第七十一話 鄢陵始末記
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楚の共王が酔った子反を見て戦意を喪失し、鄢陵より楚都へ踏逃し
翌朝、捨置かれたと気づいた楚軍は王の後を追って帰国した。
勝ちを拾った晋軍は楚陣に入り、南方の空を凝視しつつ
3日間に渡って楚軍の遺棄した食を食んだ。
晋の中軍の佐・士燮が晋厲公に進言した。
「我が君は幼く、晋臣悉く不才ながら、今、僥倖によって楚帥を退けました。
変わらぬ天命はなく、天道は常に公平で、徳を持つ者のみ福を授かる、と申します。
天は、晋に福を与える事で、逆に楚を勧賞しているのかもしれません。
徳なくして福を得るのは、脆い基礎の上に城を建てるが如く。晋は戒めるべきです」
なお、鄢陵の役に臨む際、晋厲公は衛、魯、斉に出兵を請うたが
三国の到着は間に合わず、結果として晋は単独で楚、鄭、東夷を撃破した。
戦役が終わった翌日、斉軍を率いて国佐と高無咎が到着した。
この頃、衛献公、魯成公は共に国都を出たばかりである。
魯の叔孫僑如は穆姜(魯成公の母)と姦通しており
政敵の季孫行父と仲孫蔑の排斥を考えていた。
魯成公が魯兵を率いて国都を出る時
母の穆姜はこれを見送りつつ、季孫氏と仲孫氏の排斥を要求した。
これに対し魯成公は「帰国してから母后の命に従います」と答えたので
穆姜は怒り、成公の弟である公子・偃と公子・鉏を指さして
「我が君が同意しないのであれば、彼等が魯君になるでしょう」と脅した。
魯成公は、即位の儀が行われないように
魯都にある壊隤に入って宮室の守備を強化し
仲孫蔑に命じて魯の公宮を守らせてから鄢陵へと向かった。
このために出発が遅くなったのである。
魯君に出兵を請うたのは、晋の新軍の将・郤犨である。
叔孫僑如は「魯侯は壊隤に待機して、晋・楚の戦が終わるのを待っています」
と、郤犨に伝えた。
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楚軍は撤退して、瑕に至った時、楚共王が司馬・子反を招いて言った。
「その昔、城濮の役に於いて冷尹(子玉)が晋師に敗れた時
王(成王)は軍中にいなかったが故に、王は子玉に敗戦の責を取らせた。
此度の帥、わしは軍中にあった。汝に過ちはない。晋より退いたのは我が罪である」
子反は再拝稽首して王に言上した。
「数多の楚人の屍を鄢陵に残し、晋師に勝を与えた罪は臣にあります。
王が臣に死を賜れば、その死は不朽となるでしょう」
子反を嫌う冷尹・子重は使者を通じて子反に伝えた。
「汝は子玉を存じているはず。深く自身の罪を考えよ」
これに対して子反が言う。
「先の例がなくても、冷尹が臣に死を命じるなら、臣は不義を畏れない。
臣は楚帥を亡くした。その責を取る事を忘れはせぬ」
楚共王は子反を止めようとしたが、間に合わず、子反は自害して果てた。
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曹に住む、ある君子が晋人に伝えた。
「3年前に曹宣公が卒去なされた後、太子を暗殺した公子・負芻が曹君に就きました。
曹の国人はこれを憂い、ほどなく晋が討伐し、曹君は京帥にて虜囚となっております。
しかし曹の社稷を祀っていた公子・欣時(字は子臧)はこれを嘉とせず、宋に出奔しました。
曹の社稷が滅びた因が先君の罪であったとしても
晋は先君を諸侯の会に参列する事を赦し、その地位を認めていました。
晋君は諸侯の伯(覇者)でありながら、なぜ曹を棄てられたのでしょうか」
