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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第七十四話 鄭、晋に服す

春秋時代の諸侯同士による会盟は

現代で言うなら、国連総会とサミットを足したようなものでしょう。


話合いで決めると言っても、結局のところ、最も強い国が主導して方針を決定するのは

古今東西で変わらない光景です。




                    *    *    *




 春秋時代も半ばに達し、周建国より500年近くが経過して

周初、周公旦しゅうこうたんによって定められた周の礼法は年々廃れ、忘れられていく。


周の霊王元年(紀元前571年)春正月、前年9月に崩御した周簡王が埋葬されたが

周王は天子であるから、通常は死後7ヶ月を経てから埋葬されるのが本来の礼である。


天子に礼が失われれば、身分秩序の上で、その下に属する

諸侯、卿大夫、士、庶人などは推して知るべし。



 年が明けて早々、またもや鄭が宋へと侵攻した。

周室に憚らず王号を自称して久しい、楚王の命による。




           *    *    *




 戦乱は東方にも起こった。斉霊公がらいを攻撃したのである。

萊国に侵攻する斉軍を率いる将は、大夫・晏弱あんじゃくである。


 萊の君主・共公は大夫・正輿子せいよしを斉に派遣して

良質な馬・牛を百頭ずつ、賄賂として霊公の寵臣・夙沙衛しゅくさえいに贈った。

夙沙衛は霊公に撤兵を勧めたため、霊公は兵を退いた。



 夏5月18日、魯成公夫人・斉姜せいきょうが亡くなった。

「斉姜」という名は「斉国で生まれた姜姓の女性」という意味である。


夫人は斉から嫁いだ女性であった関係から、斉霊公は

諸姜(斉の大夫に嫁いだ姜姓の女性)と宗婦(姜姓の大夫の妻)を魯に送り

斉姜の葬儀に参加させたという。


この時、斉霊公は、萊共公にも魯の葬儀への参加を求めた。

莱も姜姓の国である事から、莱の君主を諸姜、宗婦と同列に扱い、侮辱するつもりであった。


萊共公はこの要求を拒否したので、斉霊公は再び晏弱に萊攻めを命じた。


晏弱は莱を力攻めにせず、長期に渡って圧力を加えるため、東陽に城を築いた。




              *    *    *



 

