第七十話 鄢陵の役
氷点下の環境で、空気中に含まれる水分が凍結して氷層が形成される現象を、着氷という。
着氷した樹木を俗に樹氷と呼び、山形県の蔵王連峰などは著名な観光名所だが
この時代の中国では、樹氷を木冰と書いた。
なお、春秋時代の中国では、月の暦、いわゆる太陰暦(陰暦)を用いているため
春は1~3月、夏が4~6月、秋は7~9月、そして冬が10~12月になる。
東アジアでは、長年に渡って多くの地域で太陰暦を採用していたが
日本では明治維新を機に、今日でも使われている太陽暦に変更された。
明治5年12月2日の翌日が明治6年1月1日になり、当時は大変な混乱を招いたと言う。
今日のような情報・交通インフラもなく、お上のお達しが津々浦々に届くのに
相当な時間を要した時代である。
* * *
この年、周の簡王11年(紀元前575年)春正月
魯で雨が降って木冰が出来た、という記録が魯の歴史書「春秋」にある。
この時、楚共王は武城から公子・成を鄭に派遣して
汝水の南、汝陰の地を譲る、という条件を提示して、鄭との講和を望んだ。
鄭はこの誘惑に屈し、晋との盟約に背いて
公子・騑(字は子駟)を武城に送って楚と盟約を結んだ。
夏になり、楚は鄭に命じ、鄭の公子・喜(字は子罕)が鄭軍を率いて宋を侵した。
宋はこれに対し、将鉏と楽懼が迎撃し
宋の地・汋陂にて、鄭軍を返り討ちにした。
だが、鄭軍を撃破した宋軍は油断して防備を怠り、夫渠まで戻った時に
子罕は伏兵を以て宋軍を急襲し、汋陵の地で宋軍を破り、将鉏と楽懼を捕えた。
その後、衛が宋を救うべく、鄭に侵攻し、鳴雁まで至った。
* * *
晋厲公は盟約に背いた鄭の討伐を宣言したが、士燮が反対した。
「晋に背いたのが鄭だけであれば、憂う必要はありません。
全ての諸侯が背いた時、晋の禍は取り除かれましょう」
この頃、晋厲公の政治は無道で、三人の郤氏は驕慢であった。
これが続けば、いずれ諸侯は次々と晋から離反する、と士燮は見ている。
全ての諸侯が離反した時にこそ、晋は正道に立ち返るであろうと思ったかもしれない。
これに対して欒書が発言した。
「晋は諸侯の信用を失ってはならぬ。鄭を討伐するべきだ。
諸侯が楚に従属すれば、周の天子はいよいよ軽んじられよう」
群臣みな欒書に同意し、鄭討伐に賛成したので、晋厲公は出兵を決めた。
全軍を指揮する元帥は正卿の欒書で
中軍の将・欒書、中軍の佐・士燮、上軍の将・郤錡、上軍の佐・荀偃
下軍の将・韓厥、新軍の将・郤犨、新軍の佐・郤至が出陣する。
四軍の将と佐、計8人いる晋の将帥で、唯一出陣しないのは
下軍の佐・荀罃で、晋の留守を命じられた。
荀罃はかつて楚の捕虜として長く過ごし、晋に帰還する際には
楚共王に「もし将来、晋楚が仲違いし、臣が一軍を率いて楚帥と見えれば
命を賭して楚を討伐する事で、楚君に報います」と発言し
楚共王から気骨を称賛されたが、此度の出師で、楚王に見える機会は訪れなかった。
* * *
晋軍が動いたと聞いた鄭は姚句耳を楚に派遣して危急を告げた。
楚共王は鄭を援けるため楚軍を動員した。
中軍は司馬・子反(公子・側)、左軍は令尹・子重(公子・嬰斉)
右軍は右尹・子辛(公子・壬夫)が率いて北進を開始した。
楚国の地位は冷尹が宰相、つまり最高位で、右尹がこれに継ぐ。
司馬は全軍を預かる武官の最上位である。
楚軍が申を通った時、子反は封地に隠居した老臣・申叔時に再会して尋ねた。
「この出兵について、卿の意見を賜りたく存じます」
申叔時が答えた。
「今の楚は内で民を棄て、外は友好を絶ち、約を守らず、時世に逆らい
民を疲弊させて満足を得ようと試み、民の憂いと嘆きは頂点に達し
誰も命をかけて戦わない。どうか、民のために勤めよと、王に伝えて頂きたい」
姚句耳は鄭に帰国して子駟に報告した。
「楚軍の行軍は速すぎ、列が乱れています。
これは統制が取れていない証拠。頼りにならないでしょう」
子駟は鄭成公に語った。
「楚の帥は老いています。晋が勝つでしょう。