晋厲公は宋に使者を送り、宋に亡命している子臧に伝えた。
「曹の社稷のため、汝を曹君に即ける所存。宋より帰国されたし」
子臧は宋から曹に帰国した。
しかし、同時期に周都で捕われていた曹成公が釈放され
洛邑から曹に帰国し、曹君に就いたために
子臧は自分の邑と官職を全て返上し、出仕しなくなった。
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晋厲公は、鄢陵の役で楚に勝った事で
再び晋が天下に号令し、中原に覇を唱えるべく、諸侯を晋に従わせようと目論む。
現下、晋に従わず、楚と和する諸侯は鄭、陳、蔡である。
この年の7月、晋厲公、魯成公、斉霊公、衛献公、宋の華元、邾人が
宋の地・沙隨で会見して、鄢陵で楚に従った鄭を討つ相談が行われた。
この会盟で魯の叔孫僑如は郤犨に賄賂を贈った。
郤犨は晋候に魯候の讒言を吹き込んだので、晋厲公は魯成公に会わなかった。
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7月末、晋厲公、尹武公、斉の上卿・国佐、邾人が兵を率い、鄭領の西から侵攻した。
魯成公が出発する時、穆姜は前回と同じ事を命じたが
成公は従わず、前回同様に宮中の警備を厚くして出征した。
これにより魯軍は出発が遅れたため、魯軍は鄭の東部・督揚に駐軍した。
魯軍の公孫嬰斉は、斉の陣中にいる叔孫豹に使者を送り
晋軍に頼んで魯軍を迎え入れるよう依頼して、公孫嬰斉は鄭の郊外で晋軍の食を用意した。
晋軍が魯軍を迎えに来るまでの4日間、公孫嬰斉は食事を摂らず
晋軍が到着して将兵が食事を始めてから、自分も食事をした。
合流した晋、尹、斉、邾、魯の諸侯軍は制田に遷った。
鄭成公は降伏して、晋と盟約を結んだ。
鄭と盟を結んだ晋厲公は、次に楚に与する陳と蔡を討伐する事を宣言した。
鄢陵の役の間、晋都を守っていた下軍の佐・荀罃は
陳と蔡の討伐軍の将に任じられ、諸侯軍を率いて陳を攻撃した。
諸侯軍は鳴鹿に至り、さらに軍を進めて蔡を侵し
潁上にまで侵攻して駐軍した。
現在、荀罃は下軍の佐で、卿としての位階は六位であるが
陳、蔡を討った戦功を評価され、翌年には上軍の佐に任じられて
位階は四位に昇進する。
宋の華元、斉霊公、衛献公の諸侯軍も鄭に侵攻したが
鄭の公子・喜(字は子罕)による夜襲を受けて壊滅したという。
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魯の叔孫僑如は晋の郤犨に伝えた。
「晋に欒氏や范氏がいるように、魯には季氏と孟氏がいます。
魯の政治は二氏が専断しており、彼等はこう言っています。
『晋は大国だが権門が多く、意思の統一が出来ていないため、従うべきではない』
もし晋が魯を服従させたいのであれば、今のうちに季孫行父を捕えるべきです。
臣は魯の宮殿を守備する仲孫蔑を捕え、晋に服します」
郤犨は魯軍にいる季孫行父を晋地・招丘で捕えた。
魯成公は鄭から魯へ帰国する途上、鄆で待機して
公孫嬰斉を郤犨の元へ送り、季孫行父の釈放を求めた。
郤犨の妻は公孫嬰斉の妹という縁戚関係がある。
郤犨は公孫嬰斉に伝えた。
「叔孫僑如が申すには、季孫行父と仲孫蔑は晋と魯の友好を妨げていると言う。
故に、季孫行父の釈放は出来ぬ。汝が叔孫僑如に協力して
共に仲孫蔑を除けば、魯の上卿に任じよう」
公孫嬰斉が答える。
「叔孫僑如は奸臣です。悪評(穆姜と姦通し、魯の政弊を狙っている事)は存じているはず。
