第七十四話 鄭、晋に服す
春秋時代の諸侯同士による会盟は
現代で言うなら、国連総会とサミットを足したようなものでしょう。
話合いで決めると言っても、結局のところ、最も強い国が主導して方針を決定するのは
古今東西で変わらない光景です。
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春秋時代も半ばに達し、周建国より500年近くが経過して
周初、周公旦によって定められた周の礼法は年々廃れ、忘れられていく。
周の霊王元年(紀元前571年)春正月、前年9月に崩御した周簡王が埋葬されたが
周王は天子であるから、通常は死後7ヶ月を経てから埋葬されるのが本来の礼である。
天子に礼が失われれば、身分秩序の上で、その下に属する
諸侯、卿大夫、士、庶人などは推して知るべし。
年が明けて早々、またもや鄭が宋へと侵攻した。
周室に憚らず王号を自称して久しい、楚王の命による。
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戦乱は東方にも起こった。斉霊公が萊を攻撃したのである。
萊国に侵攻する斉軍を率いる将は、大夫・晏弱である。
萊の君主・共公は大夫・正輿子を斉に派遣して
良質な馬・牛を百頭ずつ、賄賂として霊公の寵臣・夙沙衛に贈った。
夙沙衛は霊公に撤兵を勧めたため、霊公は兵を退いた。
夏5月18日、魯成公夫人・斉姜が亡くなった。
「斉姜」という名は「斉国で生まれた姜姓の女性」という意味である。
夫人は斉から嫁いだ女性であった関係から、斉霊公は
諸姜(斉の大夫に嫁いだ姜姓の女性)と宗婦(姜姓の大夫の妻)を魯に送り
斉姜の葬儀に参加させたという。
この時、斉霊公は、萊共公にも魯の葬儀への参加を求めた。
莱も姜姓の国である事から、莱の君主を諸姜、宗婦と同列に扱い、侮辱するつもりであった。
萊共公はこの要求を拒否したので、斉霊公は再び晏弱に萊攻めを命じた。
晏弱は莱を力攻めにせず、長期に渡って圧力を加えるため、東陽に城を築いた。
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鄭は楚と盟約を結んでいるが、実質は属国も同然の扱いを受けている。
無論、鄭に限った事ではなく、楚に従属する小国いずれも過酷な要求に苦しめられている。
楚共王は恭敬な態度で諸侯と接し、特に鄢陵の役で大敗を喫してからは
なお一層、身を慎むようになったが、臣下が全て王に倣うわけではない。
楚の右司馬に任じられた公子・申は、自らの地位を利用して
小国に対し、頻繁に賄賂を要求している。
6月に入って、鄭成公が病に罹った。
鄭の政治を担う公子・騑(子駟)は、楚との盟約を断って
晋と結ぶことを成公に勧めたが、成公は拒否した。
「楚君は鄢陵で鄭のために戦い、片目を喪った。これはわしの罪である。
鄭が楚から離反すれば、楚の功と約を棄てる事になろう」
秋7月9日、鄭成公が薨去した。子の髡頑が鄭伯に就いた。鄭釐公である。
鄭釐公は幼君であったので、公子・喜(子罕)が鄭君に代わって国政を担当し
子駟は引き続き執政となり、公子・発(子国)が司馬になった。
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鄭成公が薨去した時期を狙い、衛の卿・甯殖が
晋、宋の軍と協力して鄭に侵攻した。
晋と宋の将の名は不明であるが、卿の地位にある甯殖が軍を率いた事から
共に大夫以下の身分と思われる。
18年前、衛穆公が薨去した時、鄭成公と楚が喪中の衛を攻撃した事があり
この出兵はその報復であった。
衛、晋、宋の連合軍から攻撃を受けた鄭では