今のうちに晋と和する用意をしておくべきです」
5月に晋軍は黄河を南下し、鄭都・新鄭に向かう途上で
楚軍が北上している事を知り、士燮が欒書に言った。
「楚と戦うのは危険である。戦いを避けるべきだ。
晋が諸侯に号令し、覇権を維持するのは我々には難しいので、後代の者に託そう。
ただ、晋の群臣で和して、つつがなく晋君に仕え、晋の山川を守る事が出来れば良い」
郤至は士燮に反対した。
「晋に背いた者を誅するのに、強敵を見てそれを避ける事は恥辱である」
欒書は郤至の意見を採用して、楚と戦う事への決断を下し
郤犨に命じて衛と斉に向かわせ、欒黶(欒書の子)を魯に送って
衛、斉、魯の三国に出兵を求めた。
晋軍を中核とする諸侯軍は討伐対象を鄭から楚に変更して
鄭都の西を通り過ぎ、更に南下を続けた。
* * *
現在の河南省許昌市鄢陵県に、かつて鄢という国があった。
時期は不明だが、鄢は鄭に滅ぼされた。
南下する晋・衛・魯・斉の諸侯軍と、北進する楚・鄭・東夷の連合軍は
6月の下旬、鄢の故地・鄢陵で会敵した。
この日、日食があったらしく、魯の仲孫蔑は「晋が勝つであろう」と予言した。
晋の士燮は楚との戦いに消極的だったので、郤至が言った。
「晋はかつて韓原の役で恵公が敗れ、箕の役で先軫が戦死し
邲の役で荀林父が誤った。これらは全て晋の恥である。
今回、我々が楚を避けたら、更に恥を増やすことになろう」
士燮は告げる。
「晋の先人が幾度も役を起こしたのは、当時の秦、狄、楚が強大であったため
尽力せねば子孫が耗弱すると恐れたからである。
今、秦と狄は晋に帰順し、ただ楚のみ晋と和していない。
楚を討ち、外の患いが滅すれば、次は内に憂いを抱くであろう。
ならば、楚との戦いを放擲し、楚を外の蛮懼として置くべきではないだろうか」
この士燮の発言は、晋の抱える内憂に暗澹する様が伺える。
内憂とは、晋厲公と三郤の暴虐である。
* * *
6月28日、楚の潘尫の子・潘党と養由基が
射の腕を披露するため、内外七層の革甲に矢を射て、七層を貫いた。
二人はそれを共王に見せて言う。
「楚には我々がいます。必ず晋を討ちましょう」
だが共王は怒って言った。
「汝らは楚を辱めた。明日は晋との決戦である。矢を射たら、その遊芸で死ぬであろう」
夜、晋の呂錡が夢を見た。
月に向かって矢を射て、命中させたが、泥に嵌ったところで目が覚めた。
占者に夢の内容を占わせると、こう言った。
「晋は周王から分枝した姫姓諸侯、これは太陽を意味し、異姓諸侯は月を意味します。
夢で見た月は楚王を意味します。戦で矢を射れば、楚王に命中するでしょう。
しかし、その後は泥に嵌ったので、あなたは死ぬでしょう」
* * *
6月29日、楚軍は早朝から晋軍に接近して陣を構え始めた。
晋では軍議が行われ、范匄(士燮の子)が進み出て発言した。
「井戸を埋め、竃を毀し、営内に陣を構えて、決死の覚悟を楚に示すのです。
これを見れば楚は退くでしょう」
范匄が言い終わる前に士燮は戈を持ち、柄の部分で范匄を殴打した。
「国の存亡が懸かっているこの席上で、豎子(小僧)に何が分かる。
誰も汝に意見を求めておらぬのに、勝手に発言した。
これは干犯である。罪状は死罪にあたる」と言った。
この様子を見ていた晋軍の軍師・苗賁皇が言った。
「士燮は厳格にして公正である。災いから逃れるであろう」
苗賁皇は楚の名家・若敖氏の血を引き、彼の父・子越は楚で冷尹まで昇った。
それが晋陣にあって楚を討つべく智謀を用いるのは、歴史の妙なると言うべきか。
* * *
楚の陣が完成する前に、晋厲公は元帥・欒書に使者を送って攻撃を命じた。
しかし欒書は言う。
「楚師は軽浮で脆く、防備を固めて待機すれば、いずれ必ず退くであろう。
それを撃てば、晋の勝利は間違いない」
これに対して郤至が言う。
「楚は多くの欠陥を内に抱えている。二卿(子反と子重)は互いに憎み
王卒すでに衰え、鄭の陣は整っておらず、蛮軍は陣を構えず、帥に規律なく
