第七十二話 暴君を弑逆す
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周の簡王12年(紀元前574年)春正月
鄭の公子・騑(子駟)が晋に攻め入り、晋の属国である虚と滑を掠奪した。
晋を援けるため、衛の北宮結が鄭に侵攻して高氏に至る。
2月には、周の卿士である尹公と単公が
晋厲公、魯成公、斉霊公、宋平公、衛献公、曹成公、邾人と共に
鄭を攻撃し、戲童から曲洧に至った。
夏5月、鄭は楚の援けを得るため、太子・髡頑と大夫・侯獳を人質として楚に送った。
楚は鄭の救援要請に応えて公子・成と公子・寅が兵を率いて鄭の救援に向かった。
6月には楚の冷尹・子重も軍を率いて鄭に向かい、首止に駐軍した。
晋を中心とする諸侯軍は被害の拡大を恐れ、互いに兵を退いた。
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晋の次卿・士燮は、前年の鄢陵の役から戻った後
自家の礼楽官と祭祀官に、自身の死を祈らせたという。
「晋君が貪婪であるのに、晋は戦に勝った。これは天が晋に禍を与えるためである。
わしを慕う者であれば、わしの死を祈れ。早く死ぬほど、士氏は難から逃れられるのだ」
6月9日、士燮が死んだ。自害したとも言われる。
士氏の家督は士燮の子・范匄が継いだ。
6月23日、諸侯が柯陵にて会見して盟約を結び、2年前の戚の盟を確認した。
周の卿士・単公が晋厲公に会うと、厲公は遠くを視て、足を高く上げて歩いた。
その後、単公は郤錡、郤犨、郤至の三郤と話をした。
郤錡は人を侮り、郤犨の話は胡乱で、郤至は自分の功を誇った。
その後、単公は斉の上卿・国佐と会話をしたら
国佐は隠し事をせず、全てを話したという。
魯成公が単公に会い、魯が晋から受けている難事について相談した。
「今、晋は魯を攻めるつもりでいる。前年の沙隨の会で
郤犨がわしを晋候に讒言し、晋候はわしと会わなかった」
単公は魯候に助言した。
「晋に乱が訪れます。晋君と三郤が難に遭うでしょう。懸念には及びません」
成公は驚いて理由を尋ねた。
「公は天道を知る人か、あるいは人事から晋の災いを予期したのか」
「私は太史ではないので天道は分かりません。
ただ晋君の様子と三郤の言から晋に禍が訪れると知りました。
晋侯は視線が遠く、足が高かった。これは心と体が一致していない証です。
目は義を示し、足は徳を行い、口は信を守り、耳は名を聴く。
国君が、この4つのうち1つでも失えば、禍が訪れます。
郤氏は晋で位を極め、三卿と五大夫を輩出しました。大いに戒め、畏れるべきです。
位が高いほど墜し易く、禄が篤いほど害を受け易い。
然るに、三郤の言動に自戒も畏敬も感じられない。いずれ人の怨を受けるでしょう。
斉の国佐にも禍が訪れます。彼は奢侈貪婪の国にあって直言を好む。
ただ君子のみが直言を受け入れる。人の過ちを指摘すれば恨みを得ます。
晋と斉の両大国に禍があれば、魯は安泰でしょう」
魯成公は秋になって柯陵から帰国した。
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周の卿士・単公は斉国を「奢侈貪婪の国」と称したが
これは、土地が痩せて農業生産性が低い事と無関係ではない。
かつて斉桓公を補佐した管仲は政治改革を断行し、斉を商工業の国へと作り変え
以来、100年余りが過ぎ、天下に流通する衣類、沓、食器、武器、甲鎧等は
大半が斉で製造されたと言われている。
必然的に、斉人の性質は、世知辛く、利に聡く、贅を好む。
斉君・霊公の生母・声孟子は、旺盛である。
