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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第七十五話 小国の苦衷

「国が亡びる」と言われますが、様々な解釈があります。

例えば、大日本帝国は太平洋戦争の敗戦で滅んだ、と司馬遼太郎が歴史エッセイに書いてます。

一方で司馬さんは「滅んだのは旧陸海軍と内務省だけ」とも別の書籍で書いてますが。

旧ソ連、旧ユーゴも滅んだと言う見解を持つ意見の方もいます。


春秋時代における、国が滅ぶ、というのは

当時の人は「社稷」が亡ぶ事を指していたようです。

「社」は土地を祭る祭壇、「稷」はその地で収穫される穀物を祭る祭壇を意味します。

転じて、国そのものを意味する言葉となり

この両祭壇が破壊される事により、国(社稷)滅ぶ、となるわけです。




          *    *    *




 陳成公が雞沢けいたくの会に参加して、楚から離反し

晋と盟約を結んだ事に対し、楚の司馬・公子・何忌かきが陳を攻撃した。

周の霊王2年(紀元前570年)冬の事である。


 許霊公は楚に帰順しており、雞沢けいたくの会に参加しなかったので

晋の中軍の佐(次卿)・荀罃じゅんおうが許に侵攻した。


晋悼公には、晋が許を攻めれば、楚が許を救うために

陳から兵を退くであろうという狙いがあった。


「晋・楚の両大国が直接に干戈を交えるのは避けるべきだ」

当事国はもとより、全ての諸侯国も、この思惑は一致している。

無論、その思惑の贄となるのは晋楚間に拠を置く小国群であるが。



 しかし、年が明けて周の霊王3年(紀元前569年)になっても

楚の公子・何忌は陳を攻撃し続け、今なお繁陽はんように駐軍している。


晋悼公は陳に侵攻する楚軍を直接討つ事を宣言したが

晋の正卿・韓厥かんけつが反対して、悼公に諫言した。

「昔、周文王は殷に背いた国を従えつつ、殷紂王に仕えました。

文王は時勢を知っていたからです。然るに、今の我々の状況はどうでしょうか。

晋には楚を帰順させる力がありません。楚に従属する陳を晋が受け入れるのは難しいでしょう」


晋悼公は正卿の諫言に従い、陳への出兵を取りやめた。



 そして春3月、陳成公が楚軍との戦いで戦死した。

陳成公の子・弱が即位した。陳の哀公である。


楚は陳の喪を知って兵を還した。



 魯の臧孫紇ぞうそんこつが陳国を評した。

「楚帥が陳から退いたのは、喪中の国を討つ事を避けたからだ。これは礼に適っている。

陳は楚に服さねば、必ず滅びるであろう。礼を行う国に帰服しなければ

いかなる国でも咎を受けるものだ」


しかし、即位した陳哀公は楚に服さず、晋に従属する立場を続けた。



 臧孫紇の予測が当たったと言うべきか

夏になると楚の彭名ほうめいが楚軍を率いて、再び陳に進攻した。

陳哀公は陳都に籠城して出ず、やがて楚軍は退いた。



陳で先君・成公が埋葬された後、隣国のとんが陳を攻撃した。

頓は楚に従属する小国で、これは楚の命による。

陳哀公は逆に頓の軍勢を撃破して、頓都まで侵攻し、これを包囲した。




          *    *    *




 魯の叔孫豹しゅくそんひょうが晋に入った。

3年前に荀罃が楚を聘問した事に対する答礼である。


晋悼公は叔孫豹を歓待し『肆夏しか(詳細不明)』三曲を金奏きんそうした。

