第七十三話 悼公、晋を治む
* * *
晋国では、太子を除く全ての公子は国外に出奔する決まりがある。
正卿・欒書に弑逆された晋君・厲公には太子がなかった。
そこで荀罃と士魴(士燮の弟)を周都に送り
14歳の公孫周(晋襄公の曾孫)を新たな晋君に擁立すべく、晋に迎え入れた。
公孫周には兄がいるが、豆と麦の判別も利かぬ虚けで、国君に選ばれなかった。
晋と周の境界にあたる清原の地で、晋の大夫が公孫周を迎えた。
晋に入る前に、公孫周は群臣に宣言した。
「私が晋君になるなど、思ってもいなかった。これは天意であろう。
臣が国君を立てるのは、命を発する者が必要であるからだ。
しかし、国君を立てながら、群臣が命に従わぬ事では意味がない。
以後、卿らは我が命に従わねばならぬ。
卿らが真に私を晋君に迎え入れるか、拒否するか、それを今決めよ」
「公孫を迎え、仕えるのは晋の群臣全ての願いです。命に逆らいません」
周の簡王13年(紀元前573年)1月15日、公孫周は晋都・絳に入った。
* * *
太子以外の諸公子が全て国外へ退出する、という晋国の決まりは
後継者争いが起きにくい、という利点があるが
卿大夫ら群臣が大きな力を持ちやすい、という欠陥を孕んでいる。
事実、晋は年々、卿大夫が権力を拡大しつつあったために
公孫周が晋に入る前、群臣に宣言したのは、彼らの専横に対する勧告の意味があった。
1月26日、公孫周は武公廟を朝し、晋君に即位した。晋の悼公である。
覇者・晋文公の再来と言われた、晋国で最後の名君である。
「我が祖父と父は晋君に位すること叶わず、周にて客死した。
私は晋から疎遠な立場にあり、国君の地位を望む事もなかった。
今、晋の群臣は文公、襄公の徳を忘れず、桓叔(悼公の祖父、襄公の子)
の後代に恩を与え、私を国君に立て、晋の宗廟と祀を奉じる事になった。
私は常に自らを戒めよう。卿らもよく私を補佐せよ」
正卿の欒書は厲公弑逆の責任を取って引退し
欒書に協力した次卿の荀偃は地位を二つ下げて上軍の佐になり
新たに韓厥が晋の正卿・中軍の将となった。
* * *
斉国では、1月29日、斉霊公が刑吏の華免に上卿・国佐の暗殺を命じた。
罪状の理由は前年、国佐が慶克を殺害した事だが
真の目的は国氏の権限を削いで斉君に権力を集中させる事である。
国佐は内宮に招かれ、霊公に会いに行く途中、朝堂で華免に刺殺された。
続いて斉霊公は、昨年に晋から帰国して以来、清邑に滞在している国佐の子・国勝を殺した。
国勝の弟・国弱は魯へ、国佐の臣・王湫は萊へ、それぞれ亡命した。
慶克の子・慶封が大夫になり、もう一人の子・慶佐は司寇(治安維持の官職)に任じられた。
斉霊公によって国氏、高氏の権限は大きく削られたが
両氏の与党は多く、名門の存続を望む声が大きい事もあって
霊公は魯から国弱を呼び戻し、国氏を継がせた。
この後、斉では崔杼と慶封が勢力を拡大していく。
* * *
晋悼公は即位前、周の卿士・単公に仕えていた。
立った時には斜めにならず、視線は常に安定しており
余計な事を聞かず、知らない事は口にしなかった。
敬、忠、信、仁、義、智、勇、教、恵、譲、孝の十一の徳を備えて
晋国で困難があれば憂い、慶事があれば喜んだという。
そして、晋君となった悼公は民に施しを与え、負債を免除し、税を減らし
寡者を助け、人材を抜擢し、貧民を救済し、災患に苦しむ者を救い、刑罰を厳格にし
法を寛大にし、倹約に勤め、農時に干渉しないようにした。