魯が仲孫蔑と季孫行父を失えば、晋は魯を喪い、魯君は晋の罪を得ることになります。
もし魯を棄てず、魯君が晋君に仕えるなら、両名は魯にとって社稷の臣となります。
両名を損なうと魯は亡び、その地は隣接する斉・楚の二大国の領するところとなるでしょう」
郤犨が言う。
「魯が亡べば、わしが晋君に請い、汝に晋の邑を与え、大夫としよう」
公孫嬰斉がこれを拒んだ。
「臣は魯君に仕える者です。晋の邑を求めません。
今回、魯君の命を奉じて請願に来ました。
臣は季孫行父を解放する事の他には何も求めません」
士燮が正卿・欒書に言った。
「季孫行父は魯で二君(宣公と成公)に仕える忠良の臣です。
公孫嬰斉は君命を奉じて私欲なく、二心を抱かぬ者。
彼の請いを拒むのは魯を棄てることになります」
欒書は季孫行父を釈放し、魯成公は帰国した。
この頃、魯に鮑国という人物がいる。
元は斉の大夫で、覇者・斉桓公に仕えた名臣・鮑叔牙の子孫である。
その鮑国が、帰国した公孫嬰斉に尋ねた。
「公孫子はなぜ郤犨の誘いを断ったのですかな」
公孫嬰斉がこの問いに答えた。
「家を建てる時、太い柱でなければ重さに堪える事は出来ない。
そして、最も重い物は国であり、最も大きな柱は徳である。
郤犨の徳は細い。にも拘わらず晋君からの寵は篤い。
更に、功が寡ないのに重い禄を欲している。
いずれ人の恨みを集め、重きに耐えられず、滅ぶであろうと思ったから断った」
「臣はあなたに遠く及びません。鮑氏に禍の予兆があっても臣は気づかないでしょう。
あなたは遠謀によって邑を断った。魯にあって長くその地位を保つでしょう」
10月12日、魯成公が叔孫僑如を追放し、彼は斉に奔った。
入れ替わるように、斉に出奔していた叔孫豹が斉から魯へ帰国し、叔孫氏を継いだ。
魯成公は叔孫僑如に加担していた弟の公子・偃を殺した。
12月3日、魯の季孫行父と晋の郤犨が鄭地の扈で盟約を結んだ。
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魯から斉へと亡命した叔孫僑如は、斉霊公の母・声孟子と姦通した。
声孟子は叔孫僑如の地位を上卿である高氏と国氏の間に置くよう、斉霊公に進言した。
しかし叔孫僑如は、これを断った。
「斉に来てまで、魯と同じ罪を犯してはならない」と言って、斉から衛に奔った。
衛国でも、叔孫僑如の地位は各卿の間に置かれた。
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晋厲公は郤至を周都に送り、鄢陵の役で楚から得た戦利品を天子に献上した。
郤至は周の卿士・単公と会見して、しばしば自分の功を自慢したという。
単公が諸大夫に語った。
「郤至は亡びるだろう。下位(新軍の佐、位階は八位)でありながら、謙譲の徳に欠ける。
怨みが集まれば乱を招く。地位を保つ事は叶わないであろう」
郤至が周簡王に朝見する前、卿士・王叔陳生が酒宴を開いて郤至を歓待した。
互いに礼物を交換し合い、酒を飲んで談笑した。
翌日、王叔陳生は朝廷で郤至を称賛した。
郤至は卿士・邵公とも面会して、鄢陵での自分の功を自慢した。
翌日、邵公が郤至との会話について単公に語った。
「晋の勝利は天が楚を嫌ったからで、晋を利用して楚に警告を与えたのです。
しかし郤至は天の功を自分の物にした。これは危険な事です。
郤至は長くないでしょう。彼と与しようとする王叔陳生も災いを共にするかもしれません」
翌年、郤至は晋で殺される事になる。
11年後には王叔陳生も周の大夫・伯輿との政争に敗れ、晋に出奔する。




