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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第七十六話 大国の徳、小国の礼

春秋左伝などを読むと、つくづく

春秋時代中期の鄭は悲惨だなと思います。


筆者は別の創作で、鄭の荘公を主役にした作品を書いた事がありますが

繻葛の役で周桓王を殺し、鄭荘公が周を乗っ取っていたら

その後の歴史がどう変わっていたか考えた事があります。




                  *    *    *




 周の霊王6年(紀元前566年)冬10月、晋の正卿・韓厥かんけつが告老(引退)を申し出た。

韓厥の長子・韓無忌かんむきは疾病を持っていたが、韓厥は後を継がせようとした。


しかし韓無忌は辞退した。

「私には病があり、晋君に仕えるのは困難です。政務も滞り、韓氏は信を失うでしょう。

弟の起は晋の賢者・田蘇が高く評価しており、韓氏を継ぐに相応しい者です」


韓厥は韓無忌に代わって韓起かんきに卿位を継ぎ、引退した。


晋悼公は韓無忌の謙譲の徳を称え、公族大夫の主席に任じた。


 韓厥に代わり、中軍の佐で次卿の智罃ちおうが昇進して中軍の将・正卿に就任した。

ひつの役で楚の虜囚となって9年、晋に帰国してから22年の歳月が経っていた。


これより少し以前、智罃は嫡子・智朔ちさくを病で喪っている。

智朔の妻が長男・智盈ちえいを産んだ直後の事であった。




             *    *    *




 衛の重臣・孫林父そんりんぽが魯を聘問へいもんし、季孫宿きそんしゅくと会見して

23年前に結んだ衛と魯の盟約を確認する。


 魯襄公が殿上に昇る時、孫林父は魯候と並んで登壇したので

魯候を補佐する叔孫豹しゅくそんひょうが孫林父をたしなめた。


「諸侯の会にあって、魯君と衛君は対等ゆえ、並んで歩く。

卿は衛君の臣下であるのに、魯君と並んで登壇するのは誤っている。

一旦止まり、魯君の後ろから昇って頂きたい」


しかし孫林父は答えず、これを改めなかった。


後に叔孫豹が孫林父を批判した。

「孫氏は必ず亡ぶ。臣でありながら君と対等に振る舞い、過ちを犯しても反省しない」




                *    *    *




 楚の冷尹れいいん・公子・貞(子囊しじょう)が楚軍を率いて陳に侵攻した。


陳は晋に急使を派遣して、救援を求めた。


 