悼公は夷陽五、清沸魋ら、厲公の寵臣七人を追放して
かつて晋文公に従って亡命した功臣の子孫を厚遇した。
悼公は呂錡を下軍の将に任命した。
「邲の役において、汝は荀首を援け、楚の公子・穀臣と連尹・襄老を得て
荀罃を釈放させた。また、鄢陵の役では、楚君を射て楚師を破った。
しかし、汝の子孫は地位を得ていないので、これを抜擢しよう」
悼公は士魴を新軍の将に任命した。
「汝の父・士会は法を明らかにして晋を安定させ、その法は今も用いられている。
汝の兄・士燮は身を尽くして諸侯を服し、晋は今もその功に頼っている。
晋は士氏の二代に渡る徳を忘れてはならない」
悼公は魏頡を新軍の佐に任命した。
「かつて晋が潞の役で狄を破った後に、秦が晋を攻めた。
その時、汝は秦師を輔氏で退け、杜回を捕えた。
しかし、その子孫は抜擢されていない。魏顆の子を用いなければならぬ」
悼公が言う。
「荀家は篤実で、荀会は英才である。
欒黶は果敢であり、韓無忌(韓厥の子)は冷静である。
この四人を公族大夫とする」
士渥濁を大傅(教育監)に任命して「士会の法」を修めさせ
賈辛を司空(建設官)に任命して「士蔿(士会の父)の法」を修めさせた。
祁奚が中軍尉(車御の監督)になり、羊舌職がこれを補佐する。
魏絳を中軍司馬(晋軍の監督)に任命し、張孟を候奄(間諜、偵察の官)に任命した。
大夫・弁糾は御術を得意としたので国君の座上する車の御者に任じた。
大夫・荀賓は豪勇無双にして粗暴にあらずと判断し、悼公の車右に任じた。
こうして晋悼公は悪弊を排除し、人事を刷新して、晋に再び覇権を取り戻そうとした。
* * *
3月、魯成公が晋に行き、晋君に即位した悼公に朝見した。
魯成公は4月に帰国して、晋の范匄が魯へ来聘し、魯成公の朝見に答礼した。
帰国して間もなく、魯成公は病の床に伏した。
* * *
3年前、宋で起きた政争に敗れて、楚へ亡命した五人の大夫
魚石、向為人、鱗朱、向帯、魚府は
兼ねてより宋への帰国を切望していたが、晋君弑逆の政変を知るに及び
好機至れりと、楚共王に謁見し、晋と盟約を結ぶ宋を攻めるよう説得した。
楚共王は同意して、鄭成公に、宋攻撃を命じる使者を派遣した。
6月、鄭成公が宋に侵攻して、宋都の曹門(宋城から見て西北にある門)まで迫った。
鄭軍は楚共王の率いる楚軍と合流して宋を攻め、宋の邑・朝郟を占領した。
一方、楚の公子・壬夫(子辛)の率いる別働軍は
鄭の大夫・皇辰と共に宋の城郜に進攻して、幽丘を占領する。
そして楚共王、鄭成公、子辛、皇辰の四軍が合流して彭城を攻撃、これを陥落させた。
宋の五大夫は三百乗の兵車と共に彭城に入り、楚・鄭連合軍は帰還した。
宋平公が五大夫の帰還を憂いていると、西鉏吾が言う。
「大国は満足する事がありません。宋が楚の属領になっても、楚はなお要求するでしょう。
むしろ、楚が五大夫を憎む事を憂うべきです。
楚は交通の要衝たる彭城を領し、ここに五大夫と共に兵を置いて
諸国の往来を妨げましたから、いずれ晋、呉が楚を討つでしょう」
7月、宋の司馬・老佐と司徒・華喜が彭城を包囲したが
包囲中に老佐が死去したため、華喜だけで包囲戦を続ける。
* * *
杞桓公が魯に来朝し、病身の魯成公を慰労して、晋の政治について尋ねた。
魯成公が晋悼公の善政を語ると、杞桓公は晋に入朝し、婚姻を求めた。
8月、邾で国君(宣公)が即位した事を伝えるため、魯に来朝した。
邾宣公が帰国して、ほどなく魯成公は崩御し、成公の子・午が即位した。魯襄公である。