金奏とは、鐘で奏して鼓で節をつける事を言う。叔孫豹はこれに答拝をしなかった。


悼公は続いて楽人に『文王』の三首(大雅、大明、めん)を歌わせたが、叔孫豹は答拝しない。

鹿鳴ろくめい』の三首(鹿鳴、四牡しぼ皇皇者華こうこうしゃか)を歌うと、叔孫豹は三拝した。


韓厥が叔孫豹に尋ねた。

「我が君は卿に楽を献じたが、卿は大を棄て、小を拝した。

これは如何なる礼によるものか」


「『肆夏』三曲は天子が諸侯の伯(覇者)をもてなす曲、臣が聞くべきではない。

『文王』は国君同士が相見した時の楽、やはり臣が関わってはならない。

『鹿鳴』は国君が使者の主君を嘉するための楽。よってこれを拝した」


晋悼公と韓厥は「魯は今なお国祖・周公旦しゅうこうたんの風が伝わっている」と感嘆した。



 冬には魯襄公が晋に行き、朝見や幣(貢物)等について尋ねた。


諸侯は覇者の国に対し、貢物を納め、事あらば朝見する決まりがある。

かつて周王の勢い盛んであった頃は、諸侯は王に納めていたが

今や、夷狄の襲来から諸侯を守り、国同士の諍いを調停する力は

晋がその役割を担う事となって、すでに久しい。



晋悼公は宴を開いて魯襄公をもてなすと、魯候は

魯に隣接する小国のしょうを魯の附庸国にする事を晋候に請うた。


だが、晋悼公はこれを拒否したため、魯の仲孫蔑ちゅうそんべつが言った。

「魯は斉、楚の二大国に接していますが、魯は晋に背いた事はありません。

鄫国は貴国に賦(税)を納めた事はありませんが、魯には事あるごとに賦を要求しています。

魯は小国ゆえ、その要求に応えられず、罪を得る事になるでしょう。

我が君は、鄫の助けを借りたいと願っているのです」


晋悼公は同意した。




                *    *    *




 悼公が晋君に就いて、晋の勢いは盛んになり、その名声は戎にも届いたという。


山戎さんじゅうにある無終国むしゅうこくの君主・嘉父かふ孟楽もうがくを晋に派遣し

戎と交流のある魏絳ぎこうを通じ、虎豹こひょうの皮を晋君に献上して

晋と、戎の諸侯との講和を望んだ。


晋悼公が魏絳に語る。

「戎狄は信用ならず、かつ貪婪である。和するより討伐すべきである」


魏絳がこれに反対した。

「戎に師を用いてこれを討ち、代わりに諸侯を失えば、獣を得て人を失うようなものです。

戎狄の族は定住せぬ者が多く、財貨を重視して、土地を軽んじています。

これに財貨を与えて土地を得れば、戎狄と接する国境の農民が安んじます。

戎狄と講和して、これを晋に仕えさせれば、諸侯は晋を畏れるでしょう」


悼公は魏絳の進言を容れ、魏絳を戎狄に派遣して諸戎を鎮撫させた。

結果、諸戎の脅威は消え、晋悼公は伯(覇者)の地位に登壇した。




            *    *    *




 冬10月、ちゅうきょが魯の附庸国となった鄫を攻めたので

魯の臧孫紇ぞうそんきつが鄫を援けるために邾に進攻したが、狐駘こたいで敗れた。


この敗戦による魯の戦死者は多く、魯の国人は(婦人が喪に服す時の髪型)で

魯軍を出迎え、臧孫紇を謗って歌を作ったという。


  「臧之狐裘 敗我于狐駘 我君小子 朱儒是使 朱儒朱儒 使我敗于邾」

(臧孫紇は狐裘こきゅう(高級な衣類)を着て、狐駘で我々を敗れさせた。

我が君は幼いため、朱儒しゅじゅ(背の低い者。臧孫紇への揶揄)を使う。

朱儒が我々を使って邾に負けさせたのだ)



