第七十七話 諸侯、擾乱し、賢臣、これを補う
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斉の国君・霊公の正妃・顔懿姫(魯の公女)には子が産まれず
顔懿姫の姪・鬷声姫が男子の光を産んだ。
公子・光は一時期、晋へ人質に行ったが、その後帰国して
諸侯の会盟に行かない霊公の代理として会盟に参加して
また、中原で起こる諸侯同士の戦にあっては斉軍を率いて出征してきた。
斉の重臣である高厚や崔杼の説得もあって
この頃ようやく公子・光は斉の太子になった。
斉霊公の側室に、宋から娶った仲子と戎子(おそらく姉妹)がいる。
仲子は公子・牙を産んだ後、理由は不明ながら、牙を戎子に託した。
今一人、霊公の側室が、魯の上卿・叔孫僑如の娘・穆孟姫で
公子・杵臼を産んだ。
即ち、斉霊公の子は長子・光、次子・牙、末子・杵臼の三人がいて
霊公は次子の公子・牙を最も可愛がっている。
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周の霊王9年(紀元前563年)春
晋悼公、魯襄公、宋平公、衛献公、曹成公、莒君、邾君
滕君、薛君、杞君、小邾君、そして斉の太子・光が
呉王・寿夢との会見を行う運びとなった。
それに先立つ3月25日、斉の卿・高厚が、太子・光の補佐役として、鍾離で諸侯と会見した。
この時、高厚の態度は不敬であったと、晋の卿・士弱が語っている。
「高厚が太子を補佐すべく諸侯に会うのは、社稷を守るためである。
その時、態度が不敬では社稷を棄てる事となる。高厚は禍から逃れることは出来ない」
夏4月1日、諸侯と呉王・寿夢が楚の地・柤で会見した。
晋が、呉から近い楚地に赴いてまで、諸侯との会見を行うのは
それだけ、晋が呉の存在を重視している証左である。
呉国は今なお、南方の蛮夷と蔑まれる風習が根強く残っている。
此度、永い歴史に醸成された文化を身に着けた、中原諸侯との会見に臨んで
寿夢は自身の挙措動作が礼に外れる事に、一抹の不安があった。
寿夢の相(補佐役)を勤めたのは、寿夢の末子・季札である。
後年、天下第一の君子、賢者との名声を得る季札の補佐により
呉は礼に外れる事なく、無事に諸侯と盟約を結び、会見は終わった。
呉王・寿夢は呉に帰国した後、季札を呉の後継者に指名した。
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晋の荀偃と范匄が、妘姓の小国・偪陽を占領して
宋の賢臣・向戌の封邑にすることを請うた。
晋の正卿・知罃はこれを拒否した。
「偪陽は小城だが堅固だ。これに勝っても武とはいえぬ、負けたら笑い者になろう」
しかし荀偃と范匄は、再三に及んで偪陽攻めを要求し
已む無く知罃は同意した。
4月9日、晋軍は諸侯の軍勢を率いて偪陽を包囲した。
魯の孟氏の家臣に秦堇父という怪力の士あり
彼は荷車を牽きながら戦場に到着した。
諸侯軍が偪陽の城門を攻めると、偪陽の守備兵はわざと城門を開けた。
諸侯の兵士らは開いた門へ突入した。
間もなく、偪陽の守備兵は懸門を下ろし、城門を閉じたので
突入した諸侯の兵は城内に閉じ込められた。
既に城内に入った士卒は恐慌を来し、混乱に陥ったが
士卒の中に、魯の郰邑の大夫・孔紇という勇者があり
彼が両腕を挙げて門を開けたので、城内に進入した士卒は脱出することが出来た。
この孔紇こそが、儒教の祖・孔子の父である。
魯の大夫・狄斯彌は兵車の車輪を外し、これに皮の甲を被せ、盾として左手に持ち