これを機に、晋に服従すべきであるという意見が出たが、執政・子駟は拒否した。
「先君の遺命がある。鄭は楚に従う」
鄭の司馬・子国が鄭軍を率いて連合軍と戦い、これを破った。
晋の次卿・荀罃、魯の卿・仲孫蔑、宋の宰相・華元
衛の執政・孫林父、それに曹と邾の大夫が戚で会盟を行った。
議題は鄭への対応であるが、会盟を主催する荀罃は、喪中の鄭を攻める事に躊躇いがある。
それを察した仲孫蔑が提案した。
「虎牢の地に城を築き、鄭に圧力を加えよう。
それで鄭が降り、諸侯と盟を結べば良し。抗するなら、帥(軍)を用いざるを得ない」
荀罃が同意した。
「前年の鄫の会盟で、斉の崔杼は晋に不満を述べた。
此度、斉は参加せず、斉より威圧を受ける滕、薛、小邾も来ぬ。
晋君は、楚、鄭、斉が組む事で、中原を乱す脅威になると憂いておられる。
虎牢の築城は、斉にも参加を要請するよう、我が君から斉候にお願いいたす。
もし、斉が要請に応じなかった場合、斉君は帥に頼る事となるであろう」
諸侯は解散して、荀罃は晋に帰国し、晋悼公に報告して
斉霊公に対し、次の会盟への参加を促すように進言した。
冬になり、諸侯が再び戚で会見した。
晋の荀罃、魯の仲孫蔑、宋の華元、衛の孫林父、曹、邾に加えて
今回は晋を恐れた斉の崔杼と滕、薛、小邾も参加した。
諸侯が虎牢の地に城を築き、鄭に圧力をかけると
ほどなく、鄭が晋に講和を求めた。
荀罃は、仲孫蔑の機転で鄭に兵を用いる事なく和を結べた事に感謝した。
* * *
12月、楚の公子・申は右司馬の地位に満足せず
冷尹・子重や右尹・子辛を失脚させ、楚の政権を握ろうとした。
楚共王はこれを知り、公子・申を誅殺した。
周の霊王2年(紀元前570年)春、楚の子重が呉を攻撃した。
子重は呉を討ち、鳩玆で勝利して衡山に進み
そこで鄧廖を将として組甲(兵車の士)300人と歩兵3000人を率いて呉に侵攻した。
しかし、呉軍は途中で待ち伏せをして楚軍を迎撃し、鄧廖は戦死した。
逃げ延びたのは僅かに組甲の士80、歩兵300のみであったという。
この三日後、呉軍は楚の領内に侵攻して、駕を占領した。
この敗戦の時、すでに子重は帰国しており、楚の祖廟で杯を挙げていたので
楚の君子人は「駕は良邑、鄧廖は良将。子重が得た物より、楚が失った物の方が大きい」
と非難したため、子重は心を病んで死んだ。
子重に代わり、子辛が楚の冷尹となった。
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魯襄公が晋に朝見に行った。まだ6歳なので卿大夫が魯候を補佐した。
夏4月25日、魯襄公と晋悼公が晋地の長樗で盟約を結んだ。
魯の仲孫蔑が襄公の相(補佐役)を勤める。
魯襄公は稽首(頭が地につくまで下げる礼)すると、荀罃が言った。
「稽首を行う相手は、ただ周の天子のみ。我が君は畏れ多くて、受け入れられないと仰せです」
仲孫蔑が言う。
「魯は東方にあり、楚、斉、呉などの大国と接しています。
国を守るには晋君こそ頼りなので、稽首しないわけには参りません」
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前年の晋は、楚に長く従属してきた鄭を服従させた。
次に晋は呉と盟約を結ぶべきであると考え、諸侯を招集して会盟を行う事にした。
これに先立ち、晋悼公は范匄を斉に送った。
「我が君が臣を斉に遣わしたのは、近頃、諸侯同士の諍いが増えて
楚に対する備えを怠っている。そこで諸侯の和を乱す者の処分について
諸侯らと語り合おう、と申されたからです。
まず、斉候と臣で盟を結ばれては如何でしょうか」
斉霊公は、国君と卿が盟約を結ぶのは屈辱と感じたため、拒否しようとしたが
