第七話 鄭の世継ぎ
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周の桓王9年(紀元前711年)、鄭の荘公は
許との戦で手柄を立てた瑕叔盈に厚く褒美を与えた。
だが、頴考叔の死は大きな損失であった。
良臣を喪った悔恨に駆られた荘公は、頴考叔を射殺した者を探し続け
ついに兵士の密告により、公孫閼の仕業だったことを知った。
荘公には多くの子がいるが、その中でも末子の公孫閼を一番可愛がっている。
それだけに、この事実は苦悩を招いたが、結局、公孫閼を咎める事はなかった。
ただ、頴考叔の霊を鎮めるため、穎谷に廟を立てて祀ったという。
穎谷廟は現在の河南省登封県にあり、純孝廟とも言う。
洧川(河南省洧川県)にも同様の廟がある。
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鄭荘公は許攻略に協力した斉と魯に礼物を持たせて使者を送ったが
魯には贈物のみで手紙は渡さなかったという。
「魯に何があった」
「魯候(魯の隠公)が公子翬に弑され、新君が即位したので
国書の内容にそぐわないと判断しました」
「魯侯は謙虚で寛大なお方であったが、なぜ弑されたのか」
話は、魯の先君・恵公へ遡る。
かつて魯恵公は末子の允を可愛がり、太子にした。
ほどなく恵公が崩御したが、太子・允はまだ幼かったので
恵公の長男・息姑が魯君に即位した。これが魯の隠公である。
隠公は、先君の気持ちを汲んで
自身は魯君ではなく、摂政だと周囲に伝え
太子・允が成人すれば、自分は退き、太子を魯君に立てるつもりでいた。
それから10年が経ち、太子・允が成人になると
公子翬が隠公に、太子允を殺害して
隠公が名実ともに魯君になるように唆した。
だが隠公は公子翬の主張を一蹴し
予定通りに太子・允を魯君に就けようとした。
公子翬は陰謀の露見を恐れ、隠公を弑逆した。
そして太子允が魯候になった。魯の桓公である。
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鄭荘公は、主君を弑逆した魯を討つべきか、祭足に問うた。
「近いうち、魯から使者が来るでしょう。
それを聞いてから判断しましょう」と言った。
数日後、果たして魯から多額の財物を持って使者が来た。
「弊国では主が代わり、新君が即位しました。
貴国とは先君より続く関係を今後も続けるべく
改めて盟約を結ばせて頂きたく、お願いに上がりました」
鄭荘公は使者を優遇し、4月に越で会盟を開催する旨を伝えた。
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宋の先君・穆公の子、公子・馮が鄭に亡命して9年になる。
ある日「公子馮に宋君に即位して頂くため
宋の使者がお迎えに参っております」という報せが届いた。
始め、鄭荘公はこれを疑い
「宋の君臣は馮を騙して連れ帰り、始末する気ではないか」と言った。
「使者は国書を持ち、我が君との会見を待っております。
偽りの使者ではありません」と祭足が言う。
宋君・殤公は即位して以来、鄭へ3度出兵し、その都度撃退された。
鄭に兵を出す目的は公子・馮の処分である。
宋の太宰(宰相)・華父督は公子・馮が鄭に亡命する前から親しい間柄で
宋殤公が鄭に出兵する事に不満であった。
また、政敵の孔父嘉が大司馬(軍司令官)なのも気に入らない。
以前より華父督は孔父嘉を始末する機会を伺っているが
孔父嘉は宋の兵権を握り、主君からの信頼も篤く、隙が無い。
だが数年前、孔父嘉が鄭と戦って敗れ、身一つで宋に逃げ帰って来た事があった。
以来、宋の国人は孔父嘉と宋君を恨んでいる。
孔父嘉の妻・魏氏は大変な美人と評判であったが
魏氏が実家の墓参に行った折、華父督は魏氏を偶然見かけ
その美貌に陶然とした。
華父督は孔父嘉の悪評を宋の兵士の間に拡散し
彼らに孔父嘉の邸を襲撃させ、孔父嘉の一族を討たせ、魏氏を自分のものにした。
この時、孔父嘉の末子に木金父という幼児があり
家臣の一人が木金父を抱えて魯へ逃亡した。
木金父の六代後の子孫が、有名な孔子だと言われている。
夫の一族を滅ぼした華父督を、魏氏は激しく憎み
事の顛末を宋殤公に密告した。
宋殤公は激怒して華父督を誅殺しようとしたが
華父督は機先を制し、兵を率いて宮殿を襲撃し
逆に宋殤公を弑逆したのである。
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鄭荘公は宋からの使者に会い、国書を一読した後
車を用意して、公子馮を宋に送り出した。
公子馮は感動に涙しながら
「この度、帰国し、祖先の祭祀が行えるは、全て鄭君のお陰でございます。
