第七十九話 衛の乱
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楚共王の子は昭、囲、棄疾等がいるが、未だ太子は決められていない。
楚の重臣・屈建(子木)が言った。
「一匹の兔が街を奔れば、万人はこれを追うが、誰かが兎を仕留めれば、追うのを止める。
獲物の分配が決まっていない時、獲物の一頭が奔れば万人は慌てるが
既に定められていれば、いかな貪欲な者でも動かぬ。
楚君に子は多いが、太子が決まっていない。兔が街を奔るのと同じである。
いずれ、楚の乱がここから生まれるであろう」
これを聞いた共王は長男の公子・昭を太子に立てた。
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数年前から楚共王は楚都に新たな宮殿を建設している。
宮殿の完成する直前、鹿が宮殿の楼に登り、ほどなく王は病に斃れた。
9月に入って愈々(いよいよ)王の病は篤くなり、共王は病寝に楚の群臣を集め、宣言した。
「我が齢10で先王薨じ、師保(太師、少師、太傅、少傅、太保、少保)より学ぶ間もなく
社稷を預かる身となり、不徳の故に帥を鄢陵で喪い、国の憂いを招いた。
我が罪は大きいが、祖先の霊に護られ、誅される事なく、春秋を終えようとしている。
先君の廟に入った後、我が諡号は『霊』か『厲』にするように」
「霊」「厲」共に、国を乱した昏君に贈られる悪諡である。
秋9月14日、楚共王は永眠した。
楚の冷尹・子囊は諡号の選定に入った。
群臣らは「先君は『我が諡は霊か厲にせよ』と命じられました」と告げたが
子囊は敢えて遺命に従わなかった。
「先君の遺命は、恭敬なる遺志より発せられた。『恭』即ち『共』を損なう事は出来ぬ。
楚国を好く治め、四方の蛮夷を慰撫し、南海を征し、自らの過ちを知る君であった。
よって先君の諡は『共』にするべきである」
楚の大夫は冷尹の主張に同意した。
「共」は「過ちを犯しても改める事が出来る」という意味を持つ諡である。
共は恭にも通じ、楚の共王は恭王とも書かれる。
楚共王の太子・昭が跡を継ぎ、楚王となった。楚康王である。
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共王が没し、楚が喪に服している間、楚の東部にある呉国が楚に侵入した。
楚で弓の名手として知られる養由基が呉軍を迎え討ち
司馬・子庚が軍を率いてこれに続く。
「呉は、楚の服喪に乗じて侵攻した。我々が戦えないと思っているからです。
呉軍は楚を軽視し、油断しているはず。司馬は三ヶ所に兵を伏せて頂きたい。
それがしは呉軍を誘い出します」
子庚はこれに従い、長江北岸の楚地・庸浦で呉軍を迎え撃ち、楚は大勝した。
呉軍を率いる公子・党が楚に捕えられた。
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鄭の大夫・伯有と大宰・石毚が楚に捕えられて2年が経つ。
石毚が楚の子囊に語った。
「晋を大破し、中原に覇を築いた楚荘王は、出師(出兵)の前に卜を行い
吉祥が出ねば出師せず、内に徳業を修めた後、改めて卜を行い
吉祥が出て、始めて出征したと聞いております。
今の楚が晋に抗する力を失ったのは、徳業を修めていないからです。
我ら、鄭の行人に何の罪があるのでしょう。
伯有を楚に留め置くより、帰国させて、鄭の上下を乱す方が楚にとって宜しいのでは」
子囊は納得して伯有を鄭に還した。
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周の霊王13年(紀元前559年)春正月
呉王・諸樊が前年、楚に敗れたことを晋に報告した。
晋の范匄、魯の季孫宿と叔老、斉の崔杼、鄭の子蟜
宋の華閲と仲江、衛の北宮括、莒の公子・務婁
そして曹、邾、滕、薛、杞、小邾の大夫が
鄭と呉の境に近い向で会盟を開催し、楚の討伐について相談した。
しかし范匄は、呉が楚王の服喪に乗じて侵攻した事を知るに及び
呉の出師は不徳であったと譴責し、楚討伐は中止となった。
また、莒国は以前から楚との間で使者を往来させていた事から
この会で莒の公子・務婁が捕えられた。
