動員されたため、農作業が滞って、作物の収穫量が減った。

子罕は、建設を収穫後まで延期するよう進言したが、宋平公は反対した。


工事に働く民が歌を歌った。

「南門の白面(皇国父)は、我々を酷使する。城内の黒顔(子罕)は、我々を慰めた」


これを聞いた子罕は鞭を持ち、働かない者を鞭で打った。

「貧者であっても、寒暑を避ける家はある。今、国君は楼台の築造を命じられた。

だが、いつまで経っても完成しない。これは怠慢である」と叱咤した。


歌を歌う者はいなくなった。


ある人が子罕に、なぜ民に厳しくするのか尋ねた。

子罕は「宋は小国だ。恨言と称賛が共にあれば、それは禍の元となる」と答えた。




          *    *    *




 この年、斉では大夫の晏弱が死去し、子の晏嬰が継いだ。


晏嬰は父の喪に入り、粗衣、麻の帽子、麻の帯、竹杖、草履を身につけ

粥のみ食べ、草廬に住み、むしろに寝て、草を枕にした。


晏氏の家宰が「これは大夫の礼ではありません」と言った。

晏嬰は「ただ、卿のみが大夫の礼を用いる」と答えたという。




          *    *    *




 周の霊王17年(紀元前555年)春、白狄が初めて魯に朝見した。


中原諸侯の人口は年々増加し、国力が上がった事で

北方の痩せた地に棲む夷狄との格差が更に拡がった証明と言える。



 夏、晋が衛に侵攻して、長子で衛の石買を捕え、純留で孫蒯を捕えた。

これは前年、曹が晋に訴えた事が理由である。



 秋になり、この年も斉は魯の北境を攻撃したので

魯は口を極めて晋に斉の暴虐を訴え、晋はようやく斉の討伐を決めた。



この頃、晋の正卿・荀偃は夢を見た。

荀偃は晋厲公に会い、議論をして負けた。すると厲公は戈で荀偃を撃ち、荀偃の首が落ちた。

荀偃は自分の首を拾って晋の邑・梗陽きょうようまで逃げ、巫皋ふこうに会った所で目が覚めた。


後日、荀偃が道を歩いていると、夢で見た巫皋に会った。

荀偃は夢の話を巫皋に伝えると、巫皋も同じ夢を見ていたと言う。

「今年、あなたは死ぬでしょう。しかし、東方で戦が起きれば、志を満足して死ねます」


荀偃はそれを聞き、納得して、斉討伐を晋平公に進言した。




やっと晏嬰の出番が来ました。

これで、春秋時代中期~後期の四賢臣

叔向、子産、季札、晏嬰が出揃ったわけです。

四人とも、凄く頭が良くて、深い教養があって、人格的にも優れている超エリートです。

と言っても、紀元前6世紀の基準で、ですが。


その一方で、諸侯の君主はどんどん影が薄くなります。

古今東西でほぼ必ず起きる下剋上です。

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