 鄭は楚と盟約を結んでいるが、実質は属国も同然の扱いを受けている。

無論、鄭に限った事ではなく、楚に従属する小国いずれも過酷な要求に苦しめられている。


楚共王は恭敬な態度で諸侯と接し、特に鄢陵えんりょうの役で大敗を喫してからは

なお一層、身を慎むようになったが、臣下が全て王に倣うわけではない。

楚の右司馬に任じられた公子・しんは、自らの地位を利用して

小国に対し、頻繁に賄賂を要求している。



 6月に入って、鄭成公が病に罹った。

鄭の政治を担う公子・子駟しし)は、楚との盟約を断って

晋と結ぶことを成公に勧めたが、成公は拒否した。


「楚君は鄢陵で鄭のために戦い、片目を喪った。これはわしの罪である。

鄭が楚から離反すれば、楚の功と約を棄てる事になろう」



 秋7月9日、鄭成公が薨去した。子の髡頑こんがんが鄭伯に就いた。鄭釐公である。


鄭釐公は幼君であったので、公子・喜(子罕しかん)が鄭君に代わって国政を担当し

子駟は引き続き執政となり、公子・発(子国)が司馬になった。




             *    *    *




 鄭成公が薨去した時期を狙い、衛の卿・甯殖ねいしょく

晋、宋の軍と協力して鄭に侵攻した。

晋と宋の将の名は不明であるが、卿の地位にある甯殖が軍を率いた事から

共に大夫以下の身分と思われる。


18年前、衛穆公が薨去した時、鄭成公と楚が喪中の衛を攻撃した事があり

この出兵はその報復であった。


 衛、晋、宋の連合軍から攻撃を受けた鄭では

これを機に、晋に服従すべきであるという意見が出たが、執政・子駟は拒否した。

「先君の遺命がある。鄭は楚に従う」


鄭の司馬・子国が鄭軍を率いて連合軍と戦い、これを破った。



 晋の次卿・荀罃じゅんおう、魯の卿・仲孫蔑ちゅうそんべつ、宋の宰相・華元かげん

衛の執政・孫林父そんりんぽ、それに曹とちゅうの大夫が戚で会盟を行った。


議題は鄭への対応であるが、会盟を主催する荀罃は、喪中の鄭を攻める事に躊躇いがある。


それを察した仲孫蔑が提案した。

虎牢ころうの地に城を築き、鄭に圧力を加えよう。

それで鄭が降り、諸侯と盟を結べば良し。抗するなら、帥(軍)を用いざるを得ない」


荀罃が同意した。

「前年のしょうの会盟で、斉の崔杼さいじょは晋に不満を述べた。

此度、斉は参加せず、斉より威圧を受けるとうせつ小邾しょうちゅも来ぬ。

晋君は、楚、鄭、斉が組む事で、中原を乱す脅威になると憂いておられる。

虎牢の築城は、斉にも参加を要請するよう、我が君から斉候にお願いいたす。

もし、斉が要請に応じなかった場合、斉君は帥に頼る事となるであろう」



 諸侯は解散して、荀罃は晋に帰国し、晋悼公に報告して

斉霊公に対し、次の会盟への参加を促すように進言した。



 冬になり、諸侯が再び戚で会見した。

晋の荀罃、魯の仲孫蔑、宋の華元、衛の孫林父、曹、邾に加えて

今回は晋を恐れた斉の崔杼と滕、薛、小邾も参加した。



諸侯が虎牢の地に城を築き、鄭に圧力をかけると

ほどなく、鄭が晋に講和を求めた。


荀罃は、仲孫蔑の機転で鄭に兵を用いる事なく和を結べた事に感謝した。




            *    *    *




 12月、楚の公子・申は右司馬の地位に満足せず

冷尹れいいん・子重や右尹ゆういん子辛ししんを失脚させ、楚の政権を握ろうとした。

楚共王はこれを知り、公子・申を誅殺した。



 周の霊王2年(紀元前570年)春、楚の子重が呉を攻撃した。

子重は呉を討ち、鳩玆きゅうじで勝利して衡山こうざんに進み

そこで鄧廖とうりょうを将として組甲(兵車の士)300人と歩兵3000人を率いて呉に侵攻した。


しかし、呉軍は途中で待ち伏せをして楚軍を迎撃し、鄧廖は戦死した。

逃げ延びたのは僅かに組甲の士80、歩兵300のみであったという。

この三日後、呉軍は楚の領内に侵攻して、を占領した。


この敗戦の時、すでに子重は帰国しており、楚の祖廟で杯を挙げていたので

楚の君子人は「駕は良邑、鄧廖は良将。子重が得た物より、楚が失った物の方が大きい」

と非難したため、子重は心を病んで死んだ。


子重に代わり、子辛が楚の冷尹となった。




            *    *    *




 魯襄公が晋に朝見に行った。まだ6歳なので卿大夫が魯候を補佐した。


 夏4月25日、魯襄公と晋悼公が晋地の長樗ちょうちょで盟約を結んだ。

魯の仲孫蔑ちゅうそんべつが襄公の相(補佐役)を勤める。


 魯襄公は稽首けいしゅ(頭が地につくまで下げる礼)すると、荀罃じゅんおうが言った。

「稽首を行う相手は、ただ周の天子のみ。我が君は畏れ多くて、受け入れられないと仰せです」


仲孫蔑が言う。

「魯は東方にあり、楚、斉、呉などの大国と接しています。