范匄は更に戎の君主・駒支を捕えるため、譴責した。
「昔、秦国が汝の祖・吾離を瓜州に駆逐した。
吾離は粗衣を纏って晋の先君・恵公に帰順し、吾離に田地を下賜なさり、安住の地を得た。
しかし、その後裔たる汝は今、諸戎・諸侯に晋の悪報を流していると聞く」
駒支がこれに答えた。
「昔、多くの秦人が戎地を貪り、我々諸戎を駆逐しました。
晋恵公は我々の祖先に大徳を示し、南境の地を与えました。
そこは狐狸・豺狼の住まう地でしたが、我々諸戎はこれを開拓し、荊棘を除き
晋の先君に対して不侵不叛の臣となり、今に至るまで二心を抱いたことはありません。
晋の帥役に我々諸戎が後れを取った事はないのに、なぜ戎が譴責を受けるのか。
諸侯は我々と飲食も衣服も異なり、物資の往来もなく、言語も通じません。
これで如何にして悪事を働けるのでしょうか」
范匄は駒支に謝罪して、会見に参加する事を認めた。
この会見では、魯の叔老が季孫宿を補佐した。
叔老の振る舞いが礼に適っていたので
晋はこの後、魯の幣(貢物)を減らし、魯の使臣を敬うようになったという。
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呉王・諸樊は先君・寿夢の喪が明けてから、弟の季札に位を譲ろうとした。
しかし季札は辞退した。
「昔、曹宣公が崩御なされた時、諸侯と曹の国人は曹君を不義と見做して
公子・子臧を立てようとしましたが、子臧が曹を去ったため曹君が即位しました。
世の君子は子臧を『節を守る者』と称えています。
我が君は先君の長子、呉の正当な後継者です。これを誰が侵せるでしょう。
臣は不才ですが、子臧に倣い、節を失わないようにしたいと思います」
「季札が呉王になるのは、その先君の遺命であった。享けてくれぬか」
季札は家財を棄てて呉都を去り、辺境で農耕を始めたので、諸樊は諦めた。
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夏4月、晋の正卿・荀偃、魯の叔孫豹、斉の崔杼、宋の華閲と仲江
衛の北宮括、鄭の子蟜、曹、莒、邾、滕、薛、杞、小邾が会し、秦を討った。
2年前の櫟の役の報復である。
晋悼公は晋・秦国境で待機し、晋の六卿が諸侯の軍を率いて進軍した。
諸候軍は秦軍を破って涇水に至ったが、川を渡ろうとしなかった。
晋の叔向が魯の叔孫豹に会うと、叔孫豹は詩経『匏有苦葉』を賦したので
叔向は叔孫豹に渡河の意志があると知り、舟の準備を始めた。
『匏有苦葉』は渡河に際しての振る舞いが描かれた詩である。
叔向が舟を用意すると、魯と莒が先に涇水を渡り始めた。
それを見た鄭の司馬・子蟜が衛の北宮括に会って語った。
「人と共に行動しながら意志を明確にしない者は嫌われます。我々も渡河するべきです」
北宮括は納得し、二人で他の諸侯にも渡河を勧めた。
諸侯軍が涇水を渡り終え、陣を構えた頃に
秦軍が涇水の上流で毒を流し、諸侯の多くの兵が犠牲になった。
鄭軍が先陣を切って進軍すると、諸侯もそれに続き、秦地・棫林に至った。
棫林で荀偃が全軍に命じた。
「鶏が鳴いたら進め。井戸を埋め、竃を平らにせよ。わしの馬の首だけを見て進め」
晋の下軍の将・欒黶はこの命令に疑問を感じた。
「元帥の馬首だけを見て進め、などという命令は聞いた事がない。
わしの馬首は東を向き、晋に還りたがっている」と言い、晋の下軍は兵を還した。
下軍の左史(記録官)が下軍の佐・魏絳に訊ねた。
「元帥を待たずに退却しても宜しいのでしょうか」
「元帥は帥に従えと命じた。下軍の帥は欒黶である。わしはそれに従う。
帥に従うことが元帥の命に従う事であろう」
全軍の元帥である荀偃は、下軍の撤兵を知り
「わしの命令に誤りがあった。後悔しても及ばない。このままでは秦の虜となろう」
と言って、全軍に退却を命じた。
秦の守り勝ちで終わったこの戦いは、後世「遷延の役」と呼ばれる。
「遷延」とは、物事を先延ばしにして捗らない事を意味する。
欒黶の弟・欒鍼が
「この出師は櫟の敗戦に報いるために始めたが、功ならずして終わるのは晋の恥である」
と言い、范匄の子・范鞅と共に秦軍を攻めた。
しかし、秦軍は守りを固めて警戒していたため、欒鍼は戦死した。
