表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
79/147

第七十八話 軍制改革




         *     *     *




 秦と楚の紐帯を結んでいるのは、両国の婚姻関係で

楚共王の婦人・秦嬴しんえいは秦景公の妹である。


ある時、楚の司馬・子庚しこう(楚共王の弟・午)が秦を聘問した。

この時、秦嬴も子庚に同行して、実家である秦を訪ねたという。


秦と楚、共通の敵は中原諸侯の盟主・晋であるが

その晋は鄭の背信に悩まされ、周都での政争を仲介すべく奔走している。


今や周の天子と言えども、周公らの利害調停に晋候を必要としている。




             *     *     *




 周の二卿士・王叔陳生おうしゅくちんせい伯輿はくよが政権を争った。


周霊王は伯輿の方を援けたため、王叔陳生は怒って周都を出奔し、黄河に至った。

霊王は王叔陳生を呼び戻すため、王叔陳生と敵対していた史狡しこうを殺して宥めた。

しかし王叔陳生は周都に帰らず、黄河沿岸に家を建て、そこに住んだ。



 晋悼公は次卿・范匄はんかいを京帥に派遣して、王室の争いを調停させた。

范匄は、晋を治める大法、通称「士会の法」を纏めた名臣・士会の孫で

晋にあって法を司る家柄である事から選ばれた。



 范匄は王庭に座し、王叔陳生と伯輿が互いに訴えるため

王叔陳生の宰(家臣の長)と伯輿の臣・瑕禽かきんの証言を聴いた。


先に王叔陳生の宰が証言した。

「柴門小戸(身分が賤しい者。ここでは伯輿を指す)が

上位者を凌駕しようとしており、上の者は苦労しています」


続いて瑕禽が言う。

「昔、周平王が東遷の折、伯氏の先祖を含む七姓の大臣が王に従い

祭祀で用いる犠牲の供物を準備しました。

平王は七姓に感謝して誓いを立て『代々職責を失ってはならぬ』と約束されたのです。

柴門小戸の者がいなければ、平王の東遷は叶わなかったでしょう。

王叔が卿士になってから、周都では賄賂が横行し、公正な刑罰が行われていません。

官吏は巨額の賄賂に堪えられなくなり、我々は柴門小戸となり果てました。

下にいる者が直でなければ、公正とは申せないでしょう」


范匄が言う。「天子の援ける者を、晋君も援けるであろう」


周霊王は伯輿を援けたので、范匄は伯輿の勝ちであると判決を下した。


訴訟の後、王叔陳生は晋に出奔したので

王叔陳生に代わって単公ぜんこう(先の単公の子)が卿士になり、王室を補佐する。




          *     *     *




 翌、周霊王10年(紀元前562年)