范匄は晋悼公の送った使者であるため、機嫌を損ねる事は出来ないと判断して
斉都・臨淄に近い耏外で霊公は范匄と盟を結んだ。
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晋の中軍尉・祁奚が、高齢のため告老(引退)を申し出た。
悼公は、次の中軍尉は誰が良いか祁奚に尋ねると
「解狐が宜しいでしょう」と答えた。
「汝は解狐を嫌っていたものとばかり思っておった」
「元より、仲は良くございません。しかし、臣に代わって中軍尉が勤まるのは
解狐しかおりません。臣の好悪より、国を守る事を優先した人選です」
晋悼公は祁奚の私心のなさに感動した。
しかし、解狐は任官する前に死んだので、悼公は再び祁奚に尋ねると
「祁午がいいでしょう」と答えた。祁午は祁奚の子である。
同じ頃、祁奚を補佐していた羊舌職も高齢で死んだので
晋悼公が祁奚に三度尋ねたところ
「羊舌赤が適任です」と答えた。羊舌職の子である。
かくして、中軍尉は祁奚から祁午に、補佐は羊舌職から羊舌赤に代わった。
中軍尉となった祁午が生きている間、晋で誤った政令が発せられる事はなかったという。
晋人は「祁奚は敵する者の能力を認め、自分の子でも能力があれば遠慮なく薦める」
と言って称賛した。
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夏6月23日、周の卿士・単公、晋悼公、魯襄公、宋平公、衛献公、鄭釐公
それに莒君、邾君、斉の公子・光が会し、雞沢で盟約を結んだ。
晋は呉とも盟約を結ぶ予定で、荀会を淮水の北に向わせ
呉王・寿夢を迎え入れようとしたが、呉王は来なかった。
雞沢の盟で晋悼公は、布命(朝見・聘問の頻度などに関する決め事)
結援(国難に遭った場合の救援について)、修好(友好関係の確認)
申盟(改めて盟約を宣言すること)を行った。
楚の子辛が令尹になってから、周辺の小国に対する搾取が更に厳しくなったため
楚の圧力に耐えられなくなった陳成公は、袁僑を雞沢に派遣して
晋悼公に面会し、陳と晋の講和を提示した。
晋悼公は和祖父を陳に送り、諸侯に陳の帰順を宣言した。
秋7月13日、諸侯の大夫が陳の袁僑と盟約を結び、雞沢の盟は締結した。
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晋悼公が雞沢から晋に帰国する途上で、悼公の弟・揚干が
曲梁の地で軍列を乱したため、中軍司馬・魏絳が揚干の御者を処刑した。
晋悼公は怒って羊舌赤に言った。
「我が弟の揚干が侮辱された。魏絳を処刑せよ」
羊舌赤が言上した。
「魏絳は二心なく、君に仕えて難を避けず、罪あれば刑から逃げぬ者です。
自ら説明に来るはずです。君命を発するまでもありません」
間もなく魏絳が悼公の前に現れ、悼公の従僕に書を届けた後
剣を抜いて自害しようとしたので、士魴と張孟が止めた。
以下、魏絳の書の内容。
「臣は君命により、司馬に任じられました。
君が諸侯を糾合しながら、臣が不敬で良いはずはありません。
軍紀を守らない者に対し、司馬が罰しないのは不敬であるため
已む無く刑を用いた結果、揚干を侮辱する事になりました。
臣はこの大罪に服し、死をもって君に償わせて頂きます」
書を読んだ悼公は裸足で飛び出して魏絳に言った。
「わしの言は親愛による。汝の行は軍礼による。
弟の教導を誤り、軍紀を犯す事となったのは、我が過ちである。
汝が自害すれば、我が過ちは更に大きくなる。死んではならぬ」
悼公は晋に帰国すると、魏絳を卿に昇進させ、新軍の佐に任命した。
後任の中軍司馬は張孟、候奄には范鞅が任命され
趙武が新軍の将に任じられた。