一方、范鞅は生還したので、欒黶は范氏を逆恨みして、范匄に迫った。
「弟は行くつもりがなかったのに、汝の子が誘ったのだ。
弟は死に、汝の子は帰って来た。汝の子がわしの弟を殺したようなものだ。
范鞅を放逐せよ。さもなくば、わしが殺すであろう」
范匄は范鞅を秦に奔らせた。
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秦に入った范鞅は、秦景公に謁見した。
景公は范鞅に「晋の卿大夫で、誰が先に亡ぶと思うか」と質問すると
范鞅は「それは欒氏です。欒黶の横暴は甚だしい。
しかし彼は滅亡から逃れます。亡ぶのは欒盈(欒黶の子)の代になってからでしょう」と答えた。
「汝がそう思う理由を聞きたい」
「欒書(欒黶の父)は民に徳を施し、その徳は子の欒黶に及んでいます。
しかし欒黶が死ねば、子の欒盈の徳が人に及ぶ前に、祖父の施徳が消滅するでしょう。
欒黶は民の上に怨みを重ねたので、欒盈の身に禍が及ぶのです」
景公は范鞅の見識に感心して、晋に対して范鞅の帰国を求めた。
ほどなく、范鞅は晋に帰国した。
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この年、衛国で乱が起きた。
ある時、衛献公は孫林父と甯殖と共に、食事をする予定をした。
当日、二人は朝服を着て朝廷で衛候を待ったが、日が暮れても献公は二人を招かず
囿(林園)で雁を射て遊んでいたので、二人は囿に行った。
二人に会った献公は、皮冠(狩猟用の帽子)を被ったまま話しかけた。
朝服を着た臣下に会う時は皮冠を脱ぐことが礼である。
二人は衛献公の度重なる無礼に怒り、孫林父は衛都を出て食邑の戚に去った。
それから数日が過ぎて、孫林父の子・孫蒯が入朝すると
衛献公は酒宴を開いてもてなし、太師(楽官の長)に『巧言』を歌うように命じた。
『巧言』は「彼は黄河の畔に住む者。勇力なくして乱の源となる」といった内容の詩で
献公の目的は孫林父を非難する事である。
太師が歌を辞退すると、師曹が歌うと申し出た。
師曹は献公の愛妾に琴を教える師であったが、ある時、妾を鞭で打ったので
献公が怒り、師曹を鞭で300回打った事がある。
師曹は献公を怨んでおり、『巧言』を歌うことで孫林父を怒らせようと目論んでいる。
師曹が『巧言』を歌うと、孫蒯は恐れ、帰ってから孫林父に報告した。
「我が君はわしを嫌っている。先に動かなければ、殺されよう」
孫林父は謀反を決断し、衛都・帝丘と食邑・戚の家臣を全て集め、帝丘に入った。
これを知った衛の大夫・遽伯玉が孫林父に面会する。
孫林父が言う。
「衛候の無道と無礼は卿も存じておろう。わしは衛の社稷を守るために事を起こす。卿はどうする」
遽伯玉が答えた。
「国君を臣が侵す必要があるでしょうか。侵しても、今より良くなるとは限りません」
衛献公は孫林父を恐れて、子蟜、子伯、子皮の三公子を送って和議を提案したが
孫林父はこれを拒否し、三人とも殺した。
衛献公は衛都・楚丘を脱出して鄄に入り、公子・子行を送って
孫林父と再度の講和を試みたが、孫林父は今度も応じず、子行をも殺した。
孫林父は私兵を率いて鄄を攻撃してこれを陥とし、衛献公と弟の公子・子展は斉に出奔した。
衛の内乱を見た遽伯玉は国外に出奔した。
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衛国に、弓術の師弟がいる。
公孫丁は子魚に弓術を教え、子魚は尹公佗に伝授した。
孫林父が叛逆の兵を挙げた時、尹公佗と子魚が献公を追撃して
公孫丁が献公の御者を務めていた。
子魚が言う。
「我が君の車に矢を射たら師と君に背き、射なければ主命に背く事となる。
射ることが礼に適うと信じよう」
子魚は兵車に矢を射て、左右の軥(馬の首と馬車をつなぐ部分)に命中させ、兵車を止めた。
しかし、師に会う事が怖くなり、追撃をやめて退き返した。
尹公佗が「あなたにとって公孫丁は師ですが、私は関係ありません」
と言って、衛献公の追撃を続けた。
公孫丁は献公に手綱を預け、尹公佗に向かって矢を放った。
尹公佗は腕を貫かれる重傷を負い、衛献公は逃亡に成功した。
衛献公の弟である公子・子鮮が献公に従って衛・斉国境に至る。