右手に戟を持って一隊(15人~200人まで諸説あり)を指揮する。
これを見た魯の仲孫蔑は「虎の如き怪力である」と感嘆した。
偪陽の城を守る将が、城壁の上から布を垂らした。
それを見つけた秦堇父は布を掴んで城壁を登るが、
堞(城壁の低くなっている場所)まで至ると、布が切られ、秦堇父は城下に転落した。
守将は再び布を垂らし、秦堇父は立ち上がって再び城壁を登り、再び城下に落とされた。
これが三回繰り返され、守将はその勇気に敬意を表した。
偪陽城は堅固で、なかなか攻略できず、諸侯軍は一時退いた。
秦堇父は士気を挙げるため、切られた布を帯びて三日間、陣中を巡回した。
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荀偃と范匄が知罃に進言した。
「もうすぐ雨季になり、兵を還すのが困難になるので、今のうちに退却しましょう」
知罃は両者の間に几を投げつけて激怒した。
「汝等は偪陽を攻め取り、向戌に与えよとわしに申したではないか。
最初、わしは反対したが、度重なる懇願に折れ、已む無く承諾した。
汝等は我が君を煩わせ、諸侯の師を起こし、多くの兵を死なせながら
34年前の邲の役に続き、再びわしに退却の責任を押し付けるのか。
7日以内に偪陽を陥とせ。出来ねば汝等の首を落とす」
5月4日、荀偃と范匄は自ら陣頭に立ち、偪陽城を攻撃した。
5月8日、偪陽は陥落して滅んだ。
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晋悼公は偪陽を宋の向戌に与えようとしたが、向戌は辞退した。
「晋君が宋に偪陽を加え、宋の領土を広げるなら、喜んで賜ります。
しかし、国君の臣下に与えれば、臣下が諸侯の師を起こして
封邑を得た事になり、これほどの大罪はありません」
晋悼公は偪陽を宋平公に与えた。
宋平公は宋都・楚丘で晋悼公をもてなし
商王朝の開祖・成湯を称える『桑林』の楽舞を披露しようとした。
宋国は商王朝の後裔が建てた国で、姓は子である。
知罃は畏れ多いと辞退したが、荀偃と范匄が言う。
「諸侯の中で、宋と魯には古来の儀礼が観られます。
魯では賓客の招待や、大祭を開く時に『禘楽』を用います。
宋が『桑林』で国君をもてなすのに、問題はありません」
「桑林」が奏でられ、舞が始まると、楽師が旗を掲げ、楽人を従えて入場した。
晋悼公は特殊な形をした旗を見ると、理由もなく恐ろしくなり
退出して他室に閉じこもったので、旗を降ろして「桑林」の舞を続けた。
晋悼公が宋から帰国し、晋地の著雍に入った時、悼公が病に罹った。
病の原因を卜うと「桑林の神」が見えたという。
荀偃と范匄は宋国に戻って祈祷して貰おうと言ったが、知罃が言った。
「我が君とわしは『桑林』の儀礼を断ったが、汝等が薦めた。
もしも桑林の鬼神が呪うなら、我が君ではなく汝等に咎を与えるはずだ」
ほどなく悼公の病は快癒した。
偪陽の国君を連れて晋都に還り「夷俘(夷の捕虜)」と名付けて武公廟に献じた。
晋悼公は京帥に使者を派遣して、周の内史に妘姓の族嗣を選ばせ
晋の霍邑で偪陽の祭祀を継続させた。
魯襄公が偪陽から帰国した。仲孫蔑は秦堇父を国君の車右に任じた。
秦堇父の子が、孔子の弟子の一人・秦丕茲である。
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6月、楚の冷尹・子囊と鄭の卿・子耳が宋を攻めて
宋地の訾毋に至り、ここで駐軍した。
6月14日、楚・鄭連合軍が宋都を包囲し、北門を攻撃する。