かつて魯から亡命した叔孫僑如と通じた事があったが
今度は斉の大夫・慶克と私通した。
ある時、慶克が声孟子と密会するため、女装して宮中の門を通った。
これを大夫・鮑牽が見つけ、上卿の国佐に報告した。
国佐は慶克を呼び出して譴責したため、慶克は声孟子に会うのをやめた。
慶克が訪れない理由を声孟子が尋ねると
慶克は「国佐が私を譴責しました」と伝え、声孟子は激怒した。
この時、国佐は斉霊公と共に柯陵で諸侯の会盟に参加しており
斉では上卿・高無咎と大夫・鮑牽が国を守っている。
会盟が終わって斉霊公が帰路に着くとの報せが斉都に届き
高無咎と鮑牽は警備を強化して城門を閉じ、門を通る者を取り調べるように命じた。
声孟子が国佐を陥れるための陰謀を企み、霊公に使者を送って讒言した。
「高・鮑の二氏は我が君を国に入れず、弟の公子・角を斉君に擁立するつもりです。
国佐もこの陰謀に加担しています」
7月13日、斉霊公は鮑牽を足斬りの刑に処し、高無咎を追放した。
高無咎は莒に出奔し、高無咎の子・高弱が高氏の采邑・盧で謀反を起こした。
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鮑牽の弟・鮑国は魯の施孝叔に家宰として仕えている。
家宰とは、卿大夫の家を監督し、祭事、催事、兵事、葬儀等を裁量する要職である。
施孝叔はかつて、家宰を誰にするか卜い、匡句須が吉と選ばれた。
施氏の宰は百戸の邑を持つ決まりで、匡句須に百戸の邑を与えて宰に任命した。
しかし匡句須は断り、自分に代わって鮑国を家宰に薦め、宰と邑を譲った。
施孝叔が言う。「卜では汝を家宰にするのが吉と出た」
匡句須が言う。「君子に地位を譲る事は更に大きな吉です」
鮑国は匡句須に拝謝し、家宰として施氏の家に良く仕え、魯で名声を得た。
鮑牽が足切りの刑罰を受けた後、斉人は鮑国を魯から呼び戻し、鮑氏を継がせた。
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9月、晋厲公が鄭を討伐するため、諸侯に使者を送って出兵を請うた。
10月には周の単公、晋厲公、魯成公、宋平公、衛献公
曹成公、斉霊公、邾人で構成される諸侯軍が鄭に向かい、12日には鄭都を包囲した。
これに対する鄭は楚に急使を派遣して救援を求め
楚の公子・申が鄭を援けるべく、汝水の沿岸・汝上に駐軍した。
11月には諸侯が鄭から退いて兵を還した。
これより3年前、魯の公孫嬰斉が夢を見た。
洹水(現在の安陽河)を渡ると、何者かに瓊瑰(宝玉)を与えられた。
公孫嬰斉はそれを食した。すると涙が止め処なく流れ出し
涙は悉く珠と化して己が懐に溜まり行き、堪らず公孫嬰斉は歌う。
「洹水渡らば瓊瑰が与えられた。さあ帰ろう。瓊瑰は我が懐を満たす」
目が覚めた公孫嬰斉は、夢の内容を占わなかった。
この時代には埋葬される死者の口に玉を入れる風習があり、不吉な夢だと思ったからである。
鄭から魯へ帰還する途上で洹水の畔を通った公孫嬰斉は、3年前の夢を思い出した。
そこで、貍脤に住む占帥に夢の内容を話し、占わせた。
「かつては死を恐れて占わなかった。あれから3年が経つが何も起きておらぬ。
しかも身は栄達し、家臣も増えたではないか。あれは吉夢であったに違いない」
夢を占わせた夜、公孫嬰斉は死んだ。
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11月、邾定公・貜が崩御して、子の牼が即位した。邾宣公である。
斉霊公が崔杼と慶克に兵を与え、盧で叛乱を起こした高弱を攻めさせた。