 12月、晋悼公、魯襄公、宋平公、陳哀公、衛献公、曹成公、莒君きょくん邾君ちゅうくん

鄭地ので会見し、陳を救援する方途について協議した。


この時、鄭釐公も会盟に参加するため鄬に向かっていたが

鄭伯に従っていた鄭の執政・公子・子駟しし)に対して礼を用いなかった。

侍者は鄭釐公を諫めたが聞かず、再度諫めると、鄭釐公は侍者を殺した。


鄭釐公は9年前、まだ太子であった頃、公子・喜(子罕しかん)と共に

晋に行った事があったが、この時も子罕に礼を用いなかった。


4年前、鄭釐公が鄭伯に即位し、公子・平(子豊しほう)と共に

晋に朝見に行った時も、子豊に礼を用いなかったので

子豊は晋に鄭君の無礼を訴え、廃位させようとした事があった。

この時、廃位に反対したのは子罕である。



 12月16日、鄭釐公が鄬に向かう途上でそうに到着した時

子駟は賊を雇って、深夜、鄭釐公を襲撃し、これを弑殺した。


子駟は鄬へ使者を遣わし、諸侯に「鄭伯は急死した」と伝えた。


鄭釐公の子・嘉が鄭君に即位した。鄭簡公である。この時まだ5歳。



 この間も楚軍による陳への攻撃は続いており、陳の国人は楚を畏れている。

陳の大夫・慶虎けいこ慶寅けいいんは楚軍を率いる子囊に話を持ち掛けた。


「晋をはじめとする諸侯が鄬に集まり、楚を討たんとしています。

諸侯軍が来る前に、我々が公子・黄(陳哀公の弟)を派遣するので、それを捕えてください。

これを以て冷尹の戦功とし、楚に帰還すれば、楚君も納得されるでしょう」


子囊はこれに同意し、公子・黄は楚軍に捕えられた。



 二慶は鄬に使者を送り、会見に参加している陳哀公に伝えた。

「陳の留守を預かる公子・黄が楚帥に捕えられました。

楚は我が君を廃位にして、公子・黄を新たな陳君に就けるつもりです」


陳哀公は鄬の会を抜け、急いで陳に帰国し、会盟は中止となった。


楚軍は陳の公子・黄を伴って楚に帰還した。




             *    *    *




 年が明けて周の霊王7年(紀元前565年)、魯襄公は鄬の会盟が中止した後

晋に入り、朝聘(朝見・聘問時に献上する貢物)について晋悼公に相談した。



 夏に入り、鄭では先君・鄭釐公の埋葬が終わり

鄭の群臣、公子たちは、釐公を弑逆した子駟を謀殺しようと企んだ。


4月12日、子駟は先手を打ち、子狐しこ子熙しき、子侯、子丁していを殺した。

子狐の子、孫撃と孫悪の二人は衛に出奔した。



 4月22日、晋の機嫌を取るために、鄭の子国と子耳しじが鄭軍を率いて

楚に従属する蔡に侵攻し、蔡の司馬・公子・しょうを捕える勝利を挙げて帰国した。


鄭の国人は皆喜んだが、子国の子・子産は喜ばなかった。

「小国が徳なく武功を立てた。これほどの禍はない。

蔡は楚に臣従している。楚は鄭に帥を向け、鄭は楚に服さねばならない。

そして楚に従えば、今度は晋が攻めて来る。晋楚が同時に攻めてくれば

鄭は如何にして安寧を得れば良いのだろう」


それを聞いた子国が子産を叱責した。

「国に君命あり、正卿あり。何も知らぬ童子がつまらぬ舌を動かせば、死を招くことになる」

 