魯の卿・季孫宿きそんしゅくが三軍を編成する計画を叔孫豹しゅくそんひょうに話した。

「三軍を作り、三桓氏(季孫・叔孫・孟孫)がそれぞれ一軍を掌握しよう」


季孫氏は代々上卿として魯の政治を行ってきたが、季孫宿はまだ若いので

この時は叔孫豹が政権を握っていた。

老齢の叔孫豹はいずれ季孫宿に政権を返す事になる。


その時、季孫宿が政権と軍権の両権を握れば、季孫氏の専横が始まるため

叔孫豹は、三家が団結出来なくなる事を憂慮し、三軍編成に反対した。


「近いうちに魯の国政は季孫宿の手に渡る。

三軍を作って三桓に分配されれば、三氏が同等の権限を持ち

それぞれが主張を譲らず、政がうまく回らなくなるであろう」



 しかし結局、季孫宿が頑なに請願したため

叔孫豹は盟約を結んで、政治を乱さぬ事を約束した。


僖閎きこう(魯僖公廟の大門)で盟約を結び、五父の(四方に通じる大通)で

盟約に背いた者に禍を与えるための呪詛が行われた。



 こうして魯は三軍を作ったが

この後、斉と楚が頻繁に魯を攻撃するようになり、魯の国土は荒廃して

魯襄公の治世後半、魯は楚に入朝する事になる。



 西周~春秋時代の軍制では、一軍は12,500人と言われている。

それまで魯の国軍は上下二軍、25,000人編成だったのが

上中下の三軍、37,500人に増員された。

季孫、叔孫、孟孫の三家がそれぞれ魯国の一軍を擁する事になる。


なお、歩卒は兵車に属するが、兵車一乗に何人の歩卒が従うかは

30人説、75人説等あり、国ごとに兵制が異なって明確な決まりはない。



 魯の三桓家は、それまで持っていた私兵を解散させた。

これまで魯の国軍の兵は魯の郊遂(公室直轄領)から集められ、

卿大夫の私兵は自分の封地から集めていた。


三軍編成後、季孫氏は私邑の奴隷を全て平民とし

その中で兵を提供する邑を「役邑」として、季氏の率いる一軍に加えた。

季孫氏の一軍に加わった者は税を免除し

参加しない者は税を倍にして、兵と財源を確保した。


孟孫氏は私邑の兵の半数を臣(奴隷兵)にした。平民の子弟も含まれる。


叔孫氏の私邑の兵は元々奴隷兵であった。

一軍を擁した後も、私邑の兵を全て奴隷兵にした。


兵制では一軍12,500人だが、これに三桓の私邑の兵が加えられるため

実数はさらに多くなり、三軍を併せれば5~6万に達するであろう。


魯が三軍編制になった事で三桓氏が魯の軍権を掌握した。

以後、魯では三桓の専横が続くようになり、魯の公室は衰退していく。



 同様の事態は魯のみならず、全ての諸侯で進行している。

国君の権限が弱まり、それに代わって卿大夫が実力を増し、専横を奮う。




            *     *     *




 今年もまた、中原に争乱が起こる。動因となるのは、またも鄭国である。


鄭国は現在の河南省鄭州市にあり、鄭州市は今日でも河南省の省都として

中原で最大の都市として繁栄している。これは春秋時代から変わらない。

鄭州市の面積は日本の熊本県とほぼ同等、人口は神奈川県と富山県を併せたほどである。



 晋文公が城僕の役で楚を破り、中原に覇を唱えて70年余り

北の晋と南の楚、両大国は中原の覇権を求め、絶えず争いを続けてきた。

周、晋、陳、蔡、宋、楚、曹、衛と境を接し、中原の臍に位置する鄭は

どうあっても諸侯争乱の係争地にならざるを得ない。


これより150年の昔、鄭荘公の治世にあって、鄭は覇者と呼ばれた時期があった。

この頃、鄭は諸侯で唯一、三軍を有し、周の天子(桓王)を討った事さえあった。

その後は斉桓公、晋文公、秦穆公、楚荘王といった覇者の後塵を拝し

相次ぐ戦乱の果てに鄭は頽廃し、荘公の御代など昔語りに過ぎない。



 鄭の執政・子展が言った。

「宋を炊き付け、宋帥が鄭の境を侵せば、それを名分に宋を討つ。

さすれば諸侯が宋を援けに来るであろう。

そこで我が国が諸侯と盟を結べば、楚師が北上して来る。

次に我々が楚に従えば、晋は怒り、鄭の境を侵す。

楚の帥は晋のそれより弱い。我々は晋に降り、盟を結ぶべきである」


 