鄭君の臣として、決して御心に背くことは致しません」と荘公に深く謝意を述べた。
公子馮は宋に帰国し、宋君に即位した。宋の荘公である。
華父督はそのまま太宰を勤めた。
諸侯の中には主君を弑した華父督を逆臣と非難する者もいたので
各国の要人に賄賂を贈り、宋公と華父督の地位を認めさせた。
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斉の北境を北戎が兵1万を率いて襲撃した。
それまでも北戎は幾度か国境を侵した事はあったが
今度は規模が違い、斉のみでは抗しきれない。
斉僖公は魯、衛、鄭に使者を出して救援を頼み
自身は公子元と公孫戴仲と共に厲城の支援に向かった。
鄭荘公は斉が戎に攻められていると聞き
世子・忽に300乗の兵車を与え、救援に向かわせた。
忽が斉の厲城に到着した時、魯、衛の救援軍はまだ来ていなかった。
斉僖公は自ら城を出て鄭の将士を労い、今後の対策を話し合った。
忽は「戎の主力は歩兵です。動きは機敏でも、打たれると脆い。
我が方は兵車が主力で、防御には優れても動きが鈍い。
戎軍は軽率で規律がなく、貪欲で連携も悪い。
これには伏兵による奇襲が有効と思われます」と述べた。
「妙計である。斉軍は東、鄭軍は北に兵を伏せよう」
忽は命を受けて北へ行き、伏兵を二ヶ所に分けた。
斉僖公は公子・元を呼び 「東門に伏せ、戎軍が追撃してきたら襲撃せよ」と命じた。
公孫戴仲にも一隊を預け、敵を誘い込む役を指示した。
「勝ってはならぬ。わざと負けて敵を誘い出せ」
翌日、公孫戴仲は城門を開いて戦いを挑んだ。
戎軍の将が迎え撃ち、しばらく小競り合いが続いたが
やがて戴仲は東へと逃げたので、戎軍は追撃した。
厲城の東門に近づくと、公子元の伏兵が飛び出してきたので
謀られたと気づき、引き返そうと振り返ったところ
後続と衝突して軍は混乱に陥った。
そこへ戴仲と公子元が攻撃を開始する。
戎軍は総崩れとなり、どの兵も我先と逃げ出したが
大半は逃げきれず斉軍に捕えられるか、討ち取られてしまった。
残る大半の戎兵は北へと逃げる事に成功したが
一息ついたと思った矢先、突如として忽の率いる鄭軍が襲ってきた。
戎軍は恐慌状態に陥り、方向も分からず逃げ惑った。
鄭軍が着実にそれらを屠っていくうちに、斉軍も追い付き、挟撃の形となった。
戎軍の将は戦死し、捕虜は300を超え、討ち取った敵兵はその数倍に上る。
戦いは斉、鄭の連合軍の圧勝に終わった。
斉僖公は喜び「この勝利は貴殿のお蔭である」と忽を賞賛した。
魯、衛に使者を送り、戦が終わった事を申し入れた。
続いて宴席を設け、忽を歓待した。
席上、斉僖公は忽に「わしの娘が貴殿の妻になりたいと申している」と述べた。
だが、忽は遠慮した。
高渠弥は忽に「斉の公女と婚姻を結べば、斉の援助が得られます。
斉は大国です。世子にとって良い話ですぞ」と薦めた。
「昔、斉侯からこの話があった時は、家格の問題で断った。
此度、鄭君の命で斉の救援に来て、幸いにも上手く行ったが
斉から妻を貰って帰国すれば、功を恃んで嫁を取ったと非難されよう」
翌日、忽は鄭に帰国し、斉僖公は落胆した。
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世子忽は帰国後、戦の結末と、斉君からの婚姻を断った事を荘公に報告した。
荘公は「いずれ良縁もあろう」とだけ言った。
祭足は高渠弥と話し合った。
「我が君には寵妃が多く、当然ながら子も多い。
公子・突、公子・儀、公子・亹など、不相応な野心を抱いておる。
世子が大国と婚姻関係を持てば、その援助を当てに出来よう。
こちらから頭を下げてでも願いたいほどの話であるのに、なぜ断られたのか」
「私も世子にそう申し上げましたが、聞いて頂けませんでした」
高渠弥にそう聞くと、祭足は嘆息して
「我が君がお亡くなりになられた後、鄭はどうなるか」と呟いた。
高渠弥は以前から公子亹と親しい。
祭足の話を聞き、以前に増して彼に接近した。
それを見た世子・忽は荘公に「高渠弥は公子亹と密談が多く、不穏です」
と伝え、荘公は渠弥を注意した。渠弥は後で子亹にその事を話した。
子亹が渠弥に「我が君は以前、卿を正卿にしようとしたが
世子が反対して取りやめになった。
そして今、またも我々を邪魔しようとしている。
世子が鄭君となった暁には、我らはどうなるであろう」
公子亹、高渠弥と世子忽との間に軋轢が生じた。
祭足は世子・忽に陳の公女との婚姻を提案した。
陳と親しい衛とも修好を図ることによって
鄭、陳、衛の三国で協力して事を諮ろうというのである。
この案に忽は承知したので、祭足は荘公にこの件を話し
使者を陳に派遣して、陳候もこれを了承した。
世子忽は自ら陳へ赴き、妻となる嬀氏を連れて帰った。