その後も邾と莒は頻繁に鄫を攻撃するため

魯は鄫を属国にした事を後悔するようになった。




        *    *    *




 戎狄は晋に鎮撫されたが、周王室の所轄する畿内では

収穫期になると、戎族からの侵攻、掠奪を受けていたので

周の霊王4年(紀元前568年)春、周霊王は晋に戎狄討伐を命じるため

卿士・王叔陳生おうしゅくちんせいを晋に派遣した。


しかし、晋は前年に狄と和したので、周王の命を奉じれば

盟約を破棄する事になるため、晋悼公は王叔陳生を捕えた。


卿士を収攬した事に怒った周霊王は、問責の使者を晋に派遣した。


晋は王に釈明するため、士魴しほうを京師(周都・洛邑)に送り

「王叔陳生は戎に対して二心を抱いており、使者としての使命を疎かにしました」

と周王に報告した。


周霊王は晋と長く不和になる事を由とせず、釈明を受け入れた。


ほどなく王叔陳生は釈放され、周都に帰還したが

周霊王は、王叔陳生が狄と通じている疑惑を拭い切れていない。




        *    *    *




 夏、鄭釐公は公子・発(子国)に命じて魯を聘問させた。

鄭伯の即位を報告するためである。


魯の叔孫豹と鄫国の太子・が晋に行った。

晋悼公は鄫国を正式に魯の附庸国と認めた。



 呉王・寿夢じゅぼうが大夫・寿越じゅえつを晋に派遣した。


寿越は晋悼公に謁見し、二年前の雞沢の会に参加しなかった事を謝罪した。

「呉は中原から遠く、長雨、大水で会盟の地に向かえない事情をご理解ください。

呉君は以前より、晋候に従い、諸侯との盟約、交流を結ぶ事を強く望んでおいでです」



晋は呉のために諸侯を招集し、会盟を行う事にした。


最初に魯と衛に命じて呉と会見させ

魯の仲孫蔑ちゅうそんべつと衛の孫林父そんりんぽ善道ぜんどうで寿越と面会した。




                *    *    *




 陳が楚に背いて晋と和した事について、楚は陳を譴責し、その理由を問い糾した。


「楚の令尹れいいんの公子・壬夫じんゆう子辛ししん)が貪婪で私欲に奔り

陳から激しく搾取したため、陳人が耐えられなくなったからである」

と、陳哀公は訴えた。


楚共王は陳の訴えを調べると、果たして事実であったため、冷尹・子辛を誅殺した。

新たな冷尹には共王の弟である公子・貞(子嚢しじょう)を任命した。


しかし、陳は楚に服従せず、晋の会盟に出席した。



 9月23日、戚の地で諸侯の会盟が行われた。

晋悼公、魯襄公、宋平公、陳哀公、衛献公、鄭釐公、曹成公、滕成公

莒君、邾君、薛君、斉の公子・光、鄫人、呉の大夫・寿越が

呉と諸侯の交流のために招集された。


魯の叔孫豹は、鄫を魯の属国にしても利がないと判断して

鄫を諸侯の扱いにして、会盟に参加させた。


この会で、晋悼公は諸侯に対し、陳を楚の侵攻から守る事を命じた。


晋の范匄はんかいが言った。

「楚は賢臣と評判の子囊を冷尹に任じた。子辛の悪風を改め、楚は陳を討伐するであろう。

陳は楚に接し、陳民は朝も夕も楚を警戒し、心休まる時がない。いずれ楚に帰順する。

陳は晋から遠く、これを守るのは諸侯の任であるから、陳を手放した方が晋のためだ」



 冬、晋の命を受けた諸侯が兵を出して陳の守備に入った。

ほどなく楚の子囊が陳を攻撃した。


11月12日、晋悼公、魯襄公、宋平公、衛献公、曹成公、滕成公

莒君、邾君、薛君、斉の公子・光が城棣じょうていに集まり、陳の救援に向かった。


楚の子囊は陳から兵を退き、楚に帰還した。




         *    *    *




 12月20日、魯の上卿・季孫行父が亡くなったので

大夫の葬礼に従い、魯襄公は自ら葬儀に参加した。


季孫氏の家宰が家中の器物を集めて葬具を準備した。

妾には帛(絹)を着ている者がなく、馬には余分な餌がなく

金玉財宝の蓄えもなく、同じ器物が複数あるということもなかった。

魯の君子は、季孫行父が三代の魯君(宣公・成公・襄公)に仕えながら

財を貯めず、節倹を貫いた忠心を称えたという。



生前、季孫行父の質素な暮らしに関する逸話がある。


仲孫蔑の子・仲孫它ちゅうそんたが季孫行父の貧しい暮らしを諫めた事があった。

「季孫子は魯の上卿であり、二君の相を勤めてきました。

妾が帛を着ることなく、馬が粟を食べる事のない貧しい暮らしぶりでは

人々は卿を吝嗇だと謗って、国も栄華を損なうことになりませんか」


これに対し、季孫行父は応えた。

「私も華侈でありたいと思う。しかし魯の国人の様子を観ると