この時、国佐は諸侯と共に鄭の攻撃に参加していたが
斉に内乱が起きた事を聞いて、急ぎ帰国した。
国佐は斉都に入らず、盧城を包囲中の崔杼・慶克の軍に合流した。
しかし、国佐の目的は高氏の救援であったから
油断した慶克を殺し、崔杼を逐い、穀に入り、高弱と共に斉候に反旗を翻した。
斉国にあって斉候、国氏、高氏の三族は同等の領地と兵力を有しており
二氏が組めば、他の一氏は手が出せなくなるため
斉霊公は国佐を招き、徐関で盟約を結んだ。
12月、崔杼が盧を攻撃して、高弱は降伏した。
高氏の領地は斉公室、国氏、崔氏で分配され、斉霊公は崔杼を卿に任命した。
斉霊公は国佐の討伐を企み
国佐の子・国勝を国佐から離すため、国勝を晋に送って
斉国内で起きた乱についての経緯を報告させた。
晋から戻った国勝は、清(斉邑)で待機するように命じられた。
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晋厲公は贅沢を好む質で、楚に勝った事で慢心して
胥童、夷陽五、長魚矯を側近として寵愛して
それまでの重臣を退け、彼らを卿に抜擢しようと考えた。
17年前、郤缺は胥童の父・胥克を廃して以来、胥童は郤氏を憎んでいる。
夷陽五は郤錡に田地を奪われ、郤氏を憎んでいる。
長魚矯は郤犨に逮捕され、父母・妻子と共に車轅に繋がれた事を恨んでいる。
晋の正卿・欒書は鄢陵の役で方針を違えた郤氏の排斥を目論んでおり
郤氏に恨みを抱く三氏を利用する事にした。
欒書は晋の捕虜になっている楚の公子・茷に賄賂を持たせた使者を送り
公子・茷から厲公に郤至を讒言する手紙を送らせるように頼んだ。
「鄢陵の役は郤至が楚君を誘った事が要因です。
諸侯の軍が到着せず、晋帥が整う前に戦端を開き、郤至は楚君にこう言いました。
『この戦いは晋が敗れます。その後は臣が公孫周を晋君に就け、楚君に仕えましょう』」
晋襄公の庶子に公子・捷(桓叔)がいて、桓叔の子が恵伯・談で
恵伯・談の子が公孫周である。今は周都で卿士の単公に仕えている。
厲公は公子・茷の手紙について欒書に相談した。
「郤至は鄢陵の役での折、楚君から慰問を受けました。
そこで、郤至を周に送って確認してみてはどうでしょう」
郤至は晋厲公の命を受け、周簡王を聘問した。
欒書は公孫周に使者を送り、聘問に来た郤至との会見を指示した。
郤至と公孫周が会見した、と報告を受けた晋厲公は、郤至を憎むようになった。
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ある日、晋厲公は婦人を伴って狩りに行った。
獣を狩ってから酒を飲み、その後は家臣に狩りをさせた。
郤至は猪を捕まえ、晋候に献上しようとした時
厲公の婦人を世話する宦官の孟張がそれを奪ったので、郤至は孟張を殺した。
厲公が怒り「郤至はわしを侮っている」と叫んだ。
晋厲公は狩りから戻ると、郤氏の討伐について近臣に諮った。
胥童が晋君に進言する。
「まず、郤氏でも特に権勢の大きい三郤(郤錡・郤犨・郤至)を除くべきです。
彼等は多くの怨みを重ねており、協力する者も多いでしょう」
厲公は同意した。
しかし、郤氏は晋厲公が郤氏を討滅しようと目論んでいる事を知った。
郤錡は機先を制し、逆に晋厲公を討とうと考えた。
「主君が無道を行おうとしている。座して滅ぼされるのを待つわけにはいかぬ」
郤至がこれに反対した。
「国君が臣下を殺すを誅と言い、臣下が国君を殺すを弑逆と言う。
我々に君から誅を受ける罪があるなら、ただ君命に従うのみである」
12月26日、晋厲公は胥童と夷羊五に甲士800人を与え、郤氏討伐を命じた。