後年、中国史上初の成文法を制定する

立法者・子産(公孫喬)の名が最初に登場したのがこの時である。




             *    *    *




 5月7日、晋悼公、鄭簡公、魯の季孫宿、斉の高厚、宋の向戌こうじゅつ、衛の甯殖ねいしょく

邾の大夫(名は不明)が邢丘けいきゅうで会盟を行い、晋が諸侯の大夫に朝聘の数を命じた。


この会盟で鄭簡公は蔡から奪った戦利品を晋に献上した。



 魯襄公は晋から帰国すると、魯ときょの国境策定を行った。

前年、莒がしょうを滅ぼした後、魯が鄫の旧領に侵攻した。

その後、莒が魯の東境を侵したので、かつての鄫地で莒と魯の国境を定めたのである。



 冬、楚の公子・貞(子囊)は鄭を攻撃した。鄭が蔡を侵した事への報復である。


鄭伯はまだ5歳なので、卿大夫らが方針を決めようと議論したが、主張が二分した。

子駟しし、子国、子耳しじは楚に降って帰順する事を主張して

子孔しこう子蟜しきょう子展してんは楚に抗し、晋の救援を待つよう主張した。


鄭の執政・子駟が言う。

「かつて鄭の執政を勤めた子良はこう申された。『晋楚、共に信なし。我焉んぞ信あるを得ん』

今は楚に従い、鄭民の苦難を和らげ、晋師が到着したら、それに従えば良い。

恭敬な態度で幣(貢物)を献上し、来る者を待つのが小国の生きる道である。

それで民が困窮しないのであれば、構わぬではないか」


子展がこれに反論する。

「小国が大国に仕えるには、信が必要です。小国に信がなければ、国は亡びるでしょう。

我が鄭国は晋の会盟に五度出席しながら、その信に背いたとなれば

楚と親しくしても、良い結果にはならないでしょう。

ここは守りを固め、楚を疲弊させ、信を守って晋の援軍を待つべきです」


子駟がさらに重ねて主張する。

「私は執政として、鄭人のため、楚に従う道を選ぶ。全ての罪は私が受けよう」


鄭は楚と講和した。



 子駟が大夫・王子伯駢おうじはくべんを釈明の使者として晋に送り、晋君に伝えた。

「晋君は鄭に蔡を討てと命じ、我が君はその命に従って蔡討伐を行い

蔡の司馬・燮を捕え、邢丘で晋君に献上しました。

しかし今、楚が我々を攻め『なぜ鄭は蔡に兵を用いたのか』と言っております。

楚は我が城郭を侵し、国が亡ぼうとしているのに、鄭人には訴える術がありません。

民が窮困に陥ったので、鄭は楚の盟を受け入れたのです」


晋の正卿・知罃は行人(外交官)・子員しいんを送ってこれに応えた。

「鄭君は晋君に報告する事なく楚に従った。これは鄭君が望んだ事である。

晋君は諸侯を率いて鄭の城下で会いに行くであろう」



 晋悼公が范匄はんかいを魯に送り、魯襄公の朝見に対する答礼を行った。

魯襄公が宴を開くと、范匄が席上で語る。

「間もなく晋君は鄭の城下に向かいます。魯候にも同行を願いたい」


季孫宿きそんしゅくが答礼する。

「草木に喩えるなら、魯君と晋君の関係は、花や果実に香りがあるようなもの。

喜んで命に従いましょう」




             *    *    *




 周の霊王8年(紀元前564年)春、宋で火災が起きた。


この頃の宋では楽喜がくき子罕しかん)が国政を担当していた。

宋には右師、左師、司馬、司徒、司城、司寇の6卿があり、楽喜の地位は司城で5番目だが

その賢才を以て他を圧し、宋では事実上の宰相であった。


「宋災」が起きた時、楽喜は迅速かつ適切に対処した。


大夫・伯氏に命じ、里巷りこう(民の居住地)を管轄させ

まだ火が来ていない場所に急行し、小さな家屋は破壊して

大きな家屋に泥を塗り、土・水を運ぶ道具を集め、人を配し、水を溜め、土を積み

火勢を見て人々を非難させた。


司徒・華臣に兵を与えて火災地に向かわせ

左師・向戌こうじゅつには官吏を率いさせ

司寇・楽遄がくせんには災害時の犯罪に対しての準備をさせ

司馬・皇鄖こううんに命じて馬を避難させ、車を移動させ、武器庫を守らせ

太宰・西鉏吾せいさいごに国庫を守らせ、宦官らに公宮警備を命じさせ

右師・華元には祭祀を行わせ、祝宗しゅくそうが馬を殺して四城の神を祭り

西門の外で盤庚ばんこう(宋の先祖)を祀った。




             *    *    *




 夏6月、鄭簡公が楚に朝見した。

晋が鄭を討つべく諸侯を招集しているため、楚に援けを求めたのである。


また、鄭の執政・子駟は使者に賄賂を持たせ、秦にも使者を送り

鄭、楚、秦の三国で晋を包囲する構想を提案した。


 秦景公は鄭の案に同意して、士雃しけんを楚に送り、晋への出兵を請うた。

楚共王は同意したが、冷尹の子囊が反対した。

「今の我々に晋と争う力はありません。晋君は能力に応じて人材を用いています。

告老した正卿・韓厥を知罃が継ぎ、荀偃じゅんえんより若い范匄が次卿を勤め

欒黶らんえん士魴しほうより若い韓起が上軍の佐を勤め

魏絳ぎこうは功が多いのに、趙武の賢才を認めて新軍の将とし

魏絳は自ら遠慮して新軍の佐に留まっている。

国君が賢明で、臣下は忠良で、上は譲り、下が尽力する、今の晋を敵にしてはならず

逆に楚は晋に仕える事で安全を得ることができます」


「卿の諫言は正しい。しかし、わしは楚君として秦に同意した。

楚が晋に及ばないと分かっても、出師する必要がある」



 秋、楚共王が武城に駐軍して、秦と楚が連合して晋を攻撃した


この年、晋は飢饉であったので、秦・楚の軍に反撃出来なかった。




          *    *    *




 冬10月、晋を中心とする諸侯が鄭を攻撃した。

鄭が6月に楚を朝見した事への報復である。


晋の荀罃と范匄が中軍を率い、魯の季孫宿、斉の崔杼さいじょ、宋の皇鄖こううん

これに従って、鄭都の東門を攻撃した。


晋の荀偃と韓起が上軍を率い、衛の北宮括ほくきゅうかつ、曹、邾が従って西門を攻撃した。


晋の欒黶と士魴が下軍を率い、とうせつが従って北門を攻撃した。


晋の趙武と魏絳が新軍を率い、げいが従って

道を開いて糧秣や武器を輸送するため、道の両側に植えられた栗の木を伐採した。


 