鄭の群臣は納得し、国境の司(官吏)に命じて宋を挑発させた。


宋は左師・向戌しょうじゅつに命じて鄭を攻撃させ、大きな戦果を上げた。



 宋からの侵攻を受け、子展が宣言した。

「我々が宋を討てば、諸侯は我が国を攻撃する。

我々は諸侯に従い、楚に報告しよう。

楚師が到着したら再び楚と盟し、晋師に厚く賄賂を贈れば

災難から逃れることが出来よう」


鄭の子展が宋に侵攻した。



 晋悼公、魯襄公、宋平公、衛献公、曹成公、斉の公子・光

きょ君、ちゅう君、とう君、せつ君、杞君、小邾しょうちゅ君が鄭を討伐した。



さて、晋軍を中核とする諸侯軍、その兵力は如何ほどか。


晋は悼公の代、上中下に新軍を加えた四軍を有し、これを将と佐、八氏の卿が率いる。

一軍は前述の通り12,500人なので、晋は5万の国軍を有する。

これに八氏の卿が自邑から徴発した私兵が加わるので

最大で8万を超えるかもしれないが、無論、この全軍が動員される事はなく

他国へ遠征に向かうのは、この半分程度であろう。


これに他の11諸侯が率いる軍を加えた諸侯軍の兵数は

おおよそ10万人前後、兵車は1,300乗に至るであろうか。


いずれにせよ、鄭一国では到底、抗しきれない大軍である事には違いない。



 なお、春秋時代の中国の人口は、初期で約300万、後期で約500万人と言われている。

もっとも、「中国」の範囲は今日より遥かに小さくはあるが。




              *     *     *




 夏5月19日、斉の公子・光と宋の向戌が鄭に入り、鄭都の東門を攻撃した。

その夜、晋の正卿・知罃ちおうが鄭の西郊に至り、東進して許国の故地を攻めた。

衛の上卿・孫林父そんりんぽは鄭の北境を攻めた。



6月に入って全諸侯が北林で合流し、鄭地・向に駐軍した。

その後、西北に回って鄭地・に陣を構え、鄭都を包囲した。

さらに南門に兵を集め、楚に対して武威を示した。

更に晋軍の後続が西から済隧せいすいを渡る。



 7月10日に至り、鄭と諸侯が鄭地・ごうので盟を結んだ。


晋の范匄はんかいが言う。

「誓書の内容はよく精査せねばならん。の盟約の過ちを繰り返してはならん。

諸侯を疲弊させて成功なくんば、諸侯は二心を抱き、晋は信を喪うであろう」



亳の会盟では、誓書にこう書かれたという。

「盟約を結んだ国は、隣国で災害があれば、貯えた食を与えて救済し

山川の利を独占せず、他国の罪人を保護せず、悪徳の者を留めず

災禍を救済し、争乱を起こさず、好悪を共にし、周の天子を援ける事を誓う。

この命に逆らう者は、天の神、山川に棲まう鬼神、我ら祖先の神によって

誅滅され、その族は亡ぼされ、その国は崩壊するであろう」




               *     *     *




 楚の冷尹れいいん子囊しじょうが鄭を討つため、秦に使者を送り、出兵を要請した。

秦の右大夫・せんが軍を率いて楚共王に従い、鄭討伐に加わった。


亳の会盟で晋と盟約を結んだ鄭簡公は、楚軍を迎え入れ、これに服従した。



 亳の会盟から17日後の7月27日、鄭は楚と共に宋へ侵攻した。



 諸侯は鄭のあまりの背信の早さに驚き呆れ、かつ憤った。


9月、晋、魯、宋、衛、曹、斉、莒、邾、滕、薛、杞、小邾の12諸侯が再び結集して

鄭を攻撃した。斉の代表は太子・光で、他11諸侯は全て国君が出席した。


鄭は諸侯に降伏し、晋に帰順する。これも楚に服してから2月と経っていない。


鄭簡公は大夫・伯有はくゆうと大宰・石毚せきさんを楚に派遣して

鄭は晋に服従することを報告した。

「鄭の社稷を守るため、この度、楚の罪を得る事になりました。

楚君は財物を晋に贈り、和を結んで頂きたいのですが、それが叶わぬ事であれば

帥を以て晋に威を見せつける事が鄭君の望みです」


楚は鄭の行人(伯有と石毚)を捕えた。



 諸侯軍は楚軍の侵攻に備え、鄭の東門で武威を示したが

楚に出兵の動きはなく、鄭は王子伯駢おうじはくべんを送り、晋に和を請うた。


9月26日、晋の卿・趙武が鄭国に入って鄭簡公と盟を結んだ。


10月9日、鄭の執政・子展が鄭都を出て晋悼公と盟を結んだ。


12月1日、諸侯が䔥しょうぎょで会盟を行い、鄭は正式に晋に帰順した。


12月3日、晋悼公は鄭の捕虜を釈放し、礼を用いて帰国させた。

同時に鄭国内に潜伏させていた斥候を撤収し、鄭での略奪を禁じるよう

叔向しゅくきょうに命じ、これを諸侯に伝達させた。




         *     *     *




 魯襄公が臧孫紇ぞうそんきつを送って晋悼公に語った。

「同盟した諸侯国の中で、小国に罪があれば、大国はそれを討伐し

成果を挙げれば、大国は小国を赦すものです。

今、鄭の罪に対して晋が討伐し、鄭は晋に服して帰順したので、魯は晋の命に従います」



 鄭は晋悼公に歌鍾二架、(たんばんの楽器を楽師3人、女楽士16人と共に贈り

さらに広車15乗、軘車とんしゃ15乗、兵車70乗を贈った。


晋悼公は楽器と女楽の半分を魏絳ぎこうに下賜した。