互いを頼って戦意に欠ける。攻撃すれば必勝は疑いない」
晋厲公は郤至の意見を用い、改めて攻撃を命じた。
* * *
晋軍に楚の名族・苗賁皇あらば、楚帥には晋の名臣・伯宗の子、伯州犂がいる。
楚共王が楼車に登って晋軍を眺め、大宰・伯州犂は共王の後ろに侍る。
共王が言う。「晋の兵車が左右に走っている。なぜだ」
伯州犂が答える。「軍吏を召すためです」
共王が聞く。「皆が軍中に集まった。なぜだ」
伯州犂が答える。「策謀を練るためです」
共王が尋ねる。「帳幕が張られた。なぜだ」
伯州犂が答える。「先君の前で卜をするためです」
共王が質う。「幕が除かれた。なぜだ」
伯州犂が答える。「命令を発するためです」
共王が問う。「晋陣で砂塵が舞っている。なぜだ」
伯州犂が答える。「井戸を埋め、竃を毀し、営内に陣を構えるためです」
共王が訊ねる。「兵車に乗った左右が武器を持って下りた。なぜだ」
伯州犂が応える。「宣誓を聞くためです」
共王が伺う。「晋は戦いを始めるつもりか」
伯州犂が応える。「まだ、分かりません」
共王が下問する。「左右は兵車に乗ったが、再び下りた」
伯州犂が応える。「戦勝を祈るためです」
伯州犂は晋軍の動きを見るだけで状況を判断し、共王に伝えた。
* * *
一方の晋陣では、苗賁皇が晋厲公の側に仕え、楚軍の状況を詳しく伝えた。
士燮が厲公に語った。
「楚には晋の名士・伯州犂がいて、楚帥の陣容も厚い。戦うべきではありません」
続いて苗賁皇が厲公に進言した。
「楚帥で精鋭と呼びうるのは中軍のみです。我が精鋭を二手に分けて左右から攻撃し
その後は全軍を結集して楚の王卒に迫れば、必ず大勝出来るでしょう」
厲公は筮で占わせた。
太史は「『復』の卦が出ました。『南が緊迫し、王を射て、目に中る』とあります。
南とは楚を意味し、これが緊迫し、王が目を負傷する。大吉です」
「甚だ良きなり」
厲公は苗賁皇の進言と占いを信じ、楚と戦う決意を固めた。
晋軍の前に沼があったため、晋兵は左右に分かれて沼を避けた。
晋厲公の座上する兵車は歩毅が御し、欒鍼が車右となる。
欒書と士燮は厲公を守りながら行軍していたが、厲公の車が泥に嵌って動けなくなった。
欒書は厲公を自分の車に乗せようとしたが、これを欒鍼が止めた。
「元帥と言えども、国君を臣下の車に乗せてはいけません。退いてください。
他者の職権を侵す事は冒、自分の職責を失う事を慢、自分の隊から離れる事を姦と言います。
この三罪を犯してはなりません」
欒鍼は欒書の子であるが、父を諫め、車から下りて厲公の車を沼から引き上げた。
楚共王の座する兵車の御者は彭名、潘党が車右になった。
鄭成公の兵車は石首が御し、車右は唐苟である。
* * *
6月29日、中天、ついに晋楚両軍が激突した。
楚共王の中軍は晋の全軍から集中攻撃を受ける。
左右両翼の楚軍は共王を援くるべく、晋軍の両側から痛撃を与える。
序盤から早くも両軍に凄まじい被害が現出した。
乱戦の最中、郤至は楚共王の軍に三回遭遇し、三回とも駆逐した。
この時、郤至は共王を見つける度に、車から下りて兜を脱ぎ
戦いを止め、速足で通り過ぎた。この時代の礼儀である。
君子は「郤至は勇敢で礼を理解している」と評価した。
晋の大夫・呂錡が共王を見つけて矢を射ると、矢は共王の目に命中した。
共王は養由基を招いて二矢を与えた。
養由基が射た矢は呂錡の首に中り、呂錡は戦死した。
養由基は残った一矢を持って共王に復命した。
だが、楚共王が片目を射られた事で楚軍の将兵は動揺し
徐々に楚軍が劣勢になっていく。
最初に敗走を開始したのは、楚軍の一翼を担っていた鄭軍であった。
鄭成公は、この戦役は晋が勝つと見ていたので、最初から戦意は高くない。
敗走する鄭成公を、晋の韓厥が追撃して、御者の杜溷羅が言った。
「鄭伯の御者は頻繁にこちらを見ます。馬に集中していません。追いつけます」
しかし、韓厥は言う。
「わしは鞍の役において斉候の車を追い詰めた。
君公を二度も追うのは礼に外れた行為である」