この頃、晋の知罃が秦を攻めた。
昨年、晋が飢饉の時に、秦と楚が晋に侵攻した事への報復である。
衛献公が宋を援けるため、衛の地、襄牛に駐軍した。
鄭の卿・子展が執政・子駟に進言する。
「楚は我が国に衛を撃てと命じるでしょう。すでに鄭は晋の罪を得ています。
この上、楚にまで罪を咎められたら、もはや鄭を守る事は出来ません。
衛帥の準備が整う前に衛を討ちましょう」
「すでに鄭は楚と共に宋を攻め、鄭民は疲弊し、衛を討つ力は鄭にはない」
「晋・楚の両大国から罪を得たら、鄭は亡びます。
いかに疲弊しようと、滅ぶ事とは比べられません」
諸大夫は子展の意見に賛成し、鄭の皇耳が軍を率いて衛を侵した。
衛の上卿・孫林父が鄭との戦いを卜った。
卜兆(亀の甲羅の亀裂)を定姜(衛献公の母)に見せると
定姜は繇辞(卜兆を解説する辞)を訪ね、孫林父が回答する。
「今回の繇辞は『兆は山陵の如く、出征した者は、その雄を失う』でした」
定姜が説明する。
「出征者が雄を失う、つまり守者には利となる。吉です。衛帥は守り勝つでしょう」
老齢の孫林父に代わり、子の孫蒯が衛軍を率いて
鄭軍を迎撃し、鄭の皇耳を犬丘で捕えた。
秋7月になり、楚の子囊と鄭の子耳は、魯の西境を攻撃した。
両軍は魯から兵を還し、宋の邑・䔥(しょう)を包囲して
8月11日、䔥邑は陥落した。
9月には鄭の子耳が宋の北境から侵攻した。
魯の仲孫蔑が言う。
「鄭には災禍が起きる。師を用いる事甚だしい。天子でさえも争いを控えられる。
諸侯に過ぎぬ鄭であれば尚更ではないか。
鄭伯はまだ幼い。禍は執政の三卿(子駟・子国・子耳)に起きるであろう」
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鄭、楚、魯、宋、晋、衛の間で戦が続いている最中
小国の莒が、突如として魯の東境を攻めた、とある。
晋悼公、魯襄公、宋平公、衛献公、曹成公、莒君、邾君
滕君、薛君、杞君、小邾君、斉の太子・光が鄭を攻撃した。
この時、斉の卿・崔杼は太子・光に対し、積極的に攻撃に参加するよう勧めた。
9月25日、連合軍が鄭地の牛首に駐軍した。
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諸侯同士での、果てなき戦乱の最中、鄭の内部が乱れる。
鄭の子駟は鄭の大夫・尉止と昔から仲が悪く、対立していたので
諸侯の軍と戦う時、尉止の率いる兵車を削減した。
戦いが始まり、尉止が敵の捕虜を得ると、尉止の戦功を厭う子駟は
「尉止は礼に背いている」と指摘して鄭君に捕虜を献上させなかった。
捕虜を献上する事は戦功を報告する事を意味する。
尉止は子駟の仕打ちを憎んだ。
かつて、子駟が田地の水溝を造成する大規模な水利工事を行った。
この時、司臣、侯晋、堵女父、子師僕が
子駟に田地を奪われた。
戦功を評されなかった尉氏と、田地を奪われた四氏は
以前、子駟に殺された四公子(子狐、子熙、子侯、子丁)
の遺族や元臣下らと組み、執政・子駟に対し、謀反を企んだ。
この頃、鄭の重職は執政・子駟、司馬・子国、司空・子耳、司徒・子孔である。
冬10月14日、尉止、司臣、侯晋、堵女父、子師僕が
私兵、徒党を率いて鄭の宮殿に侵入した。
早朝、尉止は兵を率いて西宮を襲い、子駟、子国、子耳を殺し
鄭簡公を連れて北宮に入った。
子孔は陰謀を知っていたので事前に逃走していた。
子駟の子・子西は異変の報せを受けると、全てを放置して即座に家を飛び出し
父・子駟の遺体を回収して叛徒を追跡した。