即位したこの年、魯襄公はまだ三歳の幼童である。
* * *
宋軍による彭城の包囲戦が4ヶ月に達した11月、楚の冷尹・子重
が彭城を援けるため、鄭と共に宋へ侵攻した。
楚・鄭の連合軍による侵攻を見た宋の宰相・華元は晋に急使を派した。
宋からの報せを受けた晋の正卿・韓厥が悼公に言った。
「人を得るには、まず自らが動かねばなりません。
晋に覇権を齎し、天下を安定させる道は宋を援ける事から始まるでしょう」
晋悼公はこれに同意し、下軍の将・欒黶が宋に向かい、士魴を魯に送って出兵を請うた。
魯襄公はまだ幼君であるため、魯の政治は上卿の季孫行父が行っている。
晋からの援軍要請を受けた季孫行父は臧孫紇に、兵をいくら出すべきか尋ねた。
「かつて鄢陵の役では、晋の下軍の佐・荀罃が兵を請いに来ました。
今回来た晋使の士魴も下軍の佐です。ならば同数で良いでしょう。
小国が大国の命に従う場合、使者の位階に従う事が礼とされます」
季孫行父はこれに従い、仲孫蔑が魯軍を率いて魯都を出た。
一方、欒黶の率いる晋軍は台谷まで進軍した。
さらに進んで、彭城にほど近い靡角の谷で楚軍と遭遇した。
晋軍を見た楚の子重は兵を還した。
12月に入り、晋悼公、魯の仲孫蔑、宋平公、衛献公、邾宣公、斉の崔杼が
宋・魯の国境に近い虚朾に集まり、宋の救援について謀った。
宋公は諸侯に感謝し、彭城の攻撃を依頼した。
年が明けて周の簡王14年(紀元前572年)1月25日
晋の欒黶、魯の仲孫蔑、宋の華元、衛の甯殖
それに曹、莒、邾、滕、薛の軍勢が彭城を包囲した。
しかし、斉軍はこの戦いに参加しておらず、崔杼は虚朾から斉に帰国していた。
また、前年の12月26日に魯成公が埋葬されたと聞いた仲孫蔑は
先君の葬儀に参列するため、戦いが終われば、先に帰国する許可を晋に求めた。
ほどなく、彭城は諸侯軍に降伏した。
彭城を守備していた宋の五大夫(魚石・向為人・鱗朱・向帯・魚府)は
兵を還し、壺丘に遷った。
晋悼公は張孟を諸国に派遣して、晋に従わぬ者を探らせた。
* * *
斉が彭城の戦いに参加しなかった事を譴責するため
彭城陥落後、晋は斉を討伐すべく兵を向けた。
2月、斉霊公は公子・光を人質として晋に送って講和した。
5月、晋は中軍の将・韓厥と上軍の佐・荀偃が諸侯軍を率いて鄭に侵攻した。
諸侯は洧水の沿岸で鄭軍を破り、鄭都・新鄭の外城に入った。
魯の仲孫蔑、斉の崔杼、曹、邾、杞の連合軍は
鄭地・鄫に滞在して晋軍を待った。
晋軍は鄭から移動し、鄫に集まった諸侯軍を率いて
楚の焦邑、夷邑を陥とし、さらに陳国を攻撃した。
この時、晋悼公と衛献公は戚に駐軍して後詰となる。
秋、楚の公子・壬夫(子辛)が鄭を援けるために宋の呂邑と留邑を攻撃した。
鄭は公子・子然が鄭軍を率いて宋を攻め、犬丘を取った。
楚に出奔した宋の五大夫による帰国から始まった
楚・鄭と、晋を中心とする諸侯軍との戦乱は、休止を挟みつつ、なおも続く。
* * *
9月15日、周簡王が崩御して、子の泄心が即位した。周霊王である。
霊王は産まれた時から髭が生えていたという伝説がある。
9月に邾宣公が再び魯に来朝した。
10月、衛献公が公孫剽を魯に送り、聘問させた。
晋悼公も荀罃を送って魯を聘問した。
諸侯国で新君が即位した時、国君が訪問する場合
大国は「聘問」で、小国は「朝見」とすることが、この時代の礼である。
邾は小国なので魯に対して朝見を行い
晋は大国、衛は魯と同等の国とされるため、聘問となる。