 しかし、晋は飢饉で、食糧が不足しており

秦、楚の攻撃を受けた被害も小さくなかった事から、諸侯軍の動きは精彩を欠き

鄭都・新鄭に籠る鄭兵は、10日以上に渡って三門を守り続けた。


 10月15日、晋軍は一旦引いて氾水はんすいに駐軍し、諸侯に命じた。

「武器を直し、干糧を蓄え、老幼を帰らせ、疾病のある者は虎牢に留めて癒し

過失を犯した者を赦し、鄭をさらに攻撃する」



 一方、鄭軍の被害と兵の疲労も限界に達している。

楚の救援が来るより、新鄭の陥落が先になると判断した鄭の群臣は

ここで晋との講和を求め、晋陣に使者を送った。


しかし、晋の荀偃は言った。

「我々が四軍と十の諸侯を率いて来たのは、楚と鄭を討ち、盟約を結ぶため。

鄭と和するのはまだ早い。このまま包囲を続けるべきだ。

楚が鄭の援けに来るのを待ち、楚を討たない限り

鄭が真に晋に服することはないであろう」


しかし知罃は反対した。

「ここで我々が鄭と盟約を結び、師を還せば、楚は鄭を攻撃する。

その時、諸侯と共に楚師を迎え討てば、より楽に楚に勝てる」


諸侯もこれ以上の戦いを望んでおらず、知罃の主張に同意した。




          *    *    *




 11月10日、鄭が晋に帰順したため、諸侯がで盟を結んだ。


会盟には鄭の六卿、即ち子駟、子国、子孔、子耳、子蟜、子展

および大夫と、各卿の嫡子が鄭簡公に従った。



 晋の士弱が盟約書を作って宣言した。

「この盟を誓って後、もし鄭国が晋の命を聴かず、二心を抱く事あらば

この盟約書に書かれた咎を受けるであろう」


鄭の子駟が前に進んで宣言した。

「天が鄭に禍を降し、我が国を晋・楚二大国に挟ませた。

大国に徳なく、徒に武を用いて盟約を強要する。

鄭の祖先は祭祀を受けられず、民は利を享くる事能わず、ただ痩せ衰えるのみ。

この盟を誓えば、鄭は礼と武によって我が民を守る者に従う。

もしも他意を持てば、盟約書に書かれた咎を受けるであろう」


晋の荀偃は「盟約を改めよ」と要求したが、鄭の子展は拒否した。

「盟約の内容は天も照覧の元に宣言した物。改めることは出来ません。

もし改めてしまえば、盟約には効力が無くなります」


知罃が荀偃に語る。

「我々には徳がない。人に盟約を強要する事は礼ではない。

礼なくば盟を保つ事は出来ぬ。まず盟約を結び、兵を退き、徳を修め

師を休め、然る後にまた来るべきである。いずれ我々は鄭を得るだろう」


晋は鄭と盟を結んで帰還した。




          *    *    *




 12月5日、鄭の盟約に不満な晋は、再び諸侯と共に鄭を討伐した。

鄭都の東、西、北の三門を攻撃し、南門はわざと開けて楚軍の到着を待った。


しかし、鄭が晋と盟約を結んだため、楚軍は鄭の救援に来なかった。


12月20日、晋と諸侯の軍は陰阪いんはん淯水いくすいを渡り

陰口いんこうに駐軍した後、極寒の中、それぞれの国へ帰還した。



鄭の子孔が「寒さと飢えで晋師は疲れている。これを討てば必ず勝てよう」と言った。


しかし子展は「恨みの上に、更に恨みを重ねる事となろう」と反対した。



 帰路、晋悼公は黄河で宴を開き、魯襄公に年齢を尋ねた。

季孫宿が答える。「沙隨さずいの会の年にお生まれになりました」


「では12歳か。12年を一星終(歳星が運行する周期)という。

国君は12歳で加冠の儀(成人式)を行い、子を産むことが礼である。

魯君は冠礼を行うべきである」(加冠は15歳との説もあり)


季孫宿が答礼する。

「今は国外にいるので、国君の冠礼の準備が出来ません。帰国すれば、すぐ行います」


晋悼公は同意した。




          *    *    *




 鄭は晋から攻撃を受けたが、その前に結んだ和約はまだ解消されていない。

そのため、今度は楚共王が鄭を攻撃した。


鄭の子駟は楚との講和を求めたが、子孔と子蟜が反対した。

「晋と盟約を結んだばかりで、早くも背いて宜しいのか」


続いて子駟と子展が言った。

「先の盟約で、我々は強国に従う事を誓った。

今、楚師が来たのに晋が我々を援けないのは、楚が強いからだ。

誓いに背いてはいない。大国に強制された盟約には実体はない。

会盟には信がなければならぬ。背いても問題はない」


鄭は楚と講和した。楚の公子・罷戎ひじゅうが鄭城に入って盟約を結んだ。


この時、楚共王の母が死んだので、共王は鄭を完全に鎮撫する前に兵を還した。




          *    *    *




 今の晋は飢饉で食が足りず、秦、楚からの侵攻を受け

諸侯と共に2度も鄭を攻めたため、晋人は飢え、疲れている。


晋悼公は帰国後、民を休息させる方法について群臣に尋ねた。

魏絳が施舍(民への施し)を進言したので、晋悼公並びに卿・百官らは

自らの貯えを悉く民に与え、飢渇に苦しむ民は衣食を得て、みな晋君に感謝した。


晋では財貨の流通が滞る事なく、生産が活発化し、困窮した民がいなくなった。

川沢山林が開放され、民を利したが、晋君が質素倹約に励んだので、富を貪る者はいなかった。

このため、楚は晋に抵抗する事が出来なかったという。



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