尉止等が北宮に入ると、子西は自邸に戻って兵を集めた。
しかし、臣下の多くは既に逃走し、家中の財貨もほとんど失われていたので
兵を集めることが出来なかった。
子国の子・子産は異変を聞くと、門に警護の兵を置き、人の出入りを禁止し
群司(官員)を配置し、府庫を閉じて家の財貨を守ってから
兵車17乗を従えて宮内に向かい、父・子国の遺体を回収して北宮を攻めた。
子蟜が鄭の国人を率いて子産を援け、尉止と子師僕を殺した。
尉止等に従った徒党も全て殺された。
侯晋は晋に出奔し、堵女父、司臣、尉止の子・尉翩、司臣の子・司斉は宋に奔った。
鄭では子孔が執政に就き、政権を掌握し、自分に権力を集中させる誓書を作った。
官員の地位・職責を定め、子孔が出す政令・法令に従わせる内容である。
更に子孔は大夫、官吏、卿の嫡子らで、自分に従わない者を誅殺しようとした。
子産がこれに反対し、誓書を焼却するよう勧めたが
子孔は子産の諫言を聴かない。
「誓書によって国を定めた。国人の怒り、反対によって、これを焼却すれば
国人に政事を任せた事になってしまう。これでは国政は出来ぬ」
子産が反論する。
「国人の怒りに背いて、専権を成し遂げるのは、難事です。
外に諸侯が攻め来たり、内に国人の不満を抱える現状
この二難を併せて国を安定させるのは、危険な道です。
ここは誓書を処分して国人を安心させるべきでしょう」
子孔は子産に従い、盟書を東南門の外で焼き、人心を安定させた。
しかし、この子孔も専横が目立ち、10年後に殺される。
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鄭で卿大夫同士の内訌が行われている間に
諸侯軍は鄭の要地・虎牢を占拠した。
晋軍は虎牢から近い梧と制に城を築き
士魴と魏絳が守備に就いて鄭に圧力をかけた。
鄭の執政・子孔は子産の助言に従い、諸侯に降伏し、晋と講和した。
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この頃、楚の子囊が率いる楚軍は、鄭を援けるために北上している。
11月、晋を中心とする諸侯軍は鄭領を周回するように通って南に向かい
鄭地・陽陵に至った。
楚軍は諸侯軍を見ても、退く様子はない。
晋の正卿・知罃は退却を命じた。
「我々が退けば楚は驕るであろう。驕慢な相手なら容易く勝てる」
しかし欒黶が退却に反対した。
「楚から逃げるのは晋の恥です。多くの諸侯の中で恥を得るなら
まだ死んだ方が良い。それがしは一人でも楚と戦う」
11月16日、晋・楚両軍が潁水を挟んで対峙した。
鄭軍を率いる子矯が言う。
「諸侯には戦う気がなく撤兵するつもりだ。我々も敢えて楚と戦うことはない。
我々が晋に従っても彼らは撤兵する。従わなくても撤兵する。
諸侯が兵を退いたら、楚は必ず鄭を包囲する。
どちらにしても諸侯が兵を退くのなら、我々は速く楚に帰順して楚師を退かせた方がいい」
鄭軍は夜の間に潁水の南に渡り、楚と盟を結んだ。
欒黶は鄭の背信を知って鄭軍を攻撃しようとしたが、知罃が反対した。
「晋には楚を防ぐ力がなく、鄭を守る力もない。鄭には罪はない。我々は師を還そう。
鄭が楚に服せば、楚は鄭より搾取し、恨みを得るであろう。
今、鄭を討てば、楚が援ける。楚と戦って勝てなかったら諸侯に嘲笑されよう。
勝利が確信出来ないのであれば、兵を撤くべきである」
11月24日、晋と諸侯の連合軍が兵を退き、鄭の北境を侵して還った。
諸侯軍が退いたのを見た楚軍も兵を退き、楚に帰還した。