韓厥は追撃を止めた。
韓厥に代わり、今度は郤至が鄭成公の追撃を始め、車右・茀翰胡が言う。
「軽兵をこの先の間道に送り、鄭伯の兵車を進行を妨げ
その間に我らが後ろから迫れば、鄭伯を虜に出来ます」
郤至は「国君を傷つけたら天の咎を受けるであろう」
と言って、鄭成公の追撃を止めた。
一方で逃走する鄭成公の兵車では
「昔、衛懿公は旗を棄てなかったため、熒沢の役で敗れた」
御者・石首はそう言うと、旗を矢袋の中に隠した。
車右の唐苟が石首に語り掛けた。
「わしが降りれば、車が軽くなる。汝は我が君を無事に帰国させよ」
唐苟は晋軍の追撃を防ぐため、車を降りて留まり、迫る晋軍と戦って戦死した。
* * *
鄭軍が敗走を開始すると、それと呼応するかのように東夷も退却した。
楚の三軍もまた晋軍の追撃から逃げ続け、険阻な地に追い詰められていく。
叔山冉が養由基に言う。
「君命に逆らう罪はわしが受けよう。迫る晋兵を射よ」
養由基は二本の矢を射て、二人の晋兵を射殺した。
叔山冉は晋兵の遺体二つを掴み上げ、晋軍に向かって投げつけた。
投げられた晋兵は兵車に当たって車前の横木を折った。
両雄の奮戦で晋軍はここで追撃を止めたが、楚の公子・茷が捕えられた。
欒鍼が楚の冷尹・子重の旗を見つけ、厲公に伝えた。
「あれに子重がいます。以前、臣が使者として楚に行った時に
子重が晋の勇を尋ねたので、臣は『規律正しい事である』と答えました。
子重は更に尋ねたので、臣は『常に余裕を持つ事である』と答えました。
今、晋楚両国が戎を交えていますが、使者を送っていません。
これを規律正しいとは言えません。言葉を違えては余裕があるとは言えません。
今からでも子重に使者を送り、酒を献上しましょう」
厲公は同意した。
欒鍼は行人を選んで榼(酒の入った樽)を子重に届けさせた。
行人が子重に面会して言った。
「今、晋君には使者が不足しており、欒鍼は車右として矛を持ち
冷尹の慰労に参る事が叶いません。代理で私が榼を届けに参りました」
子重が返事をした。
「欒鍼は以前、楚でわしと話をした。言葉を違えない者は君子である」
子重は酒を受け取って飲み、使者を帰らせて後、再び戦鼓を叩いて戦いを再開した。
* * *
晋楚の激戦は、天上に星が見える刻限に至っても、なお止まず続いたが
夜の闇が深層に至り、ついに両軍は一旦退いた。
楚の子反は軍吏に命じて負傷者の確認をさせ、歩兵と車兵を補い
武器を直し、兵車を再配置して、休息を取らせ、翌朝は鶏が鳴いたら食事を取るように命じた。
晋軍は戦いを優位に進めながら、楚軍を敗走にまで至らせること能わず
翌日になって楚軍が陣容を立て直す事を憂慮した。
そこで苗賁皇は策を用いる事にした。
晋厲公は全軍に宣言した。
「明日に備え、兵車をよく検査し、兵を補充し、馬に食を与え、武器を直し
陣を整えて隊列を固め、食事を充分に摂り、祖廟に祈祷し、明日、改めて戦う」
宣言の後、苗賁皇はわざと警備を緩め、楚の捕虜を逃がした。
捕虜の一人は冷尹・子重の陣に向かい、晋から贈られた酒を持って
司馬・子反の陣に向かう。
楚共王は脱走してきた捕虜の情報を聞き、子反に相談しようと使いを送った。
しかしこの時、子反は酒を飲んで泥酔して、楚共王に会う事が出来ない状態だった。
楚共王は怒り、かつ嘆いて
「天が楚を一敗地に塗れさせた。明日戦えば、必ず敗れるであろう。
もはや、ここにいてはならぬ」と言い、夜の間に陣を抜け
僅かな供を連れて楚都・郢に帰った。
翌朝、楚共王の帰国を知った楚軍は、王の後を追って楚へと帰国した。
共王が戦を放擲した事で、鄢陵の役は終結した。晋の勝利である。
楚王が片目を射られるほどの激戦でありながら、最後は呆気なかった。
楚に勝利し、中原の覇権を確立した晋厲公は
以後、際限なく増長し、自らを覇者・晋文公の再来と自賛する。
しかし、その威勢を恃むあまり、暴虐に奔り、群臣・諸侯らの恨みを得る。
「晋文公の再来」は後に現出するが、それは晋厲公の事ではない。