多くの者は粗末な物を食べ、粗末な服を着ているので、奢侈な暮らしが出来ない。

国人が貧しい暮らしをしているのに、私が贅沢をすれば

国君の相として相応しいとは言えないであろう。

徳によって国に栄華を齎す事はあっても

卿位にある者が贅沢な暮らしで国の栄華を誇示するとは聞いた事がない」


後に季孫行父がこの事を仲孫蔑に話すと、仲孫蔑は仲孫它を拘束して

牢に七日間放り込んで反省を促した。

その後、仲孫它は季孫行父に倣い、質素な暮らしにした。


季孫行父は「過ちを知り、改める事が出来る者は、民の上に立つ事が出来る」

と言い、仲孫它を上大夫に抜擢した。




         *    *    *




 周の霊王5年(紀元前567年)春3月2日、杞桓公が崩御した。

その在任期間は70年に及び、西周時代の国君では最長と思われる。

杞桓公一代の間、晋では恵公から悼公まで、実に9人の晋君が就いたのである。

桓公の子・かいが即位した。杞孝公である。



 宋に、華弱かじゃく楽轡がくひ子蕩しとう)と言う大夫がいる。

この両者は、幼時には親しかったが

長じるに及んで互いに貶し、中傷するようになったという。


ある日の朝廷で、両者が口論となり、楽轡が怒って弓を華弱の首にかけ、枷のようにした。

それを見た宋平公が言った。

「華弱は司馬(軍監)でありながら朝廷で首枷をつけられるとは。

我が国が他国に勝利するのは困難であろう」


夏、宋平公は華弱を宋から追放し、華弱は魯に出奔した。



 司城・子罕しかんが宋平公に諫言した。

「同罪なのに罰が異なるようでは、刑とはいえません。

朝廷で人を辱めるのは、朝廷で首枷をつけられるより大きな罪です」


子罕は楽轡も追放しようとしたため、楽轡は子罕の屋敷の門に矢を射た。

「汝がわしを追放するなら、汝もわしを追い、追放されるであろう」

子罕は楽轡を恐れ、楽轡の追放を中止した。




         *    *    *




 秋、莒が魯の属国・鄫を滅ぼした。

鄫が滅亡した理由は賄賂に頼ったせいだと言われている。


二年前、邾が鄫を攻めたので、魯は鄫を援けるために出兵した。

以降、邾と魯は敵対していたが、鄫が滅んだため

両国が争う理由もなくなったので、魯の叔孫豹が邾を聘問し、魯と邾は和解した。


鄫が亡んだのは、魯、莒、邾などに賄賂を贈って防備を怠り

鄫君が油断していたせいかもしれない。



 盟約上、魯は鄫を属国にしていたため

晋が魯に鄫滅亡の責任を問い、魯討伐の準備をした。


魯襄公は晋に釈明するため、前年死んだ季孫行父の子・季孫宿きそんしゅくを晋に送った。


季孫宿は晋悼公に告げた。

「鄫君は多くの国に賄賂を贈り、礼を喪い、徳を損ね、自ら滅びました。

晋が魯の罪を問うのであれば、臣の身一つで魯の罪に対する裁きを受けましょう」


晋悼公は魯を赦し、季孫宿は魯へ帰国した。




       *    *    *




 これより3年前、斉の将・晏弱が萊国を攻めるため、東陽に城を築いた。

そして、昨年の夏4月から斉軍は萊国を包囲し続けている。

莱城の周囲には土山が造られ、ちょう(城壁の低くなった部分)の高さに迫った。


 萊城が包囲されて1年近くが経過した、3月15日

籠城に耐えられなくなった莱軍が斉軍を攻撃した。


萊城から斉軍に突撃するのは、斉から莱に亡命していた王湫おうしゅう

莱の大夫・正輿子せいよしが、莱城から東南の邑、とうの兵を率いて

斉軍の後背から攻撃したが、晏弱はこれを迎撃し、斉軍が大勝した。


3月27日、斉軍が萊に入城した。萊共公・浮柔ふじゅうは棠に逃げた。

敗れた正輿子と王湫は莒に逃亡したが、莒君は二人を殺した。


4月には斉の大夫・陳無宇ちんむうが萊の宗器を斉霊公に献上した。

晏弱は斉軍を率いて萊共公の籠る棠を包囲した。


12月、棠が陥落して、莱国は滅亡した。


萊の民はげいに遷された。旧莱国の土地は斉の群臣に分配され

高厚こうこう崔杼さいじょが土地を分割して境界を定めた。


莱討滅の功労者である晏弱には夷維いい(現在の山東省青州市高密県)

が邑として与えられ、大夫から卿の地位に昇進したと思われる。



4年前に莱は斉の攻撃を受け、霊公の寵臣・夙沙衛しゅくさえいに賄賂を贈って難から逃れた。

その後も莱は国の守備を怠り、賄賂で戦いを回避できると考えていたらしい。


鄫も莱も小国であったが、いずれも賄賂に奔り、防備を怠って滅んだ事は共通している。


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