しかし長魚矯は「兵が多すぎれば、郤氏に気づかれます」と警鐘したので
厲公は側近の清沸魋と長魚矯を郤氏の邸に送った。
両者は戈を持って服の襟を結び、訟者(意見する者)の姿になる。
三郤が榭(台上の部屋)に二人を招こうとした時
長魚矯が戈を突き出して郤錡と郤犨を刺殺した。
郤至は車に乗って逃げたが、長魚矯はこれに追いついて殺した。
三郤の遺体は朝廷に並べられた。
郤氏の妻妾は厲公の後宮に入れられ、財産は厲公の婦人に与えられた。
一方、胥童は甲士を率いて欒書と荀偃を捕えた。
長魚矯が厲公に進言した。
「二卿は殺すべきです。生かしておけば我が君の憂いとなるでしょう」
しかし、厲公は反対した。
「一朝に三卿を殺したのだ。更に二卿を殺せば晋が乱れる」
長魚矯は反論する。
「欒書と荀偃は晋の政に長く携わって来た老獪な者たちです。
このままにしておけば、我が君を自在に御するでしょう。
民を御するには徳を用い、群臣を御するには刑を用いるのです。
群臣が君を嚇して自儘に御する様を伐たず、刑を用いぬとあらば
臣が朝廷より去ることをお許しください」
長魚矯は狄に出奔した。
厲公は欒書と荀偃に伝えた。
「わしは郤氏を罪によって討伐した。二卿の罪は問わぬ。職務に励まれよ」
二人は再拝稽首して言った。
「我が君が罪のある者を討伐し、二臣の死を免じたのは、君の恩恵です」
晋厲公は胥童を卿に任命した。
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後日、厲公は晋の旧都・翼に住む大夫・匠麗の邸を訪問した。
ここで、欒書と荀偃は厲公を捕えた。
二人は范匄を招いたが、范匄は辞退した。
韓厥を招くと、韓厥も辞退して言った。
「主君に威を用いるのは不仁で、事を失敗させるのは不智です。
一利を得て一悪を得る事には協力できません。
『老いた牛を殺す時も、筆頭になりたくはない』という者がいます。
相手が国君なら尚更です。国君に仕える事の出来ない者には従えません」
荀偃は韓厥を殺そうとしたが、欒書が制止した。
「韓厥は果敢で、その言には道理がある。
これを犯すのは不祥であり、討ってはならない」
荀偃は欒書に従った。
12月29日、晋の欒書と荀偃が胥童を殺した。
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鄢陵で楚が晋に大敗した影響で、楚の属国・舒庸(現在の安徽省安慶市桐城市)が
楚から離反して呉に属き、呉軍を先導して巣と駕を攻め、釐と虺を包囲した。
しかし、舒庸は呉に頼って油断し、防備を怠ったので
楚の公子・橐の率いる楚軍の侵攻を許し、舒庸は滅亡した。
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周の簡王13年(紀元前573年)春正月5日
晋の欒書と荀偃は程滑を翼に派遣して、厲公を弑逆した。
厲公の遺体は翼城東門の外に埋葬された。
通常、諸侯の副葬には車七乗が用意されるが
厲公の副葬は車一乗だけであったという。
晋厲公は、南は楚を、東は斉を、西は秦を、北は燕を討伐し
兵を天下に蹂躙させて倦まず、四方を威服させ、柯陵に諸侯を招集した。
しかし厲公は傲慢で淫乱奢侈に耽って万民を暴虐した。
賢臣を殺して阿諛追従の臣を侍らせたので諫言する臣がいなくなった。
厲公は欒書と荀偃に捕まり幽閉されたが、諸侯は援けず
民にも同情されす、幽閉されたまま殺された。
郤氏は滅び、晋厲公が弑された事で
士燮の憂慮と、単公の予測はことごとく的中した。