国を守るには晋君こそ頼りなので、稽首しないわけには参りません」




            *    *    *




 前年の晋は、楚に長く従属してきた鄭を服従させた。

次に晋は呉と盟約を結ぶべきであると考え、諸侯を招集して会盟を行う事にした。


これに先立ち、晋悼公は范匄はんかいを斉に送った。

「我が君が臣を斉に遣わしたのは、近頃、諸侯同士の諍いが増えて

楚に対する備えを怠っている。そこで諸侯の和を乱す者の処分について

諸侯らと語り合おう、と申されたからです。

まず、斉候と臣で盟を結ばれては如何でしょうか」


斉霊公は、国君と卿が盟約を結ぶのは屈辱と感じたため、拒否しようとしたが

范匄は晋悼公の送った使者であるため、機嫌を損ねる事は出来ないと判断して

斉都・臨淄りんしに近い耏外じがいで霊公は范匄と盟を結んだ。




            *    *    *




 晋の中軍尉・祁奚きけいが、高齢のため告老(引退)を申し出た。

悼公は、次の中軍尉は誰が良いか祁奚に尋ねると

解狐げこが宜しいでしょう」と答えた。


「汝は解狐を嫌っていたものとばかり思っておった」


「元より、仲は良くございません。しかし、臣に代わって中軍尉が勤まるのは

解狐しかおりません。臣の好悪より、国を守る事を優先した人選です」


晋悼公は祁奚の私心のなさに感動した。


しかし、解狐は任官する前に死んだので、悼公は再び祁奚に尋ねると

祁午きごがいいでしょう」と答えた。祁午は祁奚の子である。


同じ頃、祁奚を補佐していた羊舌職ようぜつしょくも高齢で死んだので

晋悼公が祁奚に三度尋ねたところ

羊舌赤ようぜつせきが適任です」と答えた。羊舌職の子である。


かくして、中軍尉は祁奚から祁午に、補佐は羊舌職から羊舌赤に代わった。

中軍尉となった祁午が生きている間、晋で誤った政令が発せられる事はなかったという。


晋人は「祁奚は敵する者の能力を認め、自分の子でも能力があれば遠慮なく薦める」

と言って称賛した。




               *    *    *




 夏6月23日、周の卿士・単公ぜんこう、晋悼公、魯襄公、宋平公、衛献公、鄭釐公

それに莒君、邾君、斉の公子・光が会し、雞沢けいたくで盟約を結んだ。


晋は呉とも盟約を結ぶ予定で、荀会じゅんかい淮水わいすいの北に向わせ

呉王・寿夢じゅぼうを迎え入れようとしたが、呉王は来なかった。


雞沢の盟で晋悼公は、布命(朝見・聘問の頻度などに関する決め事)

結援(国難に遭った場合の救援について)、修好(友好関係の確認)

申盟(改めて盟約を宣言すること)を行った。



 楚の子辛が令尹になってから、周辺の小国に対する搾取が更に厳しくなったため

楚の圧力に耐えられなくなった陳成公は、袁僑えんきょうを雞沢に派遣して

晋悼公に面会し、陳と晋の講和を提示した。


晋悼公は和祖父わそふを陳に送り、諸侯に陳の帰順を宣言した。


秋7月13日、諸侯の大夫が陳の袁僑と盟約を結び、雞沢の盟は締結した。




               *    *    *




 晋悼公が雞沢から晋に帰国する途上で、悼公の弟・揚干ようかん

曲梁きょくりょうの地で軍列を乱したため、中軍司馬・魏絳ぎこうが揚干の御者を処刑した。


晋悼公は怒って羊舌赤に言った。

「我が弟の揚干が侮辱された。魏絳を処刑せよ」


羊舌赤が言上した。

「魏絳は二心なく、君に仕えて難を避けず、罪あれば刑から逃げぬ者です。

自ら説明に来るはずです。君命を発するまでもありません」


間もなく魏絳が悼公の前に現れ、悼公の従僕に書を届けた後

剣を抜いて自害しようとしたので、士魴しほう張孟ちょうもうが止めた。



                 以下、魏絳の書の内容。

             「臣は君命により、司馬に任じられました。

        君が諸侯を糾合しながら、臣が不敬で良いはずはありません。

        軍紀を守らない者に対し、司馬が罰しないのは不敬であるため

        已む無く刑を用いた結果、揚干を侮辱する事になりました。

        臣はこの大罪に服し、死をもって君に償わせて頂きます」



書を読んだ悼公は裸足で飛び出して魏絳に言った。

「わしの言は親愛による。汝の行は軍礼による。

弟の教導を誤り、軍紀を犯す事となったのは、我が過ちである。

汝が自害すれば、我が過ちは更に大きくなる。死んではならぬ」



悼公は晋に帰国すると、魏絳を卿に昇進させ、新軍の佐に任命した。

後任の中軍司馬は張孟、候奄こうえんには范鞅はんおうが任命され

趙武が新軍の将に任じられた。


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