衛献公は国境を越える前に、衛都に祀る祖廟に入り
自身の亡命と無罪を報告するよう、傍らにいる家臣の祝宗に命じた。
献公の嫡母・定姜がこれに異議を唱える。
「我が君には三罪があります。大臣を棄て、小臣と謀った事。
先君が師と敬った正卿(孫林父)を軽視した事。私を婢妾の如く遇した事。
祖先に伝えるのは亡命だけです」
衛献公は祝宗を衛都に送った後、斉に亡命した。
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魯襄公が大夫・厚成叔に命じ、衛候不在の衛国を慰問させた。
「魯と衛は盟約を結んでいます。この度、衛候が出奔なされたと聞き及び
魯君はそれがしを貴国に遣わし、こう申されました。
『衛君は不善で狭量であり、その臣は不遜で職責を果たさない。
その軋轢によって衛は社稷を傾けた。如何様にするべきか』」
衛の太叔・儀がこれに答えた。
「群臣が不才で国君の罪を得ましたが、衛君は刑を用いず、国を棄てて去りました。
それが魯君の心を煩わせているのは、魯君が先君との誼を忘れておられぬ証。
こうして慰問の使者を衛に遣わして頂けた事に拝謝します」
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斉霊公は衛から出奔してきた衛献公を郲(斉に滅ぼされた旧莱国)に住ませた。
衛献公に従ってきた右宰・穀は衛に帰国した。
衛では孫林父と甯殖が相になり、公孫秋が衛君に即位した。衛殤公である。
魯の臧孫紇が斉の郲邑に入り、公子・衎(元・衛献公)を慰問した。
だが公子・衎の態度には礼がなく、臧孫紇を粗略に扱ったので
「衛侯は国に帰れないだろう。国を亡いながら姿勢を改めない」と非難した。
その後、公子・衎の弟である子展と子鮮が臧孫紇と面会する。両名の態度は恭敬で礼に適っていた。
臧孫紇は「ニ君子がいれば、衛君は帰国できるであろう」と語った。
楽師の子野が晋悼公の近くに仕えており、悼公が子野に問うた。
「衛の国人は衛君を斉に追放した。やり過ぎではないだろうか」
「衛君が暴虐であったせいでしょう。善政を行えば君は放逐されません」
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この年の秋、楚が呉に侵攻した。庸浦の役の報復である。
楚軍を率いる冷尹の子囊は棠に駐軍したが
呉軍に動く様子がないため、兵を還す事にした。
撤退時、子囊が最後尾で殿軍を勤めたが
呉軍に対し、油断していた。
呉軍は皋舟から楚軍に奇襲を仕掛けた。
楚軍は険阻な地形で分断され、公子・宜穀が捕われ
子囊は呉軍によって負傷を受ける大敗を喫した。
子囊は帰国後、受けた傷が元で、間もなく死んだ。
死ぬ前に子庚を呼び「郢に城を築け」と遺言した。
子囊の後を継いで楚の冷尹となった子庚は
遺言に従い、呉軍の襲来に備えて楚都・郢の東南に新たな城を築いた。
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周霊王が劉公を斉に送り、斉霊公に命を下した。
「昔、大公(斉の国祖・太公望呂尚)は周朝を建てた武王を補佐し
周王室の股肱として天下万民を教導し、王は大公に東海を与え、功に報いた。
今、王は汝に命じる。諸侯の法を遵守し、祖先の功を継ぎ、これを辱めてはならぬ」
周王の后は斉の公女である関係から、斉君を恃む気分が強くあったらしい。
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晋悼公が正卿・荀偃に、衛の乱について意見を求めた。
「衛の先君は斉に奔り、既に新たな国君が立ちました。
これを討っても、諸侯の労と不信を得るのみでしょう。
今は衛を安定させるため、ただ待つべきです」
晋悼公は進言に従い、衛の安定を図るため、衛地の戚に諸侯を招集した。
晋の范匄、魯の季孫宿、宋の華閲、衛の孫林父、鄭の公孫蠆
そして莒人、邾人が集まり、盟約を結んだ。
晋の范匄が斉から羽毛(舞楽にも使う儀仗の装飾品)を借りたまま返さなかった。
このため、斉が晋に対して不信感を抱くようになった。
後に、この不信が晋と斉の戦端を招く事になる。