「卿はわしに、戎狄と和せば諸侯を得ると言上し、晋は8年で諸侯と9度会盟した。

今、音楽が和すように、諸侯が和している。わしは卿と共に音を楽しみたい」


魏絳はこれを辞退した。

「戎狄と和したのは先君の霊であり、8年で諸侯を9合したのは

我が君の徳と群臣の功労によるものです。臣が何をしたでしょう。

晋は覇業を成したとはいえ、良き終わりを迎えるためにも、どうか油断なきように」


「卿の諫言には逆らえぬ。しかし、卿がいなければ、わしは戎狄と和せず

黄河を超え、諸侯との盟約も出来なかったであろう。

功臣を賞するも国君の勤め。これを怠ってはならない。どうか受け入れてほしい」


魏絳は賞賜を受け入れ、金石の楽(鍾、鏄、磐の音楽)を擁した。




              *     *     *




 晋悼公の太子・ひょうが元服の儀を済ませ、傅(教育官)を付ける年齢になった。


ある時、晋悼公と大夫・司馬侯が楼台に登り、晋都を眺めていた。

悼公は「高所より眺望するのは良いものだ」と、甚だ満足していた。


「我が君の申される通りです。しかし、徳義の楽しみには及びません」

「大夫、徳義とは何であるか」

「善を善とみなして行うを徳、悪を悪として遠ざけるを義、以て徳義と申します」

「晋国にそれが出来る者はいるか」

「ただ叔向のみが、春秋(歴史。人の善悪の記録)を修める者でございます」


晋悼公は叔向を召し、太子・彪の傅に任じた。



 冬になり、秦の庶長(爵名)・ほうと庶長・武が

鄭救援のため、秦軍を率いて晋を攻撃した。


庶長・鮑が先に晋地に入り、晋の士魴しほうがこれと抗争し、撃退した。


しかし、秦軍の兵数が少なかったため、士魴は油断して防備を怠った。


12月5日、庶長・武が輔氏で黄河を渡り、庶長・鮑と共に晋軍を挟撃した。

同12日、秦と晋はれきで戦い、晋は敗れた。


晋の油断が招いた敗北であった。




              *     *     *




 周の霊王11年(紀元前561年)春3月、莒が魯の東境を侵し、台邑を包囲した。

魯の季孫宿が台を援け、莒国のうん邑に入り、鐘を奪って魯襄公の盤(食器)にした。



 秋9月、呉王・寿夢じゅぼうが薨去した。


寿夢には4人の子がいた。長子・諸樊しょはん、次子・余祭よさい

三男・余眛よまい、そして末子・季札きさつである。


この4人の中で、末子の季札が最も賢人であったため、寿夢は季札を後継者に選んだ。

しかし、季札は王位を辞退したので、長子の諸樊が呉王に即位した。



 冬、楚の冷尹・子囊と秦の庶長・無地が鄭を攻撃して楊梁ようりょうに駐軍した。

前年、晋と鄭が講和したため、その報復であった。




       *     *     *




 周霊王が王后を求め、斉に使者を送った。

斉霊公は斉の公女が天子の妃になる事を喜んだが

王の使者への回答に悩み、大夫・晏弱に尋ねた。


「天子が諸侯に后を求めたら、諸侯はこう答えるそうです。

『我が婦の産んだ子は何人、我が妾の産んだ子が何人おります』

もし娘がいなくて、姉妹がいる場合には、こう答えます。

『先君の遺した子が何人います』」


斉霊公は婚姻に同意したので

周霊王は大夫・陰里いんりを斉に派遣して、結言(婚姻の約束)をした。




              *     *     *




 周霊王12年(紀元前560年)夏、魯の属国・(妊姓の国)が乱れて三分した、とある。

魯は邿に出兵し、これを滅ぼして魯の邑とした。



 この年、晋の正卿・知罃と下軍の佐・士魴が相次いで卒去した。

晋悼公の覇業を支えた名臣・知罃が晋の宰相を勤めた期間は6年であった。


晋悼公は緜上めんじょうしゅう(狩猟を兼ねた軍事演習)を行って晋軍を再編し

次卿・范匄を正卿に昇格させようとしたが、范匄は辞退した。


「荀偃は私より年上です。これまで臣が次卿を勤めて参ったのは

知罃の賜物であって、臣が賢であった訳ではありません。臣は荀偃に従います」


晋悼公は荀偃を正卿に任命した。


 荀偃に代わり、韓起を上軍の将に任命したが、韓起は趙武に譲った。

しかし晋悼公はこれに難色を示す。

「趙武は新軍の将で位階は7位。上軍の将は3位。4階級も昇進させる事は出来ぬ」

そのため、悼公は欒黶らんえんを選んだが、欒黶も趙武を推した。

「臣は韓起に及びません。その韓起が趙武を薦めたのです。趙武を任じるべきです」

こうして新軍の将・趙武は上軍の将に抜擢された。


中軍の将は荀偃、佐は范匄

上軍の将は趙武、佐は韓起

下軍の将は欒黶、佐は魏絳に決まった。


新軍はなくなったが、三軍の将と佐がそれぞれ一軍を率いる事になり

晋は実質的に六軍(兵数75000)となった。


晋悼公が最も信頼し、敬っている魏絳を

最も低い地位である下軍の佐に留めている辺りが

短慮に奔らず、寵臣を設けない、悼公の名君たる所以かもしれない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